裏社会の何でも屋『友幸商事』に御用命を

水ノ灯(ともしび)

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汚くて綺麗な

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 週の半ばだというのに、街は深い時間でも人通りが多い。酔いと夜の匂いが漂っている。ネオンの煌めきは、寒さが増すほどに輝きを鈍くしている真昼の太陽よりも眩しい気がした。 
 乾は人波を避けるようにしながら歩いていた。ポケットに両手を突っ込み、確かな足取りで進む。表通りに面したとあるバーに差し掛かると、その足を止めた。今夜の目的地はこの店だった。
 扉を開けると、絞られた橙色の照明が目に柔らかく飛び込んでくる。会話を邪魔しない程度の音楽が遅れて聞こえてきた。テーブルには二人連れの客がおり、密やかな時間を楽しんでいるようだ。
 乾はカウンターの中に目を滑らせる。そこにはシェイカーを振る店員の姿があった。恵まれた長身にギャルソンエプロンを巻いた姿が絵になっている。乾と同年代にはとても見えない年齢不詳の顔立ちに真剣さを乗せ、グラスに酒を注ぐ。長い指が美しい仕草で操られた。
 彼こそこの店のマスター、神蔵だ。

「いらっしゃいませ」

 神蔵は開いた扉に気付いて顔を上げる。見目がいいと持て囃されて当然の立ち振る舞いであったのだが。乾に気がつくと途端に表情は崩れ、人懐っこい笑顔が浮かんだ。

「乾!」

 わんこやわんちゃんなどあだ名で呼ばれることの多い乾の本名は、もはや彼しか呼ばないのではないだろうか。どうもと頭を下げる。カウンターの中を足早に近寄ってくる姿に先程の凛とした印象はなくなっていた。

「うわぁ、久しぶり。来てくれて嬉しい」

 乾の来訪を全身で喜んでいるのが分かり、思わず顔を緩めてしまう。自他共に捻くれ者と認める乾が神蔵を親しい友人だと真っ直ぐに言えるのは、この素直さに助けられているからだろう。
 勧められるままにカウンターに座る。他の客は目の前の相手に夢中なようで、神蔵が酒を運んで行っても会話が途切れることはなかった。

「何飲む?」

 神蔵は給仕から戻ってくると明るい声で乾に問いかける。友が酒を飲みに来てくれたと喜ぶ神蔵には悪いが、乾は少しだけ視線に真剣な色を混ぜた。

「マスター」

 レンズ越しの瞳を見て神蔵は僅かに背筋を正す。乾が神蔵をマスターと呼ぶのは仕事の合図だ。ここに訪れたのは酒を飲むためではなかったのだと気がつく。

「このバーで一番汚いカクテルを」

 声を潜めて口にしたのは、マスターだけに伝わる合図だった。

「かしこまりました」

 神蔵は口元に頼もしげな笑みを浮かべ、慣れた手付きでグラスを用意した。
 乾は闇金融で働く傍ら、情報屋としても動いている。潜入を得意とする佐々木と違い、電子機器を使った捜査が得意なのだが、時折神蔵の協力を仰ぐことがある。それはバーに回ってくる街の噂話や、表の客が多いと言えども時折混じる裏社会の人間との繋がりなど多岐にわたる。
 今回は、運び屋に依頼した案件を神蔵に媒介してもらうつもりだった。神蔵は相手が乾だと知らなかった。運び屋からはただこの注文をした客に預かり物を渡せと頼まれていたはずだ。
 氷で満ちたグラスに液体が順に計り入れられ、音もなく掻き回される。そっとマドラーが抜かれると、美しい色合いのカクテルが出来上がっていた。乾の前にコースターが用意され、グラスが提供される。

「お待たせいたしました」

 乾は暫し待ったが、神蔵はにこやかに見ているだけだ。依頼の物は一体どうしたのだと訝しげに見上げる。ここにあるのはただのカクテルに見える。先程の様子から合図は伝わったと思ったのだが。

「ええと、神蔵?」

 乾が困惑した声を出すと、神蔵は悪戯が成功した子供のように楽しげに笑った。コツコツ、と神蔵の指がコースターを示す。グラスを持ち上げてコースターを裏返すと、そこには駅の名前と数字が刻まれていた。神蔵の字ではない。運び屋が書いていったのだろう。
 乾は暫し逡巡し、指定の駅を思い描く。確かここには暗証番号式の古びたコインロッカーが設置されていたはずだ。おそらく依頼の物はここに預けてあるのだろう。神蔵にさえ渡さず、徹底的に足取りを残さないやり方だ。随分と用心深い。

「社長から伝言。上から2の右から3、だって」

 社長というのは二人がよく知る運び屋のあだ名だ。神蔵はカウンターに前のめりになると、音楽に紛れてしまいそうなほどの声量でそっと口にした。今のは該当するロッカーの場所だろう。
 目を上げると、神蔵の瞳は澄んだ黒色をしていた。それは見間違いかと思うほど一瞬のことで、瞬くともう普段の笑顔に戻っていた。
 何も知らないようでいて知略が働き、純粋に見えて狂気を孕む。神蔵の二面性は友人であっても時折恐ろしく感じられる。表も裏も内包し、全てを等しく我が物にしてしまう。まるでこのバーそのもののようだった。

「一杯くらい飲んでってよ」

 乾は汗をかきはじめたグラスを片手に眉根を寄せて難しい顔になる。別に急いでいるわけではない。緊急の案件ならこのバーを通さずに直接受け渡しをしていただろう。時間を気にしていない取引だったからこそ、運び屋の仕事が終わり次第バーに預ける運びとなったのだ。
 乾も久しぶりに会う神蔵と話したいのは山々だ。酒を入れたらそれこそ朝まで語ってしまうだろう。せめてコースターがふやける前に仕事に戻らなければならない。

「それノンアルコールだから」

 乾の逡巡が伝わったのか、神蔵は明るく告げた。カウンターに並んだ瓶を指差し、何が入っているのか教えてくれる。神蔵がグラスの中身で嘘をつくことはない。それなら一杯だけ、と乾は口をつけた。
 神蔵は満足そうに笑い、自分も何か飲むと言って作り始めた。客から貰うこともあれば自分で勝手に飲むこともある、自由なマスターなのだ。
 結局、二人の仲にアルコールの有無など関係なかった。バーの閉店時間まで話が尽きることはなく、楽しい時間は続いた。特別な紙だと嘯いた神蔵の言葉通り、コースターは最後まで情報を守り抜いてくれたのだった。
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