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絶対零度の共振

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 しばらく潜入していた建物は道筋をよく把握していた。人員のほとんどは正面と裏口からやってきた侵入者を迎え撃っているらしい。真っ直ぐに走っていても誰かとすれ違うことはなかった。これは抗争ではなく、殺し屋による掃討だ。いくら暴力沙汰に慣れていようが束になって向かっていっても敵うわけがない。この組織はたったの数分で壊滅状態まで追い込まれていた。
 佐々木は勢いよく扉を開けた。若頭に呼ばれ、冴島を置いて一人立ち去った場所だった。臆病風に吹かれぬうちにと飛び込んだ勢いはぴたりと止まる。
 床には冴島が伏せていた。後ろ手に縛られたままの腕は鬱血し、縄で擦れた手首には血が滲んでいる。衣服は所々血で汚れていた。無理矢理こちらを向かされた顔には暴行の痕が色濃く残っていた。殴りつけられた頬には痣ができており、血はすっかり乾いてこびりついている。切れた唇の端が腫れていた。そして、その首筋には若頭によってドスの刃先が当てられていた。
 何の情報も漏らさぬ冴島に力付くで口を割らせようとしていたのだろう。今はこうして人質を取り、自分ばかりは助かろうとしているのだ。扉の外で銃声が鳴っていたのは聞こえていただろうに、動けぬ冴島を盾にすれば仲間を取り返しにきた佐々木達から逃げられると思っていたのだろう。
 佐々木の目に怒りが灯るより先に、隣で銃が向けられた。横目で見ると乾が両手で銃を構えている。銃口が揺れていると思えば、きつく銃を握った腕は震えていた。彼は今まで人など殺したことはないのだ。それどころか、銃を撃った経験すらないのかもしれない。

「裏切ったな! 鈴木ぃ!」

 若頭が激昂して佐々木を睨め付ける。刃先が冴島の柔い首筋に食い込んで血を滲ませていた。鈴木というのは今回佐々木が使った偽名だ。誰かには初対面であっさりと名を暴かれて驚いたこともあるのに、安居金融をずっと追っていたという男は佐々木の名すら知らなかったらしい。もしくは、興味などなかったのかもしれない。望む働きさえすれば個を表す名称など何でも良かったのだろう。

「誰やねんそれ」

 佐々木は嘲笑して冷たい目を返す。迷いなどなく、流れるように懐に手が伸びていた。コートの下から現れたリボルバーが鈍い煌めきを放つ。体の力は自然と抜けていた。緩く肘が曲げられ、両手で持ち上げられた銃口は真っ直ぐに男を捉える。

「俺は佐々木や」

 銃口が火を噴き、男の体から血が舞った。弾丸はしっかりと的の中心を貫いていた。糸が切れたように男の体は崩れ、ドスが床を滑った。
乾の力が抜け、銃を持った腕ががくりと落ちる。緊張から解放された浅い呼吸が聞こえてきた。こんな男を相手に乾が手を汚す必要もない。佐々木は黙って銃をしまうと冴島に駆け寄った。
 縄を外すと、力の入っていない腕がだらりと落ちる。意識を失っているのかと思ったが、抱え起こせば殴られて腫れた目が薄らと開いた。

「サッキー……来てくれんかと思った」

 乾いた血のこびりついた唇がふと笑う。佐々木が冴島を裏切り、一人で逃げたのだと誤解されても仕方がなかったと思う。残された冴島は孤独の中たった一人で耐えていたのだ。

「強い方の味方だって言ったやろ」

 佐々木は語尾を緩めて笑い返してみせる。利益になるからと安居金融に仲間入りしてから、佐々木は離れた方が得だと思ったことはなかった。そして、この四人でいるのが誰より強いと思っているからこそここにいるのだ。
 佐々木の柔い表情を見て冴島は静かに笑った。傍に膝をついた乾が痛ましげな表情で傷の具合を確かめている。長時間縛られていた腕は感覚がなくなっており、少しも動かせないようだった。衣服の下は所々痣ができ、容赦なく蹴られたのだと分かる。
 突如扉が勢いよく開き、安居が飛び込んできた。息を荒げ、肩を上下させて入り口に立ち尽くす。

「サエニキ……!」

 傷だらけで支えられている冴島を見て、安居の表情がひどく歪む。二人の視線が合わさっていた時間は短かったであろうに、長い沈黙が訪れたように感じられた。

「また、遅かったなぁ」

 冴島は穏やかにそう言ったがその顔は笑っていなかった。安居の息が詰まり、すまんと弱々しく言葉が漏れる。佐々木と乾は顔を見合わせるが、どちらもそのやり取りが示す意味は分からなかった。
 安居がゆっくりと冴島の元へ歩んでくる。膝を下り、申し訳なさそうに唇を噛む安居を見て冴島は出来の悪い兄弟を見るような目でふっと笑った。その笑みは散るようにゆるりと消え、がくんと力が抜ける。限界を迎えた体が意識を手放したようだった。
 もう騒ぎは聞こえなくなっていた。最後の銃声が鳴り響き、沈黙する。誰かの銃によって王手が打たれた音だった。ここには四人を邪魔する者は誰もいない。ようやく訪れた静寂は一組織が壊滅した終局を知らせていた。
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