82 / 114
中空を駆け抜けろ
5
しおりを挟む
世界で一番敵に回したくない組織バルサム、その本丸とも呼べる中枢部にアポイントなしで乗り込んできた客がいた。西洋風の豪奢な応接室で向かいに座っているのは、天才とも悪魔とも呼ばれ恐れられる壱という男だ。その後ろにはバルサム随一の戦闘力を持つ肆が控えている。悪名高い彼を前にして、ヨウは堂々と椅子に体を預けていた。
「そちらからわざわざ出向かれるとは、また珍しい」
壱はにこやかにヨウを見据える。時折仕事上の付き合いはあれど、ヨウと壱が直接対峙するのは随分と久しい。ましてや国の最高権力者が住まう城よりも警備が厳しいと言われるこの館まで立ち入ることはほとんどない。
「時間がねえ、頼みがある。ヘリを貸してほしい」
世界の要注意人物に直接対面して言うことはそれだけだった。ヘリコプターを貸せと言う突然の要望に、壱は面白そうに首を傾げてみせる。その程度、ヨウ達が用意できぬはずもない。とすれば、わざわざ発注する手間も惜しく確実に使える状態の物をいち早く手に入れたいほど切羽詰まった状況と言うことだ。
「理由を聞いても?」
白手袋をはめた手を組み、壱は体重を僅かにヨウに向ける。その仕草だけで何十人の政治家や軍人が怯えてきたか知れないが、ヨウの表情は変わらない。
「言いたくねえ。言わなきゃ貸さねえってんなら別だが」
強気な態度に、壱は眉ひとつ動かさない。譲歩するような言い方をしているが、ヨウの目は今にも射殺さんばかりに鋭い。全身全霊で絶対に口を割りたくないと言っている。それは自分の主張を通そうとする子供に瓜二つだったが、刺すような気配は戦場の兵士を想起させた。壱の笑みは深まるだけだ。
「自由を信条にしていると思っていたのだが、去る者は追うのだな」
わざとらしくゆったりと言うと、壱の瞳が挑発的な弧を描いた。ヨウの瞳孔が開く。部屋の空気が鋭く変わる。話の成り行きを見守っていた肆は、思わず身構えた。抜刀した刃先が喉元に当てられたような錯覚に襲われる。実際、ヨウは身動ぎひとつしていない。しかし彼から放たれる凄まじい殺気は突風のように全身を襲った。
「壱さんよぉ」
地を這うような低い声が獣の喉から絞り出される。正気とは思えないほど怒りを孕んだ目が真正面から壱を睨みつける。今にも飛びかかってきそうな敵意に晒されても、壱の笑みは崩れなかった。
「俺は気が立ってんだ。今ならどんな安い挑発にでも乗るぜ」
僅かでも動けば身が切れそうなほど張り詰めた空気が漂っていた。ヨウは試すように壱を見据える。硬直した時間の中で、壱の唇だけが深く愉悦を滲ませた。
「ふっ、ははははは! 肆、すぐヘリを用意してやれ」
たまらないと言うように笑い声を上げた壱に、肆は警戒の体勢を解いた。無邪気な子供のような笑い声に、仕方のない奴だと言わんばかりだ。その場を離れ、肆は部下に何事か命じる。ヨウも仏頂面は変わらないが、落ち着きを取り戻して一度目を伏せた。
「あんたも意地が悪ぃ」
吐き捨てるように言われても壱からすれば賞賛の言葉だ。涼が最俺を抜けると言って黄蛇会と共にいることも、ヨウ達が追いかけようとしていることも、既に知っていたらしい。相変わらず恐ろしい情報網だった。
「ヘリは表だ。案内しよう。全く、殺気に部下達が落ち着かなくて敵わん」
壱は口先ではそう言いながら楽しくて仕方ないと言った様子だ。平和より混沌を好むこの男が、この一大事に喜ばないわけがなかった。
「今回は貸しということにしておこう」
踊るように先を歩く壱を追いかけ、ヨウは皮肉をたんまり込めて礼の言葉を吐く。この悪魔に貸しを作るのがどれほど恐ろしいことか。だが今は先のことを気にしている余裕はない。ヨウもまたスタッカートで靴音を鳴らし、男が導く先へと向かっていった。
執務室から足早に去っていく二人を、廊下の陰から見送る者がいた。その人影はやり取りの始終をひっそりと盗み聞きしていた零だった。殺気立った空気が元に戻っていることに、詰めていた息を吐く。小さくなっていく背中を見守るその表情は暗く曇っていた。
「だから忠告したってのに……」
その呟きを聞くべき男はここにはいない。いつかの喫茶店で彼に注意を促したことを思い出す。零は切り替えるように軽く頭を振り、自身を忙殺せんとする大量の仕事に戻っていった。
「そちらからわざわざ出向かれるとは、また珍しい」
壱はにこやかにヨウを見据える。時折仕事上の付き合いはあれど、ヨウと壱が直接対峙するのは随分と久しい。ましてや国の最高権力者が住まう城よりも警備が厳しいと言われるこの館まで立ち入ることはほとんどない。
「時間がねえ、頼みがある。ヘリを貸してほしい」
世界の要注意人物に直接対面して言うことはそれだけだった。ヘリコプターを貸せと言う突然の要望に、壱は面白そうに首を傾げてみせる。その程度、ヨウ達が用意できぬはずもない。とすれば、わざわざ発注する手間も惜しく確実に使える状態の物をいち早く手に入れたいほど切羽詰まった状況と言うことだ。
「理由を聞いても?」
白手袋をはめた手を組み、壱は体重を僅かにヨウに向ける。その仕草だけで何十人の政治家や軍人が怯えてきたか知れないが、ヨウの表情は変わらない。
「言いたくねえ。言わなきゃ貸さねえってんなら別だが」
強気な態度に、壱は眉ひとつ動かさない。譲歩するような言い方をしているが、ヨウの目は今にも射殺さんばかりに鋭い。全身全霊で絶対に口を割りたくないと言っている。それは自分の主張を通そうとする子供に瓜二つだったが、刺すような気配は戦場の兵士を想起させた。壱の笑みは深まるだけだ。
「自由を信条にしていると思っていたのだが、去る者は追うのだな」
わざとらしくゆったりと言うと、壱の瞳が挑発的な弧を描いた。ヨウの瞳孔が開く。部屋の空気が鋭く変わる。話の成り行きを見守っていた肆は、思わず身構えた。抜刀した刃先が喉元に当てられたような錯覚に襲われる。実際、ヨウは身動ぎひとつしていない。しかし彼から放たれる凄まじい殺気は突風のように全身を襲った。
「壱さんよぉ」
地を這うような低い声が獣の喉から絞り出される。正気とは思えないほど怒りを孕んだ目が真正面から壱を睨みつける。今にも飛びかかってきそうな敵意に晒されても、壱の笑みは崩れなかった。
「俺は気が立ってんだ。今ならどんな安い挑発にでも乗るぜ」
僅かでも動けば身が切れそうなほど張り詰めた空気が漂っていた。ヨウは試すように壱を見据える。硬直した時間の中で、壱の唇だけが深く愉悦を滲ませた。
「ふっ、ははははは! 肆、すぐヘリを用意してやれ」
たまらないと言うように笑い声を上げた壱に、肆は警戒の体勢を解いた。無邪気な子供のような笑い声に、仕方のない奴だと言わんばかりだ。その場を離れ、肆は部下に何事か命じる。ヨウも仏頂面は変わらないが、落ち着きを取り戻して一度目を伏せた。
「あんたも意地が悪ぃ」
吐き捨てるように言われても壱からすれば賞賛の言葉だ。涼が最俺を抜けると言って黄蛇会と共にいることも、ヨウ達が追いかけようとしていることも、既に知っていたらしい。相変わらず恐ろしい情報網だった。
「ヘリは表だ。案内しよう。全く、殺気に部下達が落ち着かなくて敵わん」
壱は口先ではそう言いながら楽しくて仕方ないと言った様子だ。平和より混沌を好むこの男が、この一大事に喜ばないわけがなかった。
「今回は貸しということにしておこう」
踊るように先を歩く壱を追いかけ、ヨウは皮肉をたんまり込めて礼の言葉を吐く。この悪魔に貸しを作るのがどれほど恐ろしいことか。だが今は先のことを気にしている余裕はない。ヨウもまたスタッカートで靴音を鳴らし、男が導く先へと向かっていった。
執務室から足早に去っていく二人を、廊下の陰から見送る者がいた。その人影はやり取りの始終をひっそりと盗み聞きしていた零だった。殺気立った空気が元に戻っていることに、詰めていた息を吐く。小さくなっていく背中を見守るその表情は暗く曇っていた。
「だから忠告したってのに……」
その呟きを聞くべき男はここにはいない。いつかの喫茶店で彼に注意を促したことを思い出す。零は切り替えるように軽く頭を振り、自身を忙殺せんとする大量の仕事に戻っていった。
0
お気に入りに追加
9
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
紅屋のフジコちゃん ― 鬼退治、始めました。 ―
木原あざみ
キャラ文芸
この世界で最も安定し、そして最も危険な職業--それが鬼狩り(特殊公務員)である。
……か、どうかは定かではありませんが、あたしこと藤子奈々は今春から鬼狩り見習いとして政府公認特A事務所「紅屋」で働くことになりました。
小さい頃から憧れていた「鬼狩り」になるため、誠心誠意がんばります! のはずだったのですが、その事務所にいたのは、癖のある上司ばかりで!? どうなる、あたし。みたいな話です。
お仕事小説&ラブコメ(最終的には)の予定でもあります。
第5回キャラ文芸大賞 奨励賞ありがとうございました。


お腹の子と一緒に逃げたところ、結局お腹の子の父親に捕まりました。
下菊みこと
恋愛
逃げたけど逃げ切れなかったお話。
またはチャラ男だと思ってたらヤンデレだったお話。
あるいは今度こそ幸せ家族になるお話。
ご都合主義の多分ハッピーエンド?
小説家になろう様でも投稿しています。

セレナの居場所 ~下賜された側妃~
緑谷めい
恋愛
後宮が廃され、国王エドガルドの側妃だったセレナは、ルーベン・アルファーロ侯爵に下賜された。自らの新たな居場所を作ろうと努力するセレナだったが、夫ルーベンの幼馴染だという伯爵家令嬢クラーラが頻繁に屋敷を訪れることに違和感を覚える。

よんよんまる
如月芳美
キャラ文芸
東のプリンス・大路詩音。西のウルフ・大神響。
音楽界に燦然と輝く若きピアニストと作曲家。
見た目爽やか王子様(実は負けず嫌い)と、
クールなヴィジュアルの一匹狼(実は超弱気)、
イメージ正反対(中身も正反対)の二人で構成するユニット『よんよんまる』。
だが、これからという時に、二人の前にある男が現われる。
お互いやっと見つけた『欠けたピース』を手放さなければならないのか。
※作中に登場する団体、ホール、店、コンペなどは、全て架空のものです。
※音楽モノではありますが、音楽はただのスパイスでしかないので音楽知らない人でも大丈夫です!
(医者でもないのに医療モノのドラマを見て理解するのと同じ感覚です)
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる