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脅威と呼ばれる男
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その時、佐々木の真横で勢いよく扉が開かれた。驚いて思わず溢しかけた泡を拭う。神蔵も目を丸くして入り口を見ると、そこには息を荒げたスーツの男が立っていた。壱と違って不健康そうな痩せた体に纏ったスーツは少しよれている。一括りにされた長髪も乱れ、憔悴しているのが見てとれた。ぜえぜえと呼吸を乱して飛び込んできた零は、壱の姿を見つけると深い溜息を吐いて扉に体を預けるように脱力する。
「一人で、何やってるんですか……うちの部下みんな撒いてっ……!」
無事に見つかった安堵と呆れ、そして隠しきれぬ怒りの滲んだ恨み言を聞いても壱は表情を変えない。物の良さそうな腕時計に目を落とし、つまらなそうな声を出す。
「見失ってから1時間経っている。肆なら30分以内に見つけているぞ」
失望したと言わんばかりの声音に、零は不満そうに睨み上げた。
「部隊の規律をトップ自ら乱して! いいからさっさと帰りますよ!」
零が耳につけたインカムに向けて合図をすると、店の前に人の気配が集中し始めるのが分かった。壱が見つかったと知らせを受けて集まってきたのだろう。かなりの人数が捜索にあたっていたようだ。
壱は仕方なさそうに立ち上がり、スーツの内側からマネークリップを取り出した。
「騒いですまなかった。ああ、釣りはあちらの皆様に」
自分の飲んだ数杯分より明らかに多い一万円札を神蔵に手渡す。神蔵は釣り銭を持ってこようとした動きを止める。三人の分を足してもまだ余りが出そうだったが、多く払いたがる客を制止するほど野暮ではない。
「ありがとうございます」
神蔵は爽やかな笑顔で受け取って礼をする。神蔵は誰から会計を貰おうと構わないかもしれないが、佐々木は冗談じゃないと顔を青くする。壱に、ひいてはバルサムに借りを作るなど恐ろしくて敵わない。
「ラッキー、ごちそうさまー」
「返さなくていいんだよね? いただきまーす」
顔色を失くす佐々木の隣で二人分の呑気な声がする。明るく言って手元のグラスを飲み干す涼と、ちゃっかりと借りでないことを強調するNは本当に強かだ。
「もちろん。迷惑料だ」
借りを作る恐ろしさを分かっているのだろう。壱はそう言って笑うと、悠々と後ろを歩いて行った。扉まで来ると疲れ切った様子の零に呆れた目を向ける。
「相変わらず貧弱だな。訓練を増やすか?」
冷ややかな言葉に零は慌てて背筋を伸ばした。壱は言い出したら本当にやりかねない。ただでさえ激務で休みが削れているのに、これ以上酷使したら体のいろんなところがついに壊れてしまう。
「勘弁してください!」
零の悲鳴を楽しげに聞きながら壱は店を出て行く。扉が閉まって騒ぎが収まると、佐々木はやっと肩の力を抜くことができた。通り過ぎる一瞬のことだが、背後を取られて生きた心地がしなかった。鈍そうな涼はともかく、Nは急所を晒しても顔色ひとつ変えないのだから肝が据わっている。
「あの人バルサムの一番偉い人だったんだ。ちゃんと挨拶しとけばよかったなあ」
やっと呼吸ができた心地の佐々木の前で、気の抜けた声で神蔵が言う。
「バルサムさんにはお世話になってるし」
そう言いながら壱の使っていたグラスをひょいと取り上げて片付け始める顔は、普段と少しも変わらない。知らずに接していたことに驚き怖がるならまだしも、神蔵は残念そうに言うだけだ。
「マスターおかわり」
「俺もー」
人の金だからと遠慮なく飲んでいる二人は言わずもがな、強大な相手だったと知って平然としている神蔵も神蔵だ。分かっているのかいないのか、けろりとした顔をしているこの男もまた、恐ろしい人間なのかもしれない。
「サッキーも遠慮なくどうぞ」
神蔵はそう言ってにこやかに酒を勧めてくる。縮み上がった胃は大好物のビールすら求めていなかったが、一人だけ萎縮している方がおかしく思えてくる。こうなればやけだと飲み干した苦い炭酸水は、舌を刺す刺激ばかり伝えてくるのだった。
「一人で、何やってるんですか……うちの部下みんな撒いてっ……!」
無事に見つかった安堵と呆れ、そして隠しきれぬ怒りの滲んだ恨み言を聞いても壱は表情を変えない。物の良さそうな腕時計に目を落とし、つまらなそうな声を出す。
「見失ってから1時間経っている。肆なら30分以内に見つけているぞ」
失望したと言わんばかりの声音に、零は不満そうに睨み上げた。
「部隊の規律をトップ自ら乱して! いいからさっさと帰りますよ!」
零が耳につけたインカムに向けて合図をすると、店の前に人の気配が集中し始めるのが分かった。壱が見つかったと知らせを受けて集まってきたのだろう。かなりの人数が捜索にあたっていたようだ。
壱は仕方なさそうに立ち上がり、スーツの内側からマネークリップを取り出した。
「騒いですまなかった。ああ、釣りはあちらの皆様に」
自分の飲んだ数杯分より明らかに多い一万円札を神蔵に手渡す。神蔵は釣り銭を持ってこようとした動きを止める。三人の分を足してもまだ余りが出そうだったが、多く払いたがる客を制止するほど野暮ではない。
「ありがとうございます」
神蔵は爽やかな笑顔で受け取って礼をする。神蔵は誰から会計を貰おうと構わないかもしれないが、佐々木は冗談じゃないと顔を青くする。壱に、ひいてはバルサムに借りを作るなど恐ろしくて敵わない。
「ラッキー、ごちそうさまー」
「返さなくていいんだよね? いただきまーす」
顔色を失くす佐々木の隣で二人分の呑気な声がする。明るく言って手元のグラスを飲み干す涼と、ちゃっかりと借りでないことを強調するNは本当に強かだ。
「もちろん。迷惑料だ」
借りを作る恐ろしさを分かっているのだろう。壱はそう言って笑うと、悠々と後ろを歩いて行った。扉まで来ると疲れ切った様子の零に呆れた目を向ける。
「相変わらず貧弱だな。訓練を増やすか?」
冷ややかな言葉に零は慌てて背筋を伸ばした。壱は言い出したら本当にやりかねない。ただでさえ激務で休みが削れているのに、これ以上酷使したら体のいろんなところがついに壊れてしまう。
「勘弁してください!」
零の悲鳴を楽しげに聞きながら壱は店を出て行く。扉が閉まって騒ぎが収まると、佐々木はやっと肩の力を抜くことができた。通り過ぎる一瞬のことだが、背後を取られて生きた心地がしなかった。鈍そうな涼はともかく、Nは急所を晒しても顔色ひとつ変えないのだから肝が据わっている。
「あの人バルサムの一番偉い人だったんだ。ちゃんと挨拶しとけばよかったなあ」
やっと呼吸ができた心地の佐々木の前で、気の抜けた声で神蔵が言う。
「バルサムさんにはお世話になってるし」
そう言いながら壱の使っていたグラスをひょいと取り上げて片付け始める顔は、普段と少しも変わらない。知らずに接していたことに驚き怖がるならまだしも、神蔵は残念そうに言うだけだ。
「マスターおかわり」
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人の金だからと遠慮なく飲んでいる二人は言わずもがな、強大な相手だったと知って平然としている神蔵も神蔵だ。分かっているのかいないのか、けろりとした顔をしているこの男もまた、恐ろしい人間なのかもしれない。
「サッキーも遠慮なくどうぞ」
神蔵はそう言ってにこやかに酒を勧めてくる。縮み上がった胃は大好物のビールすら求めていなかったが、一人だけ萎縮している方がおかしく思えてくる。こうなればやけだと飲み干した苦い炭酸水は、舌を刺す刺激ばかり伝えてくるのだった。
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