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中空を駆け抜けろ

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 プロペラが風を裂く激しい音が鳴っている。高度二千メートルを走るヘリコプターは午後の空を横断していた。頭に響くやかましさの中、機内は重い空気が支配している。誰もが沈鬱な面持ちで下を向き、言葉を発するものはいない。思い思いに考えを巡らせているのだろう。

「おいおい、今から敵陣に乗り込むんだろー?」

 その沈黙に耐えられなくなったのは、運転手として呼び出されたNだった。Nは一人で潜入やら暗殺やらをこなすためにある程度の乗り物は運転することができるのだ。ヘリコプターの操縦は久し振りだと言っていたが、今のところ全く危うげな様子はなかった。Nの呆れ声に、反応するものはない。
 それぞれ涼のことばかり考えていた。なぜ、どうして、と油断すればそればかりで頭が埋め尽くされてしまう。思い起こされるのは楽しく過ごした日々のことばかりだ。共に仕事をして逆境を乗り越え、共同の家では穏やかで安心できる時間を過ごした。先日まで涼に変わった様子も見られなかった。それが突然出て行くなんて、考えられないことだった。何か事情があるに違いない。そう信じてはいるのだが、口を開けば気弱な言葉が出てしまいそうだった。
 ヨウは、去っていく涼の背中を思い出していた。この光景を反芻するのは何度目になるだろう。ヨウがまだ幼く何の力もなかった頃、出て行った兄の背中と重なってしまう。帰ってくると笑顔を見せながら、兄に会うことは二度となかった。あの時のように子供じみた不安が胸を押し潰そうとしてくる。泣いて縋ってでも、引き止めればよかったのだ。あれほど後悔したのに、また同じ過ちを繰り返している。兄のように涼もまた帰ってこないのではないかと思ってしまう。喪失の予感がヨウをこんなにも追い立てる。

「もし涼が自分の意思で出て行ったんならどうすんの?」

 何度か呼びかけていたらしいNが、不意にそんな質問を投げかける。Nはほとんど会話を諦めていたようだったが、その一言だけは耳に届いた。

「どうって……」

 ヨウが口の中で呟く。本当にあの言葉が涼の本心なのだとしたら、自分達はどうするべきなのか。本音を言えばまだ何も思考の整理はついていなかった。がむしゃらに動いていただけに、こうして立ち止まると頭が追いついていないことに気づかされる。今のままでは涼に対峙したところで、また何も言えず流されてしまうだけだ。

「俺は、とりあえず一発ぶん殴る」

 隣から聞こえてきた友弥の物騒な台詞に、ヨウは思わずそちらを見た。友弥はいつも通りの顔つきをしているように見えたが、沸々と激情が湧きあがっているのが分かった。内心少しも穏やかではないようだ。むしろ青い炎の方がより高温で燃えるように、静かに感情を高ぶらせている時の友弥は凄まじい。

「目ぇ覚まさせてやるだけだ」

 幸介も同調するように言った。冷静な表情は状況を見極め、最善を選択して任務をこなす時と同じだったが、そこに理知的な戦術は見受けられなかった。
 なんだ、いつもと同じではないかとヨウはやっと引き結んでいた唇を緩める。依頼があれば始末する、しかし殺したくない相手なら仕事を受ける必要はない。むしろ依頼人をターゲットにさえしてしまう。仕事外であろうと私情に銃を持ち出すし、救いたいものは勝手に救う。自分が望むままに動けばいいのだ。

「ぜってぇ連れ戻してやる。あいつが嫌だっつっても引きずってくからな」

 ヨウにようやく不敵な笑みが戻ってきた。じめじめと湿っぽくしているのは自分達らしくない。要するに、問答無用。それくらい奔放な方が性に合っている。恨むならそんな奴らに仲間だと思われてしまった自分を恨むがいい。
 三人はそれぞれに強い笑みを浮かべる。その瞳はもう前を見据えていた。決断してしまえば、あとは実行するだけだ。折れない覚悟などとっくにできている。そもそも、涼が出て行くと言ってから一度も認めようと思ったことはない。それがわがままだというのなら、とことん貫き通してやるだけだ。

「いいねえ」

 Nが満足そうに笑う。見ずとも意志を固めた三人の空気が変わったことが感じられた。覇気がなかった様子など嘘のように、今は強い力に満ち満ちている。

「じゃあその調子で、いってらっしゃい」

 Nの言葉に、自分達が目当ての飛行船の真上に来ていたことを知る。窓から見下ろせば大きな楕円形をした飛行船が優雅に空を渡っているのが見えた。ヘリコプターの扉が開くと、途端に強風が吹き込んでくる。澄んだ上空の風に煽られながらヨウは大きな声をさらに張り上げた。

「Nさんありがと! もしやばそうなら逃げていいから!」

 帰る手段が必要なためNは上空でこのまま待機することとなる。全身に風を浴びながら言うヨウに、Nは変わらずへらりと笑った。

「おう! すぐ逃げるわ!」

 相変わらずの返事にヨウはけらけらと笑いながらパラシュートの確認をする。このまま飛行船めがけて飛び降りるのだ。空からの侵入など初めてだが、やるしかない。N曰く大丈夫大丈夫、案外なんとかなるって、とのことなので今回ばかりはその楽観的な意見を信じてみることにした。

「頑張れよ」

 Nのその言葉を背に受け、三人は空に飛び込んだ。 内臓が持ち上げられるような浮遊感に包まれ、空気の抵抗を受けながら落ちていく。怖い、と幸介が叫んだ声が遠く聞こえた。重力のままに地に向かっていた体が、突如浮き上がったように感じられた。パラシュートが開かれたのだ。それぞれ無事にパラシュートを開いた三人は、体で操縦を覚えながら飛行船に向かっていく。失敗すれば海まで一直線だ。慎重に、着地点を探る。
 横風をうまく受け流し、飛行船を浮かばせている巨大なガス袋に足がついた。水素やらヘリウムやらが詰まった袋は体重を乗せて微かにたわむ。友弥は危うく端に着地したが、突然ヨウと幸介の視界から消えた。慌てて呼びながら追いかければ、友弥はそのまま降下して目当てのゴンドラまで辿り着いていた。ゴンドラとはガス袋によって浮いている人間の乗る部分のことだ。飛行船の大きさに比例して、内部も相当広そうだった。
 友弥はゴンドラの窓に張り付くと、器用に機器を用いてガラスに穴を開けた。世良から提供してもらった道具のひとつなのだろう。主に泥棒が使うような道具だからこそ、侵入にはもってこいだ。ヨウと幸介もその後に続き、三人共内部への潜入に成功する。
 ここまでは予定通りだ。しかし、普段の仕事と違って内部の下調べは全くしていない。いつ敵と鉢合わせてもおかしくはない状況だ。相手の腹の中であり、上空という逃げ場のない状況でこちらは人数からしても圧倒的に不利だった。一瞬たりとも気を抜くことはできない。

「さっさとあの馬鹿探して帰るぞ」

 勝気なヨウの声に友弥と幸介の返事が重なる。安全装置はとっくに外れている。殲滅するつもりで、最大限の重装備で来ていた。弾切れなんて情けないことはありえない。三人は顔を見合わせると、ひとつ頷いて駆け出した。
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