114 / 114
絶対零度の共振
14
しおりを挟む
何の変哲もなくやってきた朝の中を佐々木はゆったりとした歩調で歩いていた。朝方の空気は冷たいが、清涼に肺に落ちてくる。綺麗な呼吸をしているような気分で足を進めれば、見慣れた長身が背を丸めて歩いているのが見えた。
「わんこー」
佐々木は緩く呼びかけると乾の元へ足早に寄っていく。偶然佐々木と行き合ったのだと気づくと、乾は駆け寄ってきた佐々木がおかしかったのか少し笑った。
「サッキー、おはよ」
そんな風に挨拶を交わして向かうのは、もう長く通っている事務所に決まっていた。寒い寒いと口々に言い合って慣れた道を辿る。昨夜大変なことになっていた事務所の前は何事もなかったかのように片付いていた。掃除屋すげえな、と二人で感心して階段を上っていく。
昔に比べて随分使用感の増したドアノブを捻ると、鍵はかかっていなかった。そっと扉を開いて中に入るが、デスクには誰の姿もない。佐々木も乾も自分が使いやすく整えられたデスクに荷物を置く。
乾は恐る恐る玄関横に目をやったが、もうあの赤い箱は無くなっていた。友人達が気を回して掃除屋に片付けを依頼してくれたのだ。異物がなくなり、知った事務所が戻ってきたことに知らず張り詰めていた気が楽になった。
ここに誰もいないのならば仮眠室かと佐々木は音を立てぬように扉を引く。思っていた通り、椅子に腰掛けた大きな背中が見えた。ベッドにはガーゼと包帯だらけになった冴島が静かに眠っている。安居の服は昨日のままだ。あれから帰っていないのだろう。安居の横顔はカーテンから漏れ出た朝日に照らされていた。眠っているのかと思ったが、視線は冴島に向いている。一晩中そうしていたのだろうか。慣れた懺悔の目がじっと冴島に注がれている。
なんだか見てはいけないものを見てしまったような気分になる。佐々木や乾よりも長く共にいる二人は、二人にしか分からぬ何かがあった。それは絆と言い表すには歪で、それでいてやけに強固だった。他人には踏み込めない領域なのだと、入り込もうと思ったことすらない。
そっとしておこうと身を引いたのだが、不意に振り返った安居と目が合った。気まずげにおはようと言えば安居は弱い声で挨拶を返す。まるで安居の方が怪我人のようだった。
昨夜はとにかく冴島の怪我を診てもらわなければと慌てて医者に駆け込んだ。幸い命に関わるような怪我はしていなかったが、打撲だらけの体は痛ましい。協力してくれた友人達はほとんど礼も言わせてもらえず無事だったならよかったとさっさと帰ってしまった。謝礼を払わなければと提案したが、誰も取り合ってくれる者はいない。改めて礼に行けばまた焼肉くらいは奢らせてもらえるだろうか。
気づけば火消しもすっかり終わっていて、壊滅した暴力団は内部抗争が行われたようだと計画通りにニュースで報道されていた。真実を知る者はもう誰もいない。名もなき二人の潜入者もあの場で一緒に死んでしまった。
「…………サッキー?」
話し声で目が覚めたのか、ぼんやりとした様子で冴島が佐々木を呼んだ。昨夜から眠り続けていたようで、安居が思わず立ち上がって近寄っていく。ずっと付いていた様子の安居に仕方ない奴だと言わんばかりに目を細めて、冴島は佐々木を見た。昨夜のやりとりを覚えているのかいないのか、戻ってきた佐々木を見て安心したように息を吐く。
「サッキー疲れてるやろ。休んでよかったのに」
安居こそ一睡もしていないのか疲労が滲んだ表情で気遣わしげに言った。長期の潜入はずっと神経のどこかが張り詰めていて、想像以上に体力を使う。佐々木は心身ともに磨り減っており休めるのならば言葉に甘えて休んでしまいたい程だった。
それでも、この場所に来なければ日常は帰ってこない。慣れた事務所で仲間の顔を見て、当たり前のように名前を呼ばれるとようやく自分が佐々木に戻れるような気がした。昔は一人で仕事をしていたのが考えられない程に、この場所が安心を与えてくれる。どれだけ長い間留守にしていても確かに置かれている佐々木のデスクが、ここに居場所があるのだと示していた。
「いや? 稼がないといかんしな」
佐々木はそう言っていたずらっぽく笑ってみせる。儲けもあって、おまけに仲間がいる。聞き慣れたあだ名も心地いい。佐々木を佐々木たらしめる場所にようやく帰ってこられた。
嬉しいやら悲しいやら、情報屋としての仕事が終わっても闇金融の仕事は降りかかってくる。乾はにんまりと笑って次の仕事のリストを引っ張ってきた。弱い悲鳴を上げる佐々木に三人の笑い声が返ってくる。賑やかな声は多くも少なくもなくちょうど四人分。広く感じられた事務所の空白は埋まり、見慣れた光景が戻ってくるのだった。
「わんこー」
佐々木は緩く呼びかけると乾の元へ足早に寄っていく。偶然佐々木と行き合ったのだと気づくと、乾は駆け寄ってきた佐々木がおかしかったのか少し笑った。
「サッキー、おはよ」
そんな風に挨拶を交わして向かうのは、もう長く通っている事務所に決まっていた。寒い寒いと口々に言い合って慣れた道を辿る。昨夜大変なことになっていた事務所の前は何事もなかったかのように片付いていた。掃除屋すげえな、と二人で感心して階段を上っていく。
昔に比べて随分使用感の増したドアノブを捻ると、鍵はかかっていなかった。そっと扉を開いて中に入るが、デスクには誰の姿もない。佐々木も乾も自分が使いやすく整えられたデスクに荷物を置く。
乾は恐る恐る玄関横に目をやったが、もうあの赤い箱は無くなっていた。友人達が気を回して掃除屋に片付けを依頼してくれたのだ。異物がなくなり、知った事務所が戻ってきたことに知らず張り詰めていた気が楽になった。
ここに誰もいないのならば仮眠室かと佐々木は音を立てぬように扉を引く。思っていた通り、椅子に腰掛けた大きな背中が見えた。ベッドにはガーゼと包帯だらけになった冴島が静かに眠っている。安居の服は昨日のままだ。あれから帰っていないのだろう。安居の横顔はカーテンから漏れ出た朝日に照らされていた。眠っているのかと思ったが、視線は冴島に向いている。一晩中そうしていたのだろうか。慣れた懺悔の目がじっと冴島に注がれている。
なんだか見てはいけないものを見てしまったような気分になる。佐々木や乾よりも長く共にいる二人は、二人にしか分からぬ何かがあった。それは絆と言い表すには歪で、それでいてやけに強固だった。他人には踏み込めない領域なのだと、入り込もうと思ったことすらない。
そっとしておこうと身を引いたのだが、不意に振り返った安居と目が合った。気まずげにおはようと言えば安居は弱い声で挨拶を返す。まるで安居の方が怪我人のようだった。
昨夜はとにかく冴島の怪我を診てもらわなければと慌てて医者に駆け込んだ。幸い命に関わるような怪我はしていなかったが、打撲だらけの体は痛ましい。協力してくれた友人達はほとんど礼も言わせてもらえず無事だったならよかったとさっさと帰ってしまった。謝礼を払わなければと提案したが、誰も取り合ってくれる者はいない。改めて礼に行けばまた焼肉くらいは奢らせてもらえるだろうか。
気づけば火消しもすっかり終わっていて、壊滅した暴力団は内部抗争が行われたようだと計画通りにニュースで報道されていた。真実を知る者はもう誰もいない。名もなき二人の潜入者もあの場で一緒に死んでしまった。
「…………サッキー?」
話し声で目が覚めたのか、ぼんやりとした様子で冴島が佐々木を呼んだ。昨夜から眠り続けていたようで、安居が思わず立ち上がって近寄っていく。ずっと付いていた様子の安居に仕方ない奴だと言わんばかりに目を細めて、冴島は佐々木を見た。昨夜のやりとりを覚えているのかいないのか、戻ってきた佐々木を見て安心したように息を吐く。
「サッキー疲れてるやろ。休んでよかったのに」
安居こそ一睡もしていないのか疲労が滲んだ表情で気遣わしげに言った。長期の潜入はずっと神経のどこかが張り詰めていて、想像以上に体力を使う。佐々木は心身ともに磨り減っており休めるのならば言葉に甘えて休んでしまいたい程だった。
それでも、この場所に来なければ日常は帰ってこない。慣れた事務所で仲間の顔を見て、当たり前のように名前を呼ばれるとようやく自分が佐々木に戻れるような気がした。昔は一人で仕事をしていたのが考えられない程に、この場所が安心を与えてくれる。どれだけ長い間留守にしていても確かに置かれている佐々木のデスクが、ここに居場所があるのだと示していた。
「いや? 稼がないといかんしな」
佐々木はそう言っていたずらっぽく笑ってみせる。儲けもあって、おまけに仲間がいる。聞き慣れたあだ名も心地いい。佐々木を佐々木たらしめる場所にようやく帰ってこられた。
嬉しいやら悲しいやら、情報屋としての仕事が終わっても闇金融の仕事は降りかかってくる。乾はにんまりと笑って次の仕事のリストを引っ張ってきた。弱い悲鳴を上げる佐々木に三人の笑い声が返ってくる。賑やかな声は多くも少なくもなくちょうど四人分。広く感じられた事務所の空白は埋まり、見慣れた光景が戻ってくるのだった。
0
お気に入りに追加
9
この作品の感想を投稿する
みんなの感想(3件)
あなたにおすすめの小説


セレナの居場所 ~下賜された側妃~
緑谷めい
恋愛
後宮が廃され、国王エドガルドの側妃だったセレナは、ルーベン・アルファーロ侯爵に下賜された。自らの新たな居場所を作ろうと努力するセレナだったが、夫ルーベンの幼馴染だという伯爵家令嬢クラーラが頻繁に屋敷を訪れることに違和感を覚える。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ひきこもり瑞祥妃は黒龍帝の寵愛を受ける
緋村燐
キャラ文芸
天に御座す黄龍帝が創りし中つ国には、白、黒、赤、青の四龍が治める国がある。
中でも特に広く豊かな大地を持つ龍湖国は、白黒対の龍が治める国だ。
龍帝と婚姻し地上に恵みをもたらす瑞祥の娘として生まれた李紅玉は、その力を抑えるためまじないを掛けた状態で入宮する。
だが事情を知らぬ白龍帝は呪われていると言い紅玉を下級妃とした。
それから二年が経ちまじないが消えたが、すっかり白龍帝の皇后になる気を無くしてしまった紅玉は他の方法で使命を果たそうと行動を起こす。
そう、この国には白龍帝の対となる黒龍帝もいるのだ。
黒龍帝の皇后となるため、位を上げるよう奮闘する中で紅玉は自身にまじないを掛けた道士の名を聞く。
道士と龍帝、瑞祥の娘の因果が絡み合う!
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。


ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。
水の灯さんの作品が大好きです!この作品を再開してくださってありがとうございます!これからも読ませて頂きたいと思います!
ご感想本当にありがとうございます!
そう言っていただけて嬉しいです。
また続きが出たらよろしくお願いします!
水の灯さんの文章が本当に好きです。
キャラクターの一挙一動がすぐ近くに感じるくらい動いていて、表情もよく見えるし、声も聞こえます。匂いもしてきそうで、読んでいてとても楽しいです。
これからもずっと楽しみにしています!
(なんかよく分からない表現を使ってしまってすみません。伝わっていればいいんですが…)
弥生蒼さんいつもお読みくださってありがとうございます。
文章をお褒めいただいて本当に光栄で、とても嬉しいです!
楽しんでいただけるのが何より幸せです。
どうぞ今後ともよろしくお願いします。
新シリーズ始動おめでとうございます!
以前から水ノ灯さんの作品を拝見しているファンです。水ノ灯さんのスピード感溢れるアクションを読めるのがとても嬉しいです!次回更新も楽しみにしています😆
ミヤビットさんありがとうございます!
楽しんで読んでくださって嬉しいです。
どうぞこれからもよろしくお願いします!