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中空を駆け抜けろ

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 それは今にも雪の降りそうな寒い夜のことだった。暗殺の依頼を受け、三人はターゲットの動向を探っていた。まだ頼れる情報屋もいなかった頃、地道に後をつけ続けていたのだ。辿り着いたのはとあるホテルで、張り込んだ車から殺すべき相手が無防備に眠っているのが確認できた。
 幸介と友弥はこの仕事を始めてまだ日が浅く、危うい所は多かったが素人にしては躊躇がなかった。そんな二人に出会ったばかりのヨウはようやく気を許し始め、共に仕事をするようになっていた。幸介と友弥の足りない技術をヨウが補い、ヨウの知らなかった生活を幸介と友弥が教えた。まだ仲間とは呼べないまでも、互いに距離を測りながら少しずつ知ろうとしている最中だった。
 ターゲットの男がいる部屋の鍵をヨウが開ける。古ぼけたホテルの鍵は、見よう見まねのピッキングでも簡単に開けることができた。物音を立てぬように侵入したヨウに続き、幸介が入っていく。暗さに目が慣れるまで待ち、息を殺して進んでいった。室内は外気とはまるで違う暖かさだった。膨らんだベッドからは寝息が聞こえてくる。男の寝顔も見えており、侵入者に気づかずに眠っているのが確認できた。
 ヨウは衣擦れの音さえ立てぬように静かにナイフを取り出した。神経を研ぎ澄ませ、殺気に気づかれぬよう細心の注意を払う。五感を鋭敏にすると、鼻に付く匂いにヨウは軽く眉を顰めた。隣で幸介が顔を歪める。幸介にも届いたのだろう。ベッドに近づく程に濃厚な性の香りが漂ってくる。だからといって別段気にすることもない。ヨウの住んでいた環境はもっと劣悪で、異臭のしない場所の方が少なかった。
 それ以上近寄れない様子の幸介に、怖気付いたかとヨウが仕事を遂行した。男の側に立ち、真上から喉を狙う。眠る相手を殺すには小さなナイフで充分だった。喉が潰れるひしゃげた声がしたが、男は目を覚ますこともなく永遠の眠りに落ちた。薄闇の中、シーツに血溜まりが広がっていくのが見える。幸介に終わったと声をかけようとした瞬間、男の隣でもぞもぞとシーツが蠢いた。
 男の横に誰かが寝そべっていたことに気づく。ヨウは血濡れたナイフを構え直した。性を感じさせる匂いがあったのだから、相手がいてもなんらおかしくはない。ターゲット以外も殺すか、逃げるか、判断に迷ったところでシーツから伸びた手がベッドランプを点けた。
 暖色の明かりに照らされて艶やかな黒髪が散らばっているのが見えた。微かな声とともに身動ぐと、白い肩口が見える。まるで人を虜にする異形にでも出会ってしまったかのように思考が止まる。乱れた黒髪の隙間から眠たげな目がこちらを捉えた。

「んん……だれ?」

 掠れた声の深さで初めてそこにいるのが女ではなく男であると気づいた。性別という枠組みがあったことさえ忘れてしまうような、未知の生物との邂逅だった。ヨウは知らず目を奪われていたことに気づき、慌てて意識を戻した。顔を見られてしまっては生かしておけない。
 ターゲットと同じように、その男も一刺しで殺してしまうつもりだった。守ってくれる者もいないスラムで生き延びてきた技術を使い、最速でナイフを振りかぶる。しかし、常人なら目で追えぬ速さの一撃はあっさりと手首を取られて防がれた。視界が回る。ヨウの軽い体は宙を舞い、流れるようにベッドに沈まされていた。

「あぐっ…!」

 ナイフを持った手首がシーツに叩きつけられ、細い首が上から圧迫される。見開いた目にはこちらを見下げる男がいて、自分が押し倒されているのだと気づいた。手からナイフが転がり落ちる。首を絞める腕を両手で引き剥がそうとするが、暴れても余計に息が苦しくなるだけで逃げられはしなかった。

「離せ!」

 幸介が慌てて銃を構え、ヨウを助けようと駆け寄ってくる。男はちらりとそちらを見やり、銃を持つ手を跳ねあげた。下から弾かれた銃は幸介の手元を離れ、回転しながら宙を踊る。男はそれを手に収めた瞬間、幸介の体を思い切り蹴飛ばした。

「がっ!」

 壁に叩きつけられ、幸介は苦しげな声を上げる。立ち上がろうと顔を上げればベッドの上から銃口を向けられ、そのまま静かに動きを止めた。
 一瞬で二人の身動きが封じられ、ヨウは苦しさに顔を歪めたまま焦った目で男を睨み上げる。シーツを剥いだ男は一糸纏わぬ姿をしていた。恵まれた体躯はその白さのせいか、男のものでありながらひどく妖艶だった。仕草のひとつひとつがシーツの上に相応しい。女と見紛う程の色を纏いながら、媚びるような甘さはなかった。肉食獣を感じさせるような鋭い気配と、ヨウを見下ろす冷ややかな瞳。気絶しない程度に首を絞めつけながら、男は観察するようにヨウを眺めていた。
 ぞくりと背筋が冷えるのを感じる。危うい環境で生きてきたヨウでさえ、滅多に出会わぬ存在であると分かった。人を人以下として見ることに何の躊躇もない人間だ。ヨウが足掻き、もがく姿を見て同情も興奮も浮かんではいない。男は支配者の瞳をしていた。

「死んでる……殺したの?」

 男はヨウを押さえつけ、幸介に銃口を向けながら死体に目をやった。隣で寝ていた人間が死んでいるにも関わらず男はさして驚きもしなかった。答えを求めるように幸介を見やる。ヨウは意識が外れた隙に逃げ出そうと試みるが、力任せに押さえられているわけでもないのに体が動かなかった。く、と指に軽く力が入れられるだけで首が固定されてしまう。針に縫いとめられた蝶のように自由が奪われる。

「……あんたの恋人か?」

 幸介は蹴られた腹を庇うように膝をついた状態で男を見返した。男は不思議そうに首を傾げたかと思うと、くつくつと笑い出す。

「恋人? 名前も知らないよ」

 男が喉で笑う様子をヨウは滲んだ視界で見上げていた。

「へえ、殺されるような人だったんだ」

 興味なさげに呟いた声が落ちてくる。

「お、まえ……殺し屋か……?」

 ヨウが苦しい呼吸の合間に聞けば、男は面白そうに細めた目を向けた。

「まさか」

 ヨウは信じられないと言わんばかりに顔を歪めた。豹を思わせるしなやかな身のこなしと、死体と同衾することに慣れたような平静さは到底並の人間には感じられない。

「君たち二人は殺し屋なんだ?」

 男は興味深そうにゆるりとヨウを眺め、幸介を見た。

「ううん、三人だよ」

 不意に背後からした声と同時に男の後頭部に硬い感触が触れる。ヨウが目をやった先、男に銃を突きつける友弥の姿があった。男は驚いたように軽く目を見開き、あーあ、と言いながら両手を上げてみせた。幸介から奪った銃が零れ落ち、汚れたシーツを転がる。ヨウはごほごほと咳き込みながら絞められていた首に手をやり、ベッドから這いずり出た。幸介ものそりと立ち上がり、友弥の元へと歩んでくる。

「俺、ここで殺されちゃうのかあ」

 男は友弥を見やり、変わらぬ調子で言う。他人事のような響きはつまらなそうにさえ聞こえた。男から笑顔が消え、すうっと瞳が冷めていく。

「残念。まあ君結構好みの顔だし、いっか」

 男は嘘か真か分からぬ心情の読めない口調で言って静かに目を伏せた。手すら脱力し、シーツに膝立ちしてされるがままに待っている。友弥は安全装置を外した銃を頭に押し当て、暫し男を見つめていた。

「ねえ、殺し屋に興味ある?」

 銃が下ろされる。友弥の言葉に驚いたのは男よりもヨウと幸介だった。男も流石に目を丸くして友弥を見返す。子供のような表情に、ようやく男が自分達と同じくらいの齢であると気づいた。性別に意識が向かなかったように、この瞬間まで年齢など考えにすら及ばなかった。

「なんでだよ!」
「だってヨウと幸介を押さえこんだんだよ? 二人共弱くない。それにもう一人くらい仲間欲しいって言ってたじゃない」

 噛みつく幸介に、友弥はいつも通り飄々と答える。ヨウは黙り込んで考えていたが、確かにこの男の力は損にはならないと思えた。だが、とても飼い慣らせそうにはない。むしろ気を抜けば食われてしまいそうな底知れなさがあった。
 騒ぎ始める三人を男はきょとんとした表情で見つめていた。友弥の味方についたヨウに、幸介も知らねえからなと拗ねたように了承する。あとは返事だけだと向けられた三人の視線に、男は心底楽しそうに笑ってみせた。

「殺し屋に興味はないけど、あんた達になら興味はある」

 こうして涼は、差し出された手を取ったのだった。
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