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中空を駆け抜けろ
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明るく照らされたバーカウンターの中、今日の仕込みを始めようと店の主人は忙しく働いている。果物を切る音だけがする静かな店内に、扉が開く音が響いた。
「あっ、お客さん。まだ開店準備中で……」
店長である神蔵は、客が誤って入ってきてしまったと慌てて顔を上げるが、入ってきた人物を見てぱあっと顔を明るくした。
「おー! 涼!」
へにゃりと気の抜けた笑顔で挨拶をする涼に、神蔵はすぐ作業を中断し懐っこい笑みで近寄ってくる。
「ごめんね準備中なのに」
「涼なら大歓迎だよ」
軽く謝ると、快く席を勧めてくれた。
「生きてたのか。よかったなあ」
神蔵は心底嬉しそうに言って、うんうんと頷く。涼が元気な姿を見せたのが嬉しかったようで、奢りだと言ってウイスキーを注いでくれた。よく注文する酒をカウンターに置かれ、涼はくすぐったそうに笑う。
「あはは、ご迷惑おかけしました……もう挨拶回りで疲れちゃった」
涼はありがたくグラスに口をつけ、ひとつ息を吐く。あれから落ち着く間もないほど忙しかったのだ。
仲間の元に戻って気が抜けたのかヘリコプター内で意識を失った涼はさらに心配をかけたようで、目が覚めた時には大変な騒がれようだった。それから今回の騒動で巻き込んだ各方面に顔を出し、何とも言えない気まずい思いで無事を伝えに行った。世良には心配したんだからね、と全く痛くないパンチをされ、零にはもっと用心してくれと呆れられた。噂は広く出回っていたようで、どこに行っても誰に会ってもからかわれ祝われてすっかり疲れてしまったのだ。
「乾も死にそうな顔して来てたよ。情報持ってかんと殺されるって」
乾の切羽詰まった顔つきを思い出したのか、神蔵が関西訛りの口調を真似て悪戯っぽく笑う。また挨拶に行かなければならない人が増えた、と思いながら涼は尖らせた口でグラスに触れた。
「ところで……それどうしたの?」
涼の喉が潤ったあたりで、神蔵はスツールを指差した。涼の隣には一抱えもあるような華やかな花束が置かれていた。誰かからの贈り物かと思ったが、話を聞く限り花を渡してきそうな相手はいない。だったら涼が今から誰かに会いに行くのかと、浮いた話の予感に思わずニヤニヤとしてしまう。
「ああ、これ……」
涼が気恥ずかしそうに言葉を濁すので、まさか本当に相手がいるのかと神蔵は目を輝かせる。噂話の絶えないこの街のバーは、情報屋としても役立つほどだ。また新たな秘密を知ってしまうのかと、少年心が擽られる。
「その……何年ぶりか分かんないけど……母ちゃんに、顔見せ行こうと思って」
涼は言いづらそうに俯き、グラスを弄る指先を見ながら言う。勝手の分からない花屋で女性にだと言えば、訳知り顔をした店員が張り切って作った花束だったらしい。カラカラと氷がグラスにぶつかる音がする。涼はどこか遠い目をして言葉を続けた。
「仲間ができたんだって、言っときたいなって」
涼が目を伏せてそっと笑ったので、神蔵は言葉を詰まらせる。不意にバーに似つかわしい、湿った空気が漂った。
「あー、その……」
神蔵は言いづらそうに視線を泳がせる。涼が不思議そうに見上げれば、目が合ってしまったことで神蔵は仕方なく口を開いた。
「その、ちょっと派手かもなって……墓前に供えるには……」
赤色を中心とした溢れんばかりの花束を見て、神蔵は口にしづらそうに眉を下げる。海外ならともかく、日本の墓にはあまりに豪華絢爛すぎて悪目立ちしそうだ。言ってしまってからそんなことに口を出すべきではなかった、と言わんばかりに困り顔をする神蔵に、涼は目を丸くする。叱られた犬のようにしょぼくれた顔をするのを見て、涼は弾かれたように笑い出した。
「あはははは! 何言ってんの!」
とんだ勘違いだと足をばたつかせて笑う涼に、神蔵は呆気にとられて目を丸くする。だって明らかに故人の話をするようなしんみりとした雰囲気だったじゃないか。物言いたげに尖らせた口も、つられて大きく開けて笑ってしまう。
「だって花束持ってるから!」
神蔵が弁明するように言えば、涼は涙を流すほど笑いながら花束を見る。久しぶりに親に会うというのに手土産は花束だなんて、おかしいだろうか。
「やっぱ変かなあ」
そう言って眉を下げて笑う涼に、神蔵は少し驚いてしまう。それなりに長い付き合いになるが、ただの息子の顔をしているこの男を初めて見た。内心緊張しているのだろう。どんな顔をすればいいのか分からないというように落ち着かなげな涼に、大人びた目を向ける。
「なんでも嬉しいと思うよ」
神蔵が背中を押してやれば、涼は安心したように微笑した。少なくなったウイスキーを飲み干し、涼は席を立つ。大切そうに花束を抱けば、瑞々しい花の香りが漂った。
「ありがと!」
涼は気持ちよく笑って出て行く。神蔵も満ちた気持ちで見送った。少し硬い背中から誰かを喜ばせるための花が覗いている。随分成長した姿を見せればどれほど喜ぶだろうと想像し、神蔵は柔らかな顔つきのまま開店作業に戻った。
四人で住む家に辿り着いたのは、すっかり夜が更けてからだった。遅くなって怒られるかと思いながら涼はそろりと玄関を開ける。住み慣れた家の、嗅ぎ慣れた匂いがした。ふとそのことに気がつき、毎日見ていた玄関の景色が違って見える。
「涼? 帰ったの?」
リビングから友弥の声がし、涼は暫しぼうっとしていた自分に気づいて靴を脱いだ。四人分の靴で狭くなった靴箱に押し込んで、リビングに入っていく。友弥はソファーの角にすっぽりと収まってスマートフォンを弄っていた。幸介はぐんにゃりとソファーに沈み、ヨウはラグに座り込んでソファーに背を預けている。それぞれ思い思いに時間を過ごしていたようだ。涼が入ってくると皆目を上げる。
「遅いじゃねえか」
ヨウがそう言いながらも怒らないのは、涼がきちんとスマートフォンを持って出かけていたからだった。戻ってきて数日はどこに行くにも心配そうにされた上、誰かしらがこっそり尾行していたことにも気づいていたが、ようやく安心したようだった。
「おかえり」
三人とも口々にそう言って涼を迎えてくれる。たった一言があまりに温かくて、なぜか泣きそうになった。何の変哲も無い部屋が、こんなにも愛おしく思えてしまう。当たり前の日常を守り通し、帰ってこられたのだと思うと胸がいっぱいになった。
「ただいま」
溢れそうな気持ちで口にする。涼が三人の下に歩んでいけば、誰も欠けていない普段通りの景色が出来上がった。ようやく自分の居場所に戻ってきた。泣き出しそうに笑った涼を同じ顔で受け入れて、四人の日常がまた始まっていく。
「あっ、お客さん。まだ開店準備中で……」
店長である神蔵は、客が誤って入ってきてしまったと慌てて顔を上げるが、入ってきた人物を見てぱあっと顔を明るくした。
「おー! 涼!」
へにゃりと気の抜けた笑顔で挨拶をする涼に、神蔵はすぐ作業を中断し懐っこい笑みで近寄ってくる。
「ごめんね準備中なのに」
「涼なら大歓迎だよ」
軽く謝ると、快く席を勧めてくれた。
「生きてたのか。よかったなあ」
神蔵は心底嬉しそうに言って、うんうんと頷く。涼が元気な姿を見せたのが嬉しかったようで、奢りだと言ってウイスキーを注いでくれた。よく注文する酒をカウンターに置かれ、涼はくすぐったそうに笑う。
「あはは、ご迷惑おかけしました……もう挨拶回りで疲れちゃった」
涼はありがたくグラスに口をつけ、ひとつ息を吐く。あれから落ち着く間もないほど忙しかったのだ。
仲間の元に戻って気が抜けたのかヘリコプター内で意識を失った涼はさらに心配をかけたようで、目が覚めた時には大変な騒がれようだった。それから今回の騒動で巻き込んだ各方面に顔を出し、何とも言えない気まずい思いで無事を伝えに行った。世良には心配したんだからね、と全く痛くないパンチをされ、零にはもっと用心してくれと呆れられた。噂は広く出回っていたようで、どこに行っても誰に会ってもからかわれ祝われてすっかり疲れてしまったのだ。
「乾も死にそうな顔して来てたよ。情報持ってかんと殺されるって」
乾の切羽詰まった顔つきを思い出したのか、神蔵が関西訛りの口調を真似て悪戯っぽく笑う。また挨拶に行かなければならない人が増えた、と思いながら涼は尖らせた口でグラスに触れた。
「ところで……それどうしたの?」
涼の喉が潤ったあたりで、神蔵はスツールを指差した。涼の隣には一抱えもあるような華やかな花束が置かれていた。誰かからの贈り物かと思ったが、話を聞く限り花を渡してきそうな相手はいない。だったら涼が今から誰かに会いに行くのかと、浮いた話の予感に思わずニヤニヤとしてしまう。
「ああ、これ……」
涼が気恥ずかしそうに言葉を濁すので、まさか本当に相手がいるのかと神蔵は目を輝かせる。噂話の絶えないこの街のバーは、情報屋としても役立つほどだ。また新たな秘密を知ってしまうのかと、少年心が擽られる。
「その……何年ぶりか分かんないけど……母ちゃんに、顔見せ行こうと思って」
涼は言いづらそうに俯き、グラスを弄る指先を見ながら言う。勝手の分からない花屋で女性にだと言えば、訳知り顔をした店員が張り切って作った花束だったらしい。カラカラと氷がグラスにぶつかる音がする。涼はどこか遠い目をして言葉を続けた。
「仲間ができたんだって、言っときたいなって」
涼が目を伏せてそっと笑ったので、神蔵は言葉を詰まらせる。不意にバーに似つかわしい、湿った空気が漂った。
「あー、その……」
神蔵は言いづらそうに視線を泳がせる。涼が不思議そうに見上げれば、目が合ってしまったことで神蔵は仕方なく口を開いた。
「その、ちょっと派手かもなって……墓前に供えるには……」
赤色を中心とした溢れんばかりの花束を見て、神蔵は口にしづらそうに眉を下げる。海外ならともかく、日本の墓にはあまりに豪華絢爛すぎて悪目立ちしそうだ。言ってしまってからそんなことに口を出すべきではなかった、と言わんばかりに困り顔をする神蔵に、涼は目を丸くする。叱られた犬のようにしょぼくれた顔をするのを見て、涼は弾かれたように笑い出した。
「あはははは! 何言ってんの!」
とんだ勘違いだと足をばたつかせて笑う涼に、神蔵は呆気にとられて目を丸くする。だって明らかに故人の話をするようなしんみりとした雰囲気だったじゃないか。物言いたげに尖らせた口も、つられて大きく開けて笑ってしまう。
「だって花束持ってるから!」
神蔵が弁明するように言えば、涼は涙を流すほど笑いながら花束を見る。久しぶりに親に会うというのに手土産は花束だなんて、おかしいだろうか。
「やっぱ変かなあ」
そう言って眉を下げて笑う涼に、神蔵は少し驚いてしまう。それなりに長い付き合いになるが、ただの息子の顔をしているこの男を初めて見た。内心緊張しているのだろう。どんな顔をすればいいのか分からないというように落ち着かなげな涼に、大人びた目を向ける。
「なんでも嬉しいと思うよ」
神蔵が背中を押してやれば、涼は安心したように微笑した。少なくなったウイスキーを飲み干し、涼は席を立つ。大切そうに花束を抱けば、瑞々しい花の香りが漂った。
「ありがと!」
涼は気持ちよく笑って出て行く。神蔵も満ちた気持ちで見送った。少し硬い背中から誰かを喜ばせるための花が覗いている。随分成長した姿を見せればどれほど喜ぶだろうと想像し、神蔵は柔らかな顔つきのまま開店作業に戻った。
四人で住む家に辿り着いたのは、すっかり夜が更けてからだった。遅くなって怒られるかと思いながら涼はそろりと玄関を開ける。住み慣れた家の、嗅ぎ慣れた匂いがした。ふとそのことに気がつき、毎日見ていた玄関の景色が違って見える。
「涼? 帰ったの?」
リビングから友弥の声がし、涼は暫しぼうっとしていた自分に気づいて靴を脱いだ。四人分の靴で狭くなった靴箱に押し込んで、リビングに入っていく。友弥はソファーの角にすっぽりと収まってスマートフォンを弄っていた。幸介はぐんにゃりとソファーに沈み、ヨウはラグに座り込んでソファーに背を預けている。それぞれ思い思いに時間を過ごしていたようだ。涼が入ってくると皆目を上げる。
「遅いじゃねえか」
ヨウがそう言いながらも怒らないのは、涼がきちんとスマートフォンを持って出かけていたからだった。戻ってきて数日はどこに行くにも心配そうにされた上、誰かしらがこっそり尾行していたことにも気づいていたが、ようやく安心したようだった。
「おかえり」
三人とも口々にそう言って涼を迎えてくれる。たった一言があまりに温かくて、なぜか泣きそうになった。何の変哲も無い部屋が、こんなにも愛おしく思えてしまう。当たり前の日常を守り通し、帰ってこられたのだと思うと胸がいっぱいになった。
「ただいま」
溢れそうな気持ちで口にする。涼が三人の下に歩んでいけば、誰も欠けていない普段通りの景色が出来上がった。ようやく自分の居場所に戻ってきた。泣き出しそうに笑った涼を同じ顔で受け入れて、四人の日常がまた始まっていく。
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