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絶対零度の共振

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 いつもと変わらぬ夕暮れ時、安居金融の事務所は電話もなければ来客もなく平和な時間が流れていた。安居と乾はそれぞれ自分のデスクで作業をしている。負債者への取り立ては外部に任せているため、家々を回るような泥臭い仕事はしなくてもいい。不在の二人分のデスクは整然としており、ぽかりと空白を作っていた。
 乾は負債者のリストを眺めることにも飽きて、安居には見えぬよう通販ページを開いていた。SNSで話題の商品はどれだったかと検索していると、呼び鈴が鳴った。乾は立ち上がり、インターフォンを覗く。映っていたのは宅配業者だった。

「はい今行きます」

 はたして何を頼んだのだったか。事務所の備品は大抵乾が管理しているが、自由な面々が勝手に買い込んでいることも少なくない。乾が玄関先に出れば、宅配業者は大きな段ボール箱を運び入れた。一体何だろうと思いはしたが、冴島がゲーミングチェアにしようかと妙に真剣に言っていたのでついに買ったのかもしれないと思い直す。
 サインをもらって帰っていく宅配業者を見送り玄関戸を閉めると、安居が呆れた目を向けてきた。

「またなんか買ったん?」
「私じゃないです」

 PC機器を始めとし、サプリメントやらプロテインやら諸々を事務所で受け取って備蓄している乾に濡れ衣がかかるが、今回は覚えがない。それに事務所の仮眠室に私物が多いのは安居や冴島の方だ。宛名は某大手通販会社の名前になっているが、内容物についての記載はない。勝手に中身を見るなと怒られようと、それなら事務所を送り先にするなと言う話だ。乾は段ボールに手をかける。
 ガムテープを剥がし箱を開けると、何かがひらりと落ちてきた。納品書でも入っていたかと拾い上げた乾の手が止まる。それは一枚の写真だった。
 艶のある紙の上にはよく知った人物──佐々木の顔が写っている。写真の隅は赤く汚れていた。まるで今しがたついたばかりのような赤い液体は、まだ濡れている。
 乾の瞳が恐る恐る段ボールに向き直る。思わず口元を覆っていた。床についていた膝が崩れ、その場に尻餅をつく。

「荷物なんだったん?」

 乾が中身について何も言わないので安居が立ち上がる。玄関近くに歩いてくる安居を、乾は必死の形相で振り返った。

「見たらあかん!」

 安居を止めようと伸ばした手は間に合わず、安居の目には写真と段ボールの中身が写ってしまった。見慣れた仲間の顔の隣で赤黒い何かが段ボールを満たしている。およそ現実離れした光景にそれが何であるか一瞬分からなかったが、鉄臭さが鼻に届く頃には勝手に理解してしまっていた。
 おそらく、元は人間であった何かだ。もはや原型も留めないほどに砕かれ、潰されてしまっているが、かろうじて人の成れの果てであることが分かった。分かってしまった。
 絶叫が迸り、胃液が逆流する。ぐちゃぐちゃになった赤色が目の奥でぐるぐると回って神経をかき乱していくようだった。

「連絡っ、警察……はあかん、誰にっ……」

 乾が震える指でスマートフォンを探している。腰が抜けたのか立ち上がれず、ガタガタと揺れる手ではまともに端末が持てない。
 理解したくはないのに血で汚れた佐々木の写真が顛末を雄弁と語っているようで怖気が止まらない。乾がひきつれた呼吸で何事か話しているようだったが、安居にはもう聞こえていなかった。
 見慣れた事務所の床にある赤色がいやに鮮烈で悪い夢の中にいるかのようだった。
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