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第八章 公爵夫人の計画

1 公爵夫人の相談

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 朝からラルジュ王国の王都に雪が深く積もったその日、ラクロワ伯爵邸にはダンビエール公爵夫人が訪れていた。

「ねぇ、アレクサンドリーネ。あなたは釣った魚には餌を与え続けるって言っていたわよね」

 雪が降り続く中庭に面した居間で、だんまきが勢い良く燃える中、紺を基調としてえりや袖口には真っ白なレースをあしらった訪問着を身にまとったダンビエール公爵夫人は、ラクロワ伯爵夫人と向き合って物憂げな表情を浮かべていた。
 真冬だからといって襟で首元を隠さず、大きな胸元を強調する日常着に身を包んだラクロワ伯爵夫人は、炎のように赤い口紅を塗った唇を楽しげにゆがめる。

「言ったわよ」
「それって――毎、日……?」
「毎日ではないわね。なにしろ、釣った魚は少々老けているから、無理をすると寿命を縮めかねないもの。あたくしは夫とできるだけ長く楽しく暮らしたいの。もちろん子供は欲しいし、夫も跡継ぎを望んでいるからまだまだ頑張ると言っているけれど、本人はやる気に満ちあふれていても、体力がねぇ」
「――あ、そうなの」

 どうも話の振り方を間違えたようだ、とベルティーユは後悔した。
 馬車が走りづらい雪道を、ラクロワ伯爵夫妻の家族計画を聞くためにわざわざ訪れたわけではない。

「あたくしは平民出身のくせにずっと貴族の暮らしがしたいって願っていたし、夫があたくしを選んでくれたときはこの人にふさわしい伯爵夫人になろうって思ったわ。舞台でいろんな役を演じるのではなく、貴族社会という舞台で伯爵夫人の役を徹底して演じるのがあたくしに与えられた大役だってわかったの。もちろん、あたくしのことを平民だって馬鹿にする貴族だっているけれど、生まれが平民でも運が掴めれば貴族と結婚して伯爵夫人になれるってことを世間に知らしめたいの。あたくしの子供はすこぉしだけ苦労するかもしれないし、社交界ではあまり歓迎されないかもしれないけれど、でも、あたくしは夫にあたくしを選んだことを後悔させないわ」

 豊満な胸を揺らして力説するアレクサンドリーネは、自信に満ちあふれている。

「そういうあなたの性格、わたしは好きよ」

 湯気がのぼる紅茶の杯に口をつけながら、ベルティーユは曖昧に微笑んだ。
 上昇志向が強いアレクサンドリーネの過去はベルティーユには想像できない部分もたくさんあるが、元々が女優志望であった彼女らしく、ベルティーユが提案する伯爵夫人という役を忠実に演じ、いまでは社交界でも信頼を得始めている。

「で、あなたは、毎日餌を欲しがる魚に手を焼いている、ってところかしら」

 ふふん、と鼻を鳴らしてアレクサンドリーネが言い当てる。

「ま、毎日って言うか――」

 紅茶を噴き出しそうになり、なんとかこらえる。
 アレクサンドリーネの推察はときに的確すぎて、ベルティーユを戸惑わせるのか。

「あれは、美しい観賞魚の姿をしたどうもうな怪魚よ」
「――あなたには、そんな風に見えるの?」
「あたくしにはずっと前から怪魚に見えていたわよ。あなたの前では観賞魚に擬態していただけで、一度食らいついた餌はけっして離さない怪魚よ。あなたが毎日餌をやるつもりがなくても、毎日餌を欲しがるような世話が面倒な怪魚でもあるわね」

 アレクサンドリーネの比喩はあながち外れではなかったので、ベルティーユは黙り込んだ。

「しかもあなたの怪魚は、あなたが他の観賞魚に餌を与えようとすることを極端に厭がる性格よ。あなたの水槽に自分以外の魚が入ってきたら、食い殺すか、餓死させるか、水槽から追い出して干涸らびさせるかのどれかね」

 どうやら、アレクサンドリーネの見立てでは、すべて観賞魚は死ぬ運命しか辿れないらしい。

「そして、釣ったあなたを翻弄し続けるわ」

 きっぱりと親友は断言した。

「魚を例に挙げたのが間違いだったわ。ごめんなさい」

 やたらと残酷な結末しか提示されなかったので、ベルティーユは気が沈んだ。
 多分、この気鬱は雪雲で覆われた鉛色の空ばかり見ているせいだろう。

「じゃあ、犬に例えましょうか。もっとも、あなたの犬は、牧羊犬の顔をした狼よ。他の犬はすべて駆逐するわ」
「例え話をしたいわけじゃないの」
「――でしょうね」

 ベルティーユの憂鬱な顔を覗き込み、アレクサンドリーネは肩をすくめた。

「公爵との仲はうまくいっているんでしょう? 激甘新婚生活は続行中だって聞いているわよ」
「どこからそんな話が流れてくるの?」
「あちらこちらから。あたくしの夫も、ダンビエール公爵は奥方を溺愛していて、それはもう見ているだけで胸焼けがしそうなほどだって噂を聞いたそうよ。その半分でも、国王陛下とロザージュ王国の王女様が親しくなれれば良いのにって宮廷では心配もしているそうじゃないの」
「ロザージュ王国の王女様の話は、あなたの耳にも入っているのね」

 誰かが意図的に噂を流している可能性が高い、とベルティーユは頭の片隅で考えた。
 王女を非難するほどではないが、王との関係を不安視する声が高まれば、王宮内での王女の立場は悪くなる。
 王女を王宮から排除したい者が仕組んだのであれば、徐々に国王と王女の心の距離は遠退く可能性がある。
 王太后がロザージュ王国王女に対してどのように思っているかは、実際のところ、あの謁見だけでは判断がつかない。
 オリヴィエールは、王太后が時間を掛けてじわじわと王女を追い詰めていくつもりだろうと見ている。
 ならば、アントワーヌ五世と王女が顔を合わせる機会を増やし、誤解が生まれないようにするべきではないか、とベルティーユは提案してみたが、オリヴィエールは渋い顔をするばかりだ。ロザージュ王国王女の輿入れにはダンビエール公爵家も多少関わってはいるが、ベルティーユが国王に会うことをオリヴィエールが極端に厭がっているためだ。

(愛妾になるために手伝ってくれるって言っていたのに)

 昨日、一日中王宮にあるダンビエール公爵用の部屋に閉じ込められ、あれやこれやと身体と求められたので、今日は腰が痛くて仕方がない。下肢にはあまり力が入らないし、下腹部の辺りは違和感だらけだ。
 オリヴィエールは、王の夜伽をするのが愛妾だと言う。
 愛妾になるには、王が溺れるような性技を身に付ける必要があるらしい。

(でも、多分それは違うわよね。愛妾っていうのは、もっと政治的に王を支えるものよね。オリヴィエールはわたしが愛妾になると、伯父様の手伝いばかりして、伯父様の評判が上がって都合が悪くなるんじゃないかって心配しているから、性的なところばかり強調してわたしが諦めるのを狙っているんだわ)

 近頃、夫に振り回され気味のベルティーユは、夫の話を鵜呑みにしてはいけないと自分に言い聞かせていた。

「ダンビエール公爵夫人を陛下の朗読係にしようって計画があるらしい話も聞いたわよ」
「――わたしを?」

 朗読係とは、その名の通り、王に本を読み聞かせる係だ。
 日々多忙な王の傍らで、お茶や菓子を食して休憩を取る際などに、朗読をするというのが主な仕事だ。
 ただ、寝室で王が眠りに就くまでの間に朗読をすることもあるため、愛妾になる前にまず朗読係として王宮に出仕する者もいる――ということを、アレクサンドリーネは知っている。ベルティーユは知らないようだが。

「朗読は、あまり得意ではないの」

 案の定、ベルティーユは困惑した表情を浮かべているが、本当に朗読しかしない仕事だと思っている様子だ。
 怪魚は朗読係の一番重要な役目がなんであるか、伝えていないらしい。
 ちっ、とアレクサンドリーネは内心舌打ちをする。
 かといって、アレクサンドリーネからベルティーユに詳細な内容を告げる気はなかった。
 ベルティーユは大事な親友だが、過保護すぎる親友の夫であるダンビエール公爵に睨まれてはアレクサンドリーネも夫もひとたまりもない。

「じゃあ、公爵相手に練習をすれば良いのでは? 公爵なら、あなたの朗読にいつでも付き合ってくれるでしょう」
「オリヴィエールもそれなりに忙しいはずよ?」
「少々忙しかろうが、仕事が山積みであろうが、妻のために時間を捻出するのが夫の役目よ!」
「別に、他の用事を放り出してまで付き合ってもらうほどのことでは……」
「付き合わせなさいな。国王陛下のそばで朗読を始めたらしどろもどろだったなんてことはないでしょうけれど、練習はしておいて損はないわ!」
「そ、そうかしら」

 勢い良く力説するアレクサンドリーネに気圧されながら、ベルティーユは紅茶を飲んだ。

「あと、嫌なことはちゃんと拒みなさいな。雰囲気に流されてずるずると相手の要求を飲んでいると、付け上がるわよ」
「つ、付け上がる?」
「釣った怪魚に餌を与えずじらすことも必要ってことよ」

 どうやらオリヴィエールが怪魚であることは変わらないらしい。

(それができれば、こうして悩むこともないのだけれど)

 その後、アレクサンドリーネは怪魚の扱いをどうすべきか、様々な提案をしてくれたが、ベルティーユはどれも実践が難しそうで、頭をかかえる羽目になった。
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