いろはにほへと

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その日は1日、人の出入りでごった返していた。冬子には殴られるし、組長には呆れられるし散々だった。
神原の機嫌は悪いままで、万里とは目も合わせようとしてくれなかった。それも仕方がない。
ここまで大きなことをしたのは2回目だからだ。
消灯を迎えた薄暗い病室で、万里は何もない真っ白な天井を見上げていた。
雷音は自分と同じ極道の人間だった。だが決定的に違うところは、組織に身を置いた万里と逃げた雷音。
今思えば、その中身を知り得た人間だからこそ、あそこまであからさまな嫌悪を見せたのかもしれない。
「せやからて…」
自分を助けるために犠牲になるのは何か間違っている。そうだ、違う。
万里は起き上がるとフラつく足を何とか奮い立たせ、部屋に備え付けられたクローゼットに向かった。
飲まず食わずで監禁され暴行されたダメージは思った以上に大きいようだったが、そうは言ってられない。万里はブルーの病室着を脱ぐと、クローゼットのドアを開けた。
「はー、くそ」
その中にあるはずの物、スーツがない。それどころかジャージの一つも見つからない。これは神原の仕業だなと思いながら、姿鏡に映る自分を見た。
赤黒い痣と身体のあちこちを覆う包帯にガーゼに湿布。久々に派手にやらかしたなぁと思う。
「どないしょうか」
まさかアンダーウェアだけで出ていくわけにはいかないし。かといって、こんな目立つ病室着で…と思ったが、途中で調達すればいいかと、もう一度それに袖を通そうとしたとき部屋のドアがゆっくりと開いた。
「誰や…!?」
万里が言うと、訪問者はフッと笑って中に入りドアを閉めた。
「あ、…あー、コンビニ…行こう思うて」
「コンビニ、俺も一緒に行ったろうか?」
由はそう言うと、紙袋を万里に渡した。覗き込めば、中にはスーツと靴が入っていた。
「よ、り?」
「どこのコンビニ行こか?」
「いや、あかんて、お前はあかん。お前を巻込んだら、次こそ間違いなく海里に殺される」
「万里、ええんか?俺を連れて行かへんなら、電話してまうで。ほな速攻、飛んでくるわな。次は確実に刺されるかもしらんし、ここの警備も厳重になる」
ねぇ?と由は神原の電話帳を呼び出して、万里に向けた。発信を押せば、すぐに神原に電話がかかる。
万里は嘆息すると、両手を挙げて項垂れた。
「分かった、一緒に行こう」
由はそれに満面の笑みを浮かべた。

白のPorsche Cayman GTSの助手席で万里は愛用の煙草を燻らせ、流れる景色を見ていた。ハンドルを握る由は至極、ご機嫌に鼻歌を歌う。
「万里、辛かったら、寝たらええんよ?」
「あー、うん。今はへっちゃら」
「そう?でもあれやな、万里は由良弟をえらい気に入ってるんやね」
「気に入っとるってゆーか…」
寝てたとはさすがに言えずに、口籠る。
万里が性に関して奔放な人間と由も知ってはいるが、さすがにこればっかりはなと、ウィンドウからまるで引き摺り出されるようにして出ていく紫煙を眺めた。
「由、一新一家、逢うたことある?」
「あの組とは、さすがに関わりあらへんなぁ。でも仁流会相手に喧嘩出来る、唯一の極道やで」
「武闘派?」
「あっちはねぇ、せやねぇ、どっちかいうたら鬼塚組と似てるかな」
「えー、ややこしいわぁ」
「ねー」
「由、怒ってへんの?」
「何に?」
「俺の全部」
万里は言うと、由が用意していたコンビニの袋を漁りだし、中からミネラルウォーターを取り出した。
それを由は横から取ると、蓋を軽く開けて万里に渡した。
「俺が今まで、万里に怒ったことあった?」
ないよと、万里は言わずに首を振った。
由との付き合いは長い。両親を亡くしてすぐ、明神の屋敷に連れてこられた時から一緒に育ってきた。
まるで兄弟のようにして育った由との関係は、恐らく誰よりも濃い。だが、その長い年月の中で由が怒ったことと言えば、高校生の時につるんでいた仲間連中と泳げもしないのに勝手に海に遊びに行き、溺れかけたときだけ。
断りなく海に行ったことと、その連中と付き合うことを快く思っていなかったうえに、溺れた万里を置いて逃げたことが由の怒りに火を点けた。
たまたま海に居たサーファーに助けられたが、危うく命を落とすところだったのだ。
その時も万里には怒らず、その仲間連中が学校を退学して姿を消した。由は万里のことになると、容赦のない男だったのだ。
「俺はね、万里がやりたいことをやるだけだから、いいんよ。海里には怒られるけどね」
由はそう言うと、楽しそうに笑った。

「で、ここまで来たけど、どないする?」
由はハンドルに両手を置いて、そこに顎を乗せた。見えるのは鬼塚組フロント企業、イースフロント。
空高く聳え立つビルに、感心を通り越して呆れる。
「鬼塚組、代紋下ろして真っ当な商売したらええんに」
そりゃ、規模の大きな組織に一気に成長するはずだわと万里は息を吐いた。
「こないなでっかい会社って、社長はんに逢いたいんですぅ言うても逢わしてもらわれへんよな」
「組長に逢いたいなら、電話したらええやん」
「着拒されてるもん」
どうよ、この嫌われようと苦笑い。
「あ!!」
万里は急に声を上げて乗り出すように前を見据えると、急に車を飛び出した。
「万里!」
由が慌てて車を降りると、万里は黒のS550ロングから降りてきた男の腕を掴んでいた。周りが警戒するなか、男はそれを制していたので由は胸を撫で下ろした。
万里が声を掛けた男はサングラスをしていて、万里を見ると驚いた顔を見せながらも一言二言、言葉を交わしていた。そして万里が由の方を指差し二人してこちらを見るので、由は男に頭を下げた。

「いやー、すごいタイミングで現れんね!」
万里はエレベーターで男、鬼塚組若頭の佐野彪鷹に興奮気味で言うと、彪鷹は苦笑いをした。
「いや、バッドタイミングやろ。今はゴタついとるから、あんまり空気よぉないし、俺は別件で呼ばれてんのにお前とか連れて現れるとか」
チャレンジャーやんと、肩を落とした。
「ゴタついてるん?相変わらず元気な組やな」
「お前も他所者と遊んでるんやろうが。なかなか収まらんのぉ」
その顔、どうせそれやろと見ると万里は首を振った。
「みんな我儘でかなんわ。もうちびっと賢くなってくれたらいいんにね」
「ほんまな、暴れるにしても派手にやりすぎ。せやから、可愛い顔にでっかいもん付けてこなあかんくなんねん」
彪鷹は万里の額を指で弾いた。それに合わせるようにして、エレベーターが目的の階についた。
彪鷹の後ろを由と歩きながら、目を覆っているガーゼと眼帯を外していい?と聞いたが、由はにっこり笑ってダメとだけ言った。
長い廊下の奥にいつか見た男が立っていて、男は万里達を見ると”は!?”と声を上げた。
「相川、しー」
彪鷹が口に人差し指を立てて言うが、歓迎されない訪問者に相川が狼狽しだした。
マジかよ!いや、ないだろ!を小声で繰り返し、だが、そうもしてばっかりもおれずに渋々、ドアをノックして開けた。
「あ?何やそれ」
万里達を見た男、鬼塚組組長の鬼塚心の第一声がそれだった。
応接セットのソファに珍しく座り、向かいに座る相馬と何やら話をしている最中だったらしく、若頭である相馬北斗の鋭い視線が彪鷹に向けられた。
「下でー、拾った?」
「そうですか。何でも拾って帰ってくるのは血ですかね。で、わざわざどうされたんですか、明神さん。ご連絡くだされば、お迎えにあがりましたのに」
相馬はまるで歓迎しているとばかりに言うとニッコリと笑い、心の隣に移ると万里たちを向かいに座るように促した。
こういうとこ神原そっくりだなと万里は思いながら、アポなしごめんねと心の向かいに腰掛けた。
彪鷹は居心地が悪そうに一人掛けのソファに腰掛け、相馬の方に視線は向けなかった。
「何や、急にお前。派手な顔しやがって」
「あー、のさー、一新一家って付き合いあったりしはる?」
あれこれ面倒くさいので単刀直入に言うと、心が首を傾げた。
「あ?一新一家?」
「せや、組長知ってる?」
「…由良っていう男や」
ビンゴ、やっぱ関係あるなと万里はにっこり笑った。
「逢いたいねんけど」
「お前、アホやろ」
心はそう言い捨てると鼻で笑った。
「明神さん、一新一家に何かご用ですか?その顔の傷と何か関係が?」
隣の相馬がにっこりと笑う。さぁ、その目の原因を話せと言わんばかりの顔だ。
「いや、野暮用」
万里はそうはいくかと、ふわっと笑う。相馬は神原の上をいく策士家だ。油断は禁物と、視線を合わせないようにする。
「そういえば、そちらの方は初めてお目にかかりますね。神原さんは今日はお見えでないのですね」
「あー、神原はおらん。こいつはー、」
何?今、舎弟頭なの?何なの?と由を見ると、由は微笑を浮かべた。
「鬼塚組の方とはお逢いするのは、先代の時代以来でして。明神組若頭補佐の飛鷹 由です」
「別に一新一家と逢う手筈、付けたってもええけどな」
「ほんま!?」
万里が言うや否や、心は目にも留まらぬスピードで万里の胸倉を掴み引き寄せると、テーブルにその身体を押し倒した。
刹那、由が懐から銃を出し心の頭に銃口を当てたが、その由の腹には相馬が同じように銃口を当てていた。
「何さらすんじゃ!クソガキ!手ぇ離せ!」
由が万里を引っ張るが、心は万里を離さずに反対に掴んだ手に力を入れた。
「ふん、訳も言わんまんま、逢わせろってなぁ。日頃の行いから物言えや」
心がぐっと万里の細い首を掴んだ指に力を入れると、その苦しさから万里は表情を歪ませ固く太い腕を掴んだ。
足で締め上げようとするも、その足の上に心の身体が乗っていて動けない。万里の格闘スタイルを熟知しているのだ。
「神原は戦力にならんからって、どっから引っ張ってきた。ええ動きするやんけ、こいつ」
心が由に目を向けぬまま言うと、由は口角を上げて笑った。だが由はある違和感に気が付き、その違和感の方へ視線も向けずに首を傾げた。
「どないして、あんたは見てるだけ?」
そう、大きな応接テーブルの上に転がされた万里の上に乗りかかる心と、その頭に銃口を向ける由。そして、その由の腹に銃口を向ける相馬。
その光景を目の前で見ている彪鷹は、一切の動きを見せていなかった。何なら、今から煙草でも燻らしそうな感じだ。
「え?俺?いやー。まぁ、俺に気にせず、続けて」
「いたっ!!」
彪鷹が言う言葉に被せるようにして万里が声を上げたので、由は”おい!”と我鳴って心の頭を銃口でこついた。
「あれ、何や、お前。めっちゃ弱ってるやん」
心はそれを気にすることなく、無理矢理に剥がしたガーゼと眼帯の奥にある目を見て蛾眉を顰めた。
「ああ!?何!?」
「おもんな」
その言葉で相馬が銃を下げ、由は首を傾げた。
「ここまで弱ってる人間相手するほど、暇ちゃうわ」
心が煙草を銜えてソファに戻ると、相馬も同じようにソファに腰を下ろした。
それに由は息を吐いて銃を仕舞うと、万里を起こし目のガーゼと眼帯を元に戻した。
万里が本調子ではないことを、この男はどうして分かったのか。思いながら本気で殺意を向けたにも関わらず、それに一切、臆することもない。
それどころか、全く相手にもしていない鬼塚組に驚かされた。これが、仁流会NO.2…。いや、鬼塚心。
「一新一家、逢えるようにしたるやんけ。そのガーゼひん剥いた詫びや。明日、またここに来い」
「…何やねん、くそ」
「ところで明神さん、最近、仁流会で良からぬ動きがあるようですが、何か変わりはないですか?」
「は?変わり?何それ」
万里は苛立ちを隠さぬまま相馬を睨むと、左目を眼帯の上から擦った。目は痛くないが、無理やり剥がされたテープの痕がひりひりと痛い。
だが、相馬はそれににっこりとほほ笑むだけで、話を続けた。
「例えば、嫌がらせを受けたとか、例えば、挑発するような手紙か何かが送られてきたとか」
「365日24時間体制で受けてるけど?」
「はは、そうですか。それは賑やかですね。いや、鬼頭組が最近、被害に遭ったそうでしてね」
「鬼頭?眞澄か?ふーん、珍しいなぁ。あいつんとこは京都で一番規模がデカイ分、そーゆーのんあらへんねんけどな」
「そうですね」
相馬はそう言って笑った。
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