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青春祭り

青春祭り

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短編小説「青春祭り」

第一話「好き勝手な青春」

第二話「やくざ先生」

〇「第一話」好き勝手な青春祭り

一人の男が青春の祭りのごとくに過ごした自由奔放な10代と20代、、、

天海一平の青春物語。。。

東大進学校で有名な高校へ進み、、1年生の時は自転車通学をしていた、天海一平が、高校2年からバス通学になり、、優等生がばからしくなり、、「不良入門」を果たした、めちゃくちゃ青春の祭り。

〇好き勝手な青春祭り



一人の男が青春の祭りのごとくに過ごした自由奔放な10代と20代、、、

天海一平の青春物語。。。

東大進学校で有名な高校へ進み、、1年生の時は自転車通学をしていた、天海一平が、高校2年からバス通学になり、、優等生がばからしくなり、、「不良入門」を果たした、めちゃくちゃ青春の祭り。





1)「不良入門」

天海一平は、東大進学一番の県下での有名校に入学したのであった。
入学前、、入学してからも「東大、、一ツ橋大」を狙っての高校進学である、、、
勉強が目的であり、、あくまでも目標大学への進学が目的であった。
そのために自宅から自転車通学40分を選んだのである、、、家に帰れば「復習、予習」をして、やる気十分だった。
そして、頑張ったのであるが、、、運動が忘れられずに「陸上部」に入った。
自分では「短距離」に自信があったので走ってみたが、、、ダメだったのである。
それで陸上の練習の名のもとにサボり始めた、、、陸上の練習だと帰宅は夕方で6時、7時を過ぎても可笑しくないので、、練習をせずに、今で言う「悪友」の家に屯するようになった。
今までに吸ったことのない「タバコ」を吸ったのである、、、まずいと思ったが「不良仲間」が吸っていたので「タバコ」を覚えた。
今までのようには勉強に熱が入らず、やる気もなくなったのである。
こち論、」復習や予習などはまったくであり、、家で教科書を開くことは無かった、、、そのためにすべての教科書を学校の机の中に置いてくる始末だった、、、笑っちゃうよ、、、勉強が仕事のはずの高校生が商売道具である教科書を置きぱなっしなのだから。。。
頭の中はいつも、、、今日は何して時間を潰してやろうかとか、、、ヘヤースタイルはどうしようかとか、、、ズボンをどんな風に直して履いてやろうかとか、、、あのデパートの屋上の遊園地の女の子は可愛いなとか、、そんな下らないことばかり考えていた。
そして、ヘヤースタイルは「リーゼント」でポマードいっぱいぬったくていたような、、、ズボンは仕立て屋に持っていき、ラッパズボンににしたり、、、映画を見て西部劇のブーツがかっこいいので、真似して靴屋に頼んで作ってはいていた。
当時は自分ではかっこがいい、、、流行の先端を行っているとおもって、街中を闊歩して気取っていた。
そんなことをやって、目立つようにと行動をしていたのである。
狙いは「女の子に、、かっこいい」と言ってもらいたくてやっていたことが、、、同じ,他高校の不良にはきざな奴だな、生意気だなと言われて、喧嘩を売られて、、、良く喧嘩もした。
喧嘩は勝つときもあるけど、、負ける時もある、、、時の運という奴だ。
そんなことを繰り返して「悪友」が増えた。


2)16歳で運転免許を取得する。

高校1年の春に、、、親父から言われて自動四輪の運転免許を取ることにした。
昔の自動車教習所に今から64年前に行き運転実習と教科をならった。。。自動車の実地試験は「クランク」だけだった。
そして、学科の試験が受かってからの実務であった。
高校1年の天海一平には簡単だったのである、、、1回の試験で「学科、実務」とも受かり、免許証交付となった。
そんな中に偶然という巡り合わせに出会ったのである、、、二人の大学女学性がいた、、、その人たちとの出会いから4年後に天海一平はそのうちの一人の妹とつきあったのであった。
当時は結婚してもいいと思ったぐらい可愛い奴だったのである、、、
知り合うきっかけは、一平が主催で「バス合同コンペ」を企画してのことだった。
今でこそ、、、テレビなどでも行われている「合同お見合い」のようなものであり、、60年前としては画期的な若者の遊びであった。バスで、男女を募集して短い旅をして楽しみ、、、目的地での公園でボートにペアを組んで乗ったり、、、フォークダンスをしたりして知らない同士が友達になり、そして、恋人同士になったりしたのであった。。。一平はその健全なバスハイクを利用して金儲けをしていたのである。。。
そして、儲けた金で酒飲みをしていた、、、邪道な考えの若者だった。
そんなバスハイクで知り合って、付きあった奴が、4年前の自動車学校での知り合った妹とは奇遇でしかなかったのである。。。
その前に自動車免許を取り立ての時に、悪友と女友達を誘って、ドライブに行くことになった、、、
そのドライブは初めちゅう、、ダメだ、、お前らには貸せない、、」と、怒鳴られて散々にしくじったことがあった。
それからが間抜けな、珍道中をやってのけたのである、、、


ドライブをやめてというよりは、、出来なくなった代わりにみんなで筑波山に電車でいったのであった。。。
高校2年の男が3人、、女学生の高校性3人で筑波山ハイキングである、、、所詮、計画が無謀であった、、、一台の乗用車に6人は無理だったのである、、、今思うと懐かしい「トヨペットクラウン」だったな、、、古い古い昔の話だ、、、64年も前のドライブ逸話だよ、、、アはあはあは、、、だってば、、。
そして、、若かりし頃の天海一平は焦りがあった、、、運転ミスでドライブに行けなくなったという、引け目ちうか、後ろめたさがあった。
更に、、、何を間違ったか「酒」を飲んでしまったのである。。。16歳のガキだもの、、、酒の飲み方も味も分からずに飲んだから堪らな
い、、、、歌の文句じゃあないが「ぐでん、ぐでん」に酔っぱらってしまったのである。
意識朦朧、、、不覚にも何もわからなくなっていた。。。
本当の酩酊というか、、、生まれて初めて「酒」に何もかも奪われたという気持ちに襲われたのである。
その日は家には帰れず、、、悪友の家に泊まったはずであったが、、、気が付いたら親父が傍にいたのである。。。
親父は何も言わなかったが一平の「不良志望」が分かったようだった。


3)元朝詣出「筑波山女体山頂上で」初日を拝む、、

高校1年の時に「悪友」とともに初日の出を参拝する、、、元旦であるか筑波山の女体山頂上だから寒い、、、しかし、初めて山頂から拝む初日はきれいであり見事だった。
いいものだ、、、初めて見る初日の出は、、、山頂の岩の上からの眺めだったのである。。。
高校1年の時に筑波山に初日の出を見に行こうというので言ったのであるが、、、悪友の友達の「悪友」たちが宴会をしているというので参加したら、日本酒の茶碗酒であった。
一平は二度目の酔っ払いを経験したのである、、、、
酒とは怖ろしいものだ、、、酔った勢いで山頂を目指して歩いていったのであった。
よろよろ脚で、、、不埒きながらのぼったのであ」がる。
高校生だから、勿論、未成年であり、、、誰かが「警察が来るから、、逃げろ」と叫んだ。
酔っぱらった高校生が山頂を目指して逃げたのである。
誰も捕まらなかった、、、、そして、初日の出を見られたのだった。
その時の悪友が知り合いとなり、、、悪友の輪がひろがったのである。。
天海一平の不良仲間が増えていった、、、
ここから始まったのである、、、不良道が、、、
またしても「酒飲み」がつながったのである。

天海一平はいつのころから、気ながきになっていた、、、酒を飲むことを覚え、いっぱしの「不良学生」を気取っていたのである。。高校2年生の時だったか、、12月24日のクリスマスイブの夜だった。
学校の朝礼で訓示があったのである、、、今日から冬休みで、夜の繁華街の見回りがあるから、、、間違っても夜の巷を徘徊しないようにと、、、しかし、天海一平たちはやらかしたのであった。
今は無い料亭で「たこ八」で高校2年生8名で宴会をしである、、、表に出なければ分かるはずがないものを、一人が外を歩いてしまったから堪らない、、、そいつが学校の巡回先生に捕まってしまったのである。そして、、全員が「御用」となり、、、後の始末が「停学処分」の成った。。一人だけ前科があっで「退学処分」になったのである。
一度の処分で8名がなって、、、自宅待機ととなった。
その停学処分は約一か月近かったのである、、、其のうえにふざけた話だった。
一平たちの高校は学期の初めに「組訳テスト」があり、、、成績によってクラスわけがあるのだ。。。
一か月近くも停学になっての試験であるから出来るわけがない。。
その試験も「数学」と「英語」で組み分けをするんである、、、昔の軍隊でもあるまいに、、
「一番から50番まで」「51番から100番まで」の二クラスある。。。
誰が見てもクラスを見て成績順位が分かってしまう、、、その他の6クラスは同じような「一山いくらの」成績と見なされていたのである。。
一平は頭に来たので「0点」になるように、、何も回答しなかった。
そして、、試験結果で怒られた、、、「なぜ、、回答しない、」と、、言われたので、「出来ませんでした、、」と、、答えて、また怒られた。
一年るから2年に上級するときである。。
天海一平は「やったな、、、ざまーみろ、、」の心境だった。


4)高校2年生になって、、、

高校2年の春に「一山いくらのクラス」に入った。。。、磨きがかかったのである。
学校には休まずに登校していたのであつた。。女にもてたいという一心で、、、今思うと馬鹿なことをしていたと思う。
学校に行くと「学生ズボン」を脱いで、体操ズボン(通称トレパン)には着替えて、、、その脱いだ学生ズボンを教室の後ろ壁にぶら下げて置いたものだったった。阿呆なことをしてたのである、、、少しでも「折り目がきちんと」しているようにと、、、それをしたから「女にもてたわけではなかった」
バカなガキのお洒落だったのである、、、そして、、、学おきょして校が終わると馴染みに喫茶店に屯していた。
そんて、、そこへ通う女、、、花嫁修業中の20歳前後の、昔風なお嬢様を狙って、「ひっかけ」るのであったのである、、、みんな暇であり、、、良家のお嬢様がたは面白おかしく遊んだものだった。。。
そんなたわいもない遊びをしながら、大事な青春を過ごしていた、、、本当に無駄な時を費やしていたような、、、
そして、街中で息がってぶつかり合い、、、喧嘩もした、、、喧嘩で悪友が「タイマン」を張って決闘をしたことがあった、、、負けたしまい「記憶喪失」を起こしたことがある、、、その時は喧嘩を立ち会っていて参ったのである。
喧嘩をするときに決めたことなので、、一平たちは手出しができなかった。
始めは悪友が弱いとは思っていなかったので、、「がっくり」であるが、、、その喧嘩相手とは逆に「いい悪友」となったのである。。
一平は参加していなかったけど、、、学校で大事件が起きた。
一平たちはお昼の弁当を早めに食べてしまうために、、、お昼休みには校門前のお店に「やきそば」を食べに行くのであるうが、、、それを阻止しようと学校側が校門に見張りが付いたのであった。しかし、、一平たちはその間隙をぬって抜け出して「やきそば」を食べに行ったのである。。。
そこで学校側はその上を講であるた、、、余程、学校側も頭に来たのかもしれない。
學校の敷地の周りを松杭を打ち込み、、、「鉄線」をはりめぐらせたのである。。。
そん反撃は学生の中から馬鹿がでたのでた、、、リヤカーを持ち出し、、、一晩掛けて,松杭と鉄線を取り外し、、、近くの池に捨ててしまったのである、、、大騒ぎとなったが、、、「喝采」も起きた。
その結果は悪かった、、、学校側は囲いを「コンクリート」で作ってしまったのである。
可笑しな話だ、、、、あはあはあは、、、、だよ。


5)高校三年生だぜ、、、

天海一平が高校三年生の時にはやった唄が「高校三年生」だった、、、舟木一夫の流行歌がはやったのである
そんな時に高校3年だった天海一平はその高校の進学だけが目的の特別クラスにはいった。
私立大学へ進学が目的で、、、しかも、文化コースであったのである。
天海一平は私立の「早稲田大学」希望だったので、、そのクラスを選んだ、、、早稲田大学なら「学部」はどこでもよかった。。。
まったく、ふざけたはなしであったのである。
しかし、楽であった、、、そのクラスは「数学の授業では英語を」「体育の時間には国語」「理工科の事業では社会を」という風に、、、
大学受験のための授業をしていたのであった。
徹底した受験のためのじゅぎょうである、、、まるで、予備校であった。
不思議な高校だったのである、、、、試験的に天海一平の年だけに取り入れたようであった、、、その後はなくなったのである。
更に「数学の通常の数3はなくなり、、、国語、社会、英語に変わった」ので、、、高校3年で学ぶ「微分積分」はなくなった。
そして、単位はそれぞれの科目の単位が貰えたから、、、不思議な学校であったのである。
やらない学科の単位が取得できたのであった、、、まるっきりの大学受験の高校である。
そして、、大学受験のために最後の年の2月は、、まるまる休みでも休みにならなかった。
その月は全て、、、大学受験のためにつかえたのである。

天海一平の時代には私学大学の受験テストは「3科目」で「英語、国語、社会」を選ぶことが出来た、、、ただし、、私学文化コースだけである。
そして、「三科目で合計点数が7割」であれば合格なのであった、、、あくまでも「合計点数」だったのである。
天海一平は考えた、、、得意科目と苦手科目に分けたのである、、、勉強配分を。
「社会は得意の日本史で100点満点」「国語は70点」「苦手の英語は40点」で、、、「合計で210点だから7割で合格」といった勉強を2月はしたのであった。。。
そして、、、高校三年間はほとんど勉強をしないで「サボって」いたので、出来ないのが当たり前。
そこで「的」を絞ったのである。
「得意な日本史は高校2年の時の教科書を丸暗記」「国語はやはり高校2年の時の教科書のすべての漢字」そして、苦手な「英語は高校2年時の文法の教科書を丸暗記」で勝負をかけた。
金をかけて参考書を買って勉強しても間に合わない、、、やらないほうがましだった。」
その作戦が大当たりで見事に「合格」を射止めたのである。
天海一平のいい加減人生の始まりだった。



6)高校卒業式の当日、、、事件が

天海一平も知らなかった、、、高校の卒業式に出たら、卒業生も在校生の代表も、、学校の先生たちも大騒ぎしていたのである。
なんだと思ったら、校長室の初代からの校長に「ひげ」が生えていたのであった、、、天界一平は後で犯人は分かったが、、、あとの祭りである。
当日の卒業式はそんままで進んだ。
その犯人の一人は「羽織袴で出席」してきた、、、もう一人は「学生服」をきていた、、、
そして、奇抜なことが起きた。
卒業式なら普通、、、名前を呼ばれたら「はい」か「はーい」であるが、、、
「羽織袴」の卒業生は「おーー」と答えた。
その時に出席していた在校生「2年生」から、、全員から「拍手喝采」を浴びたのである。
世にも稀な「珍事」が起きた。
卒業式という、一種のお祝いごとなので、卒業生には一切、おとがめなしで、済んだが在校生は怒られたらしい。
天海一平には愉快な卒業式だった。
そして、天界一平は「お祝い飲み会」があって、いつものように飲みすぎて、家まで帰りつかなかったのである。。
悪友のところに「卒業証書」をもったままで、、、「朝帰り」であった。
卒業記念と称して、、卒業証書を丸めて持って、、電柱に登って何かをしていたよ。うだ。。。
それでも「卒業証書」は家に持って帰ったようだ。
バカな一日だった、、、、
これが高校最後の日であったから、可笑しい。


7)早稲田大学へ入学しての天海一平は、、、

しかし、不思議なもの、、、高校の卒業式にも来なかった両親が早稲田大学の入学式には田舎から東京まででてきたのだから、、、バカ息子の大学進学が嬉しかったのか、、、、そして、、、親人の親戚筋にまで一平を連れて挨拶。に言ったのである。余程嬉しかったのだろうか、、、なんか、親孝行をしたようだった。
親とは面白い、不思議な生きものだ、、、自慢したかったのか。
田舎からは通学できないと思い、、、その親戚の人たちに一平の下宿先を見つけてもらっていたのである。
その下宿先は文京区林町にあった。人の好さそうな老夫婦のいえであり、、一平の他に大学生が一人下宿していた、、たしか、苗字は忘れたが「ゲンちゃん」て言ってた。
そして、半年後にもう一人の下宿人が増えた、、、高校3年生だったか、、、岐阜市のちょうちんやの息子だったな、、
その老夫婦には孫娘がいて、よく遊びにきてた、、、
そんな老夫婦には何の不満もなかったが、門限の有る下宿が嫌になり、早稲田鶴巻町のアパートに引っ越しをしたのである。老夫婦の家に下宿していた頃には「銭湯」へ初めて入った。当時「銭湯代が55円」だった。今から62年前のはなしである。。。。
早稲田鶴巻町のアパートは4.5畳の一部屋で、トイレも炊事場も共同であり、、、お風呂は勿論「銭湯」であった。
飯は朝昼晩と外食がほとんどであったが、気が向くと共同炊事場でご飯を炊き、みそ汁を作っていた。、
隣の部屋との壁は「ベニヤ」のようなものだったので、声が聞こえたのである。。。
夜中に腹が減ると「よなき蕎麦屋」が屋台を引いて、、ぴーひろろとやってくるのでよく食べた、、、冬などの寒空で食べる夜鳴き蕎麦は旨かった、、、遠い昔の物語のようだ。
一平の部屋代は1か月「5000円」だった。アルバイトなどをやって、臨時収入が入ると、アパートの隣が小さな「バー」飲み屋だったので、たまには飲みに行っていた。
一平のアパートは早稲田鶴巻町にあったので、大学まで歩いて5分ぐらいだったので、友達がよく来ていた。
昼飯は大学に隣接して、定食屋がいろいろあった、、、一平は焼き魚定食や、、野菜炒め定食が好きだった、、、定食代金は「500円」が多かった、、、たまには「コーヒーショップ」へ行った、、、行きつけは小さなカウンターだけのお店だったけど、、、
今思うと懐かしいことばかりである。
青春時代の甘酸っぱい時があったような、、、、あの頃の友達はどうしているだろうか、、、時々思い出す。
元気でいるやつもいるだろうが死んだ奴もいるだろう、、、人生とは不思議だ。
大学時代に一緒に遊んだ奴で、、フジテレビの子会社の社長になったやつもいた、、、奴は一平が連れて行って「童貞」を失った男だ、、、そんな奴もいたな。
大学時代に九州旅行した奴は交通事故で死んだと聞いた、、、また、アメリカへ言った奴は行方不明だとも噂で聞いている。いろいろな人世があるようだ。


8)一平は下宿をやめて、、、田舎から電車通学をした。

一平は体育の授業の選択で失敗して、、、夏休みの二か月間の夏季講習を受けることになったのである。
半年間の授業を20日間だったか,まとめて単位を取得することが出来たのであった。。。このシステムを覚えた後は
ほとんどの授業をまとめて取得すようになり、、、普段の授業にはでなかったのである。
そんな夏季講習の時に、一平の部屋は学校の敷地内と同じだったので、、同じような授業を受ける仲間が8人ぐらい泊まったことがあった、、、4,5畳のアパートであるから、横になって寝たら動けなかった。
それでも若いとは凄いものだ、、、
そんなことをしているうちに、、、数人の早稲田大学の1年先輩たちが土浦から通うというので、一平も仲間とともに通学するようになったのである。
そして、電車通学も楽しいことを覚えたのであった。
常に登校するときと、、帰りの電車では待ち合わせをして、一緒に帰ってきたのである。
悪友たちとの通学であるから、、常に遊ぶことを考えていた、、遊ぶといっても、やっぱり学生だから「金」がないのだ。
そこで金を出し合って「日本酒4合瓶」を買う戸のである、、、そして、電車内酒盛りをちびりちびり始めるのだった、、、若いから話は弾む、、飛ぶのである、、人生論などを戦わせて。
電車が土浦駅に着くころには「ほろ酔い」になる。
毎日、楽しい日々で有った、、、金は無くても青春とはいいものだった。
仲間の誰かが、少しだけ「例えば1万円」でもって居れば、知っている飲み屋に出かけ、、飲みすぎた時は「つけ」てくるのであった。
そして、知っている先輩が居たらご馳走ななるといった、、日々を過ごしていた。
そんことを繰り返していたら、、、一平はある芸者に好かれて、、付き合ったことがあり、、多少ではあるが「金銭的にも」世話になったのである。
もう一人のホテルの悪友が芸者に惚れられて、、一平とそいつの女愛が仲間の遊びを助けたものだった。、、、
そんな酒飲み遊びをくりかえしていたのである、、、


9)バカ息子「一平」はクラブを借り切ってもらった。

一平は大学2年の時に馬鹿をやってのけた、、、馬鹿息子丸出しである、、今から考えると本当に
「親不孝」をしたものだった。
いい気になって、通慣れたクラブを借り切って自分の誕生日会をしたのである。。
一平は一級先輩がやったので、自分も自慢をしたくて、そんな飲み会をやったのだった、、、
お袋が来てくれて、支払いをしてくれたのである。
なんて馬鹿な親不孝息子だったのかと、、今は反省しているが、、、当時は有頂天だった。
そんな馬鹿「一平」はそれからも酒飲みをして、、、馬鹿な行動をしていたのである。。。
金持ちでもないのに、、、金持ちぶって、、、いい気になってクラブやバアーを飲み歩いた。
酒を飲むから気が大きくなって喧嘩もした、、、そんなに喧嘩も強くないのに「息がって」いたようだった。。。
喧嘩も負ける時が多く、、、怪我もしたものだった。
それでも懲りずに大学4年の終わりまでは馬鹿素行をしていたのである。
自分はいっぱしの遊び人気取りで、ヤクザと言われる不良とも酒を飲んでは「大ぼら」を吹いていたので、、、喧嘩は多くなった。
喧嘩も数を熟せば、少しはつよくなっていったのである。
金もないのに飲み歩くからトラブルも起きた。
一時は生活が荒んでいったものだった、、、、
女にもてもしないのにモテたと錯覚をしていた頃もあったようだ、、、
確かに人よりは女にもてたような気がした時もあり、、何人かとは付き合っていたが、、所詮は金が無いので長続きはしなかった。


10)荒れた青春祭り「腐った青春」

天海一平も腐った沈んだ青春があった。何をしても面白くなく、、何をしても旨く行かなったのであった。
人生にはいろいろあるようだ、、、ましてや青春時代のひと時のことであるから、、そんなことは当たり前のことだった。
毎日、雀荘に通い、「賭け麻雀」をしていた、、、そんなに弱くなかったので、誰もが遊んでくれた。時には大勝をするときもあり、、そんな時にはバアーなどへ飲みに行っていた。まるで遊び人というかチンピラのような生活をしていたのである。
女もいて、、女は水商売で働いていて、まるで「ひも」みたいであった。
そんな生活で、、いいのかと悩み、、腐った人生だった。
目的もなく、ぶらぶらしていた時に,麻雀も大勝していたので訪ねて来た悪友と酒を飲みに行った、その店で大学違いの先輩と会い、、一平に飲んでる席に来て、、偉そうな口を聴いたので、、、
一平が飲んでいる酒を、その偉そうな先輩の顔にひっかけてやったのである、、、
それは怒るわな、、頭にきて、、、
「この野郎、、何するんだ」というから、、一平はむ一度、、
その先輩の顔をに「こうやったんだよ、、」と言って、また、酒をかけてやった。
それから、、、「この野郎、、、ふざけやがって」と、、殴り合いの喧嘩になったのである。。その先輩の連れて来た仲間が、狭い店の中で10人ぐらいで一平に殴りかかってきたから、堪らない。
一平はめちゃくちゃに殴る蹴るをされた。
一平も奮戦したが多勢に無勢で、やられる中で一人だけを離さずにぶん殴り続けたが、やられパなしで負けた。
その店のママが一平の知り合いだったので、警察を呼んでくれたので喧嘩は収まった。
一平は口の中は斬れるわ、顔中殴られたので傷だらけだったのである。
喧嘩が収まり、一平は悪友と引き上げた。
悪友は何もできず、みてただけだったが、その後、訪ねて来なかった。
一平はその当時、世話に成っていた女の部屋で、傷の療養をしたのであるが、、
治るまで、約1か月かかった。酷い喧嘩だった。


11)荒れた青春、、、博打に喧嘩、、まるで、ろくでなしだ。。。

天海一平も大学4年の頃は生活があれていたようだった。
學校へは行っても悪友と大学の近くの雀荘で麻雀をして過ごしていた。夜は悪友と少しの金を集めて酒を飲んでは、無駄な下らい時間をすごしていた。
悪友の家がホテルや旅館をしていたので、、、泊まり込みで酒を飲みながら「人生論」交していたのだ。
徳にもならない人生論だ、、、そしては女の話に花を咲かして、騒いでいたような、、、
そして、雀荘に通い麻雀に明け暮れていた、、、何のための大学だったのか、、勉強もせず、酒を飲み、博打まがいの麻雀をして、まるで「ろくでなし」であった。
折角入学した早稲田大学で何をしていたのかと反省が、、、最後の頃には「情けなさ」がこみあげていた。
何も学ばず、、、時間だけを浪費した4年間だったような気がする。
一平の人生で一番無駄な時間を使ったものだと、、、
そんな気がする人世時間だった。
しかし、無駄は過ごしたが、、、馬鹿な人世経験はしたようだった。
「無駄」という経験を、、、、
女との恋道経験、、麻雀という博打遊び、、くだらない喧嘩経験と、、
色々な無駄時間を過ごしたことも経験したことも事実だ。
そんなことが後々の一平の人生道に少しは生きているような気もするのだった。
それを考えると、無駄な時間を過ごした青春も生きているのかも知れない。


12)大学を卒業してから家出をした一平。。。

一平は早稲田大学を中退した。大学4年の時に不足した単位は「第2外国語」だけだったが、、、すでに学校へ行く気が無くなっていた。
それで、家業を手伝っていこうと思い学校をやめてしまったのである。
そして、親がやっている「パン屋」に就職をしたのであった。
一平は本気で継ごうと思ったので、真剣に仕事を覚えて行こうと朝も早くから起きて修行した。
父親のパン屋は学校給食と高校の売店でのパン販売をしており、、母親が土浦駅前でパン販売のお店をしていたので忙しかったのである、、、会社も株式会社形式であり、社員も50人ほどの生産工場であった。
しかし、一平には親孝行をすることができなかったのである。。
父親が決めた、、、早い話が「親同士の決めた結婚」を進めたのであった。
一平も始めは「いいか、、」と思っていたが、、、
ある日突然に、その結婚が嫌になり、、家を飛び出しいてしまったのである。。
それから、今のかみさんと一緒になって、長女桜が4歳になるまで家にもどらなかったのであった。
その間は両親からは「勘当」されていたのである。。
徹底した親父だったのかな、、弟の結婚式にも呼ばれなかった。
親からは絶縁されていたけれど、、、弟とは付き合いがあったのであるが、、、
ある時期からは弟からも勘当扱いにされたのである。
一平は一時は事業も旨くいっていたが、、、失敗を重ねて、両親には迷惑をかけてしまったのだった。
一平の失敗で、、筑波の家にもいられなくなり、、借家住まいをしていたこともあったのだ、、、筑波の家は一平の両親が作ってくれたので、、、早い話が「追い出された」のである、、、弟とも喧嘩になり、、一平は無一文になり、家無し生活をしたこともあった。
中学時代の友達が貸しビルをしていたので、、、空き室にすまわせてまらったのである。
その友達の貸しビルの空き室に住むまでにも、、一平は大きな失敗を繰り返していた。
一時は「産業廃棄物処理業」で一本立ちして、、貸しビルまで作り、事業を運営していたのである。
一平の起こした事業には「建設業」もあり、、貸しビルの中でディスコを運営して儲けていたこともあった。しかし、旨く行きだすと、事業を広げすぎて、気が大きくなり、遊び過ぎてしまい、、気が付くと失敗という「二文字」に襲われていた。
バカなのか、、、同じことを繰り返していたようだ。
それでばかリ家族にも迷惑をかけてきたのだった。
そして、最終的には無一文になったのである。


13)一念発起、、、「此畜生と思い」人生を取り返したのであったが、、、

一平は家出をしてから、いろり仕事をやった。旨く行きだすちょっと気が大きくなり、失敗を繰り返してたのである。
無一文になり、昔、世話に成っていた会社が広島へ移転して、産業廃棄物の医療廃棄物を始めたというので行ってみた。その会社も失敗をして福岡から広島へ移っていたのである。
一平にしてみれば「産業廃棄物処理」は得意事業なので話に乗って手伝った。
そして、一平は軽トラックに乗って頑張ったのである、、医療廃棄物なので病院関係の営業をして、入札などにも参加して仕事を増やしていった。
更にはドコモとの携帯電話のリサイクルなどの契約も行い、、広島の会社のリサイクル施設を売却することも出来たのである。一平は取引の無い初めての会社との営業を進めて、交渉して契約まで持っていったのである。
広島市内の大学病院などの入札契約をしたり、、、ドコモへの直接契約販売をしたりして、事業を拡張していったのである。
そして、現在の営業している事業所会社の販売も進めて、1億円での売約も決めたのであった。
一平はお人好しであった、、、早い話が利用されて、最終的には置き去りになったのである。
会社売却が済んだら、、、元の東京へ戻るから、一平も一緒にということでったから、、夢中で動いたのであった。
しかし、売却が済んで金も入ったら、、さっさと東京へ引き上げたのである、、、一平は後から来るようにするからと言ってたが、なしの礫だった。
騙されたのである、、、騙されて一平が馬鹿のだ。。。「くそー、、騙された」と、思っても後の祭りだった。
それから、しばらくは踏んだり蹴ったりの日々が続いた。
いくつかの会社から頼まれたので「医療廃棄物処理業」の仕事をてつだったのである。
広島市東広島で、、、京都府丹波市でと手伝ったが、、思ったほど、条件や話が違うので引き会立てて上げたのであった。
丁度東北での「3.11」の地震津波が起きたので、、一平は茨城へ引き上げたのである。

そして、茨城へ引き上げてから一平は一念発起したのであ

14)太陽光発電と巡り合う。。。

一平は伽しい日々を送った。後悔もした、反省もした、、しかし、一平には思い当たることがなかったのである。。。そして、反省の日々の中で、、考えた。子供たちへの不幸へのかけぱななしであり、、かみさんへの不幸のやりぱなしだ。。。
そればかりではなく、、、一平の失敗人生で、どれだけの多くの人々に迷惑をかけたことか、考えれば考えるほど多くの
失敗からくる多くの人々に不幸を与えたことか、、、、
一平はよく考えた、、、すべてがその「報い」ような気がした。
「そうだよ、、迷惑をかけた人たちへの感謝の心を忘れているな、、」と、、、つくづく思うのである。
失敗した上に、、、「生きている、、、まだ、生かされている」のだ。。。
それだけで充分ではないか、、、それだけで十分なのだ。
生きてから、、償いはそれからではないか、、、まずは一生懸命に生きなくてはならないと。。。
そして、一平に出きることを見つけて日々を生きて行かないとおもったのである。
一平は失敗しても「命があるじゃあないか、、、生きていれば償いが出来る」そう思って前へ進んだ。
友達の貸しビルの一部屋に済ませてもらった。
何もなくなって、、「運転免許証」もなくなったので、とりあえず「一発試験」を受けに運転免許試験所にバスででかけた。無一文の一平は悪友から「1万円」を借りて、試験は受かった。
そして、飯もけなかったので悪友の奥さんが毎晩「どんぶり一杯の飯」をとどけてくれたのである。。
一平はそのどんぶり飯で、、おしんこだけの食事をしていた、、、伽しいけど「少しでも食べれればいいと」思っていた、、、死なない程度に。
かみさんは娘二人が働いて面倒を見ていてくれた、、、ほんとうにすまない人生の谷間であった。
一平は運転免許を取得してから、すぐに、知り合いの水道ガス設備商店に弟子入りをしたのであった。
そして、前借をしてかみさんたちの生活を支えた、、、本当に最低の生活であったのであるが、、、夢中で働いた。
以前住んでいた家にも戻れたのである、、売却の段取りをしていた弟が、、売れないので住まわせてくれたのであった。
一平の貧乏生活ではあるが、、家族が済める以前の家に入ることも出来たので生活費を夢中で稼いだのである。
半年も過ぎたころには仕事も覚え、、軽トラックを譲ってもらい、独立して、水道工事の修理やエアコンの取り付けが出来るようになったのである。。
敷地内の水道工事やエアコン取付は資格がなくても出来るので、世話に成った設備商店の下受け業務と個人注文の仕事をする様になった。
稼ぎも多くなり、長男もてつだってくれたのである。
軽トラック一台の仕事から、、「太陽光発電施設」の設置の話があり、、その販売を始めたのであった。
一平の元来の営業力から仕事が増えていったのである。。。太陽光発電の販売が思うように動いて、一平は工事も自分でやろうと思うようになった。当時の売電料金は1kw当たり42円だったので、儲かった。
バカな一平の青春の最後の仕事には花が咲いた,、「青春祭り」だった。
見事に10年間続いた「青春祭り」にも花が散ったのである。


15)青春祭り、、、子供時代の遊び祭り外伝

天海一平の子供の頃、、、昭和26年ごろからの遊びは全てが外で、、野外で遊んだ、、遊び場は「山や川、湖、野原」だ、、自然が相手の中での遊びだった。
今のようにゲームやテレビもなかった、、一般家庭であるのはラジオぐらいのものであった、、、だから、暗くなるまで外で遊んだのである、、、
そん頃は遊びを子供同士で考えた、、必ず、遊び上手な奴がいて、遊びを作り出していた。
金もない、物もない、、今、傍にあるものを使っての遊びであった。
昔の子供たちは「遊びの天才」だったのだ。

1)釘倒し

一平の子供の頃は鉄くず拾いが遊びの中にあった、、近くの戦時中の兵学校の宿舎の縁の下に潜って探すと、、釘やかすがいなどが出てきたのである、、、そして、「真ちゅう」という銅線のようなものが高く売れたのであった。
金が無い子供たちは鉄くずを売って,小遣いを稼いでいた。。その他にも「ウサギ」特に「アングラウサギ」がそのウサギの毛が売れたので「昔の林檎箱」を改造して飼育していた、、、エサは野原や山に行って草を取ってきて食べさせていたので「ただ」であったので。。。。
鉄くず拾いをした中の「6寸釘(10cmから15cm)」で地面に指して、お互いに倒しっこをして取り合った、、
これも「子供博打」であった。
考えてみたら可笑しな現象である、、錆びた、たかが釘を真剣に奪い合ったのであるから、、、


2)エビガニ釣り「田んぼでタニシ採り」「ドジョウ採り」とよく遊んだ、、、

天海一平が小学2,3年の頃、、昭和26年ぐらいか、、まだ、田んぼには薬品除草が蒔かれていなかったので、「タニシ」「ドジョウ」が採れた。田植え前とか、稲刈り後の田んぼで「小さな穴」が開いていると「ドジョウ」が採れたのだった。
ひとつの穴に指や細い篠を押し込むと、別の穴から「ドジョウ」が出てくる、、面白いよに採れた。
「タニシ」はまだ水があるころに田んぼにはいっぱいいたのである、
「ドジョウ」や「タニシ」は家で、お袋に煮てもらって食べていた、、多く採れると食卓におかずとして並ぶ、、、食べ物がないころの話だ。
「タニシ」は煮てから、カイの入り口に蓋の様なものが付いているので、、マッチ棒で取りはずして食べるのであるが、、美味しかった。
るろ、鍋に入れて、、昔は七輪という焼く道具「今ではコンロのようなもの」で煮て食べる。
子供のおやつであった、、小さいけど、、今で言う「ロブスター」の味がして旨かった。

一平の小学生の頃には「昭和26年ぐらいから昭和31年ぐらいの間」その間は自然あるもので食べれるのは何でも食べていた。。
その採り方にはいろいろあったが、子供なりに工夫して考えて採っていた。
そんなことで自然が先生であったような、、自然から学んだことが多かった。
そのころの子供たちは逞しく強く育ったようだ。
その遊びと自然の環境をいくつか話して見たいような、、、、


3)霞ヶ浦で「たんかい」採り、、雨期に田んぼで「鮒手掴み」、、小川で堰き止めて「川魚、淡水エビ」採りなど、、、


小学6年生の頃になると霞ヶ浦で「たんかい」採りをする、、、背の立たない深いところまで泳いで行って潜って採るのであった、、、道具は浮き輪の代わりに「孟宗竹」を3mぐらいに斬ったものと、それに袋を付けて泳いでいくのである。
そして、最初、足で「たんかい」を探して、場所がわかったら頭から潜って手で採るのであるが、「たんかい」の大きさは20cmぐらいある上に、砂の中に三分の二は埋まっている、、とりだすまでに2回は潜らなければならないのだ。
やっと、採った「たんかい」を2,3個、家に持って帰り「切り干し大根」と一緒に煮てもらい、食事の時におかずとして並ぶのであった。
一平が子供の頃には、霞ケ浦には堤防が無かったので、雨季になって大水になると、眞籠(魚の卵)を持った「鮒」が霞ヶ浦に隣接した田んぼに上がってくるのであった。その鮒を手づかみで捕って、それも又、家で煮てもらい、家のおかずになったのである。
その田んぼに上がってきた「鮒」を捕るのには、ザル籠の大きい奴の「底」を脱いだもので、鮒をかぶせるようにして捕まえるのであった。
全て、あるものを使って利用する、、工夫するのである、、、
それから小さな小川の部分を「泥」を積んで堰き止めて、、バケツで堰き止めた中の水を掻きだして、中に残った、川魚や川エビを捕る遊びもした。捕った獲物は家に持ち帰り、煮たり焼いたりして食べた、、これは「おやつ」代わりだった。
堰き止めをした「泥」を、終わったら壊さなかったので大人に怒れらたものだった。
それから「ハスの実」が旨かった、、ハスの実を取って怒られたことがある、、、それはハスの実は取ってもいいが、、取ってらその元の茎を折っておくように言われた。。ハスの実を取りっぱなしにすると,その折った茎の先から雨水が入って、根っこの「はす」が腐ると、怒られたのであった。
そして、一平が子供の頃には何でも食べた。
「スズメ」も霞網で捕ってた、、禁止になったが、、、「スズメの焼き鳥」であるが、余り旨くはなかった。
「カエル」も食べた、、ただし「赤ガエル」だけで「七輪」で焼く前に皮を剥いて、叩いて伸ばして焼くのであった、、、
山の物では[しいのみ」「山栗」「あけび」と、、、何でも食べれるものは子供のおやつであった。
それから「きのこ」も採った。
遊びと実益をかねていたような、、、時代であった。


4)一平たち子供は「おやつ」も自分たちで集めた。遊びも考えた。

その1)竹馬

一平たちは山から竹を切ってきて、、勿論、竹林の持ち主からもらうのである。
その竹を自分の背丈に合うように二本用意する、、そして、昔はどこの家にも燃料にするための「薪」があったので,その薪を半分わって、縄を使い、竹に人が乗れるように縛り付けるのであった。そして、二本の足で乗って歩く遊びで子供同士で、、いかに高い竹馬に乗れるかを競ったのであった。


その2)竹スキー

一平が子供の頃は、茨城のつくば辺りに冬になると雪が降り、、1mぐらいは積もったのであった。
そして、孟宗竹(太い竹)を竹林から切って、スキーの板の長さにして、、
その竹の先端を火であぶって曲げる、、スキー靴の代わりにゴム長靴を竹板の上に載せて,ひもで固定したのであった。
ストックは篠の太いのを使って作り、、雪の積もった坂道を滑って遊んだ。
何もない時代の工夫した遊びであった。

その3)竹トンボ

孟宗竹を15cmから20cmに切って、、小刀「一平の子供の頃は鉛筆を削るためにほとんどが持っていた」で、、薄く削って、、竹トンボの羽を作った。
そして、その羽を回すための心棒を細く,丸く削って作り、、誰が遠くまで、または高く飛ばすかを競った遊びである。


その4)杉鉄砲,紙鉄砲、水鉄砲遊び

杉鉄砲も紙鉄砲も、、水鉄砲もそれらを作る材料は山から「篠」を取ってきて、
太い篠、細い篠、、使い方によって篠を選り分ける、、、
杉鉄砲は「杉の実」を細い篠の筒の中に詰める、、そして、その実を筒の中に押し込む心棒をつくり、勢いよく押し込むと「杉の実」が飛び出すのであった。
ただし、、筒の篠の部分には先端と入り口にひとつづつ、、「杉の実」を押し込んでおく、、そうしないと「杉の実」は飛び出さない、、、ここが大事なやり方であった。
紙鉄砲は太めの篠を使い、、やり方は「杉鉄砲」と同じであった。
水鉄砲の作り方のコツは筒の部分と水を押し出す心棒を隙間なくつくることである、、、後は水を吸い上げて押し出すだけであったが、、、削ったりして少しだけ、子供ながらの技術が必要だった。


その5)缶缶馬遊び

開いた缶詰めの蓋を斬り落として、逆さまにした缶缶に穴を空けて、、縄を通す、、、手の届く範囲で縄を切って足に履かせる、、
足の親指と人差し指で縄を挟んで、缶に乗るのである、、
道を歩くと馬のように「ぱかぱか」と音を立てるのであった。
そんな遊びであるが、、その缶缶馬で走って競争をするのであった。
これもあれも、ある物での工夫遊びであった。


その6)自転車三角乗り遊び

一平が子供の頃には子供用の自転車などは贅沢品で買ってもらうことなどは出来なかったので、、大人用の自転車のサドルには座れなかったけど、、その大人用の自転車を使って遊んだのである。。。
サドルの下の三角部分のフレームの間に足を入れて、ペダルをこいで動かしたのであった、、、それでもよく走った、、
子供同士では「三角乗り」と言って、、、
昭和20年ごろから遊んだ子供なら知っているはずだ。


その7)凧揚げ遊び

一平の子供の頃には「四角凧」が多かった、、、「奴凧」などもあったが、、茨城で遊んだいた一平たちにはそんな凧がおおかったのである。
凧の足には新聞紙を切って、細く長くつないで飛ばした。
凧の糸は「凧糸」という糸があった、、、
そして、、今のように電線なども多くなかったので、空高く飛ばせた。
以下に、高く飛ばせるかが子供の頃の自慢であったのである。。
小学の高学年になるころには「凧」を「ひご」というものを作って、自分で組み立て、和紙を貼って作った斧であった、、、それも又、自慢であったのである。
一平の子供の頃には何でも自分で作るという、、創意工夫も自慢であった。


その8)メンコ遊び

メンコには「四角なメンコ」一平が子供の頃は「角ぱあ」と言い、、「丸いメンコ」のことを「丸ぱあ」と呼んでいた。
ほとんど遊びは「角ぱあ」で遊んだ。。
勝負をして、取ったり取られたりしていたので「子供の博打」であった。
勝負も一枚二枚の勝負では面白くないので、、、「ぶ」という遊びと「ちょう」という勝負があった。
今、思うと意味が分からなかったけど、、、「ぶ」は一度に「20枚も40枚も掛けての勝負」であった。
子供にしては大きな博打であった、、、「ちょう」の勝負は初めから枚数を決めての勝負であったので、、意外と安心して遊べた。
「部」の遊びは制限がないので、、こども心にも熱くなると「負け」が大きくなった。
そんな博打遊びをしていた一平であった。


その9)ベーゴマ遊び

この遊びも結論から言うと、、これも「子供の博打}だ、、、ベーゴマを回すとこ「限定した場所(50cm)四方の丸い台」を作る、、その「とこ」は樽かなんかの上にシートかゴムでできた布を張って、そのシートが動かないように紐で縛って作るのであった。
その「とこ」の上でベーゴマを回して,ぶつかり合わせて、「とこ」から落ちたら勝負は負けであった。
勝負に負けたら、ベーゴマは相手に取られてしまうという博打である。
只、ベーゴマを回すのにも子供ながらの技術が必要だった。
また、ベーゴマにいろいろな細工をして、、そのベーゴマを強くする工夫をしたのであった。
その細工にはやすりを使って、磨いたり、先を尖らせたり、、いろいろな手段を講じた。
ベーゴマにも始めから「平ベーゴマ」「高ベーゴマ」があって、そのベーゴマの回し方、使い方でも「勝ち負け」が決まる。
一平は「ベーゴマ遊び」が強かった、、、ことを思い出す。


その10)駒遊び

駒遊びは「お正月の遊び」と、、普通は決まっているように言われているが、、普段でも駒遊びをした。
駒は出来ている駒を使うが、、、これも「子供の博打」であった。
駒を回す紐は「麻」や「布」を編んで自分で作るのである。
そして、駒を回す順番を決めて、じゃんけんで負けた者から回すのであった、その駒をめがけて、駒をぶっけて相手の駒を倒して、なおかつ、自分の駒が回っていれば、ぶっけた方が勝ちである、、、
この勝負も勝てば駒をもらえるのであった。
一平が子供の頃の遊びはほとんどが「博打遊び」である、、、だから、夢中で真剣に遊んだ。

その11)ビー玉遊び

この遊びは「ビー玉」を使って遊ぶのであるが、、これも「博打」である。。。取ったり取られたりする勝負であった。
地面に三角の形を書いて、、その中にビー玉をそれぞれに入れて、、外へ出すことから始まる。
順番を決めて、ビー玉を三角の中のビー玉に当てて、外に弾き出して、、今度はそのビー玉を一個ずつ決められた場所から当てて,当たったら、そのビー玉が自分の物になるのであった。
こんな単純な遊ぶ日に夢中になった日々があったのである。


その12)おはじき遊び

この遊びも「博打」である、、子供の小遣いで買ったおはじきを取りっこするのであった.
決められた台の上で、指で弾いて、台の外に出せば勝ちであり、、そのおはじきが自分の物になった。
しかし、一平が子供の頃は「博打遊び」が多く、、夢中で遊んだものだった、、、いつの時代も大人も子供も、、この浮世では博打が好きなようだ、、、


その13)けん玉遊び

この遊びは物の取った取られたはなかった。子供同士の技術を競い合った、、、けん玉一つで、、多い時には10人でも何人でも同時に遊べたのである。
最初にじゃんけんで順番というか、、一番最後まで勝ち残ったものが「王様」となり、、後はじゃんけんで勝った者の順番で並び、、一番負けた者が「乞食」となって、けん玉の技術を競うのである。
乞食ではないものが「けん玉」をやり、、乞食がその技術に勝ったら上に上がっていくもので、、負けたら「乞食」を交代していくのであった。最後に「王様」に勝ったら、王様も乞食になり、、繰り返し遊べるものであった。


その14)馬乗り遊び

この遊びも男も女も一緒に遊べて、、人数も数多く遊べる。
親というか壁や大きな木を背にして立つ、、その親の足の股に頭を突っ込んで馬になり、、次の人間もまた、馬になった人間の股に頭を突っ込んで馬になる、、これを繰り返して10人ぐらいの長い「人間馬」が出来る。。そして、今度はその馬に乗る人間が居る、、
馬になるか乗る人間になるかは、最初はじゃんけんで決める。その次からは馬が潰れたらやり直し、、全部乗る人間が乗ったら、馬側は立っている人間と、乗る側の人間の代表がじゃんけんをして決めるのであった。この遊びは冬が多かった。

その15)Sケン遊び

この遊びは教室の中でも運動場でもできた。
床に大きな「Sの字」を書いて、そのSの字の中にいる時は両足で立っていていいが、、外に出たら、片足でケンケンして歩き、敵方と片足で倒しっこをする遊びであった。
男女一緒に遊べてたのしかったものである、、思春期の男女の美しい触れ合いあそびであった。
今考えると他愛もない遊びであるような。。。

その16)「くちくすいらい」という遊び

この遊びの字はどういう風に書くかわからない。。。
遊ぶ方法には「帽子」が必要である、、、それも「つば」ある帽子だ。
つばを前にかぶるものが「大将」で、つばを横にするものが「水兵」で、つばを後ろ向きに被るものが「陸兵」と決めての遊びである。
御互いに陣地が有るので「二組」に分かれて闘う遊びだ、、、
大将が捕まるとゲームセットで、、大将は帽子を横に被ったものを掴まえることが出来る。帽子を横に被った出ているものは帽子を後ろに被ったものを捕まえることが出来、、帽子後ろに被ったものだけが大将を捕まえることが出来る遊びである。。
大将は走るのが一番早いものがなったいた。
走ることの出来る運動を兼ねた遊びであった。


その17)後ろの正面「誰だ」という遊び

鬼を一人決めて、、順番に鬼になっていくあそびである。
鬼が一人後ろを見ないで目隠しをして、、一番先に動いた奴を当てる遊びだ。
人数は何人でも一緒に出来る遊びで、鬼以外は何人でも参加できる。
どっちかというと「女の子供か」「幼い子供」のあそびであった。


その18)下駄スケート遊び

冬の遊びで、、古くなって下駄の歯が低くなった下駄の歯に「番線」を張って、スケートの代わりにして滑って遊んだ、、、スケートリンクは氷の張った田んぼである。
氷から出ている稲の根っこは鎌で切って、平らにするとリンクのようになって、滑るのであった、、、一平たちの子供の頃の遊びの工夫のひとつであった。


その19)チャンバラ遊び

遊び道具の「刀」は自分で作るのであった、、刀はある程度の太さの木を山から切ってきて、、削って刀らしくつくった、、、そして、刀の鞘は新聞紙を固めて、のりを貼って作っていた、、、のりは「ご飯粒」で作り、、絵の具などで色を塗っていた。
結構面白い遊びであった。
自分で成りたい時代劇の剣士になって、夢を追っていたような気がした。
鞍馬天狗は好きでやっていたような。。。


その20)縄跳び遊び

長い縄を用意して、、縄を回す子供は二人で順番でやっていた、、、
縄の中に入って飛ぶものは5人ぐらいづつで、、チームを作って、どのチームが一番飛べるかを競って遊んだ。。ただ、それだけでも楽しかった、、冬が多かった。
昔の子供たちは動いて「暖」を取ったような。。


〇「第二話」やくざ先生

(1)やくざ先生、、、、
神宮司龍二は10年ぶりに筑波山の麓にある私学つくば学園の前に立った。懐かしい匂いがする、、、春も終だというのに桜吹雪が風に舞っていた。
何もかも10年前と変わらない、、、学園の広場を職員室の入り口に手をかざした。
同時に引き違い戸が開いた。。。
大川学園長の顔が出てきた。。「おお、、、龍二か、よく来たな、、、、そうか、もうあれから10年か、、、早いもんだな」
「迎えにも行かず、、、すまん、、、忘れたわけではないのだが、、、すまん、、すまん]とわびてくた。
「どうだ、、、龍二、変わらんじゃろ、、、相変わらずの貧乏世帯じゃ、、、すまんのう、、、」
「とりあえず、、、はいれや、、、何にもないがのう、、話は山ほどあるからの、、」
大川学園長は心から歓迎してくれた。お前の大好きなばあさんも去年なくなったよ。。。と、寂しげだった。
龍二が職員室に入ってから、暫くして、大川学園長の娘さんが飛んできた。
「龍ちゃん、、お帰り、、、会いたかったよ。。。今日はゆっくりできるんだろう、、、美味しいもの作るから」
と、、、飛びついてきた。
その晩は学園内にある宿舎で、花が咲いた。
学園長は酒が好きだから、日本酒を飲んだ、、、龍二は出所したばかりなのでビールを少し飲んだ。
娘の花代は父の手伝いで、まだ、独り身だった。父の晩酌の付き合いで花代は酒を飲むようになっていた。
「ところで、龍ちゃん、仕事はどうするの、、、、まだ、決まっていなかったら、つくば学園を手伝ってほしいな」
大川学園長も手伝ってくれたらと、願っていた。

(2)緑吹く風にのびのびと。。。
大川学園長に連れられて、龍二は3年生の教室へ向かった。
そして、紹介をされた。
「今日から本校に来てもらった、、神宮司龍二先生だ。
みんなの体育を担当する、、そして、柔道部の顧問をしてまらう、、、よろしくな、、、なかよぅしてくれな」
「神宮司龍二です、、、よろしくお願いします」
そして、、、大川学園長が少ない、生徒を紹介してくれた。
「みんな、これからは神宮司先生も学校の宿舎に寝泊まりするので、、食事も一緒だから仲良くしてな、、、
神宮司龍二も仲良くしていこうと思った。
3年生は男25人、女性15人だった。
神宮司龍二から見ると、みんな癖のある生徒に見えた。
全員が親なしか、片親の子供たちばかりだった。
でも、見た限りでは明るかった。
龍二は好きになれそうだった。
生徒全員の紹介は時間が掛かったが、大川学園長が紹介してくれた。学園長には愛情があふれていた。
筑波学園は1年から3年まで合計で120名の学園であった。
通いの学生は80人で、後は宿舎住まいであった。
その日の夜はささやかな歓迎会があった。
龍二は嬉しかった。新しいつくば学園で精一杯生きてみよとおもった。

3(自然の中で、、胸張って)
龍二は思った。今度こそ人生の道を間違えずにあるいてみようと。。。。
目の間にいる子供たちと生きてみようと思った。
筑波学園の生徒120名のうちの、80名が宿舎生活の生徒たちだった。親なし子供が60人もいた。
しかし、みんな明るく素直に見えた。それは龍二から見た欲目だった。
親なし生徒たちは何処か違っていた、、、、いいのか悪いのかはまだ、わからなかったが、反抗心がつよかった。
龍二にもなんとなく理解できた。
もうすぐ、夏休みが近づいてきた、、、親なし生徒たちは帰るところがなかった。
それで、学園側の企画した5日間のキャンプ合宿があった
夏休みが近づくと、キャンプは3班に分かれていくので、その班分けが大変だった。
宿舎生活者も1年から3年までいるので、本当に組分が決まるまでは大変だったのである。
好き嫌いもあり、、、平均して決まるまでには、いろいろもめた。
それでも、何とかまとまり、準備は出来た。
龍二は何もできず、黙って手伝うだけだった。
学園町の娘、花代がてきぱきと段取りをしていた。
昔しか知らない龍二は、花代が大人になったことに驚いていた。

4(キャンプに参加して)
神宮司龍二は嬉しくもあり、楽しかった。
人と、、、仲間と触れ合うことを忘れていた。。常に監視されて、見張られて生きてきた自分が恥ずかしかった。
随分と長い間、狭いところで,窮屈な生活をしていた自分が悲しかった。
今は何の囲いもなく、自然の中で、胸いっぱいに空気を吸って、生きてることに、涙した。
大川学園長に感謝していた。こんなにも暖かく迎えてくれたことへの感謝だった。
そして、子供たちと過ごせる喜びを、、、
大川学園で子供たちと一緒に生活することにも感謝し,好きな柔道をすることが出来てうれしいことばかりであった。
龍二は柔道部に夢を持っていた。。。生徒の中に頼もしいやつがふたりいるのであった。
大山勝次と小山正一の二人であった。
宿舎生活で、どちらも親なしであった。学校対抗の団体戦には5人必要であったが、、、戦力をいまいちであったが、頑張っている。
今回のキャンプにも5人が揃って参加している。
素直な子供たちなので、実量を伸ばしてやりたいと思っている。
神宮司龍二は学生時代に大学選手権で優勝したことがあるので、勝つことを覚えさせたかった。

5(勝つことの楽しみ、喜び)
神宮司龍二は筑波学園の生徒たちに勝つことの楽しみを、」喜びを知ってもらいたかった。
仲間同士で、環境の素晴らしい自然の中で躍動することは素晴らしいことだ。その中で、青春時代に競い合うことの素晴らしさ、切磋琢磨することの素敵なこと、汗をながして青春時代を進むことを知ってもらいたかった。
競い合うことのたくましさを覚えて欲しいと思った。
夏休キャンプ生活を楽しんでいる生徒たちに、今度は競う会う青春を楽しんでもらいたいと思うようになった。
筑波学園の夏休みも終わり、新学期が始まった。
神宮司龍二も教員生活になれてきた。
そして、特に部活活動に明るさを見出していた。指導している柔道部が力を出し始めていた。
特に個人部門では大山勝次と小山正一の二人だった。
大山勝次は重量級の強さを持っていた。小山正一は背丈は小さいが背負い投げの特異なやつだった。
団体戦では後の3人がほどほどで、何とか頑張っていた。
夏休が終わると秋の大会が近づき、練習も盛んにおこなうようになった。
龍二は柔道部員に教え込んだ、、、勝つことの喜びを。。
そして、練習にも力が入つていた。
そんなある日、、、柔道部員の家族から苦情が入った。
柔道ばかりで、、、勉強の学力が落ちてきているので、、、心配と。。。。今のままでは大学への進学が心配で仕方がないので、、、柔道を辞めさせてほしいと。。。
本人は柔道をやりやがっていた。しかし、家族の強い反対で
辞めることになったのであった。
そして、生徒から直接相談を受けた、神宮司龍二は迷った。
大川学園長に相談して、話し合いをしたのであった。
生徒の親は地元の有力者であり、学園にも協力してれているので、学校側は困った。
しかし、本人は柔道を続けたいというので、、、神宮司龍二は親元に直に頼み込んだのだった。
熱心に神宮寺龍次は頼んだ。。。。
余りの熱心さにほだされて、、、また、自分の息子の必死に諭されて、、、有力者は折れた。
今回の大会で入賞出来たらと言うことで。。。。
それから、有力者の生徒は夢中で頑張った。

(6)諦めるな、、、弱音を吐くな
地方の私学である筑波学園が柔道大会で県大会に出場して、決勝まで勝ち進むとは奇跡に近かった。
個人戦ならばいざ知らず、団体戦で決勝まで来たので、地元を上げて大騒ぎだった。
5人のうち3人までは強かったが、後二人はさほどに強くはなかった、、、しかし、頑張った。練習も良くした。
顧問の神宮司龍二も頑張った。
県大会決勝の前日に、神宮寺龍二は大学時代の友と再会した。
大学時代に早稲田大学の竜虎言われた、柔道仲間の坂本良助と偶然にあった。そして、決勝大会を競ったのであった。
「おい、、龍二じゃあないか、、、久しぶりだな」
と坂本良助から近寄ってきた。
「おお、、坂本か、、、よろしくな」と言いながら、
決勝戦は始まった。
兎に角、試合が終わってからと言うことで、、別れた。
神宮司龍二は教え子たちに激を飛ばした。
小さな地方の学園が全国大会まで、勝ち上がり,今、決勝大会に臨もうとしていることに、、、龍二は感激していた。
そして、決勝の相手が大学時代の友である、坂本との決勝であった。夢のようなことだった。
神宮司龍二と坂本良助は常に技を競い、勝ち負けを競っていた。

(7)懐かしい昔、、、
柔道の対抗試合は坂本良助が率いる、東京都立早稲田実業が勝った。強かった。しかし、神宮司龍二が率いるつくば学園も強かった。
試合の数日後に坂本良助がつくば学園を訪ねてきた。
龍二がバス停まで迎えに出た。
「良助、、、、ビックリしたろう、、田舎なので」
「龍二、本当にしばらくだった、、、12年ぶりかな、、、元気だったか」
「ああ、、、ありがとう、わざわざ、逢いに来てくれて、、、本当にありがとう」
二人は自然一杯のが学園の宿舎で祝杯を挙げた。
12年間の積もる話は尽きなかった。
坂本は結婚していた、、、
「龍二、あの後の事件ことは知っているよ、、、ご苦労さんだったな。。。しかし、仕方がないよ。。。でも、元気でよかった。」
神宮司龍二は父親が会社を倒産して、そのあとの借金地獄でのやくざの追い込みで、家族を守るためにしたことだった。
母親と妹さんは自殺に追い込まれて、それまでの催促と酷い嫌がれせで、家庭は崩壊してしまった。
本当に辛ったな、、、、俺が来たことで嫌なことを思い出させてしまったと、、、昔を涙した。
でも、大丈夫だよ、、、
大川学園長に拾われて、今は人生を楽しんでいるよ。
しかし、「坂本、、、お前と柔道をやっていてよかった、、、柔道があるから生徒たちと明日への光を見つけて、、日々生きてられるよ」
「坂本、、こんな俺でよかったら、ずっと、付き合ってほしいな」
二人は夜通し酒を酌み交わしながら語った。

(8)仇として狙われる龍二
久しぶりに訪ねてきてくれた坂本良助と楽しい一夜を過ごした。夏休みも終わりに近かったが、次の日に良助は帰った。
寄宿舎で寛いでいた龍二のもとにまぬかれぬ客が訪ねてきた。
花代さんが5人の男を案内してきてくれた。人相の悪い男たちであった。
龍二は一目でわかった。12年前に殺し合ったやくざたちであった。関東連合のやくざで、幹部やくざの大畑長次郎と言っていたはずだった。後の4人ははっきりとは覚えていなかった。「ご無沙汰しています、、、大畑です。随分探しましたよ。
あれから人を訪ねて歩きました。。。龍二さんの友達の坂本良助さんを見張っていれば、必ず、逢えると思っていましたので、、ずっと、彼を見晴らしていましたよ」
「どうして、来たかはわかりますよね、、、私たちの家業は親分んを取られたときは必ず、その仕返しをしなくては筋が通らないので,、、本当に探しましたよ。。ましてや、兄貴分までやれれているので、覚悟してください」
「12年間は長かったけど、付き合ってください」
神宮司龍二も「わかりました、、、しかし、私はやくざでもなんでもないので、、他の方法はないのですか」
すると、他の一緒にいる連中が、、、
「ふざけるな、、、俺たちはお前の命を貰わないと組に戻れないんだよ、、、ぐたぐた、、今更、泣き言をいうなよ」
と、もう、刀を抜いていた。
神宮司龍二も覚悟はした。刑務所の中でも何度か襲われたので。。。
学校は夏休みだったので生徒は誰もいなかった。宿舎の外に出た龍二は5人の男に囲まれていた。
絶対絶命だった、もし、仮に戦って勝ってもいいことはない。
しかし、火の粉は払わば蹴ればならない。。。
そんな困っている龍二に助け船が出てきた。
園長の娘の花代が大きな声を上げて、、、「人殺し。。」と
叫びながらホースで水を撒いてきたのであった。
花代の「人殺し」と言う叫び声で、人が集まってきて、血統は一時止まった。
やくざの幹部である大畑長次郎が止めたのであった。
「龍二さん、日を改めて会おう、、今日はここで引きあがるから、、、」
と言って、」やくざは引きあげた。
神宮司龍二は助かった。学園長の娘、花代に救われた。
大川学園長が帰ってからが大変だった。

9(再び会うことを約束して,大畑長次郎は引き上げた)
花代に救われた龍二であった。しかし、大畑長次郎は再度会うことを約束したのであった。いずれは決着をつけなければならなかった。探し当てられた以上は逃げるわけにはいかなかった。相手はやくざであり、12年もかけて探し当てた親分の仇である、、、何が何でも形をつけようとするだろう。大畑長次郎たちが帰った後の事が問題だった。大川学園長は知っていたが、誰も知らないことだったので、、、娘の花代も知ってはいたが。。。
夏休の事とは言え、学校内でのやくざとの闘争である、、すぐに噂になり、問題となった。
父兄の間からも問題が起こり、犯罪人に、ましてや人殺しに子供を預けるわけにはいかないとなった。
そして、評判の良かった住民にも反対を唱えるものが出てきた。
大川学園長が事情を説明したが納得の往かないものが出てきた。
大川学園長は困った。
生徒たちは神宮司先生の過去は問題がない。今まで通りに学校に残って欲しいと嘆願された。
神宮司龍二は大川学園長に迷惑はかけたくないので、やめたいといった来た。
大和学園長と生徒の父兄、、地元住民と話し合った結果、神宮司龍二が身を引くことになった。
この話を聞いた生徒たちはストライキを起こした。
しかし、神宮司龍二の意志固く、生徒たちを説得した。
そして、自分はやくざたちと話をつけてから、農園を開くことにした。
良かったら、学園を卒業したら、農園を一緒にやりやいと考えているから、手伝ってほしいと。。。
折角知り合った仲間なので、ずっと、いたのでは農場経営をしたいと、、、
みんなが安心して働ける農場を作って、待ってると約束をした。
翌日、別れを告げて龍二は学園を後にした。
その前にやることをやってからな、、、大畑長次郎との決着だった。

10(さようなら、、仲間たち)
神宮司龍二はお世話になった大川学園長に、迷惑をかけられなかったので、学園に別れを告げることにした。
龍二としてもずっといたかった。生徒たちとも特に柔道を通しての青春愛が出来上がっていた。
人が人を教えるという教育愛を知ったような気がして来た矢先であった。心から大川学園長のもとで、もっともっと教えもしたかったし、学びもしたかった。
しかし、自分の犯した罰の報いなのかも知れない。
償わなければいけないのだ。たとえ、相手がやくざであっても、人を殺したことには違いないのだから。
そんな気持ちを持ちながら、大畑長次郎との約束の場所に向かった。
龍二は覚悟はしていた、自分の犯した罪の償いは,償わなければと。。。
筑波山の麓、広々とした河原の一画で、大畑長次郎は待っていた。
「龍二、、、よく来たな、逃げずに。。。あんたの度胸と気持ちに答えて一対一の勝負をしよう。。。」
「龍二、他の者には手は出させないから、、、たとえ、俺が負けても約束は守るよ」
「そして、この勝負で恨みつらみは無いことにしよう。あんたも堅気の人間だ。これが最後の勝負だ、、、いいな」
「誰も手を出すなよ、、、じゃあ、行くぜ」
と、大畑長次郎は日本の日本刀をだした。
龍二も覚悟はした。
二人が構えたその時に、、、30人からの学生がどこで知ったかこけ込んできた。二人の仲に割り込んできた。
「先生を守れ、、、先生俺たちが戦っている間に逃げてください。。。先生、死んじゃだめだよ、、、」
龍二は学生を止めた。
「やめないか、、、危ないから、どいていてくれ、、、」
と、龍二は叫んだ。
この学生たちの真剣さを見た、大畑長次郎は刀を引いた。
「龍二、やめよう、、、この勝負はまたにしよう」
大畑長次郎は生徒たちの真剣な、命がけの行動に胸が熱くなった。もともと、情のあるやくざだったから、手を引いた。
そして、「龍二、今回は学生たちに免じて、手を引くよ、、、いずれ、どこかであったら、覚悟しておけよ。」
と言って、さぁっさと引き上げた。
なんとも男気のある男だった。
龍二は頭を下げた、、、引き揚げていく大畑長次郎に。。。
深々と頭を下げて見送った。
学生たちは喜んだ、、、そして、その様子を見ていた大川学園長も涙して、頭をさげていた。

11(その後の龍二は、、、、農場造りに励んだ)
大川学園長や学生たちと別れた神宮司龍二は一人旅に出た、
大学時代の友で、先だって柔道大会で再会した、坂本良助を訪ねた。
彼は北海道の実家に戻っていた。連絡を取ったら、是非、北海道へ来いということで尋ねたいった。
彼の実家は日高で牧場を経営したいた、競走馬の飼育であった。
広々とした北海道日高の牧場で手伝いながらのんびり過ごした。
そんな日、「龍二、、、話し聞いたよ、、、どうだろう、、、俺の牧場を手つだってくれないか、、、」と誘われた。
龍二はまだ行く当てはなった。大川学園を出てから、独立農場を作って、自分なりの青春道場を作るつもりでいた。まだ、構想中ではあったが、仕事もしながら、運動もしながら精神修養の場を作って、今の若い連中と人生の道を究めていこうと思っていた。
坂本良助に牧場経営に参加しないかと言われて、心から感謝した。龍二も北海道日高の草原で、自然に囲まれた中で、競走馬を相手に仕事を仕様と思った。
早く仕事を覚えて、龍二を慕ってくれている若者を呼び寄せたかった。
龍二は大川学園長に連絡を取って、相談をした。
来年卒業の学生を送ってくれると約束をしてくれた。
龍二は今度こそ、人生最後の夢をかなえようと、心が弾んだ。
春が来るのが楽しみなった。

12(龍二、、、春を迎えて)
龍二は嬉しかった。そして、迎えてくれた良助に心から感謝した。
「良助、、、なんでも言って欲しい、、、俺は何も知らないのだから、教えてくれ、、、そして、指導してくれよ」
「春に若き仲間が来るまでには、いろいろと覚えたいからな」
良助も喜んでくれた。
「ああ、、、慌てずに覚えてくれ、、、先は長いんだからな」
「良助、、、人一つ聞きたいんだけど、、、牧場の外れにある小屋は、今は使ってないのかな、、、」
「ああ、、、使ってないよ、どうしてだ」
「使ってなかったら、俺に貸してもらいたいんだけどな、、」
「いいけど、、、どうするんだ、、」
龍二は少し手を入れて、道場を作りたいことを話した。
春に生徒たちが来たら、、、一緒に柔道の道場を作りたいんだと話した。
良助も賛成してくれた。
龍二は春までに牧場の仕事を覚えていたい、、、そして、みんなが来るのを楽しみに待ちたい。
北海道日高の大地で夢を開きたい、、、、、

(13)龍二にも戻って来た青春が。。
神宮寺龍二にも消えた青春が戻って来たような、、、大事な青春時代の10年間を刑務所で過ごした龍二であったが、つくばでの大川学園時代で青春のやり直しをしてきたような、、、自然の中で10代の若人と過ごした3年間、そして、過去に起こした過ちを見なおさせてくれた大畑長次郎との出会い、過去を清算させてくれた戦い。
刑務所生活から教員生活の真似事を通じて、人世道を少しだけ学んだような。。。
そして、大学時代の友である、坂本良助の友情と、、、、
龍二は人の情けをしみじみと知った。
人とはいいもんだ、、、心を開いて通じ合える友が、仲間がいるということは素晴らしいということを感じた。
これからは、その温情を大事にして、人を大事にして、相手を、、、人を知って、生きていきたい。
春になって、尋ねてくれる教え子と言うか、仲間を迎えて、新しい大地で生きていきたい。
人が生きるということの素晴らしさや、大切さを大事にして、仲間と切磋拓魔して人生を歩んでいきたい。

14(よみがえった青春)
神宮司龍二は春が待ち遠しかった。
失った青春をもう一度、やり直そうと思っていた。
今から胸がわくわくしていた。
筑波学園の生徒たちと会えるのが心待ちに嬉しかった。
そして、柔道を共に練習して、全国大会にまで出場したことが懐かしい。。。早く、あの、大山勝次と小山正一にも会いたい、、、、他につくは学園から5人がやってくる。
龍二は夢に膨らんでいた。
少ない仲間たちと坂本の牧場を手伝いながら、自分たちの農園を作ることであった。
農園を作る土地は友達の坂本良助から借りることがきまっていた。


15)北の新天地で夢を、、、

神宮寺龍二は北海道日高に来て、大学時代の同級生の坂本良助の牧場で働いていた。。。いずれは独立して「農園経営」をすることを話していたのである。
とりあえずは良助の経営する牧場を手伝った。良助の牧場は競馬馬を育成していたのである。
龍二は北海道日高の広い牧場を見て、、、どこまでも澄み渡った空を眺めて、、「ここだ、、」と思い、覚悟を新たにした。
「農園経営」をすると決めても何も知らない龍二であり、、これからすべて、「一から、、」やることであったが、意気ごみだけはあったのである。
良助の知人で「ハウス農業」をしている、川島健太郎を紹介してもらって
勉強訓練中であった。
龍二は良助から「牧場経営」も学んでいたのである。
将来は農業と牧場を併用した事業を、筑波学園からくる仲間たちと一緒に経営していくつもりでいた。


16)龍二は「ハウス農業」の準備を。。。

龍二はこれから参加する、、大山勝次と小山正一他に3名のつくば学園卒業の若者と「ハウス農業」をするために、準備を進めたのであった。
春には高校を卒業して、夢振らませてやってくる若者たちに落胆はさせられない、、、龍二は自分を頼ってきてくれる彼らに期待もされているので、自分の人生を掛けて頑張らないとならないと思ったいた。
その「ハウス農業」をするために、大学の同級の坂本良助も協力を惜しまずに手助けをしてくれたのである。
そして、北海道での「ハウス農業」期待してくれていた。
そんために広大な土地を貸してくれたのである。
「ハウス農業」そのやり方は、、、北の新地で野菜を中心にした農業であった。
新鮮な野菜を栽培して、、、東京などの都会に直送することであり、、生活苦で苦しむ低所得者向きに、いかに安く作るかを考えて、、、経営する低経費農業であった。
友人の坂本良助が経営する牧場の排出する「排泄物」を利用して、、肥料及びメタンガスなどを熱源として、効率のいい、リサイクル事業と結び付けて運営することであった。
また、輸送も競馬馬との絡みで、、馬の輸送などを考えて、野菜の低価格販売をするシステムを構築することであった。


17)春が来て、、、大山勝次と小山正一他3名の若者がやってきた。

龍二には待ちに待った日がやってきた、、、列車できた5人を札幌駅まで迎えに行き、、再会を喜んだ。
「よく来たな、、、待ってたよ、、、疲れたろう、、、」と言って出迎えたのである。
大山勝次、小山正一、山田三郎、花山悟、それにでぶちょの大久保理三郎か、、、懐かしいな、、、
と言いながら5人を車に連れて行った。
「先生、、、元気だったみたいだな、、、北海道は食べ物が旨いのか、、、少し、太ったみたいだよ、、、あはあはあは、、、」と笑い声が響いていた。
牧場から借りてきたワゴン車で6人は日高に向かった。
途中は海岸線が多く、景色もよく、晴れた日だったので、、、「なんか、、、修学旅行みたいだな、、」といつも陽気なでぶちょの理三郎がはしゃいでいたのであった。
「先生、、、北海道はひろいなーー、なんか気持ちがでっかくなったみたいだよ、、、やりがいがあるようだ、、、広い台地で先生と一緒に出来るなんてうれしいよ、、宜しくお願いします。」
と、、大山勝次が話しかけてきた。
「ああ、、それから大川学園長がよろしくと言っていました、、、それと花代さんもくれぐれもよろしとだった、、、」
「そうか、、、みんな元気か、、、学園長も花代さんも達者でいるかな、、」
と、、龍二が聞き返したら。。。
「ああ、、元気だよ、、、今年の夏休みには会いにくるといっていましたよ、、」
そんな会話をしているうちに「日高の宿舎」についた。
「みんな、この宿舎は仮だからな、、これからみんなで新しい宿舎を建てるから、よろしくな」
と言いながら、、、龍二の親友の坂本良助の家に入った。
その日の夜は良助が龍二の仲間たちを歓迎してくれたのである。


18)龍二の仲間が増えて、、、いよいよ「ハウス農業」始まる


つくば学園から大山勝次たち5人が来てくれた夜は、坂本良助の家族が歓迎会をしてくれたのである。北海道のジンギスカン鍋で、龍二の教え子たちにご馳走を振舞ってくれた。。。みんな喜んで「旨い、、旨い」と言って食べた。
食事が済んだあとは、、、牧場の大浴場でみんな一緒に入り、夢を語りながらはしゃいでいた。
寝るところは仮ずまいの牧場にある宿舎で寝た、、、みんな、長旅で疲れていたのか、すぐに寝てしましまった。
龍二はみんなの寝顔を見ながら、ひとり、これからの夢を描いていたのである。
何もないところからの出発であった、、、金もない、、、前途多難な道だとは思うけど、、、「こいつらがいる、、、仲間がいるんだ」と、思うと燃えてきたのである。
これからは食事も洗濯も何でも自分たちでやるのだと、、、心を引き締めた龍二であった。
龍二が牧場の食堂を借りることになっていたので、、、「おはよう、、、起きろ、、」
とみんなを起こしたのである。
そして、まずは洗面所に連れて行き、、、そのあとに食堂の炊事場に行きみんなで食事の支度をした、、、「いいか、、、勝次、、正一もいつも手分けして、まず朝は飯のしたくだから、、、係りを決めて効率よくしてくれな、、、」と、、、龍二は指示をしたのである。
すべて、、自炊であり、、何でも自分たちでやるのだから、、当番をきめて、、、順番良くしないと、、、作業も出来なくなるからな頑張って欲しい。
初めての炊事なので、坂本良助の奥さんの美咲さんが手伝ってくれた。
「いいか、、、みんな、明日からは自分でやるんだからな、、もたもたするなよ」と、、、隆二はみんなにはっぱをかけたのである。。
そして、、、「いいか、みんな、、、俺は無一文だからな、、、稼げるまでは、借金でまかなって
やるんだから、、そのつもりでいてくれ、、」
「だから、、最初は牧場の手伝いが半分で、ハウス農業の準備が半分だから、、辛いけど頑張って欲しい。。」
と、、、龍二は念を押したのである。
それでも、みんなで作って食べる朝飯は旨かった。


19)仲間で作る「ハウス農業」のハウス

龍二は坂本良助の力を借りて、、、「ハウス農業」の建物を作り始めた。
良助から借金をしてという「投資援助」をしてもらい、、ハウス農業の建物の基礎工事にりかかったのである。。。
規模は1,980平方メートル(600坪)の鉄骨つくりのビニールハウスであった。。。当初は2棟立てることにした、、、
骨組みは寸法をだして、、、鉄骨会社に加工をして貰い、、、自分たちで組み立てをする方法をとってのである。鉄骨組み立てはボルト締めと溶接でやることにしていた、、、北海道に来てから龍二は良助の知人である「鉄骨加工会社」で見習いをして、技術を習得してたのである。
基礎工事の生コン打ちも習得していた。
ビニールハウスを鉄骨で組み立てるには理由があったのである。
後々の電気は「太陽光発電」を屋根に取り付けるためだった。
龍二は将来は電気は自家発電で、、、水は井戸水でという風に、、金を掛けないというか、自前で賄うことを考えていたのである。
そのほかにも、あらゆることを「経費」をなる節約して、、、安価のいい野菜を作ることを考えていたのであった。
とりあえずは、、、一番もとになる「ハウス」を作ることであり、、、其のハウスを自分たちの労働力で作ることであったのである。
それが一番の「経費」削減に通じるからであった。。。
仲間で出来ないながらも力を合わせ、汗を流して作る「農業ハウス」に意義があると、、龍二は仲間5人に言い聞かせ、、、来る日も来る日も頑張ったのである。。
そして、仲間で汗を流して働いた後の「握り飯」は旨かった。


20)毎日、汗を流して作る「鉄骨ハウス」

龍二も朝は5時から起きて、、、勝次や正一ら5人を起こす準備をするのである、、、まだまだ「18歳の少年」であり、、青年への出発時点であるから、若い仲間が起きたら、すぐに朝ごはんの支度が出来る、下準備をしておくのだった。
そして、、「おはようございます、、、」と5人が起きてくる。
「さあ、、、今日もやるぞ、、顔を洗って、朝飯の支度だ、、、もたもたするなよ」と、、、声をかけて、
龍二は朝飯を作り始めた。朝ごはんを食べながら、一日の段取りを説明したのである。
みんな、よく話を聞いた、、そして、質問をした。
現場に入ると、分からないまでも必死に動いた、、、「今日は生コンを打つための型枠を組むからな、、、力死語だ、、
朝飯をいっぱい食えよ」と、、、はっぱをかけたのである。。
「はーい、、、頑張ります、、、飯が旨いよ、、、」でぶちょの理三郎がいかにも食いしん坊らしい言葉をはいた。
「よーし、、、やるか、、、昼飯まで頑張れよ」、、、
と、、、龍二たちは「タオル鉢巻き」をして、現場に直行した。
そして、みんなで生コンを打つための型枠つくりを始めたのである、、、木材を寸法に合わせて切ったり、、敷地の基礎を打つところに砕石を敷き詰めたりして汗を流した。
お昼まで頑張ったので、、、型枠を設置し、生コンを流し込む準備はできたのである。。
「よし、、、お昼にしょう、、」と、、朝、用意してきた「握り飯」を食べた、、、おかずは良助の奥さんが作ってくれた「おしんこ、、、漬物」を摘まみながら、、、
「旨い、、、旨い。。」と食べた。
汗を流した後の食事は旨いはずである、、、龍二は思った「働いた後の飯の旨さを」知って欲しいと、、、
昼休みは、仕事を効率よくするために「1時間」を取ったのである。
慣れない力仕事の為か、、、近くの木陰で昼寝をした。疲れているみたいで「いびき」を掻くやつも。。。
仕事は若い奴が動くので早かった。
午後も慣れてきたので作業も順調にすすんだのである。。。
会社勤めと違うので、、、5時で終わりとはいかなかった、、
龍二が「自分たちの仕事だから、、、日の出で始まり、、日没で終わりだからな、、」と、、言ってみんなを励ました。
宿舎に帰ると、、良助の奥さんと賄のおばさんたちが夕食の支度をしていてくれた。
みんな「旨いなーーうまいなー」と言ってむさ、ぼりつくように食べた。
龍二の合津のもとに「ありがとうございます、、、本当に旨いです」と、、礼を言って頭を下げた。


21)農業ハウスが出来て、、、

龍二たちの「農業ハウス」も朝昼と日曜日も休まずに作り続けていた、、、6月は雨に幅られたが、頑張った甲斐があって、屋根の上の「太陽光発電施設」まで仕上がったのである。
農業ハウスの中の照明もついたので、、、夜間作業も捗った。
農業ハウスの中の設備、、「トマトは水耕栽培で」「レタスも水耕栽培」という設備も出来上がったのである。
当初は「600坪(1980平方メートル)二つの水耕栽培」なのであるが、、、売り上げに応じて増やしていく計画であったので、、、売り上げのための販路を作らねばならなかったのである。
其の売り上げに協力してくれたのが、、、昔の仇と狙われた「やくざの大畑長次郎」が現在は東京で運送会社をやっていたのである、、、龍二と二人で命がけの決闘をした中ではあったが。。。なぜか「気が合う仲になり、便りを交換していたのである。」
それで、龍二が北海道で「野菜つくり」をしていると知ると、そん販路を作り、運送までしてくれることのなったのである。。。
龍二とは相談をして、、生産する側と、販売運送する側とに分かれて共同事業をすることにしたのであった。
「農業ハウス」の次には北海道の土地に適した「ジャガイモ」「トウモロコシ」と、、外での栽培作業をはじめた。
そんな準備が済んだ頃に「夏休み」が来て、、、筑波学園の「大川学長と娘の花代さん」が、次に希望している若者をれて,やったきたのである。
龍二にとっても勝次や正一たちにとっても嬉しい出来事であった。
その日の為に「宿舎」も広げたり、、、部屋数を増やしていた。
北海道日高は冬は寒いが、、、夏はクーラーが要らないほどの涼しさがあったのである。
そして、、、何よりも良いことは「「電気代がゼロ」ということであった。
勝次や正一、、そして、、他の三人も頑張ったので快適な施設ができていたのである。
大川学長が連れてくる若者は総勢「15名」」であった。
10名は農業従事生、5名は良助の牧場で競馬育成の仕事につきたいとのことであり、、
良助も歓迎していたのである。
そして、夏休みが来て、、15名の若者がやってきた、、、北のみんなを新天地に。



22)大川学園長が娘の花代も来た、、、

龍二は待ちに待った大川学園長と花代さんが来てくれる朝は落ち着かなかった。
勝次たちに冷やかされていたのである、、、r
「やっぱりな、、先生は花代さんに「ほ」の字だったんだな、、、よかったな、、
先生、花代さんも来てくれて」
龍二は良助の牧場のマイクロバスを借りて,勝次と札幌駅に出かけた。
札幌駅についたら勝次がみんなを迎えに行ってくれたのである、、、
龍二は待ち遠したかった、、、わずかな時間が長く感じた。
しばらくすると勝次がみんなを引き連れて戻ったきたのである。。。
最初に声をかけて来たのは大川学園長であった、、、「龍二、元気そうだな、、会いたかったよ」
「学園長、、、ご無。、沙汰しております、、この度はすいませんでした、無理をいいます。。」と、、龍二は挨拶をしたのである、、そして、、、
「花代さん、しばらくでした、、、元気でしたか、、、よく来ましたね」と、、言いながら、
一緒に来た学生たちに挨拶をして、、車に乗る様に指示を出した。
勝次が説明をしながら乗り込んできたのである。。
「勝次、、、みんなの乗ったかな、行くぞ、、、」と、、日高にむかった。
日高についたら正一たちが出迎えてくれた。
新しく出来た宿舎に案内して、、、先輩らしく正一が「大広間」「個室」を見せながら説明をしていたのである。。
学園長と花代さんは特別室で、、学生は二人づつの部屋であると説明すると、、
勝次が「学園長たちの部屋は龍二先生が特別、愛情をかけてつくっていましたよ、、、」と、、
付け足した。い
すると、、、学園長が「おれの為ではないな、、、それはちがうだろう」と、、謎めいた言葉をはいた。
そんな話をしながら、、みんなお広間に集まった。
そして、龍二が世話になっている坂本良助を紹介したのある。
それから、お互いがあいさつをした。


23)久しぶりの仲間同士、、恩師との再会、、、、

龍二は大川学園長との久しぶりの談話に花が咲いた、、、そして、娘さんの花代さんとも会話が出来たので嬉しかった。
現在、一緒に仕事をしている勝次や正一からはひやかされていたのである。。。
「今回は龍二先生が一番、楽しみしていたよ、、、何しろ、花代先生に会えるとな、、、あはあはあは、、、」と、、それを聞なた仲間が全員で聲ただかとわらっていたのである。
そして、、「龍二先生、、、この際だから、プロポーズしなよ、、遠慮しないで、、、北海道で一緒に住んでくれたら、、俺たちは嬉しいんだけど、、、」
そんな話を聞いている花代は、一人で顔を赤らめていた、、、
「そうか、、、そうだったのか、、、おい、龍二はどうなんだ、、」と、、大川学園長が尋ねたのである、、、本当は知ってる癖にと、勝次たちは思い。。。
龍二先生も言い出せないでいるので、、、勝次と正一が謎をかけたのであった。
そし、、坂本良助もいってくれたのである。。。
「決まった、、今夜は二人の婚約パーティと、みんなの歓迎会を楽しもうではないか、、、アはあはあはだな、、、細かい打ち合わせは後にして、、、今夜は愉快だ」、、
と、、、良助はもう、二人の結婚が決まったように振舞っていた。
「おい、、龍二、同級生で可笑しいかも知れないが、、、俺が媒酌人をしてやるからな」
という話まで弾んだのである。
「良助、話が早すぎるよ、、第一失礼だよ、、花代さんに承諾も貰わないで、、」
と、、、照れくさそうに龍二が言ったんであるが、、、
大川学園長が「龍二、よろしくたのもよ、、、こんな娘でよかったら貰ってやってくれ、、」と頼まれてrしは花代も満更では無く、、うつむいてにこにこしていた。

24)龍二と花代の婚約、、、、

北海度での龍二の日課は忙しかった。そして、、龍二は以前より花代に厚意をよせていたのである、、、
周囲の人間は生徒までも知っていた。今回の婚約の話は遅かったぐらいだった。
坂本良助などはもろ手を挙げて歓迎したのである。
次や正一も、、他の三人も大賛成だった、、、、婚約の話はとんとん拍子に決まり、その晩は歓迎一色にそまったのである。
大川学園長などは余程、嬉しかったと見えて、心から酒酔いをしていた。
龍二も良助もみんな酔ったのである、、、、
しかし、龍二たちは朝食の時間にはいつものように行動して作業についていた、、、
そして、、大川学園長や花代さんを引き連れて、学生たち15名に農園ハウスと、作っている野菜をみせていたのである。。
それを見た大川学園長は唸った。
「見事だ、、、龍二、よくここまで頑張ったな、、、、」
「これを見て安心したよ、、、お前に生徒たちを預けられるよ、、、そして、花代もな、、宜しく頼む、、あはあはは、、」と、ご満悦だった。
ところでハウス農業のことはよくわかったが牧場の方も案内説明してくれと言われて、、、良助に頼んでやってもらったのである、、、
牧場の施設は近代的であり、馬の育成から調教まですべてそろっており、、大川学園長は安心した
これで、花代の結婚式だけ済めば、、親として一安心だったのである、、男親ひとつで育てた学園長はあの世の妻に、、、報告が出来るとひとり、、そっと、目がしらをぬぐった。。。
そして、、、あはあははと、、一人満足していたのである。。。
北の新天地でのいい朝であった。


25)大川学園長は満足だった、、、

龍二と花代は大川学園長の前で、仲間たちの居るところで婚約をしてのであった。そして、良助の媒酌人も決まり、日取りを決めての結婚式となったのである。。
花代の希望で「冬の結婚式」が決まったのであった、、、雪の中での純白の結婚式を願ったのである。
今年の冬休みと決まった。
北海道の生徒たちの見学実習も終わり、大川学園長と花代たちはかえっていったのである。。。
花代の心には明るい嬉しい花が咲いていたことだろう。
龍二たちは仲間たちが帰った後は忙しかった、、、野菜の収穫もあり、、東京から来た「大畑運送」(大畑長次郎の経営する会社)のトラックに積み込む仕事がこの秋からふえてのであった。
ハウス農業の以外の「ジャガイモ」「トウモロコシ」の収穫もいそがしかったのである。
しかし、龍二も勝次たちも汗だくになって、泥まみれになって働いた。
大畑運送の長次郎社長も農園まで来て、手伝ってくれていたのである。。。
その晩は泥まみれになった体を、牧場の大浴場でみんなで洗い、温めた。
みんな裸の付き合いであり、、長次郎社長の入れ墨を珍しく眺めていたのである、、、龍二が、、「凄いだろう、、
この人は昔は怖い人だったんだよ、、」と笑みを浮かべて昔話を少しだけしたのだった。
「ところで、、先生、花代さんと結婚したら、どこに住むの、、」というから、、、
龍二は「みんなと一緒に、、ここの宿舎に住むから宜しくな。。。」
長次郎社長が「へえーー結婚するのか、、、俺も呼ぶんだろうな、、、」と言われて、、、
「勿論だよ、、、早めに日時は知らせるから、、宜しくな」と、、、裸の付き合いは笑いに包まれて、湯気の中に消えていった。
風呂を出たころには大広間に食事の用意がしてあった。
長次郎社長が来ていたので「ジンギスカン鍋」が用意されていたのである、、、良助も参加して、まるで「収穫祭」ように、賑やかだった。


26)北の新天地の幸せが、、、

龍二は北海道日高に来て、、、自分の望んでいる人生道が開けていくことに幸せを覚えていた。
大学時代に事件を起こして、、「懲役10年の実刑」を言いわたされた時にはお先真っ暗であり、、絶望感を味わった、、、しかし、それも仕方のない人殺しであったのである。。
古いかも知れないが「父の仇」というか、自分の父親を助けるための「やくざとの抗争」であった、、
龍二自身が我慢すればよかったのであるが、、、まだ、龍二も若く、、血の気が多かったので、後先を考えずにやってしまったことであった。
その時に関係したやくざが「大畑長次郎」で、、、今は無二の仲間になっていたのである。
そして、服役を済ませた後に、何も言わずに迎えてくれたのが大川学園長であり、、
今も子弟の関係を保ち、、娘の花代までも嫁にしてくれることになった。
更に大学時代の友人である、、坂本良助も過去を気にせず、、快く受け入れてくれたのであるから、、、龍二は幸せだった。
大川学園時代の教え子たちも慕って、、、龍二のハウス農業に参加してくれていたのでる。。
良助の歓迎する「ジンギスカン鍋パーティー」は涙が出るほど嬉しかった。
龍二は皆の顔、仲間の顔を眺めて、、一人一人に感謝をしていたのである。。。
「おい、、、龍二、お前は幸せ者だよ。。。こんないい仲間にかこまれて、、
羨ましいよ、、、」と。、酒が回ってきた長次郎が大声で叫んだ。
北の新地には笑いが幸せが渦巻いていたのである、、、、


27)龍二は仲間に祝福されて花代さんと夫婦に。。。

龍二たちは夏が過ぎてから、勝次や正一たちも仕事に慣れたので、ハウス農業も順調に進んでいった。ハウス農業以外の「じゃがいも」と「トウモロコシ」の生産も進んだので、耕作面積を増やしていった。
来年の春からはつくば学園から「10名」の増員もあるので、、その準備もすすめたのである。良助の牧場へも「5名」が参加するので、龍二としては忙しかったのである。
そして、年が明けての正月に「花代」との結婚式もあるので、その準備でもやることが多かった。
仕事が終わってのお風呂の中で勝次たちが、、、
「先生、、、あと半年だね、、花代先生が来たら急がしいから、、、準備を万端にしてよ、、、手伝うことがあったらいってよな、、」
と、、冷やかしながら、心配をしてくれた。
勝次たちも喜んでくれたいた、、、「花代先生が来て来ると、、宿舎に花が咲いたみたいでいいよ、、、俺たちも嬉しい」と、、、
風呂から上がると大広間の食堂に良助が待っていた。
「龍二、、、いよいよだな、、、あと半年か、早いな、、、準備はいいか、、」
と、、心配してくれていたのである。
毎日、毎晩であるが、、龍二と花代さんの結婚式の話題で花が咲いていた。
そして、1月が来たのである。筑波学園の冬休みに、大川学園長が娘の花代を連れてやってきた。
龍二は勝次を連れて札幌駅まで迎えに行ったのである。
二人を迎えた龍二は笑顔でいっぱいの出迎えだった。日高の龍二たちの農園ハウスにつくころには二人の結婚式を祝ってくれるかのように、雪が降りだしてきた。
龍二は心の中で呟いていた、、、「これで、純白の白い結婚式が出来る、、」と、、、、心が躍った。
日高の農園道に入るころには、、、まるで「シルクロード」を走っているように、道が白く染まっていた。
龍二たちの車が宿舎の前についた時には、、、坂本良助夫婦と農園の仲間たちがで迎えてくれたのである。
大川学園長と花代さんが車から降りると、、、「おめでとうございます、、待っていました、、、」と、拍手と仲間たちの笑いがあった。
「龍二、花代さんおめでとう、、、花代さんが願ってた雪が降ってきたよ、、、素敵な結婚式になるな、、」
良助が心から喜んでくれたのであった。
「龍二、、、あと二日だな、、、お正月に結婚式だよ、、今年はいい年になるな、、俺も凄く嬉しいよ」と、、、

そして、結婚式の当日がきたのであった。
龍二の結婚式をみんなが祝ってくれてるようだった。大川学園長は嬉しくて、初めから終わりまで涙いっぱいの結婚式であった。
坂本良助夫妻も媒酌人を務めながら、、嬉しさのあまりに「お祝いの言葉」を忘れるほどに喜んでいたのである。
敵同士であった大畑長次郎も東京から、前日に来てくれて、諸手を挙げて喜び、祝ってくれた。
勝次と正一たちがお祝いの言葉を述べてくれた、、、
「龍二先生、、、花代先生おめでとうございます、、、幸せになってください、、、花代先生、きれいだよ」と。。。
何よりも嬉しい言葉を送ってくれた。


28)やくざ先生の青春祭り

神宮寺龍二は春にやってくる仲間たちを待って、その準備に取り掛かった。
龍二はつくば学園に来てから、、大川学園長に拾われたから、、夢中で自分なりに先生らしくなろうと生きてきたのである。。
学園長に恵まれて、、娘の花代さんにも会えて、結婚まで出来て、、教え子たちにも慕われて、一緒に柔道を通じての子弟愛にも恵まれ、、良助との友情愛にも育まれてきた自分が幸せ過ぎていいのかと考える時がある。
そして、仇と狙われた元ヤクザの大畑長次郎とも無二の仲間に慣れた我が人生を疑う時があるのだった。
与えられた幸せを大事に生きて行かないと罰が当たるようなきがした。
今度、やってくるつくば学園の生徒たちを温かく仲間として迎え入れをしないと、、と、思いながら勝次や正一郎たちと話し合いをしていたのである。
龍二は花代も入れて、、大山勝次、小山正一、山田三郎、花山悟、愛嬌のあるでぶちょの大久保理三郎を集めて伝言を託した。
「来年の春にくる15名のつくば学園の仲間たちには頑張ってもらうために、、
これから農業ハウスと宿舎をしっかり作らないとな、、頼んだぞ、、
勿論、専門の大工さんたちも手伝ってくれるから、、気を抜かずに、体を大事にな、、それまでは寒い冬だから風邪ひくなよ、、」
と、、幸せいっぱいの龍二は伝えたのだった。
「先生こそ、、頑張りすぎて体を壊さないようにな、、」と、、勝次たちに冷やかされていたんである。
「それからは今度来るうちの5名は牧場で働くのだから、、面倒を見てな、、
農業仕事と違うからといって、仲間外れは駄目だから」
と、、念を押した。


29)龍二大いに羽ばたく

神宮寺龍二は北海道日高に来てから、、ハウス農業に励んだ。
農業などしたことのない龍二が日高で農業を営む農家で1年間、実習生として最初から学んだのである。
やりだしたころには悩んだ龍二であった。
土いじりが大変だということを、しみじみ味わったのである。。畑仕事とか田んぼの稲つくりが傍から見れば難しいとは思わなかったのであった。
しかし、やってみて、、「これは偉いことを始めたな、、、」と、少しだけど後悔したのである、やめるわけにはいかなかった。
龍二はふんばったのである、、半年も過ぎたころから体が動く様になった。
そして、友人の坂本良助の助けも借りて、、何とか「百姓」に近付いたのである。
良助の友達の、、工務店経営の大下肇にも手伝ってもらい、、鉄骨ハウスを作ることもできたのであった。
勝次や正一たちも参加して、、、労働力が増えたので、鉄骨ハウス造りも捗り、工務店経営の大下肇の力を借りて、、宿舎もできたのである。
鉄骨ハウス以外の畑仕事も、、良助の農業経営の友達、南構造の紹介で日高農協からの借り入れも出来た上に「農機具、、耕運機など」も購入が出来たので、畑仕事も捗っていた。
そんなこともあって、、今回の二期目の工事は宿舎建設も、鉄骨ハウスの建設も進み、、来年の4月に入ってくるつくば学園の仲間たちが参加するまでには間に合う期待が持てたのである。
そして、今度来る仲間のうち、5名は牧場勤務であり、、その仲間の宿舎も間に合いそうであった。
牧場勤務の仲間は「馬の調教」が主体での競走馬の飼育であり、、良助も楽しみにしていたのである。
龍二の夢は膨らんでいった。
そして、、野菜の運搬を担当している、大畑長次郎との合同会社を設立して、総合的な生産運搬のシステムを構築して、
効率のいい経営をして行こうと考えていたのである。

30)坂本良助の牧場でトラブルが起きた、、、

良助の経営する競馬の飼育調教をしている中でのトラブルだった。良助の牧場で設備投資の借入金があったが、、、その借入金のうち仲間からの投資金があったのである。。
その投資先の経営が悪化して資金回収を迫られたのであった。悪いことに、その仲間が反社会勢力関係の金融会社からの借り入れをしていたのであった。
そして、友達の資金回収の責任が良助にまわってきたのである。
突然に予定外の資金手当てなので、、良助は困った。
その金額も「2000万円」だったので、慌てたのである、、、
反社会勢力の「日高興行(株)」が強硬に返済を言って来たのであった。日高興行(株)は北海連合会の傘下であり、地元では暴力的なやくざ組織である。、
良助が手塩にかけて育てた競走馬であり、、将来、夢のある馬だったのである。
相談を受けた龍二も困った。
投資してもらった資金なので、返済の猶予が貰えないかどうかを聞いてもらったのであるが、、、
返ってきた言葉は、、、「ふざけるな、、、遊びで金貸しをしてるわけじゃぁないんだ、、、」と、、無下に断られた。
良助は投資してもらった友達と、金を寄せ集めた、、龍二も少ないけど協力したのであった。
とりあえず「金利分」だけで、返済の時間を延ばしてもらう交渉をした、、、
そして、、一か月だけ待ってもらったのである。
龍二はいつも良助には助けてもらっているので、なんとかしなくてはと、、
東京の大畑長次郎にも相談したのであった。彼は東京から飛んできてくれたのである。
偶然にも「北海連合会」の滝内大造会長を知っていたので、大畑長次郎は会いに行ってくれた、、、そして、返済期間をのばしてもらったのである。。
「ありがとう、、長次郎、、本当にありがとう、、、よかったよ、、」
龍二も良助も感謝した。
その話をまとめた長次郎は、その晩に荷物をトラックに積んで東京へもどったのである。
その晩に龍二の嫁さんの花代が、、言ってきたのあった。
「龍二さん、、父から2000万円を送ってきたよ、、、それで返済すようにと言われたから、」
「ええー、親父さんが、、、ありがとうな花代、、親父さんに連絡しないと、、」
急いで龍二は電話をしたのだった。龍二は花代に感謝していた、、、親父さんに相談してくれて助けられたのである。。



31)日高に春が来る日、、

良助にも心から感謝もされ、お礼も言われた、、、全て、大川学園長のお影だった、、龍二は流石だと思ったのである、、、そして、今の仕事を頑張って、親父さんには返さないといけないとおもったのである。
借金を還した龍二と良助は誓った、、、農場も牧場経営も頑張っていくことを、、、
また、運送に携わる長次郎もやる気になり、、燃えたのであった。
仲間の勝次、正一、三郎、悟、理三郎たちも龍二の約束をしたのである。
そして、新しい仲間がつくば学園から来るまでに新しい、農業ハウスと宿舎を建設すると毎日、朝から暗くなるまで作業に励んだ。
良助の牧場の社員たちも手伝ってくれたので、工事ははかどったのである。
龍二たちは春が待ち遠しかった。
早く春よ来いだったのである。
そして、4月がきた、、、新しい仲間が来る日に龍二は花代と勝次を連れて札幌まで迎えに行った。
今回も15名と大川学園長が来るので「マイクロバス」で、、、
札幌駅には花代と勝次が出迎えに行き、、龍二は車で待った。
新しい仲間たちが駐車場に現れた時の嬉しさは格別だった、、これから始まる日高での新しいドラマが目に浮かんだ。
龍二は大川学園長に真っ先にお礼を述べた、、「親父さん、、ありがとうございました、、良助のも心から感謝していました、、本当に何から何までありがとうございます。。」
と、、言いながら、新しい仲間を車に誘導したのであった。
日髙に着いたら、良助を始め農場の仲間が、牧場の社員たちがみんなで出迎えた。
良助も大川学園長に駆け寄って礼を述べたのである。
そして、、みんなで大広間の食堂に集まった。
北海道日高の夜は真っ赤に燃えた、、若者の血潮で、龍二たちの熱気で燃えたのである。、、、、












































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