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森の石松
森の石松
しおりを挟む〇森の石松と女渡世人「華さくら」
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1)森の石松、、、大酒のみで喧嘩、、女に惚れっぽい。。
三州半原村(遠州森町村)出身と言われている。
石松は孤児で、侠客の森の五郎に育てられ、、、侠客同士の喧嘩で上州で人を斬り、清水次郎長に」かくまわれ、その子分になった。
1800年7月18日に清水次郎長の子分として幕末に活躍した侠客。
その上州にいたころに博打場で知り合った、意気のいい女、、、女渡世人「華さくら」だった。
女渡世人「華さくら」は中国生まれの、日本」人にはいない背の高いいい女だった、、、そんないい女に出会った森の石松は博打の打ち方も気持ちよく,掛けていたし、勝ちっぷりも負けぷりも、胸がスカッとするようないい女なのだ。
もともと、女には惚れっぽい石松なので、、、女渡世人「華さくら」には上せてしまった。
華さくらが「半」とかければ「半」と、、、「丁」とかければ、、その通りに、、
まったくでれでれに。鼻の下を伸ばしているのだった。
結果的には「華さくら」が勝負に勝ったから、石松も勝てたようなものだった。
博打を上がってから、、、石松は、、
「さくらねえさん、、、いっぱい、ご馳走させてくれないかな、、、あんたのお陰で勝てたのでよ、、、ありがとうさんだよ」
と言って、、博打場の近くの縄のれんに誘った。
上州大前田村の冬の空風は体にや、、、けに冷えた。
誘われた、女渡世人「華さくら」も肌身に応える寒さで、一杯飲んだ。
「さくらねんさん、、、強いね、、、恐れ入ったよ、、、ああ、、遅れたけど、おれっちは森の石松っていう、、、風来坊さ、、、一本獨古の無宿者だ。。。
宜しくな、、、」
酒を飲みながら横にらみされた、、、石松はぞくっとした、、、
まるっきり、、、森の石松は惚れたようだ。
「私は無宿人「華さくら」だ、、、宜しくな」
流暢な日本語で返ってきた。
その華さくらは言った、、、「私は中国人です、、、よかったら、宜しく」と、、、、
なんとなかく、石松とさくらは気が合って酒を飲んだ。。。
旅の空の無宿人同士だ、、、明日の行く先のあてのない二人だったが、、上州の夜空はきれいだった。
2)森の石松「無宿人で侠客といわれる男」を斬る
上州大前田一家の賭場で、、女渡世人華さくらと一緒に博打を打っていた、、、石松は博打でのいざこざから、、、
無宿人権蔵を斬ってしまった、、、大前田一家Toulの賭場での喧嘩なので、大前田一家が始末をつけてくれた。
誰が見ても聞いても、、無宿人権蔵が悪く、、、その時に「壺」を振っていた、女渡世人華さくらに文句をつけたので、たまらい、、、同じ博打場にいた、森の石松が、、、
「この野郎、、、表へ出ろ」とばかりに、、lてい
森の石松はケチをつけた「無宿人権蔵」を引っ張り出していた。
そして、誰の止める暇もなく、斬りあいが始まった。
喧嘩をしたら、森の石松は半端でなく、めちゃくちゃ強い。。。あっという間に無宿人権蔵を斬ってしまった。
後は大前田一家の賭場なので、、、
「石松さん、、、この場はひいてください」と言われて石松は引き下がった。清水
この賭場に偶然来ていた、、旅途中の「清水次郎長」が、、、
「役不足ではございますが、、、清水港の次郎長と申します、、、よかったら、この喧嘩を預からしていただけますか」と申し入れて、、、博打場の大前田一家の貸元に承諾を貰った。
「いいでしょう、、、清水の貸元に預けましょう」ということで、、落着したのだった。
森の石松は清水次郎長と一緒に清水港へ向かった。
そして、女渡世人華さくらもついていった。
3)森の石松、清水次郎長の子分になる
上州のちょうは喧嘩で、後始末をしてくれた清水次郎長に借りが出来た森の石松は、清水港までついてきたのだった。
喧嘩の元になった、女渡世人「華さくら」も一緒についてきた。
清水一家に着いた、、、森の石松は、、、
「清水の貸元、、、この度はありがとうございます、、、なんとお礼を言えばいいのか、、、」
と、、困っている石松に次郎長は言った。
「お前さん、、、行くところのない旅がらすだろう、、、俺んちに草鞋を脱いで、、、考えればいい、、」
と、、、謎を掛けてきた。。。
喧嘩は強いが、、、少々、頭が悪い石松は考えた。
石松は、、、「あっーはん、、、謎を掛けてきたな、、、」
「俺んちに子分になれとか花どうしようかな、、安売りはできねぞーー」
と、、、考えた。
石松は考えた振りをして、表へ出た、、、
「少し、外の風に吹かれてきますわ、清水港の海風を嗅ぎながら。。。」
と、言ってから女渡世人華さくらの宿泊している旅籠へ出かけていった。
そして、石松は女渡世人華さくらに相談したのだった。
清水次郎長の子分になるか、、、ならないかと、、、
女渡世人華さくらは、、、
「馬鹿だねー、、、あんたは人を見る目がないようだ、、、次郎長さんなら、、、いい親分だよ、、、」
と、、言ってくれた。
4)森の石松、「いい子分で売り込む」
森の石松が女渡世人華さくらのところから戻った。
「清水の貸元、、、俺な、、、あんたの子分になってやるわ」
この会話を聞いていた、大政と小政と桶屋のお仁吉が、、、、
「あの野郎、、、いい気になって、、、子分になってやるわだって、、、ふざけやがって。。。」
そしたら、、、大政が「親分、なんていうかな、、、ちょっと気になるな」
といった、、、小政も「そうだ、、、そうだよ、、、聞こうじゃないか、、、面白や」
などと、、ふすま越しに話していた。
清水次郎長は答えた、、、
「石松、、、おめえっちみたいな半端野郎は、、、、、、俺の子分が丁度いいんだよ、、、」と、
笑いとばした。
「石松、、、俺も半端者だ、、、だから、お前と俺は、親分子分で釣り合いが垂れるんだよ」
と、言われてみればな、それもそうだと納得した。、
森の石松も、、、理屈はどうでも、、いいや、、、えーい、、めんどうくさいや、、、、
兎に角、あんたの子分な成るわ、、、盃出してや、、」
ということで子分になった。
襖の陰の三人が顔を出した、、、、、、
「へえー、、、今度子分になった石松か、、、俺たちより後から子分に成ったから、弟分だな。。」
「おい。。。石松宜しくな、、、」
「俺が大政、、、俺が小政だ」
そして「俺が桶屋のお仁吉だ」と、、、、
清水一家はまだまだ、子分が少なかった。
三人の紹介があったら。。。「槍を持っら大政で、一番の兄貴分っだった」
「居合斬りの小政、、、山椒小粒はピリッと辛い」
「鬼より怖い桶屋のお仁吉だ」と、、、喧嘩の時には棺桶を担いでいくという覚悟での殴り込み。
そんな威勢のいい、仲間が出来た。
石松は「喧嘩は誰にも負けないぜ、、、ドスを持てば怖いものなしだよ、、、」
そこへ、女渡世人華さくらが入ってきて、、、
「大酒のみの、お人好し、、しかし、馬鹿は死んでも治らないほど、、、女に惚れっぽい喧嘩好きな男だよ、、」
と、、付け足した。
5)武井のども安「武井安五郎との因縁、、、清水次郎長」
武井安五郎は甲州一円から駿河に掛けての大親分であり、。その子分数も3000人をくだらなかった。子分のなかには弟分で「黒駒の勝蔵」がいた、、、武井安五郎の死後は、その縄針を継承している。また、武井安五郎と清水次郎長は富士川の水運利権でぶつかり、抗争を切り返している、、安五郎の死後も黒駒の勝蔵とぶつかっている。
「武井のども安、鬼より怖い.どどっとどもれば人を斬る」と、、、
「甲州は御坂のふもと、、右に大菩薩、左に登って一里二里、、、」と言われた武井安五郎であった。言葉にどもりがある、、、「武井のども安」とも言われている。
生まれは甲斐の国東八代群武井村で、、生家は名主の家柄であった。
その後、武井村で博徒一家阿賀を構えたが、、、津向文吉と抗争を繰りかえして、、捕縛になった。
そして、流刑になり、伊豆新島に流された
黒船来航のどさくさに紛れて,仲間7人で島抜けをする、、、、
その後、故郷に帰り博打として復帰するが、関東取り締まり出役や石和代官所に追われ捕縛される。そして、牢内で病死している、、、52歳であった。
武井の安五郎の死後は、その縄張りをそっくり、黒駒勝蔵が引き継いでいる、、、
黒駒の勝蔵が納めても、、、富士川の水利権利で清水次郎長と争いが続いていた。
武井の安五郎が甲州一円を縄張りとしていた頃に,、、その縄張りの内の「遠州秋葉の火祭り」が行われ、、、その時に勧進賭場が開かれるのであった。
その勧進賭場に増川仙右衛門の父の仇である、、伊豆の金平の子分である,竹之助、民五郎、力松ら17人に父が切り殺されたのであった、、、そのうちの竹之助、民五郎が武井の安五郎にまぬかれていたである。
そこで計って、、清水次郎長が味方して、、、増川仙右衛門の父の仇を討つことにしたのであった。次郎長の計が旨くいって、仇を討てたのであった。
そのころに、甲州三井,祐天、国分の博徒連合と、、、甲斐駿河の博徒連合の抗争が起きて、、、
甲州の三井卯吉が甲州代官の十手持ちであったため、清水次郎長が捕縛の対象となり、、追われる身となった。
そこで次郎長はお蝶を連れて逃亡の旅に出た、、、付き添うものは「森の石松」ただ一人であった。
6)保下田久六への報復
清水次郎長がお蝶を連れて逃亡の旅に出ていた時に、、、一緒の森の石松が困った。
そんな旅で最初会ったのが、名古屋の勝五郎であった。
以前、旅中で清水港の次郎長一家に世話になったことがあったのである。
勝五郎は「正直は人の宝」とか、、、「人として生まれたからには,恩がある、、義理がある」と常日ごろから言っていた。
旅先で次郎長一家の貸元とお内儀、、、そして、子分の森の石松と出会い、、、知らんふりは出来なかった。今は貧乏していても、何とかしなくては思った。
勝五郎は貧乏長屋に連れて行っても、三度の飯ぐらいは何とかしなくてはと、、、働いた。
しかし、お内儀の具合はよくならなかった、、、
そこで勝五郎は、昔、世話をした「保下田の久六」を訪ねた、、、今は十手持ちとなり、、亀崎代官の舎弟分になり、、子分も300人ほどに増え
そんな保下田の久六は尋ねてきた、、、小川の勝五郎と森の石松に飛んでもない罵声をあびせて返したのである。
昔、散々次郎長親分に世話になっておきながら、、、たとえば、、、次郎長親分のお内儀からも「25両」という金子を出してもらい、助かったことも、、、浅見村長兵衛の賭場で負けが嵩み、、、いっちもはっちもいかなくなった時に、、、その博打場にいた次郎長親分に「300両」を助けてもらい、、その上に「100両」を出してもたった恩義を忘れて、、、
言ったことが凄い、、、
「あの恩義知らずの次郎長なんかにはびた一文だせねえーと」更には「あの兇状持ちが来たら、ふんじばってやるから、、、そういっとけ」ときたから、、、堪らない。
森の石松が頭に血が上り、、、今にも保下田久六に飛びかかろうとしたのであるが、、、
小川の勝五郎が止めた。
今はまずいと、、、次郎長のお内儀が患っている時だから、、、「石松さん、、、辛抱して欲しい
我慢して欲しいと、、」止めたのであった。
森の石松も耐えた、、、
そして、保下田久六の屋敷を出たのである。
「糞野郎、、、今に見ていろよ、、、久六のやつ、、」と半ば、怒鳴りながら、小川の勝五郎と帰り道を歩きながらボヤいていた。
そんな帰り道に「深見村の長兵衛」さんと会ったのだった。。」
7)深見村長兵衛の義理恩義
深見村の長兵衛と出会った小川の勝五郎が清水次郎長のお内儀が病で倒れて、自分のぼろ屋で面倒を見てる話しをすると、、、すぐに長兵衛が籠の手配からして、自分の家に連れていき、、、医者まで読んでくれた。
そのお陰で、次郎長はお蝶の看病が出来たのである。
しかし、長旅がたたり、お蝶の体はまいっていた、、、看病の甲斐もなく、世話になっている深見村長兵衛じっとの家で亡くなった。
一緒に旅してきた森の石松の見えぬ片目の涙が溢れ出たのである、、higataい、小川の勝五郎の目にも涙だった
次郎長はじっと我慢していたが、、、腹の中では手を合わせて泣いていただろう。
それから日が立ち、、、保下田久六の手下が代官所役人を連れてやってきて、、、次郎長が居ないとなったら、長兵衛とお内儀を捕獲して代官所に連れて行ったのである。
お内儀は帰されたが長兵衛は牢屋に入れられ、、拷問された。
しかし、長兵衛さんは次郎長が逃げたことを一言もしゃべらなかったのである。。そして、攻め殺されてしまった。
深見村長兵衛は男の義理を貫き死んでいった。
後で長兵衛のお内儀から話を聞き、次郎長は涙を流して、、、仇を討
つことを誓った。
そして、、、保下田久六を討つ機会を狙ったのである。
作戦を立てて、、次郎長は死んだふりの芝居までして、、保下田久六の隙を狙っていた。
次郎長は久六に報復をするために、、森の石松、八五郎、万平、喜三郎、万吉、平蔵の6人を呼びよせ、
途中で大政,相撲常、大野鶴吉,代吉を呼んで、、、保下田久六を討つための祈願を金毘羅権現に参拝をしたのである。
安政6月19日に半田市乙川吉野町で清水次郎長と保下田久六が喧嘩をしたが、、、次郎長が勝った。次郎長は大政、小政、森の石松、小川の勝五郎らが奇襲をした。(乙川の決闘)
8)保下田久六を亀崎の竹垣三郎兵衛代官を討つ、、、、
清水次郎長は深見村長兵衛の仇を討つために自分の偽の葬式を出して、保下田久六たちを欺き時を伺っていた。そして、代官竹垣三郎兵衛の下屋敷を襲った。
次郎長は、、「駿河の国 有渡郡 清水湊、山本長五郎推参,兄弟分、深見の長兵衛の仇だ、代官竹垣三郎兵衛並びに保下田の久六、地獄に送ったやるから、覚悟者しゃがれ」と、、、
清水次郎長は子分たち、、、大政、小政、増川の仙右衛門、森の石松、大瀬半五郎、奇妙院常五郎、法院大五郎、大野鶴吉の9人を連れて乗り込んだ。
代官を大野鶴吉が「地獄は落ちろ、、くされ外道があー」と言ってた竹垣三郎兵衛の首をはねた。
保下田の久六が奥川堤へ逃げたので、森の石松が追いかけて首をはねた。
二人の首は奥川堤の松原に並べて「さらし首」にしたのである。
そして、仇の二人を打ち取ったのである。
二人を打ち取った後で、、次郎長は子分たちに頭を下げた。
「仇を討てたのは、、お前らがいてできたの、あるがとうな」と、礼を述べた。
そして、東海生まれの大政と鶴吉が道案内で、街道道を外れて獣道を伝わりながら逃げたのである。
それから代官屋敷を襲ったのであるから逃げた、、、山中を5日間も食べるものも食べずに逃げた。
逃げる途中で「今川義元公」の墓に出たのであった。
次郎長はそこで腹を切って自決ると言い出したが、、子分たちに止められ、さらに山中を逃げて、
地蔵小屋にたどり着き、みんなで休んだ
疲れていたのでねこんでしまったのである。
そこへ地元の町役人が来た、、、通報されるかと思って話してみると、、、昔、次郎長が助けた者たちの仲間であるといい、、、次郎長さんには恩義があると言い出した。
昔、仲間の百姓が農地を取れ、娘が身売りするところを、、、次郎長親分が「100両」の金を渡してくれて助けてもらったと。。
「情けは人の為ならず」と言って、、其の恩義に報いて、難儀している次郎長親分に「200両」の路銀を渡して逃がしてくれたのである。
そして、、町役人の庄左エ門が牛窪から天竜え、、、え川の「本玉の為五郎」という貸元のところまで
逃がしてくれたのであった。
其のあとは小田原の相模屋政吉のところにやっかいになり、、、全国の親分衆に引き取られていった。
そのあとはそれぞれ大前田栄五郎,新門辰五郎、小金井小次郎の三、人に助けらて、清水次郎長と森の石松は小金井の貸元、大政と大野鶴吉は長岡の国定忠治、小政は新門辰五郎、大瀬半五郎岡安親分が預か妙院常五郎と法院大五郎は小田原に女がいたのでそこに行き、、、増川仙右衛門は商売込みで小田原に残った。
代官殺しの後始末は、兄弟分の寺津の間之助が身内から身代わりを立て、自訴させて、一見落着となった。
7年が過ぎて、清水次郎長は「東海道一の大親分」になったのである。
清水港へ戻った次郎長は森の石松を代参に立て金毘羅権現に行かせることにしたのである。
9)金毘羅権現代参への旅立ち
森の石松は次郎長親分に呼ばれた、、、そして、「石、、ちょっと、使いに行ってきてくれ。。。」言われ、「へえ、、、どこまですか」と、、聞いたら、、「讃岐の金毘羅権現までだと」と言われた。
「随分と、遠いですね、、」
「いやか、、、」と次郎長に言われたので,、、「いえ、、、行ってきますよ」と石松は答えた。
「この前の、保下田の久六と竹垣三郎兵衛を討取ったお礼参りだ、、行ってくれるか。。」
次郎長親分に言われて、嫌だとは子分なら言えなかったのである。
そして、石松は金毘羅権現の代参位に行くことになった。
しかし、次郎長親分から条件が出たのである、、、「いか、石、、、代参から帰るまでは、酒は一滴も飲むなよ、、それから喧嘩と博打も駄目だ、、、女買ってもいい、、出来るか、、」と言われ、
石松は答えた、、「出来ません、、、この使いは他の者にお願いします」
「酒も飲んじゃダメ、、、喧嘩も博打もするな。。」では出来ません。
「博打打から、酒も飲むな、博打もするな、、喧嘩もするなでは好き好んでなったやくざ稼業だ、、、
やってられねえ、、、よってな、、」
「親分、、この使い、、すっぱりいっあん断りますので、、内には酒も飲まずにこの使い出来るやつはいるじゃあないですか、、、」
「そうか、、嫌か、、、分かった、俺の頼みを聴けねえんだな。。」
と、次郎長が怒って言うと、、
石松も頑固者で、後へは引かなかったのである。
始まった口げんかが止まらなくなり、、、「石、覚悟しろ、、お前みたいな奴は切り捨ててやるから、前へ出ろ。。。」と、、次郎長が脇差に手をかけた。
すると石松も口減らずだった「とっくに、親分の前に出てますよ、、」と言ったから堪らない。
次郎長は持った脇差を抜いた、、、しかし、目に入れてもいたくない可愛い子分の石松だ、斬れない、、困った次郎長親分の間に大政が入ってきたのである。
「まあまあ、、、親分待って下さい、、」と止めて
「石松、ちょと来い」と呼び出した。
10)馬鹿は死んでも治らない、、、石松
、、
大政に呼ばれた石松は、、、「お前は馬鹿だな、、本当に馬鹿だよ」
と言われて、、、石松は、
「馬鹿だ、馬鹿だって言わないでくれや」と、少しむくれた。
「馬鹿野郎、、、今は飲まないと言うんだよ、、、旅に出てしまえば親分にはわからないだろう、、、なあ。。分かったっか」
そして、大政に言われた、、「絶対に飲みません」というんだ。
「嘘でもいいから、、、親分には安心させろ、、、いいか、分かったな」
と、、言い聞かされた。
そこへ、女渡世人華さくらが入ってきた。
「本当に馬鹿なんだから、、、大政さん、、今度の金毘羅権現の代参に、私もついて言ってはダメかな、、、」
大政は、、、「いや、、ダメじゃないと思うよ、、、親分も女は買ってもいいといってるから、、、そうだな、、、それはいいと思う、、俺からも頼んで見るよ」と、言ってくれた。
石松は「何だよ、、、さくら、お前が一緒かよ」と、、、
華さくらは「なんだよ、、こら、、石松、お前まさか女遊びにいくんじゃないよな、、」と、背中をつねられた。
大政が「よし、、決まった」
と、、次郎長親分の前に戻った。
そして、、、次郎長親分が言ったのである。
「石、、、分かったか、、、使いに行ってくれるな、、」
と、言うと石松は「わかりました、、言われた通りに行ってきます」ということになり、、、
大政が付け足した「親分、、、さくらさんが石松に付いていってくれると言いますので、、よろしいですよね」となって、、、二人は金毘羅権現へ行くことになったのである。
「さくらさん、、、石のことを宜しくお願いします」と、、讃岐までの路銀として30両を持たせてくれた。話が決まった翌朝,快晴の桜咲く街道を旅立った。
森の石松と清水次郎長の別れになろうとは誰一人知らずの旅たちであったのである。
11)石松とさくらの旅の空。。。
森の石松と女渡世人華さくらは讃岐の金毘羅権現への代参旅に出かけた。。。
石松も気を使った、一人旅なら野宿も出来るが、女連れであるから、、、夜は旅籠に泊まったのである。
最初(一日目)は尾張名古屋で泊まり、、、二日目には河内まで足を延ばす予定で歩いた。。。
旅籠では夫婦と思われて、一つ部屋で用意をされた。旅籠も混んでいたので別々は部屋はとれなかったのである。
石松とさくらは布団を2枚しいて貰い、真ん中を衝立でしきって寝た。
「こら、、石松、変なことをしたら、あそこをちょん切るぞ、、、いいか、分かったか」とさくらに念をおされたのである馬鹿野郎、、、俺はな、、女嫌いなんだよ、、、自慢じゃあないけどな。。」
と言って、背中を向けて寝てしまった、、、いびきをかいて、、
さくらは思った、、「参ったな、、、石松のいびきが煩くて、ねれねえーぞ」と、いいたかったのである。
さくらはこれからの道中が思いやられた。
そして、大阪からは讃岐まで船旅をして、、金毘羅権現に着いたのである。
無事、石松は金毘羅権現に次郎長親分の代参を済ませて、、讃岐の宿場町で少々遊んだのであった。
女渡世人さくらと讃岐見物をして、、、岐路についたのである。
女連れもあって、女遊びは出来なかったがさくらと旨いもの食べ歩きをした。、、、
「やい。。。石松、残念だったな、、、女郎遊びができなくて、、、
やっぱり、、、遊びたいか、、、」と、、さくらに冷やかされたのである。
讃岐からの帰りは大阪まで行き、、、そこから「30石船」で、京都見物をして行こうということになった。
「さくら、、、一緒に来てくれたので、、其のお礼と言っちゃあなんだけど、ここまで来たんだから、、京見物をして行こうか、、、」ということになり、、
石松とさくらは京都見物にむかったのである。
12)30石の船旅で、、、、
石松はどちらかという「お人好しで、、、おちょこいちょいである。。」と言われている。
さくらと一緒の船旅ということもあり、、安心もしており、、春風に吹かれて「うとうと」と寝てしまった。
気持ちよく、うたた寝をしていたら、、耳元に噂話が聞こえてきたのである。
それも「やくざ者がどうのこうのだったので。」石松は寝たふりをして聞き耳をたてていたが、、、途中でその話に入って行った。
全国のやくざの親分衆の話が出て、、、石松の親分、 清水次郎長のはなしがでてきたのである。
そして、、、子分たちの話がでた「清水一家の28人衆だ」、、、其の中で誰が一番強いかという話になった。
それを聞いていた森の石松は、、その噂話の仲間にはってきたのである。。
そして、、、石松が、、「江戸っ子だってねえ、、」そしたら「神田の生まれよ。。」ときたから、、、
石松が買ってきた寿司を出して、、「食いねぇ、、食いねぇ、、寿司食いねぇ。。」が始まり。。。清水一家の28人衆の名前がでてきたのである。。
しかし、、石松がいくら聞いても、自分の名前が出てこないのだった。
そして、、、石松がしつこく聞くうちに、、寿司をご馳走になった「神田の生まれが」思い出したのであった。。。。
「一番強い男は森の石松」と、、、この話を聞いた石松は嬉しかったのであるが、、、
「しかし、あいつは馬鹿だから」さげられたにである。
これを聞いていたさくらが笑った。。。「そうたちだよな、、、あいつは馬鹿だから」と。。。。言いながら。
13)見受山の鎌太郎「28歳の貸元」この時、森の石松は「37歳」
東海道の宿場町である、草津宿を仕切っていた貸元が駆け出しであった山見受山の鎌太郎で、当時まだ28歳であった。
その時、森の石松は「37歳」である。
「酒を飲むなと睨んで叱る、次郎長親分怖い人、、、怖いその人た懐かしい、、代参すまして石松は死出の山路の近道を、夢にも知らず、さくらとともに。。。船は浮きもの、流れもの、神田の生まれどうこうと、飲みねえ、寿司食いねえ」
と、、、伏見ついて京見物をして、、、草津追分宿へ。
「義には強いが情けに弱い男の中の男」とおだてられ、、、森の石松は見受山の鎌太郎に持ち上げられていた。
そして、清水次郎長のお内儀、「お蝶」さなった時に、自分は駆け出しで義理が出来なかったので後悔している、、、
自分の子分たち5人が清水湊の清水一家に世話に成ったので、、、今、その義理を返させてもらいます。と、、、
見受山の鎌太郎が石松に頭を下げたのである。
自分は当時まだ、駆け出しで義理も出来ませんでしたことを詫びた。
「お蝶」さんの葬儀は盛大で立派だったと聞きます、、、集まった香典が「3112両2分」とのこと。。
自分には真似事しかできませんが、、、、、
「石松さん、、受け取ってください、、」と言って差し出された。
「御仏前御稿料、金百両、、、石松さんの小遣いに金三十両」
これを見て石松はびっくりしたのである。
石松は断った「受け取るわけにはいきません、、どうか、次郎長親分に直接渡してください」と、、言い切った。
「この金子を俺がねこばばしたらどうする、、やらないとも限らない、、どうか、次郎長親分に送るなりしてください」と、、、
見受山の鎌太郎は、、、
「構いませんよ、、、石松さんが使ってしまっても文句を言いませんよ、、どうか、納めてください」と、、言われた石松は唸ったのである。。
石松は見受山の鎌太郎の腹を見たのであった、、、「凄い、、いい親分ななるなあー」とつくづく感心したのだった。
14)都鳥一家の悪だくみ
草津追分の見受山鎌太郎に世話に成った帰り道、遠州都田村の都鳥三兄弟と出会う。一緒に旅している女渡世人
華さくらは評判の悪い噂を聞いていたので、、都鳥一家に立ち寄ることを反対した。
後で考えると「女の勘」はあたっていたのである。
その時に都鳥三兄弟は博打の負けの借金で困っていた。都鳥三兄弟は石松が見受山鎌太郎から130両の金子を渡されていたのを知っていた。
そして、言い訳の嘘をついて、、、そのうちの百両を借りたのである。返す当てのない借金であった。
困った都鳥三兄弟は、、草鞋を脱いでいた「保六の子分3人」と相談して、、、石松を殺すことにしたのである。
百両の金を貸す時にも、、女渡世人華さくらは反対した、、、「絶対だめだよ、、、その金は預かりものだよ、、、次郎長親分に渡さないと、、止めなよ」と、、、
「こら、、石松、、絶対にやめろ。。。」と、、止めたが聞かなかった。
「人が困ってるんだ、助けてやらないと、、、男が廃るよ」と、、石松が啖呵を切ったのである。
「馬鹿野郎、、、相手を見て貸せよ、、唐変木野郎」と言ってさくらは怒った。
「石松、、、私は都鳥一家には厄介にはならないから、、、と、、、旅籠を探したのである。
そして、、、石松は百両の金を貸してしまった。
都鳥三兄弟からは約束の期日になっても金を返してもらえず、催促しても言い訳を聞かされて、無駄な日を過ごしていた。
旅籠に泊まっているさくらからも言われていた。
「石松、、、やっぱり、お前は馬鹿だなぁー、騙されているんだよ」と、、、
「うるさい、、返してもらうよ、、あの野郎、ふざけやがった」と、、石松は怒って都鳥三兄弟のところへ戻っていったのである。
15)都鳥三兄弟の騙し討ち
都鳥一家に草鞋を脱いでいる「保下田久六の子分たち3人」が、森の石松と同部屋では嫌だと言って都鳥一家から出た、、、都鳥三兄弟は保下田久六の子分が親分の仇を討ちたいことを知っていたので、石松を討つ打ち合わせをしたのである。三人に閻魔堂で待つようにと、自分たちが石松を誘い出すから、そこであんたら3人と俺んち7人でやれば、いくら石松が強いといってもやれるだろう、、、
そんな相談がしてあるとは知らない石松が都鳥三兄弟たちについて、閻魔堂の前まで来たのだった。
そこで打ち合わせ通りに閻魔堂の中から、、保下田久六の子分3人が出てきて、、、
「石松、、、保下田久六親分の仇だ覚悟しろ、、」と、、斬りかかってきた。
森の石松は強い、、、「なにお、、、仇だと、、しゃらくさいかかってきやがれ、、」と、、斬り合いが始まった。
すると、、都鳥三兄弟と子分の四天王が、、「石さん、、助太刀するぜぇー」と言いながら、後ろから石松に斬りかかってきたのである。
「助太刀はいらねぇー、、、」という石松を斬ってきたから、堪らない、、、後ろからでは石松も抑揚が無かったので、、数か所を斬られた。
10人相手の喧嘩では石松も叶わないので逃げたのである。。
昼間来た釣り堀で、間合いを知っていたから、石松は飛んだ、、、後から追いかけた都鳥三兄弟たち10人は堀に落ちた、、、
その間に小松村の兄弟分の七五郎の家に逃げたのである。
逃げて来た石松を見た七五郎と女房のお民は血だらけの石松を中に入れて匿った。。
石松を見た時には驚いたけど、、、「お民、、ぐずぐずはしていれねーぜ、、、畳の血を拭け、、」と、、七五郎は機敏に動いた。
そして、、、どンどんと戸を叩く音がしたのである。
16)小松村七五郎と女房お民の度胸
都鳥三兄弟の兄貴分である、、都鳥吉兵衛が、、、
「おい、、石松が来なかったか、、」と聞いて
「七五郎、、隠すなよ、、、ためにならねーぞ」と言ってきたから七五郎も怒った。。。
「都鳥、お前たちは知っているからいいけど、、、そこの3人は見たことがねぇー。。。挨拶なしで夜中に何だってんだよ、、、話によっては勘弁ならねぇー」
と、、七五郎に啖呵を切られて挨拶をしてきたのである。
都鳥吉兵衛に聞かれた七五郎は答えた。
「ああ、、来たよ、、、来るには来たけど昨日の昼頃だ、、、都鳥、お前の所へ行かなかったか、、ところで石松から百両借りたってな、、返したなかったら貰おうか、、、俺が返してやるから、、」と、、、
七五郎は借金の取り立てをしたのである。
「ところで石松は本当に来てねぇーな、、」と、、、都鳥吉兵衛が念を押して聞いてきた。
狭い部屋である、、聞くなと言っても聞こえる。
女房のお民が笑いを浮かべて、、、
「狭い部屋だ、、、探してください、、、隅から隅まで」と。。言ってのけた。
部屋に上がって都鳥吉兵衛たちは探そうとしたが、、お民が、、、
「うちには畳が敷いてるから、、草履を脱いでください」と注文を付けたのである。
都鳥吉兵衛は子分たちに言った。
「お民が笑いながら居ないと言っているんだからいないだろう、、、いくら度胸がいいといっても女だ、、いたら笑ってすましてはいられないだろう、、」と、、、
それで他を探すことになったのである。
都鳥一家が出ていき、、、押し入れに隠れていた石松が出てきた。
そして、七五郎とお民がとめたが石松は出て行った。
その時に「石松、、、お民が都合つけてくれた百両を持って、
清水へ帰れ、、、あの都鳥一家では相手がわるすぎる、、」
と、、言ったが石松はきかなかったのである。
石松が出て行った直後から、、女渡世人華さくらが飛び込んできた。。。
「夜分すいません、、、石松は来ませんでいたか、、」と、、、
お民が石松は今、出て行ったばかりですと、、教えてくれた。
「石松は大丈夫だったですか、、、ありがとうございます」
と、、頭を下げて石松を追いかけたのである。
「急げば、、、追いつくから、、、気を就て、、」と、お民が声をかけた。
17)閻魔堂決闘、、、
小松村七五郎の家を出て、、傷の痛み堪えながら、、浜松に向かって歩き出した、、
浜松には知り合いの黒龍屋の貸元がいるから、医者に診てもらい、傷が治ったら仕返しをしてやろうと思いながら、、のらりくらり傷を庇いながら歩いていたんである、、
「おーい、、石松待ちやがれ、、私が付いて行ってやるから」と、女渡世人華さくらが駆け寄ってきた。
「しかし、、随分斬られたな、、大丈夫か、、私が杖になったやるから、、掴まれ」と、、さくらが肩を差し出した。。。石松は嬉しかった、、見えぬ片目に涙が出たような気がした。
「石松、、、お前は本当に馬鹿だよ、、、でも,もう大丈夫だ、、私が入りからね」という言葉に励まされたのである。
「さくら、、、ちょっと疲れた、、、休んでいこうか」と、、、閻魔堂の前まで来て、閻魔堂の縁側のような台に石松は腰をおろした。
「さくら、、、本当にありがとう、、、帰るよ」と、、、話していたら、
人声が聞こえたので閻魔堂の裏手に身を隠した。
その声は都鳥吉兵衛と子分たちと保下田久六の3人の子分たちであった。
「石松は強いかもしれねえーが逃げ足も速いな、、、逃げるなんて卑怯だぜ」と、、話しながら閻魔堂の前まで来た時ニgららだった、、、さくらに止められるのも聞かずに飛び出してしまった。
「馬鹿だねぇ、、、石松は本当に馬鹿だよ。。」と言いながらさくらも一緒に飛び出していたのである。
石松は根っからの正直ものだった。
「なにー俺が卑怯だって、、、この野郎、、、どっちが卑怯だ」と、、、飛びかかっていったのである。
都鳥たちは驚いて逃げた、、、それを石松が追いかけたが石につまずいて転んだ。
そこへ寄ってたかって斬りこんできたから堪らない。
石松はズタズタに斬られたのである、、、それを見たさくらが石松を庇って、、上にかぶさる様にして
石松を自分の体で庇ったのである。
必死にさくらは自分の体で石松を守って斬られたのである。。。
次の朝、二人の遺体は見つかったが、、、男の上に女が庇うように亡くなっていたのであった。
小松村の七五郎とお民はその姿を見て泣いた、、、涙を流したのである。
二人の手はしっかり握られていた、、、
七五郎はせめてもの慰めがあった、、、石松を思うさくらがいたことが、、、
「石松よかったなーーさくらさんが一緒で」と、、、泣きながら二人に誓った。
「必ず、仇はとる、、、」と、、、そして、ことの仔細を七五郎は次郎」長親分異に伝えた。
18)森の石松の仇討前
追分の三五郎の知らせを聞いて、、、清水次郎長は子分を集めた。。
そして、都鳥一家と保下田久六の残党で十一人ならば、、こっちも十一人で斬りこむことにしたのである。
次郎長は都鳥一家がしかるべき人を立てて「詫び状」を差し出し、、、石松の供養をしてくれるなら「水に流すつもり」でいたが、、、清水一家が河豚に当たり死んだと聞いたら、清水一家に殴りこもうと相談している話を追分三五郎から聞いたから、堪らない、、、清水次郎長は怒った。
そして、、「逆縁ながら、我が子分、遠州森の石松の仇、お命頂戴せんがために、今晩、追分宿青木屋に推参仕り候」と書いた書状を小金井の小治郎親分に届けさせた。
文久3年12月21日であった。
そして、石松の仇討に行くものを決めた。
清水次郎長、清水の大政、清水の小政、追分三五郎、大瀬半五郎、奇妙院常五郎、
大野の鶴吉、小松の七五郎、鳥羽常、美保の松五郎、法院大五郎と決め、、、
清水湊の留守は増川の仙右衛門と問屋場の大熊に託した。
次郎長が「留守は頼んだ、、」と言って、出かけたのである。
そして,次郎長は言った、、、、
「苦労掛けるな、、、都鳥たち十一人を斬った後は、、長い草鞋を履くことになるが、、すまない」と、、、
すると大瀬の半五郎がみんなで罪を被ることはない、、あんな都鳥たちの為に、、
「俺が一人でやったことにして、、自訴をするからと」言ってくれたのである。
そして、追分宿についた、、、
次郎長が追分三五郎に言いつけて、、、宿屋青木屋の主人を呼んでもらった。
19)森の石松の仇討、、、青木屋へ清水一家十一人の曲斬り
追分の三五郎が青木屋の主人を呼んできたので、次郎長親分が話をしたのである。
今から石松を騙し討ちにした都鳥一家と保下田久六の残党十一人を襲って、石松の仇を討つので、旅籠をそっくり売ってくださいと、、、「百五十両で」、、、
旅籠の者を逃がし、隠れた。
確認をした次郎長一家の十一人がそれぞれの位置について、、都鳥一家の座敷に乗り込んだのである。
都鳥たちは慌てた、、、自分たちが清水一家に殴り込みをするつもりが、、逆に盛り込まれたのであるから、、右往左往するだけであった。
そして、都鳥吉兵衛は清水次郎長に斬られ、、二人の弟の常吉、梅吉は逃げ回った板が、小松の七五郎と小政に斬られた。
都鳥の四天王の伊賀蔵,半作,重太郎、音松は逃げようとして、奇妙院常五郎、法院大五郎、鳥羽常、美保の松五郎に追いかけられて斬られる。
保下田久六の子分の、布橋の鐘吉、小嶋の松五郎、鹿島の久松は大瀬の半五郎、大野の鶴吉に斬り殺された。
石松と女渡世人華さくらの仇討を済ませた清水一家は大瀬の半五郎が自訴をしたのである。
そして、次郎長ほかの9人は、小金井の小治郎親分のところに匿われた。
大瀬の半五郎は都鳥一家の襲われ、正当防衛で殺したといって、、、一年の受牢で釈放になったのである。
小金井の小治郎親分の助言があり、、代官所にも手をまわしてくれていたのであった。
そして、大瀬の半五郎が釈放になったとき、清水次郎長ほかの者も清水湊へ帰ってきたのである。。
次郎長親分は石松と華さくらを心から願った、、、成仏するようにと、、、
20)次郎長外伝。。。
その1.。。清水次郎長には4人の妻がいたのである。
一代目の「お蝶」は旅先で亡くなり、、深見村長兵衛の世話に成って盛大な
葬儀を出したのである。
戒名は「思量院信解妙講大姉」である。
二代目の「お蝶」は、駿河国羽鳥村出身、芸妓上がりで見受をされる。
二代目お蝶は投げ節のお仲ともいわれている。投げ節とは歌を流して、壺振
りをしていた、、、「いかさま賭博師」とも言われている。
そして、江戸深川の芸者であり、、長岡に来たとに知り合い、お蝶となった
二代目お蝶は次郎長が小松村七五郎の一本立の祝いに出かけてる最中に斬ら
れて、 次郎長が急を聞いて戻ってから亡くなった。
まだ、27歳であったのである。
戒名は「真量院退栄妙講大姉」である。
三代目は元西尾藩士、江崎丹治の娘で、本名はおりんである。
次郎長が50歳で、三代目お蝶は33歳で、23年間連れ添った。
三代目お蝶は武家の生まれなので、教養もあり、次郎長を助け、子分たちの面倒もよく見
ていた。
そして、次郎長が73歳まで尽くしたのである、お蝶は81歳まで生きて、辞世句をのこ
しているのであった。「頼み無き此の世を後に旅衣、あの世の人にあそぶ嬉しき」
戒名は「参量院真相妙講大姉」である。
そして、」81歳で亡くなった清水次郎長の戒名は「碩量軒維山義海居士」である。
また、次郎長の墓石の筆は榎本武揚のものである。
その2
二代目お蝶は黒駒の勝蔵の食客の橘源兵衛が次郎長の留守に押しかけて、、文句を言ってっ来たお蝶を斬ったのであった。。
斬られて時に大野鶴吉がすぐに出てきて、機敏よく対処したので、次郎長が小松村の七五郎約阿賀から戻るまでいきていたのであるが、、戻ると間もなく亡くなった。
その前に大野鶴吉が段取りをして、大政、小政に連絡をとり、、斬った橘源兵衛を追いかけたのである。そして、長関寺へ逃げ込んだ橘源兵衛を見つけ,寺の和尚である,雲徳を問いただした。
其のあと大野鶴吉が橘源兵衛を追い立てて、表に待っていた相撲常と小政がおそったのである、、、相撲常の毒針で刺されてよろついたところを小政が居合斬りで、源兵衛の首を跳ねた。
後始末は大政がやって、二代目お蝶さんの仇は討ったのである。
今回の件で、次郎長は黒駒の勝蔵を恨んだ。
その3
三代目お蝶と暮らした23年間は充実していた。
次郎長は明治維新後には、、、清水湊も明治新政府が管轄して、新しい奉行が置かれたのである。奉行は元浜松藩の家老の伏谷如水というものが就任して、清水次郎長は「道中探索役、清水湊警備役」に任ぜられた。。。やくざが役人になったのである。
次郎長はなりたくてなった訳ではなかった。
清水湊警備役をしてた時に、旧幕府軍艦を榎本武揚が函館に引き連れていく途中で、そのうちの一隻が破損をして清水湊にいるときに、明治新政府軍が攻撃して死人が多数でたのである。誰も死人をホッテおいたので清水次郎長がかたずけ、供養をした。
それを見た幕府軍の山岡鉄舟が関心をして、、、次郎長に興味を持ち付き合い始めたのである。
山岡鉄舟は勝海舟、高橋泥舟とともに幕末の「三舟」と言われている。
その後、山岡鉄舟の付き合いから「富士の裾野開墾事業」をしたのであった。
しかし、過去のやくざ稼業の幾多の罪で逮捕されたのである。
そして「懲役7年」「過料400円(今に換算すると2000万円)であった。その後、嘆願書もあって2年で服役がおわった。
次郎長の晩年は船宿を経営していたのである。
その4 黒駒の勝蔵との因縁
二代目「お蝶」は黒駒の勝蔵の食客の橘源兵衛に斬り殺されたのであった。。次郎長はこの時ほど、勝蔵を恨んだことはない、、、
心から黒駒のか勝蔵を殺してやろうと思ったことは無かった。
黒駒の勝蔵は東海道を荒しまわったいたのである、、、攘夷論者を気取り、追剥、強盗を働いていた。
次郎長は殺し屋軍団を揃えて、それも6組の部隊を動かして探したが、、、黒駒の勝蔵は神出鬼没で捕まらなかったのである。
そんな中で、黒駒の勝蔵は甲州八代郡黒駒村に戻り、清水次郎長と決戦をするために助っ人集めた。
そして、慶応4年9月に天竜川で決闘をすることにした。
ところが、その時に「明治維新」を迎えて、明治新政府の厳しい取り締まりがあり、、次郎長も勝蔵も監視されていて、天竜川での決闘は出来なかったのである。
更に二度目の決戦も明治新政府の監視のもとに潰された。
このことで清水次郎長と黒駒勝蔵の決闘はなくなったのである。ので
その5 清水次郎長の人物像
清水の次郎長の本名は「山本長五郎」で1820年2月14日生まれ、、、
幕末明治の侠客で博徒、実業家。
戊辰戦争の際に、修理で立ち寄った志水港に、咸臨丸から新政府軍に殺された幕軍の兵士を、そのままにしておいたので悪臭が出たので近隣の漁民が困り、、次郎長が子分を使って、死体を埋葬したのであった。
その話を聞いた「山岡鉄舟」が次郎長の義侠心に感心して、、次郎長と山岡鉄舟の付き合いが始まり、、富士の裾野の開墾開発がおこなわれたのであった。
清水次郎長の子分には「清水二十八人衆」がいた、、大政、小政、森の石松たちの屈強な子分が支えたが、実際は全員が揃ってたわけだは無かった。
清水次郎長は舟持ち船頭の「高木三右エ門の次男」「として生まれたが、母方の米穀商「甲田屋の山本次郎八」の養子となり、、「山本長五郎」となる。
養子となっても喧嘩と博打が好きで、年中飽きずに喧嘩博打をしていたのである、、喧嘩から人を斬ってしまい、、一度は妻を娶ったが離別していたのであった、その後、「三人のお蝶と一緒になっているので」生涯4人の妻を娶っていたのである。
最初に離別した後に,甲田屋を姉夫婦に譲って、、弟分の江尻の大熊と一緒になって無宿人となり旅に出たのである。
諸国を旅して博徒としての修行を積んで清水港に戻り、江尻の大熊の妹「おちょう」と一緒成り清水港に一家を構えた。
次郎長は博打が強かったので、、清水港では「博徒一家」で家業を始めたのである。
晩年は清水港で船宿を始めたいた、、、その以前、幕末時代には静岡県令の命により、駿河町差配役「伏谷如水」から東海道、清水港の警護役を頼まれたが断り続けたいたが、最終的は世のためと言われて引くけたのである。
更に清水次郎長は清水港の発展のために、静岡県特産の「お茶」の販路拡大にも貢献したのであった。
そのお茶の販路を広げるために、「静隆社」を設立して、お茶運搬のための「蒸気船」まで購入して、「横浜と清水」の海運業も始めたのである。
また、1885年(明治19年)には東京大学医学部別課を卒業した「植木重敏」と知り合い、彼の友達を誘い、清水町に「済衆医院」を開設したのであった。
晩年の清水次郎長は地域社会に貢献したのであった。
しかし、、もともとが博徒だったので、「博徒の大刈込」で、明治7年(1884年)に「博徒犯処分規則」で静岡警察本庁に逮捕されて「懲役7年,過料400円(現在なら2000万円)」で井宮監獄に投獄された。
その後、静岡県令関口隆吉らの尽力により、18885年(明治18年)仮釈放となる。
また、清水次郎長はこれからは「英語」が必要と考えて「私学の英語塾」を開設もしていた。
清水次郎長のお墓は静岡市の「梅陰禅寺」にあり、三人の「おちょうさん」と、、「大政」「小政」「森の石松」と一緒に眠りについているのであつた。
その6 子分大政外伝
「清水二十八人衆」の一の子分は大政である、、、本名は「山本政五郎」であり、小政も「山本政五郎」であるため区別するために大政と呼ばれている。大政の本名は「原田熊蔵」であるが、、最初に小政が次郎長の養子になったので、二人とも「山本政五郎」となった。
原田家は廻船問屋であり、熊蔵はその廻船問屋の長男であった。
大政は18歳で清水次郎長の子分になる、、槍が得意なのは町道場で修行したのでった。
そして、大政は「6尺以上(186cm、体重112kg)」の大男であったが、温厚な性格でみんなから好かれていた。
清水次郎長には実子が居なかったために養子となる、、一番最初は小政が養子となった。尾正人
やくざ抗争の時はいつも先頭を切って戦っていたのである。。
ほとんど次郎長は出なくて、ほとんどの抗争では大政が指揮を執っていた。
大政は「酒」が好きで「大酒呑み」であり、、家にるといつも酒を呑んでいたのである。。
そして、大政は次郎長の家の近くに住んでいたので、、次郎長は尋ねる時は裏口から「大政いるか、、」と、声を掛けてからはいっていったのであった、、、大政に酒を呑んだ茶碗などを片付けさせてから、、気づかいをしてのことだった。
荒神山の闘いでは、「吉良の仁吉」と大政は指揮を執り、、22名で穴太徳一家130名に挑み、戦いは勝った。。しかし、吉良の仁吉は銃で撃たれ、清水一家では法院大五郎が死んだのであった。
大政は女房「おたね」との間に子供を3人もうけた、、そして、長男の「小沢惚太郎」が清水一家の二代目を継承したのである。
そして、1881年2月15日に50歳で病死して、静岡市「梅陰禅寺」に埋葬された、、のち次郎長も同じ寺に眠ったのである。
その7 子分小政外伝
小政は「本名、山本政五郎」で、大政と区別するために「小政」と呼ばれた。
浜松の魚屋の次男であり、「実際の本名は吉川冬吉」である、、、山本政五郎になったのは次郎長の最初の養子となったときであった。
小政は体が小さく「身長145cm」の低身長であった。小政は母親と二人暮らしで、、9歳の頃から行商をしてたのである。そして「11歳の時から次郎長に養われて、、成長して子分になり、、「清水二十八人衆の一人なる」
次郎長との出会いは、、次郎長が森の石松と讃岐の金毘羅大権現参りの帰り道に、、ある茶店の前で会い、、その時に小政が茣蓙を敷いて博打を始めて、地元の博打の客とトラブルを起こし、、喧嘩になったが、それを次郎長に言われた森の石松が止めたのであった、、
「おい、、小僧、そんな六尺棒で殴ったら死んじゃうぞ、、」と、、、
「うるせえ、、俺は子供じゃないよ、、引っ込んでろ、、」と、、石松に食ってかかってきたのである。
「おお、、威勢がいいな、、、だって、お前,ちびだろう、、」というと、、、
「馬鹿野郎、、、背が低いだけだ、、」と啖呵をきられた。
乞食みたいなボロを来てたけど、意気ごみだけは石松までも吞み込んでいたのである。
次郎長が訳を聞くと、、そのちびが金を稼がないと、、病気の母親の薬が買えないんだと、悔し涙を流した。
次郎長はそのちびに「2両」を渡して、薬を買うように話した、、傍の森の石松も財布ごと渡したのである、、中身は「3分」しかなかったけど、、それが森の石松のいいところであり、義侠心の強い侠客であったのであった。
そして、次郎長はそのちびの名前を聞いて、よかったら清水港へ来るように言った。
そのちびが「吉川冬吉」」であり、、のちに「小政」と呼ばれるようになったのである。。。
母思いの小政は母親が病死した後に清水港へやってきた。
その後,次郎長の子分になり、1865年掛川の「お加登」と結婚すらが、、まも害事件を起こして「6年間の逃亡生活」をする。
そして、1871年清水港に戻る。。。しかし「雑犯賭博条」により、逮捕されて、判決で「5年間入獄する」、そのあと1874年5月29日に「浜松監獄」で獄死する、、32歳であった。
その8 子分、増川仙右衛門外伝
梅陰寺の次郎長と墓が並んでいるのは「3人のお蝶さん」と、、大政、小政、増川仙衛門と森の石松だけである。
増川仙衛門は次郎長一家では「計数」に明るく、、「中盆」の達人と言われていた。駄目な「中盆」は「盆暗(ぼんくら)」と言わtㇾていたのである、、、仙衛門は「盆明」と言われ、、、博打場にはいなければならない男であった。
増川仙衛門は田畑持ちの博打打の貸元である「増川佐次郎」の長男で、、伊豆の安太郎一家に15歳から修行に行き、その時に「松下又右エ門」の道場で腕を磨き、一刀流の達人であった。
留守の間に「父、佐次郎親分」が、佐次郎の子分で隣村の「力蔵」に博打で借りができて、、その催促に来た力蔵が、その子分が居なかったので、親分佐次郎を殺したのである、、
力蔵は「子分の借りは親分の責任と、」一緒に行った用心棒の竹次郎らと、佐次郎を殺してしまったのであった。
それを聞いた、増川仙衛門は伊豆の安太郎の身内から嫁を貰っていたので「離別」して、、親の仇の力蔵らを討ったのである。
仇討の時に次郎長に助太刀をして貰ったので36歳の時に子分になった。
増川仙衛門の本名は「宮下仙衛門」で、、1867年から1892年8月6日の病死したのである、、56歳であった。
そして、父増川佐次郎は伊豆の金平一家の「竹の助、民五郎、力松、亀吉ら17人に殺されている」
その9 清水一家の二十八人衆、外伝
清水次郎長、大政、小政、増川仙衛門、大瀬半五郎、森の石松、法院大五郎、吉良仁吉、追分三五郎、桶屋鬼吉(吉五郎)
問屋場大熊、大野鶴吉、相撲常、美保松五郎、伊豆五郎、関東丑五郎、田中啓太郎、辻五郎、舞阪富五郎、国定金五郎、寺津の勘三郎
吉良勘吉、四日市勘太郎、鳥羽の鳥羽熊、清水岡吉、由比松五郎、興津勘之助、お蝶、
で、、「清水一家の二十八人衆」である。
その10 大瀬半五郎外伝
大瀬半五郎は「関東綱五郎」と同一人物である。
「本名」は鈴木綱五郎という、、、1822年八王子千人同心を務めた、鈴木惣七の息子として生まれる。鈴木家の6代目として、、、
19歳の時に出奔して、群馬を振りだしに全国を旅して歩いた。
次郎長の2番目の子分ななる。
荒神山の喧嘩では、、別動隊を引きいて、甲州の黒駒勝蔵を制圧して、吉良仁吉と合流して荒神山の闘いに臨んだ、、清水一家と吉良仁吉は22人で、黒駒勝蔵、穴太徳一家13人と闘い、かったのであるが、吉良仁吉と法院大五郎が亡くなったのである。
この荒神山の喧嘩の時に大瀬半五郎は49歳で。大瀬半五郎は次郎長とは2歳違いで、大政よりは10歳も年長であった。
大瀬半五郎は荒神山の闘いが終わってから、清水一家を離れて故郷へ帰った。
そして、資材を投げうって地域に貢献したのである。
また、地域にも乾分もいて、面倒をよくみていたようであり、、地域からは「任侠の士」と、慕われてい
その11 子分、法印大五郎外伝
1840年2月5日から1919年1月16日の侠客である。山伏から次郎長の子分になる。
甲斐の国二宮村の百姓角田久作の次男に生まれる。草相撲出身で人並み外れた巨漢であった。
寺小屋に学び、15歳で新鮮魚や乾物魚を運搬する仕事をしていたが、19歳で人足を辞めて、実家に戻り家業の農業に就いた。
1811年から竹井安五郎(ども安)の子分になるが、女癖が悪く、丸坊主にされて放り出された。
その後、山伏の格好をして托鉢をする。
そして、次郎長が旅先の越前で知り合い、子分になる。(この時法印大五郎は19歳)
その後、29歳の時に故郷(今の笛吹市)に帰り、百姓になり嫁をもらい、、角田甚左衛門と改名する。
そして、養子となり伊藤甚左衛門となり、、1919年1月16日、78歳で死去。
その12 子分、追分半五郎外伝
一匹狼の追分三五郎、、男も惚れるような無類の男振りで、女に不自由しないと言われたいた。
女のトラブルで喧嘩をしている時に「森の石松」に助けられ、その後、二人で旅にでる。
しかし、追分の三五郎は実存しない人物で、、清水二十八人衆は「二十四人衆」であると言われている。
その13 子分、桶屋鬼吉(吉五郎)外伝
鬼吉の本名は吉五郎、尾州尾張の桶屋の職人の息子に生まれるが桶屋を嫌い家を出る。
小川の達五郎の子分になったが、手の付けられない暴れん坊であったために、次郎長に預けられる。そして、子分になる。
宮島の重吉一家7人に暗殺される。
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