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中空を駆け抜けろ

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 辿り着いた先、機械に向けて叩きつけるようにカードキーを認証させる。ロックが外れるや否や、涼は扉を押し退けるようにして部屋へと飛び込んだ。

「どういうことだ! 約束が違う!」

 髪が逆立ちそうなほど怒りを露わにして涼は怒鳴った。強張った肩が呼吸のたびに上下する。殺気立った目は吊り上がり、部屋の主人を睨みつけていた。全身に怒気を纏った涼を悠々と迎えたのは、黄蛇会のトップに立つ男だ。煙管を燻らせ、ゆったりと煙が吐かれる。

「約束? 何のことだ」

 小馬鹿にしたような笑いに、涼は憎悪を込めて顔を歪める。
 いつかの夜、いつものように飲みに出かけた涼にバーで声をかけた者がいた。彼はやけに涼のことを詳しく知っており、それは仲間にまで及んだ。何かおかしいと気づいた時にはカウンターの下で銃口が向けられており、脇腹に硬い感触があった。
 体を冷たくする涼に、男は黄蛇会の使いであることとこの街を手に入れようと画策していることを囁いた。そのためにまず、街の均衡を保つ勢力に穴を開けたいのだと。たった四人で大きな影響力を持つ自分達を排除し、掘削するように街の暗部を手に入れる目論見を語った。第一歩としてお前が死ねと笑う男に、涼は全身全霊の虚勢を貼り付けて取引を持ちかけたのだ。
 自分が仲間に下り、必ずや黄蛇会を街の中心に据えてみせる。そのためにはどんな犠牲も裏切りも厭わない。ただし、三人の仲間だけは生かして欲しい。
 ボスはその取引に応じ、涼は膝を折って忠誠を誓った。例えこの街が壊されようと、涼の人生が他人の手中に落ちようと、たった三人だけ救えればそれでいい。
 その筈だったのに、明らかに排除しようとする兵の多さと容赦ない銃撃に涼は激昂する。涼自身は兵に三人を生かして捕らえるよう指示を出していたが、先程の襲撃はどう見ても殺意があった。あの場にいる涼までも、消してしまおうとしていた。取引は一方的に破棄されたのだ。

「そんな約束をしたか?」

 嘲るように言うボスに、涼は弾かれたように地を蹴った。腹の中で煮え立つ激情のまま拳を振るう。火のついた煙管が取り落とされ、床に転がった。しかし感情任せの一撃をまともに食らうわけもなく、顔に当たる寸前で弾かれる。体重を乗せた拳が流され、よろめいた体に鋭い蹴りが叩き込まれた。胃の腑を押し上げるようにつま先が抉る。

「かはっ……!」

 呼吸が止まる。開かれた唇から飛沫が舞い、涼の体が跳ね飛ばされた。身動きの取れぬ涼に追撃が食らわされる。どうにか受け身をとった体を馬鹿にするように足蹴にされた。真上から頭を踏みつける靴底の硬さに、電撃を流されたような衝撃が走る。腹の痛みも、呼吸の苦しさも遠い。踏みつけられ見下されているという屈辱に襲われ、睨み上げる涼の瞳から理性が削れ落ちる。
 初めから取引などできる立場ではなかったのだと、ボスはひれ伏した涼を見て嗤う。弱者を跪かせ、手の平の上で弄び、最後は気まぐれに潰して愉しむ。力のある組織の頂点に君臨する者だけが出来る暴力的な支配だった。この男は人間を踏み慣れている。何度となく人の生死を握ってきたのだろう。だからこそ、驕り高ぶり相手の力量を見誤る。
 涼は身を捩って懐から銃を取り出した。素早く銃口を向けた瞬間、ボスの顔に浮かんだのは焦燥ではなくさらなる愉悦だった。訝る涼の目の前で、見せつけるように何かのスイッチが押される。カチリと押し込まれたそれに身構えるが、何も起きはしない。
 涼が警戒して見つめる中、ボスの表情がみるみる崩れていった。何故だ、というようなことを口早に言っているようだった。母国語に戻って狼狽する様子に、涼は状況を悟ってにんまりと笑う。涼がつい先刻まで持っていた銃はボスから手渡されたものだった。万が一涼がボスに銃を向けた時のために、何か細工がされていたのだろう。

「これはあんたが渡した玩具じゃなくて、仲間が持ってきてくれた俺の愛銃だよ」

 強者ゆえ、自分が捕食される側であることに寸前まで気づけない。一転して動揺を露わにする男に、涼は毛色の違う暗い笑顔を見せてやる。踏まれることも、誹られることも、あまりに慣れたことだ。汚れた街の片隅でどれほどの夜を過ごしたと思っているのだろう。自分の血の味も、靴底の泥の味も、涼にとっては日常茶飯事だ。取り立てて騒ぐことの物でもなければ、心が掻き乱されることでもない。
 本当の強者はいつも、弱者の振りをしてその口に獲物が飛び込んでくるのを待っている。まんまと涼に落ちた男は、自分こそ手の中で踊っていたことに気づいただろう。

「じゃあ、俺もお返し」

 涼はつい先程までボスが見せていたような愉悦をたたえた笑みで言った。何の抵抗もできぬ獲物を爪に引っ掛け、甚振る時間は実に楽しい。涼が取り出したのもまた、何かのスイッチだった。やめろと叫ぶ声がする。涼の親指がゆっくりと押し込まると凄まじい爆発音が響き渡った。
 友弥が見つけたエンジンルームの異物こそ、涼が仕込んだ爆弾だった。世良を脅すような真似をしてまで口を封じたのは、大量の爆弾を持ち出していった事を誰にも知られないためだった。やがて飛行船は火に包まれ、ガス袋に引火して海の藻屑となるだろう。先までの余裕はどこへ行ったのか、みっともなく狼狽えるボスの姿が弓なりになった涼の瞳に映り込む。

「再見」

 悪魔のように甘い声で銃弾が発射された。涼に合わせて作られた銃は正確に弾を跳ばし、額の中心を撃ち抜いた。ぐらりと揺らいだボスの下から、涼は這い出して立ち上がる。

「二度と会わないのに再見は変か」

 目を見開いたまま転がった男を見下げ、涼は小さく呟いた。答える声もなく、じわりと血の染みが広がっていった。
 ようやく長い芝居を終えたというように、涼は一瞬空っぽの表情をする。やがて腹を蹴られて汚した口元を拭い、顔を上げた。爆発は連鎖的に起こっており、残された時間は長くなかった。涼も脱出しなければ火に飲まれてしまう。余韻に浸る間などない。思い切り蹴りつけられた腹部が鈍く痛むが、無視して走り出した。脱出経路は頭に叩き込んである。非常用のパラシュートやボートが積まれた格納庫を目指すのだ。
 通路に出ると既に火が上がっていた。予想以上に火の手が早い。先程三人と別れた道を通ろうとしたが、激しく損傷していて塞がれていた。通路ごと崩れたようなひどい有様は、涼の捨てた銃のせいだろう。あのままボスに渡された銃を使っていたら、原型がなくなっていたのは涼だったかもしれない。
 三人は無事に出られただろうか。胸がざわついたが、足を止める時間はない。必死に頭の中で道筋を組み直し、踵を返す。ダクトを通じて火の手が回っているのか、天井から焼け焦げた塗装が舞っていた。火の粉がじりじりと身を焦がす。
 ようやくたどり着いた格納庫の扉を蹴破るように強く開いた。広い格納庫は緊急時の食料から武器まで豊富に揃っていた。その中から目当ての物を探す。
 雑多な山の中からパラシュートを見つけた瞬間、真後ろで爆発音が鳴った。配管が破裂したのだろうか。通路で起きた爆発で格納庫にも爆風が流れ込んでくる。格納庫にあった物を全て舞い上げる激しい衝撃に、涼の体が為すすべもなく吹き飛ばされた。軽々と舞った体は強く床に叩きつけられ、思い切り頭が揺さぶられた。
 ぐにゃりと視界が歪み、眼前が暗くなる。せっかく見つけたパラシュートが床に落ちてしまった。必死に伸ばした手の先が霞んで薄れ、涼はそのまま意識を手放した。
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