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絶対零度の共振

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 とある平和な昼下がり、何の変哲も無いマンションの一室に呼び鈴が鳴る。予定のない来客を怪しんでいるのか、返事はない。もう一度呼び鈴が鳴るが何の応答もなかった。直接扉をノックし、声がかけられる。

「すいませーん、隣の工事の者なんですけどー」

 用件を言えば、話を聞かない限りしつこく訪れるだろうと思ったのか気怠げな返事があった。はいはい、と仕方なさそうに扉が開かれた瞬間、安全靴がガッチリと隙間に捩じ込まれる。閉じられなくした扉が力づくでこじ開けられ、悪い笑みに迎えられた。

「どうもぉ」

 突然押しかけてきた三人組を目にして、男はぎょっと目を見開く。いかにも休日を過ごしていたと言わんばかりの部屋着と軽く癖のついた黒髪を迫力のある長身が見下ろしていた。
 失礼しますぅと許可もなく入り込んできた乾の後ろから安居と冴島も続き、玄関に押しいると後ろ手で扉を閉めてしまった。忘れたとは言わせない三人の姿に、逃げ場を塞がれた男は顔色を失くして慌てふためく。依頼主の要望通り、インターネットの工事を装ってデータを吸い上げるよう細工をしたのは少し前のことだ。その工作が気づかれるならまだしも、なぜ自宅まで突き止められたのかと混乱する。

「こんにちは佐藤さん……いや、佐々木さん」

 にっこりと乾に微笑みかけられ、佐々木はさらに怯えを露わにした。名前さえ知られてしまっている。一体どこまで調べられているのかと底知れぬ恐怖が走った。家にまで乗り込まれ、もはや絶体絶命。手ぶらで出てきた佐々木にはどうすることもできず、完全に逃げ腰だ。

「勘弁してください……依頼人も教えますんで」

 佐々木は後ずさり、命乞いを始めた。情報屋をやっている以上恨みを買うことは多い。失敗すれば必ず報復を受けるが、誰も情報屋自体消したところで得はしないのだ。相手の情報を流すから見逃してくれと申し出て危機を乗り越えたことは一度ではない。下手に出て降伏を示す佐々木に、乾は首を傾げてみせた。

「依頼人? そんなんもう分かってますよ。随分優秀なお仕事をされてるようで」

 そう言って鞄から取り出した分厚い紙の束が佐々木に押し付けられる。恐る恐るそれをめくれば、見覚えのある文字列が所狭しと並んでいた。
 言い知れぬ気味の悪さにゾッと体の芯が凍える。そこに書かれていたのは、佐々木が今まで集めた情報達だった。めくっても、めくっても、そこには苦労して探った様々な組織の機密が鎮座している。どこまで知られているのか、ではない。何もかも知られている。その上でやってきた男達に佐々木は命乞いの交渉材料などもうなかった。

「す、すんませんでした……命だけは……」

 資料を握る指が震えて滑り、バサバサと紙が落ちていく。自宅という一番の安全圏を侵されて抵抗することもできない。佐々木から情報を搾り取りにきたのではないとすれば、残るは報復だけだ。このままでは殺されると心底怯える佐々木に、今まで後ろに控えていた安居が声をかけた。

「命はいらんから、俺らと手ぇ組まへん?」

 殴られるか刺されるかと怯えていた佐々木は、突然の提案に間の抜けた顔を向けた。情報を寄越せと強請られたことはあれど、手を貸せと言われたのは初めてだった。うちの金融と二足の草鞋で、などと言われても頭が追いつかない。

「こんな情報そう簡単に集められんからな。まあハッキングは足跡だらけでお粗末やったけど」

 乾はそう言って散らばった資料を一枚拾い上げる。データを吸い出している先まで辿り、逆にパソコン内のデータを覗き見してやったのだが想像以上に有益な物ばかりで埋まっていた。セキュリティーに関しては改善しなければならないだろうが、ハッキングだけでは得られない情報は潜入を得意とする佐々木だからこそ集められたものだろう。

「仕返ししてもいいところを、スカウトしに来てんねんで?」

 冴島に笑顔で圧をかけられ、佐々木は小さく息を飲む。穏やかに問いかけられてはいるが、即ち選択肢はひとつしかないと言うことだ。

「これ、脅されてます……?」

 苦笑を引きつらせて言えば、冴島は愉快そうにけらけらと笑った。

「いやぁ? 立派な勧誘やで」

 無理矢理扉をこじ開けておいて勧誘もスカウトもないだろう。従わなければどうなるか、想像に難くない。怯えながら上目で見上げれば、安居がにんまりと悪い顔をした。

「なあ、お金好き? 儲かるでぇ」

 その言葉に佐々木の瞳が丸く見開かれる。てっきり飼い殺されるようにタダ働きが待っているのかと思えば、給金まで提示された。
 後々にだから勧誘って言ったやんか、と冴島に笑われるのだが玄関をぎちぎちにしておいて脅しではないなど誰が信じるだろう。
 佐々木は三人を見渡し、敵意がないことを肌で感じ取った。身構えてはいるが佐々木に危害を加えようとしている様子は見られない。迷おうにも退路はなく、あとは佐々木の返事次第であった。

「儲かるんやったら、手を組んでもいい」

 怯えながらも強気にそう言った佐々木は力強い歓迎を受けた。あくまで利害が一致する限りだからと予防線を張り、佐々木のデスクが新しく事務所に並んだ。情報屋の仕事を中心とするため長く留守にすることが多かったが、ふらりといなくなった男はふらりと戻ってきた。帰ってきたなと迎える度に儲かるからなと言って笑うのだった。
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