ジェノサイド

水ノ灯(ともしび)

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隔離病棟のようだった。あながち間違ってはいない、と犬井は眼下の景色を見下ろして思う。

教会を模して作られた部屋に数百人の人々が列をなしていた。上から見ると虫のようだ、と思ったのは花咲だった。手摺りにもたれかかり、音楽ホールのような広い空間を見下ろす。胸から下げた施設に入るための許可証がぶらりと垂れた。

教壇に立っているのは牧師だろうか。牧師とは名ばかりの公務員かもしれない。カウンセリングのような説法が始まって犬井と花咲はちらりと目線を交わした。

数ヶ月前、この国では大虐殺が起きた。それは宗教団体による集団催眠のようなものだった。身分の低い者が身分の高い者を突然敵視し始め、不幸を招き入れているのはこの者達だと妄信し、虐殺が起きた。

身分が低くとも邪宗に騙されることなく殺しに手を染めなかった者は、同じく不幸をもたらす悪魔だと言われて殺された。殺さなければ殺されると恐れて命惜しさに泣く泣く殺人に手を染めた者もいるという。

国民の約一割もが犠牲になった時、ようやく虐殺の手は止まった。隣国が戦力を用いて押しとどめたのだ。国民のほとんどが加害者と被害者であるというので、法は全く機能しなかった。加害者が多すぎて刑務所に入れるわけにもいかず、このような施設で更生を促し監視している状況だ。

犬井と花咲は暴動を収めた隣国の使者であり、更生施設の視察に赴いていた。二人の見ていた光景は毎日行われる講義だ。加害者に自分の罪を認めさせ、どれだけ恐ろしいことをしたのかという自覚を促し、贖罪の意識を思い起こさせる。加害者は神に懺悔をし、悔い改めるのだ。

神という不確かなものを使うしかなかったことにも国がどう対応していいやら分からなかったことが窺える。ここにいるのは全員殺人犯だというのだから異常だ。しかも、これは一部にしか過ぎないのだ。

「……出る?」

犬井の眉間の皺が深くなったのを見て花咲は声をかけた。犬井は一度頷いて背後の扉を押し開ける。花咲もその後に続いてホールを出た。

外のソファーに腰掛けて深く息をつく。何から何まで異常で、目眩がしそうだった。人を殺しておいて普通に寝起きし、何事もなかったように過ごしているのだ。

まるで喪服のような漆黒のスーツに身を包んだ二人のうち、上背のある方が犬井で小柄な方が花咲だった。二人は昔からの幼馴染で、職場まで同じくした。

厳しげな顔立ちの犬井と正反対に、花咲は瞳が大きいせいか軟派な印象を与えた。規律を守って短く切り揃えた黒髪を保つ犬井と違い、花咲は目を瞑ってもらえるギリギリまで明るく髪色を染め、緩くウェーブのかかった髪を後ろで小さく括っていた。身長差と雰囲気の違いからデコボココンビだと揶揄されたものだ。


自販機の前に立っていた花咲が犬井に缶コーヒーを投げてよこし、犬井は危ういところでそれを掴んだ。花咲は自分の分の缶を開けつつ犬井の隣に座り込んだ。

一番異常なのは、加害者に更なる殺しをさせようとしている政府だった。加害者全てがおとなしく更生施設に入るわけもなく、未だに邪宗に染まっているものもいれば殺しの味を覚えてしまった狂人もいる。猟犬よろしくそれを殺人犯に狩らせようというのだ。自分たちで事態を収拾させることこそが償いであり義務なのだと。

慈善活動でもさせているつもりなのだろうか。殺人への抵抗が低くなった人々を体良く駒に使って邪魔者を駆除したいだけなのだ。人の命を奪ったものの命は、おそろしく軽い。神は許したもうたと言えども被害者は決して許さない。

復讐のつもりだろうか。猟犬の監視は被害者にやらせるというのだから人間はつくづく恐ろしい。身内を、恋人を、友人を殺された者が殺人犯が殺人を犯すこところを監視しろとは。

苦いコーヒーを啜りつつ、自分も立場のあるものとして上の考え方が分からないわけでもないことを恥じた。国として早く立ち直るためには人という小さな単位でなど見ていられない。

上辺だけの正義で民を駆り立て、実利を得るため利用できるものは利用し尽くすのだ。その矛盾に気づかれようが気づかれまいが関係ない。強い力で押さえつけて後は神だの何だの言って誤魔化してしまえばいい。

とっくにやめた煙草を吸いたいような気持ちになって、犬井は苛々と缶の口を噛んだ。

「犬井」

花咲に小声で名前を呼ばれ、犬井は思考の中から抜け出す。花咲はちらりと犬井を見た後、視線を遠くに投げた。犬井も視線の先を追い、はっとする。

二つの人影が右手の通路奥から近づいてきていた。靴音が聞こえるようになる。

長身の男はスーツの上にロングコートを羽織り、神経質そうな顔立ちに右目を医療用の眼帯で覆っていた。隻眼を気にしているのか、黒い前髪は少し長い。

対して、隣を歩いている男はカーキ色のモッズコートのポケットに手を突っ込み、ロングブーツに包まれた足をだるそうに動かしている。眩しい金色の髪は施設の中では浮いていた。へらへらと何か話しかけているようだが、スーツの男は険しい顔をするばかりだ。

距離が縮まり、モッズコートの胸元にキラリと光るものが見えた。予想はしていたが、それがドッグタグだと気づいて犬井と花咲は身を固くする。

猟犬と監察官、まさにその二人組なのだろう。

「城谷、今回の仕事は殺していいの? いっつも寸止めでいい加減飽きたんだけど」

モッズコートの男が緩い口調で言う。城谷と呼ばれた男は無視して靴音を響かせるだけだ。厚い唇を尖らせる男の背でファーのついたフードが歩くたびにおどけるように揺れる。

犬井も花咲もなるべく注視しないようにと努めるが、どうしても視線が外せなかった。悪意のない話し方に違和感しかない。罪の意識など感じさせない口ぶりだった。何かがおかしい。

二人組はソファーの前を横切らんと近づいてくる。

「お前が殺していいって言えば誰でも殺してみせるんだけどなあ」

物騒な言葉に面食らう。カツン、と靴音は気づけばソファーの目の前で鳴っていた。いつの間にか横顔が見えるほどに接近している。

「例えば、コーヒーブレイク中のお偉いさんとかね」

ちらりと流し見た男と視線が合う。犬井はびくりとして息を詰めた。男は心底おかしそうに瞳を三日月に歪め、唇を吊り上げてみせた。一瞬のことだったが、心臓を掴まれたような寒気が走った。

「ばっ…! すいません、こいつにはよく言っておきますから!」

慌てて城谷が犬井に頭を下げる。面食らって答えられない犬井の代わりに花咲が軽く受け答えた。馬鹿、と吐き捨てるように言って城谷は男の手首を掴んで半ば引きずるように早足で去っていった。

固まっていた犬井は、男の胸元で翻ったドッグタグを目の端に捉えていた。刻まれていたのは数字の0。ホットコーヒーの缶を握っているはずなのに、手先まで冷え切るような錯覚に陥る。資料で見た情報が脳裏を駆けた。

数字によって階級分けされた犯罪者の中で、たった数人しかいないとりわけ危険な異常者。

「零級……」

落ちた呟きに花咲が驚いて目を見開く。目を見張った先には転びそうになって跳ね上がったフードが映っていた。
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