裏社会の何でも屋『友幸商事』に御用命を

水ノ灯(ともしび)

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中空を駆け抜けろ

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 小さく、ヨウが息を吸った。ヨウのつま先が地を蹴り、凄まじい速さで距離を詰めていく。脚のバネを使い、獲物を狩るように肉迫する。数メートルあった距離が瞬く間に縮まっていった。突風のように飛び込んでくるヨウの体は勢いづき、拳も蹴りもまともに当たれば跳ね飛ばされそうな力がこもっている。
 対して涼は動かない。常なら迎撃の姿勢を見せる涼が頑なにその場に居続ける違和感に、ヨウは涼に迫りながら頭を回す。固く握った拳が弾丸のように繰り出される。視線を合わせたままの顔面に容赦無く放たれた。涼の鼻先に向かって拳が吸い込まれていく。このまま固い骨同士がぶつかる感触が伝わってくることを予期した。次の瞬間、涼が視界から消える。否、消えたのではない。変わったのはヨウの視点だった。

「あ?」

 間の抜けた声を上げた瞬間、宙に放り出された自分に気がついた。涼はヨウの拳を寸前まで引きつけ、突っ込んできた勢いを利用して投げ飛ばしたのだ。拳を外側に弾いて流し、手首を掴んで放り投げられた。完璧にヨウの呼吸に合わせられたその動きは掴まれたことさえ気づかぬほどだった。駆け出したことで床から足を離していたヨウにそれを防ぐこともできず、最も無防備になる空中へ踊り出る。
 振り向いた涼の髪が広がるのが見えて、血が冷たくなった。どっしりと重心が低いままに、回転の勢いを乗せた拳が迫ってくる。凄まじい力の攻撃が近づいていることがわかっても、宙では躱すことができない。ヨウは咄嗟に身を捩り、威力を殺すことだけを考える。両手をめいいっぱい前に突き出し、なんとか涼の拳を受け止めた。殴りつけられるのと同時に腕を引き寄せ、できうる限り勢いを消そうとしたがその程度でどうにかなる力ではない。骨まで響くような衝撃と同時に、踏ん張るものがなかった体は思い切り吹き飛んだ。背中から強く壁に叩きつけられ、ヨウの体が弾む。

「ぐっ……!」

 その隙を逃すはずもなく、追撃の蹴りがとんできた。全体重をかけた横蹴りが当たれば無事では済まないだろう。稽古の時にはガードの上から食らったにも関わらず意識が飛んだこともある。
 ヨウは壁に叩きつけられ弾かれた反動を利用し、すぐさましゃがみこんだ。長袍の布地が舞い上がる。蹴りというより突きと言っていいほど鋭く繰り出された踵が、壁を潰さんばかりに叩きつけられる。真上を通っていく鋭い風に冷や汗が滲む。一歩遅ければ、腹の中心に叩き込まれていたところだった。
 しかし一転して好機。威力の高い蹴りは隙も大きく、足が引き寄せられる前にヨウは涼の右足を取った。足を引かれて体勢を崩した涼は地面に引き摺り下ろされる。触り慣れぬ長袍の柔らかな生地がヨウの指に感ぜられた。すぐに起き上がろうとした涼だったが、ヨウが先に馬乗りになる。身動きを封じられた涼は、上に乗られて見下ろされたことで屈辱に目の色を変えた。

「はっ、ざまあみろ」

 ヨウが鼻で笑ってやれば、冷徹さを纏っていた涼の表情に怒りが滲む。ヨウは心の底から愉悦を感じてさらに笑みを深くした。ようやく涼の感情に触れられたような気がした。友幸商事を辞めると言って出て行ってからずっと読めなかった涼が、変わらず涼であると確信する。離れてしまった涼が、今は捕まえられる場所にいる。
 視界の端を影が過った。反応が遅れた一瞬、涼の足が跳ね上がって体勢が変わっていた。確かに押さえ込んだと思っていた大きな体が覆い被さってくる。先程とは一変、床に押し付けられて身動きを封じられているのはヨウの方だった。

「ははっ、寝技で俺に勝てると思ってんの?」

 馬鹿にしたような笑い声が降ってくる。わざとらしく床に押し付けられた頭をなんとか巡らせて睨み上げた。涼はぎらついた目をしている。目の前が真っ赤になりそうな屈辱と苦痛の狭間で、ヨウはくつくつと笑ってみせる。涼の興奮した様子は組手で見せる時と同じだった。遊ぶように、殺すように、何度もぶつかり合ってきた。涼が体重をかけるこの重さも慣れたものだ。だからこそ、涼が次に何をするのかも見通している。
 締め落とそうと首に回された腕の間に手をねじ込む。無理矢理引きずり出した腕が地面に擦れて傷を作ったが、些細なことだった。手首ごと潰そうとするかのように強く締め付けられて苦しいが、意識を失うことはない。純粋な力比べで涼に勝てるはずもなく、ギリギリと絞められて顔が真っ赤になっていく。酸素不足で頭がぐらぐらと揺れるが、ヨウは横目で涼をしっかりと捉えていた。
 不自由な体勢から、強烈な膝蹴りが繰り出される。ヨウだからこそできる柔軟さで鋭角に振り抜かれた膝が涼のこめかみにぶつかった。脳を揺らす凄まじい衝撃に涼の体が傾ぎ、力が抜ける。ヨウは猫のような俊敏さで抜け出し、飛び下がって距離を取った。締められた左手首が麻痺したように痛み、軽く振って感覚を確かめる。数度咳き込んで喉をさすった。
 涼は蹴りつけられたこめかみを押さえ、ゆらりと立ち上がる。指の間から覗いた目は暗く、その一撃が涼の逆鱗に触れたようだと分かった。

「なんだよ、こんなもんかぁ?」

 ヨウが挑発してやれば、涼の視線が向けられる。下からじっとりと睨め上げるような目に重たい敵意が乗っていて、逃げ腰になりたい自分に苦笑した。対峙しているだけで威圧されてしまいそうなほど、涼の殺気は禍々しい。ただの稽古ではなかなか見られない様相だった。

「……いい加減にしろよ」

 涼はだらんと腕を下げる。構えることもなく、ただ突っ立っているようにしか見えない涼を相手にヨウは急速に体が緊張していくのを感じていた。脱力している涼が一番危険だ。初手で分かったように、今の涼は本気でヨウに勝つ気でいる。自分から攻撃を仕掛けに行くよりも、ヨウが飛び込んでくるのを待っていた。蜘蛛のように巣を張ってヨウを誘っているのが分かる。騙されて近寄れば、絡め取られてそのまま食われてしまう。
 隙だらけにしか見えないのに、隙がない。殺気を隠すつもりもないのに、気づけば間合いの内側にいる。出会った時から涼は不思議な男だった。そして、これほど厄介な相手はいない。
 ヨウの微かに乱れた呼吸すら読まれているように感じる。体重移動から筋肉の動きまで、涼は全身の感覚を研ぎ澄ませて観察している。そして到底逃れられぬ絶妙な頃合いで動き出すのだ。
 ヨウは乾いた喉で唾を飲む。不用意に動くことができず、睨み合いの時間が長く続いていた。
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