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絶対零度の共振
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何の変哲もなくやってきた朝の中を佐々木はゆったりとした歩調で歩いていた。朝方の空気は冷たいが、清涼に肺に落ちてくる。綺麗な呼吸をしているような気分で足を進めれば、見慣れた長身が背を丸めて歩いているのが見えた。
「わんこー」
佐々木は緩く呼びかけると乾の元へ足早に寄っていく。偶然佐々木と行き合ったのだと気づくと、乾は駆け寄ってきた佐々木がおかしかったのか少し笑った。
「サッキー、おはよ」
そんな風に挨拶を交わして向かうのは、もう長く通っている事務所に決まっていた。寒い寒いと口々に言い合って慣れた道を辿る。昨夜大変なことになっていた事務所の前は何事もなかったかのように片付いていた。掃除屋すげえな、と二人で感心して階段を上っていく。
昔に比べて随分使用感の増したドアノブを捻ると、鍵はかかっていなかった。そっと扉を開いて中に入るが、デスクには誰の姿もない。佐々木も乾も自分が使いやすく整えられたデスクに荷物を置く。
乾は恐る恐る玄関横に目をやったが、もうあの赤い箱は無くなっていた。友人達が気を回して掃除屋に片付けを依頼してくれたのだ。異物がなくなり、知った事務所が戻ってきたことに知らず張り詰めていた気が楽になった。
ここに誰もいないのならば仮眠室かと佐々木は音を立てぬように扉を引く。思っていた通り、椅子に腰掛けた大きな背中が見えた。ベッドにはガーゼと包帯だらけになった冴島が静かに眠っている。安居の服は昨日のままだ。あれから帰っていないのだろう。安居の横顔はカーテンから漏れ出た朝日に照らされていた。眠っているのかと思ったが、視線は冴島に向いている。一晩中そうしていたのだろうか。慣れた懺悔の目がじっと冴島に注がれている。
なんだか見てはいけないものを見てしまったような気分になる。佐々木や乾よりも長く共にいる二人は、二人にしか分からぬ何かがあった。それは絆と言い表すには歪で、それでいてやけに強固だった。他人には踏み込めない領域なのだと、入り込もうと思ったことすらない。
そっとしておこうと身を引いたのだが、不意に振り返った安居と目が合った。気まずげにおはようと言えば安居は弱い声で挨拶を返す。まるで安居の方が怪我人のようだった。
昨夜はとにかく冴島の怪我を診てもらわなければと慌てて医者に駆け込んだ。幸い命に関わるような怪我はしていなかったが、打撲だらけの体は痛ましい。協力してくれた友人達はほとんど礼も言わせてもらえず無事だったならよかったとさっさと帰ってしまった。謝礼を払わなければと提案したが、誰も取り合ってくれる者はいない。改めて礼に行けばまた焼肉くらいは奢らせてもらえるだろうか。
気づけば火消しもすっかり終わっていて、壊滅した暴力団は内部抗争が行われたようだと計画通りにニュースで報道されていた。真実を知る者はもう誰もいない。名もなき二人の潜入者もあの場で一緒に死んでしまった。
「…………サッキー?」
話し声で目が覚めたのか、ぼんやりとした様子で冴島が佐々木を呼んだ。昨夜から眠り続けていたようで、安居が思わず立ち上がって近寄っていく。ずっと付いていた様子の安居に仕方ない奴だと言わんばかりに目を細めて、冴島は佐々木を見た。昨夜のやりとりを覚えているのかいないのか、戻ってきた佐々木を見て安心したように息を吐く。
「サッキー疲れてるやろ。休んでよかったのに」
安居こそ一睡もしていないのか疲労が滲んだ表情で気遣わしげに言った。長期の潜入はずっと神経のどこかが張り詰めていて、想像以上に体力を使う。佐々木は心身ともに磨り減っており休めるのならば言葉に甘えて休んでしまいたい程だった。
それでも、この場所に来なければ日常は帰ってこない。慣れた事務所で仲間の顔を見て、当たり前のように名前を呼ばれるとようやく自分が佐々木に戻れるような気がした。昔は一人で仕事をしていたのが考えられない程に、この場所が安心を与えてくれる。どれだけ長い間留守にしていても確かに置かれている佐々木のデスクが、ここに居場所があるのだと示していた。
「いや? 稼がないといかんしな」
佐々木はそう言っていたずらっぽく笑ってみせる。儲けもあって、おまけに仲間がいる。聞き慣れたあだ名も心地いい。佐々木を佐々木たらしめる場所にようやく帰ってこられた。
嬉しいやら悲しいやら、情報屋としての仕事が終わっても闇金融の仕事は降りかかってくる。乾はにんまりと笑って次の仕事のリストを引っ張ってきた。弱い悲鳴を上げる佐々木に三人の笑い声が返ってくる。賑やかな声は多くも少なくもなくちょうど四人分。広く感じられた事務所の空白は埋まり、見慣れた光景が戻ってくるのだった。
「わんこー」
佐々木は緩く呼びかけると乾の元へ足早に寄っていく。偶然佐々木と行き合ったのだと気づくと、乾は駆け寄ってきた佐々木がおかしかったのか少し笑った。
「サッキー、おはよ」
そんな風に挨拶を交わして向かうのは、もう長く通っている事務所に決まっていた。寒い寒いと口々に言い合って慣れた道を辿る。昨夜大変なことになっていた事務所の前は何事もなかったかのように片付いていた。掃除屋すげえな、と二人で感心して階段を上っていく。
昔に比べて随分使用感の増したドアノブを捻ると、鍵はかかっていなかった。そっと扉を開いて中に入るが、デスクには誰の姿もない。佐々木も乾も自分が使いやすく整えられたデスクに荷物を置く。
乾は恐る恐る玄関横に目をやったが、もうあの赤い箱は無くなっていた。友人達が気を回して掃除屋に片付けを依頼してくれたのだ。異物がなくなり、知った事務所が戻ってきたことに知らず張り詰めていた気が楽になった。
ここに誰もいないのならば仮眠室かと佐々木は音を立てぬように扉を引く。思っていた通り、椅子に腰掛けた大きな背中が見えた。ベッドにはガーゼと包帯だらけになった冴島が静かに眠っている。安居の服は昨日のままだ。あれから帰っていないのだろう。安居の横顔はカーテンから漏れ出た朝日に照らされていた。眠っているのかと思ったが、視線は冴島に向いている。一晩中そうしていたのだろうか。慣れた懺悔の目がじっと冴島に注がれている。
なんだか見てはいけないものを見てしまったような気分になる。佐々木や乾よりも長く共にいる二人は、二人にしか分からぬ何かがあった。それは絆と言い表すには歪で、それでいてやけに強固だった。他人には踏み込めない領域なのだと、入り込もうと思ったことすらない。
そっとしておこうと身を引いたのだが、不意に振り返った安居と目が合った。気まずげにおはようと言えば安居は弱い声で挨拶を返す。まるで安居の方が怪我人のようだった。
昨夜はとにかく冴島の怪我を診てもらわなければと慌てて医者に駆け込んだ。幸い命に関わるような怪我はしていなかったが、打撲だらけの体は痛ましい。協力してくれた友人達はほとんど礼も言わせてもらえず無事だったならよかったとさっさと帰ってしまった。謝礼を払わなければと提案したが、誰も取り合ってくれる者はいない。改めて礼に行けばまた焼肉くらいは奢らせてもらえるだろうか。
気づけば火消しもすっかり終わっていて、壊滅した暴力団は内部抗争が行われたようだと計画通りにニュースで報道されていた。真実を知る者はもう誰もいない。名もなき二人の潜入者もあの場で一緒に死んでしまった。
「…………サッキー?」
話し声で目が覚めたのか、ぼんやりとした様子で冴島が佐々木を呼んだ。昨夜から眠り続けていたようで、安居が思わず立ち上がって近寄っていく。ずっと付いていた様子の安居に仕方ない奴だと言わんばかりに目を細めて、冴島は佐々木を見た。昨夜のやりとりを覚えているのかいないのか、戻ってきた佐々木を見て安心したように息を吐く。
「サッキー疲れてるやろ。休んでよかったのに」
安居こそ一睡もしていないのか疲労が滲んだ表情で気遣わしげに言った。長期の潜入はずっと神経のどこかが張り詰めていて、想像以上に体力を使う。佐々木は心身ともに磨り減っており休めるのならば言葉に甘えて休んでしまいたい程だった。
それでも、この場所に来なければ日常は帰ってこない。慣れた事務所で仲間の顔を見て、当たり前のように名前を呼ばれるとようやく自分が佐々木に戻れるような気がした。昔は一人で仕事をしていたのが考えられない程に、この場所が安心を与えてくれる。どれだけ長い間留守にしていても確かに置かれている佐々木のデスクが、ここに居場所があるのだと示していた。
「いや? 稼がないといかんしな」
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嬉しいやら悲しいやら、情報屋としての仕事が終わっても闇金融の仕事は降りかかってくる。乾はにんまりと笑って次の仕事のリストを引っ張ってきた。弱い悲鳴を上げる佐々木に三人の笑い声が返ってくる。賑やかな声は多くも少なくもなくちょうど四人分。広く感じられた事務所の空白は埋まり、見慣れた光景が戻ってくるのだった。
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ミヤビットさんありがとうございます!
楽しんで読んでくださって嬉しいです。
どうぞこれからもよろしくお願いします!