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Scene2 盲目な正義
scene2-8 地獄の窯の水面 後編
しおりを挟む少し時間は遡り、場所は〝ルーラーズ・ビル〟のとある一室。
そこで目を覚ました司は、すぐに〝ここは自分のいるべき場所ではない〟と気付いた。
「どうなってるんだ?」
ただの天井なのに明らかな高級感、横たわる寝具の感触は自分の身体の輪郭を見失いそうになるほど極上の心地良さ。そのまま首を傾けて見ると、見るからに高価そうなアンティーク調の袖机に洒落たランプがあり、あとは軽くならテニスでも出来てしまえそうなほど広々とした室内にソファーとテーブルの応接セットがあるだけの、まさに必要最低限に整えられた無駄の無いマイナスの美空間。
庶民思考には「一体一泊いくらだ」という虚しい想像が先行するまるで高級ホテルのスイートルームの様な場所。やはりどう考えても自分がいるべき場所ではなかった。
「なんだよ? おい、これ……あとで請求とかされないだろうな?」
身体を起こしてみると、着せられていたのは病院服の様な簡素な服装。
部屋の雰囲気にはあるでそぐわず、状況の不明瞭さに拍車を掛ける。
「ここ、ホントどこなんだ? というか、俺いつの間に寝て……あぁ、あの薬か」
ベッドの縁に座り項垂れて嘆息する司は喫茶店での一幕を思い返す。
飲み込んで瞬間まるでブレーカーを落とした様に、目の前が真っ暗になり意識が無くなった普通では考えられない即効性の薬。
「やっぱり、かなりヤバい薬だったんだろうな……はッ、等々人の道を外れた感じがする」
自分の掌を見下ろし自嘲する司。
しかし、意外にも頭はスッキリしていて、自分で自覚出来る限りでは特に何か身体に変化が起きている様子は無く、質の良い睡眠が取れた翌朝の様な寧ろ調子は良好な感覚。
だが、直後にそれもありふれた薬物勧誘の謳い文句の様にも思えて気分は沈む。
「まぁ、いいか……もうどうでも」
ベッドから起き上がり窓際へと歩み寄る司。
「うわぁ……」
初めて見る床から天井まで壁一面が一枚ガラスをはめ込んで作られた窓面。
今まで体験した事の無い開放感は、陰鬱だった司でも流石に少しテンションが上がる。
そして、そこから眺める見渡す限りの夜景。
五~六十階はあるだろうか? 今までに見たことのない視線の高さはどことなく優越感を感じさせる。
「なるほど、こういうのが〝馬鹿は高い所が好き〟ってヤツなんだな」
下々を見下す権力者ごっこをしながら司は冷めた笑いを零す。
――コツン。
ガラスに額を当てて呟く司の頬を涙の筋が流れる。
もうどうだっていい。
ガラスは流石に高層用の強化性なのか、体当たりをしたところで割れそうに無く、せっかくだからもうこのまま紐無しバンジージャンプでもしてみようかという興味は実現出来そうになかった。
「あんなに……殺したいほど、恨まれてたとはな……うくッ」
天涯孤独の中、一方的とはいえ心の支えにしていた者達から受けた汚物の様な扱い。
〝キモい〟〝ウザい〟は慣れている。〝死ね〟も、命の意味を理解していないヤツらからは良く出る言葉だ。
しかし、明確に敵意を込めた〝殺す〟は、受けるダメージが桁違いだった。
「なんで……お、俺……何も……」
辛い……身に覚えの無い言い掛かりだ。
何らかの誤解があるのかも知れないが、こんな自分にも明るく話し掛けてくれていたあの笑みが、全て偽物だった事実は変わらない。
「はぁ……ん?」
しばし目を閉じていた司が再びその目を開いて夜景を見渡していたところで、とあることに気が付く。
妙に……視界が鮮明だった。
眼鏡を掛けるほどでは無いが、ここ数年不規則で不健康な生活をしていたせいか、若干視力の低下を感じていたのに、今は異様なほど遠くまでくっきりと見える様な気がする。
「え? あ、あれ? どうして急に……ん?」
単なる気のせいかも知れないが、どうにも違和感が拭えなくて司は部屋を見渡す。
すると、部屋の出入口近くの壁に設置されたルームコールの受話器を見つけ、その横に小さなメモ書きが張られているのに気付いた瞬間、まるでカメラの望遠機能の様に……視界がズームした。
「うぇッ!? な、なな……なんだ!? 一体どうなって……はぁッ!?」
窓に背中を預けて両手で顔を覆い混乱する司。
触った感じでは目元に特に違和感は無く、何度瞬きをしても異変は感じない。
「何が起きて……」
恐る恐る、司はもう一度出入口の方へ目を向けた。
距離は大体三~四mはあるだろう。
メモの大きさは、事務用品などでよく見る指一本分くらいの細長いタグ。
普通なら、いくらまともな視力でも、そこに書いてある文字を識別など出来ないだろう。
だが……。
「〝お目覚めになりましたら1・0・1まで内線をお願いします〟お、おい……なんだよこれ?」
文字が読めるどころか、ポールペンで書かれた女性っぽい丸みのある文字感までしっかりと認識する事が出来た。
司は振り返りもう一度窓の外へも目を向け、ごちゃごちゃとした都心の街並みを見下ろし意識して目を凝らしてみる。
遠くに見えるビルの中ほどにあるオフィス。
こちらに背を向けて座る重役風の男性がデスクに唾を撒き散らしながら若い男性社員を怒鳴り散らしている。
遥か眼下の道路。
タクシー乗り場で待機する二人の運転手が、微糖と無糖の缶コーヒーを片手に雑談していて、無糖の方の男性は、ズボンのチャックが閉まっていなかった。
まるで超望遠の双眼鏡を構えているかの様に、何もかもが鮮明に捉えられる。
率直に言って気味が悪かった。
「ど、どうなってるんだ? まさか……あの薬のせいなのか?」
自分の手に視線を戻す司。
ピントはすぐに合いボヤけることも無い。
どうしてこんなことになったのか?
いくら考えても思い当たる節は、良善に飲まされたあの薬しか考えられない。
「……聞かないと、分かんないよな」
司は振り返って部屋を横切り、そのメモにある通り内線を掛けてみることにした。
だが、そこで丁度タイミング良く隣の扉が開く。
――ガチャッ!
「え?」
「あ! た、確か……李さんでしたっけ? 丁度良かった。今……」
――ガシャァァンッッ!!
恐らく、まだ寝ているであろう司を介抱するために来たのだろう。
いつも通り白服姿だった曉燕は、お盆に飲み水やタオルが浸された水桶を乗せて持っていたが、それを丸ごと床に滑り落として驚愕した顔で司から後退る。
「なんで? なんで〝D・E〟を摂取して、こんな短時間で……?」
「え? でい、でぃーいー? あ、あの……李さん?」
司と部屋のベッドを交互に見ながら、信じられないといった様子の反応を見せる曉燕。
だが、司からすれば何がそんなに信じられないのかが分からず反応に困る。
そして、そんな司を置いてけぼりに一人驚愕のキャパシティが限界を迎えたらしい曉燕は、司の目の前で突然胸元に手を入れ、そこからスマホに似た機器を取り出すのだが……。
「おぉふッ!?」
見えた。
黒いレース地の下着がちょっと見えてしまい、司は首の筋を痛めそうな勢いで視線を逸らす。
だが、曉燕はそんな司の配慮を気にする余裕も無く、やはり通信機の類だったらしいその機器に喚き立てる。
「り、良善様! た、たたッ! 大変です! 御縁様がッ! は、はい! 起きてらっしゃるんです! あり得ない! なんでそんなに早く脳が〝D・E〟に適合し……え? あ、はい! はい……も、申し訳ありません。はい、特に不調が出ているご様子は無く…………し、承知しました!」
通信の相手は良善だったらしい。
これは丁度いい、何にしてもまずはあの男に話を聞かねば今自分がどういう状況なのかも分からない。司は通信を切った曉燕に、もう胸元の乱れは大丈夫だろうかと恐る恐る顔を向けようとしたが、それよりも先に……。
「御縁様ッ!!」
「え? ちょッ!? ――わぷッッ!?」
突然両腕を広げたタックルからのホールド。
そして、そこからとても見た目の華奢な感じからは想像も出来ない膂力で持ち上げられ、そのままベッドにラグビーのトライの様にダイブされて抑え込まれてしまう。
「何ッ!? 何々ッ!? なんだよッ!?」
すっごく柔らかい……いや、違う。
滅茶苦茶いい匂いがする……いや、違う。
何が何だか分からぬまま、司は人生で初めて女性にベッドへ連れ込まれた訳だが、そこには一切淫靡なムードは無く、どちらかと言うと犯罪者が警官に取り押さえられるのに近い感じで抑え込まれていた。
「ちょちょちょッッ!! 何ッ!? 本当何なのッッ!!」
「み、御縁様! どうか落ち着いて下さい!!」
「いや! あんたが落ち着けよッ!?」
「お願いです! 御縁様! 今はとにかく動かないで下さい!!」
「わ、分かった! 分かったからそっちこそ動くなってッ!!」
仰向けになる司に覆い被さって来る曉燕。
必死な彼女にそんな意図はないのだろうが、誰がどう見てもいかがわしい構図だし、当事者である司もそう思う。
「あ、あの……マジで、退いてくれない?」
「ハァ……ハァ……だ、だめです。すぐに良善様がお見えになります。それまで動かないで下さい」
ちょっと乱れた息の美女に抱き締められながら耳元で囁かれて頭の奥がゾワゾワする。
健全な青少年の理性は完全に袋叩き状態。
しかし、ここで流れに任せて抱き返すなどという選択は無い司は、その温もりと柔らかさを意識しない様に死んだ魚の目の様になりながら穏やかな仏像の顔を想像してとにかく時間が過ぎるのを待った。
そして、ややあって早く過ぎて欲しいけど永遠に続いても欲しい矛盾の時間は終わりを告げ、曉燕が入って来た時と同じ扉が開く音がして、曉燕の黒髪の隙間から呆れ顔のマフィアが覗き込んで来た。
「曉燕? 私は彼を抑えておけと言ったのであって、年下の純情青年を襲えとは言っていないぞ?」
これ以上に無いほど〝最近の若者は……〟と言った感じの軽蔑顔を浮かべている良善。
甚だ不本意だが、この状況では何を言っても意味がなかった。
「あッ、良善様! お、おおかしいです! 普通の人間のはずの御縁様が、こんなにも早く目を覚ますだなんて!!」
依然として司の分からない所で慌てて捲し立てる曉燕。
色々言いたいことは山ほどある。だが、どう考えても彼女は自分の身体を案じてくれている様子が感じ取れてなんだか少し司はむず痒い気持ちになった。
「落ち着きなさい。それを確認するために私が来たんじゃないか。ほら、彼の青い性欲が暴走する前にそこから降りなさい」
言いたい放題言ってくれながら曉燕を片手で押し退けた良善は、ベッドの隣に立ちつつ司の身体を頭の先から爪先まで何度か流し見る。
とりあえずようやく落ち着いて話が出来そうだと、司は一旦ため息を付いて良善を見上げた。
「あ、あの……この状況は一体どういうことなのか、説明を求めてもいいですよね?」
「おや? 思いの外冷静じゃないか? こちらとしては有難い限りだが、彼女ほどではないにしろ少しぐらいは狼狽えてもおかしくない状況だと思うよ?」
一旦ベッドから離れて良善のために椅子を持って戻って来た曉燕を指差し、良善はそれを受け取り腰を下ろしながら司に苦笑を向ける。
「いや、十分混乱してますよ。ただ、その人が滅茶苦茶に掻き回してくれたせいで相対的に落ち着いちゃっただけです。それより、あの……良善さん? なんか、起きてすぐに俺の目が――」
不可解な超絶視力を訪ねようとする司。
だが、それに対して良善はそんな司の問いを片手で制する。
「待ちたまえ、御縁君。君としては確かにそのことも知りたいことではあるだろう。しかし、分からない状況が次から次に起きる際にはまず順を追って理解していくことが肝要だ。見たところ今の君の身体に差し迫った緊急性は無い状態だ。時間は十分にある……ここは順番に疑問を整理しようじゃないか」
帽子を袖机に置き、膝に肘を掛けてじっくりと話をする体勢に入る良善。
隣で姿勢を正して起立する曉燕もそうだが、やはりこの男はその場の雰囲気の主導権を握るのが上手い。
「気持ちを静めて冷静に考えてごらん。君は今、まず何を知りたい?」
ゆっくりと染み渡る声。
身体から適度に力が抜けて司はぼんやりと天井を見上げて少し黙る。
知りたいことは山積みだ。というよりも分かることが殆どない。
でも、その中でやはり真っ先に知りたいのは……。
「なんで、俺は……あんなに殺したいほどあの人達に憎まれてるんでしょうか?」
天井を向いたまま、司の目からまた涙が流れ落ちる。
今までずっと苦しい日々を過ごして来たが、誰かに嫌な思いをさせたり傷付ける様な事をした覚えは無い。今にして思えば、それだけがこれまでの自分が誇れる唯一の長所だったかもしれない。
だが、それではあの憎悪は説明が付かない。
自分の生きざまが招いた結果なのだろうと思うが、司はもう自分で考える余力が無く縋る様に良善にその答えを求めた…………。
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