上 下
25 / 73
第五章 新婚旅行

3 遊覧

しおりを挟む
 ダンビエール公爵夫妻は午後をすこし過ぎた頃、ようやく公爵邸を出発した。
 王都を囲む城壁の大門が日没とともに閉まるので、それまでには王都を出なければならない。
 今夜は王都から一番近い街道沿いの宿場に泊まる予定になっている。
 生まれてからほとんど王都から出たことがなかったベルティーユは、旅そのものが新鮮だった。
 幼い頃からアントワーヌ五世の妃候補と目されていた彼女は、事故や事件を避ける意味もあって、カルサティ侯爵家の領地に行ったことも二度ほどしかなかった。まして、旅行など初めての経験だ。

「まぁ……とても素敵な景色ね。こんなに畑が広がっているなんて」

 馬車のがら窓に顔をくっつけるくらいに接近し、ベルティーユは外の風景を楽しんでいた。
 王都の城壁を越えると、街道の両側は麦畑や林が広がっている。
 人家もぽつぽつと建っているが、王都のように家々が密集している場所はない。
 牛や馬、羊などが放牧され、厩舎などが点在しているところもある。
 物心つく前にカルサティ侯爵領へ両親と行ったことはあるが、その当時のことなど一切覚えていないので、今回の旅がほぼ初めての王都外への旅行だ。

「あの畑はなにも植えられていないのね」
「麦畑ですよ、奥様。もうすでに刈り入れが終わっているので、いまは畑を休ませているのです」

 馬車の中で向かいの席に座る家令が答える。
 ベルティーユと同じく王都から離れたことがないミネットも、広大な畑に目を丸くしていた。

「あれが麦畑なの? あんなに広い土地を耕しているの?」
「大勢の農夫が麦や野菜を畑で育て、王都で売ります。いま見えている畑だけではとても王都の住民すべての胃を満たすことはできないので、もっと遠くの地域で作られた麦も王都へ届けられます。ダンビエール公爵領で収穫した農作物の一部も、王都へ運んでいます」
「そうなの!?」

 街道の両側には白楊樹ポプラが林立している。
 王都内ではあまり見かけない木だ。
 まっすぐ空に向かって伸びている姿は、まるで壁のようにも見える。

「明日お泊まりいただく宿は漁師町の近くですから、海の魚も召し上がっていただけますよ」
「海!? それはぜひ見てみたいわ! わたし、海を見たことがないの!」

 王都は内陸地にあるため、ベルティーユは海というものがよくわからなかった。
 地図を見ると、かなり広く、それは湖よりも広く、岸の向こう側は水平線だと文字では読んで知っていたが、実際にどういうものなのかは想像がしづらい。
 海の魚というのも、これまでほとんど食べたことがなかった。
 塩漬けにした海の魚が王都まで運ばれてくることはあるが、王都で食べられる魚のほとんどは川魚だ。
 王都の外に大きな川があるので、川魚は豊富に食べることができるが、海の魚は川の魚よりもかなり大きく身が締まっている物も多いという。
 また、海にしかいないという烏賊いかたこ牡蠣かきなどの貝類もぜひ食べてみたかった。

「海は危ないよ」

 心配性なのか、オリヴィエールが渋い顔をした。

「海に落ちたら波に攫われて遠くに流されてしまうそうだよ」
「でも、海の中には塩がたくさん入っているから、湖や川と違って身体が浮くんでしょう?」
「服が水を吸えば重みで海に沈んでしまうし、流されてしまうと岸までは泳いで戻ることも難しいそうだよ。それにベル、君は泳げるの?」
「泳げないわ。泳いだことなんてないもの」

 水泳というものが運動のひとつとしてあることは知っているが、川で泳いだことはない。
 湖も川も溺れると危険だからと言って、誰もベルティーユを近づけさせてくれなかったのだ。
 前カルサティ侯爵の趣味は釣りだったが、彼は可愛がっていた孫娘を釣りに連れて行くことだけはしなかった。
 野原を走り回って転んでも服を汚すか擦り傷を作るだけだが、水に溺れると命の危険があると言って強く主張していた。
 せいぜい、カルサティ侯爵邸の庭の池で水遊びをするくらいしか、ベルティーユには許されなかった。

「じゃあ、海には近づいてはいけないよ。岸で足を滑らせでもしたら大変だ」
「そんなに海は危険なの?」
「それはもう、とても危険だよ」

 オリヴィエールは小難しい顔で頷いた。
 ベルティーユの隣に座るミネットも同意を示すようにこくこくと頷いている。

「そう……残念だわ」

 渋々ながら、ベルティーユは周囲の忠告を聞くことにした。
 自分がそれなりに世間知らずであるという認識は、彼女も持っている。
 本を読むことで知りうる知識と、実際に自分の目で見て知ることとは違うのだ。
 これまでたくさんの勉強をしてきたベルティーユは博学ではあるが、それを実生活で使ったことはないし、使えるような知識もない。
 ダンビエール公爵夫人として、これからたくさんのことを見聞きし、知識を増やしていくしかないのだ。

     *

 一刻半ほど馬車を走らせて、街道沿いの小さな町で最初の休憩を取った。
 町には雑貨屋や食堂、はたが数軒あり、馬を休ませる広場もあった。
 御者が馬にや水をやっている間、ベルティーユはオリヴィエールと一緒に町を散策した。
 ふたりの後ろに付くように、ミネットと家令、護衛のディスたちが付いてくる。
 今日は午前中ずっと礼状を書くために椅子に座り続け、午後も長時間馬車に乗っていることもあり、ベルティーユは腰が痛んで仕方なかった。
 散歩をしていると身体を動かせるのですこしはましになっていたが、もっと思いきり手足を伸ばしたくて仕方なかった。
 そうはいっても、人目があるのであまり手足を振り回すわけにはいかない。

「旅行って大変ね」

 存外疲れるものだと思ったベルティーユは、差していた日傘をくるくる回しながら溜め息をついた。

「もう飽きた?」
「飽きてはいないわ。見たことがない景色が見られるのは楽しいもの」

 近くに牛舎があるのか、草の匂いに混じって牛の臭いがする。
 部屋や馬車の中に籠もっているよりも開放感があり、寝不足ではあるが初めて訪れる町を歩くだけで心が躍る。
 石畳で舗装されていない土道はでこぼこしているし、ところどころが水たまりになっていたが、町の人々は皆自分たちの暮らしに満足しているのか穏やかな表情を浮かべている。
 貴族はそう珍しくないのか、着飾ったベルティーユたちを見てもあまり驚いた様子はない。

「奥様、よろしければ市場を案内しましょうか。この町の市場は日没頃までやってるんですよ。食べ物を売る屋台もあるので、面白いですよ」

 ベルティーユが退屈していると思ったのか、ディスが提案した。

「屋台? それは面白そうね!」

 市場というものは物を売っている場所であるとしか知らないベルティーユは、ディスを振り返ると目を輝かせた。
 屋台というものがどんな物かはよくわからないが、ディスがすすめるのだからなにか楽しいものなのだろう。

「ぜひ見てみたいわ」
「じゃあ――」

 ディスが「あちらへ」と案内しようとしたときだった。

「駄目だ」

 オリヴィエールはきっぱりと拒否した。

「市場なんて、公爵夫人が足を運ぶところじゃない」
「でも、ここは王都ではないし……」
「誰が見ているかわからないんだ。庶民しか行かないところに貴女が行くべきではない」

 強い口調でオリヴィエールは諭す。

「――わかったわ」

 なんとかオリヴィエールを言い包められないかとベルティーユは思考を巡らせたが、短時間で説得するのは無理だという結論に至った。

「君も、立場をわきまえるように」

 厳しい口調でオリヴィエールはディスに言い放つ。

「失礼いたしました、公爵様」

 いんぎんな態度でディスが謝る。
 その姿に、ベルティーユは申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

月の後宮~孤高の皇帝の寵姫~

真木
恋愛
新皇帝セルヴィウスが即位の日に閨に引きずり込んだのは、まだ十三歳の皇妹セシルだった。大好きだった兄皇帝の突然の行為に混乱し、心を閉ざすセシル。それから十年後、セシルの心が見えないまま、セルヴィウスはある決断をすることになるのだが……。

ウブな政略妻は、ケダモノ御曹司の執愛に堕とされる

Adria
恋愛
旧題:紳士だと思っていた初恋の人は私への恋心を拗らせた執着系ドSなケダモノでした ある日、父から持ちかけられた政略結婚の相手は、学生時代からずっと好きだった初恋の人だった。 でも彼は来る縁談の全てを断っている。初恋を実らせたい私は副社長である彼の秘書として働くことを決めた。けれど、何の進展もない日々が過ぎていく。だが、ある日会社に忘れ物をして、それを取りに会社に戻ったことから私たちの関係は急速に変わっていった。 彼を知れば知るほどに、彼が私への恋心を拗らせていることを知って戸惑う反面嬉しさもあり、私への執着を隠さない彼のペースに翻弄されていく……。

敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される

clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。 状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。

5分前契約した没落令嬢は、辺境伯の花嫁暮らしを楽しむうちに大国の皇帝の妻になる

西野歌夏
恋愛
 ロザーラ・アリーシャ・エヴルーは、美しい顔と妖艶な体を誇る没落令嬢であった。お家の窮状は深刻だ。そこに半年前に陛下から連絡があってー  私の本当の人生は大陸を横断して、辺境の伯爵家に嫁ぐところから始まる。ただ、その前に最初の契約について語らなければならない。没落令嬢のロザーラには、秘密があった。陛下との契約の背景には、秘密の契約が存在した。やがて、ロザーラは花嫁となりながらも、大国ジークベインリードハルトの皇帝選抜に巻き込まれ、陰謀と暗号にまみれた旅路を駆け抜けることになる。

後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~

菱沼あゆ
キャラ文芸
 突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。  洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。  天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。  洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。  中華後宮ラブコメディ。

ヒステリックラバー

秋葉なな
恋愛
「好かれたからって僕を好きになってはくれませんか?」 そう囁くあなたに私は問います。 「あなたの気持ちを利用しても私を好きでいてくれますか?」 結婚願望の強いOL × トラウマを抱える上司 「僕はあなたが欲しくてたまらない」 溺愛されても好きにはなれない?

コワモテ軍人な旦那様は彼女にゾッコンなのです~新婚若奥様はいきなり大ピンチ~

二階堂まや
恋愛
政治家の令嬢イリーナは社交界の《白薔薇》と称される程の美貌を持ち、不自由無く華やかな生活を送っていた。 彼女は王立陸軍大尉ディートハルトに一目惚れするものの、国内で政治家と軍人は長年対立していた。加えて軍人は質実剛健を良しとしており、彼女の趣味嗜好とはまるで正反対であった。 そのためイリーナは華やかな生活を手放すことを決め、ディートハルトと無事に夫婦として結ばれる。 幸せな結婚生活を謳歌していたものの、ある日彼女は兄と弟から夜会に参加して欲しいと頼まれる。 そして夜会終了後、ディートハルトに華美な装いをしているところを見られてしまって……?

処理中です...