上 下
34 / 114
幼い夜

2

しおりを挟む
 幸介は足音を殺さないように気をつけながらベッドへと近づいていく。一瞬友弥の寝息が浅くなったように感じたがすぐに深いものへと戻っていった。友弥は穏やかな顔つきで眠っていた。健康的にふっくらとした頬はおそらく正常な肌色をしている。とっくに間合いの内側に入ってから、ゆっくりと友弥の目が開いた。

「…………幸介?」

 友弥は寝起きのぼんやりとした声で幸介を見上げた。近づくどころか部屋に入ってきた時点で友弥は気配に気づいていたはずだ。それは子供の頃に身についた癖で、幸介もよく覚えがある。眠っている無防備な状態で蹴られるとあまりに痛いのだ。だから近寄ってくる気配があったらすぐに起きないといけない。幼い体に痛みとともに覚えこまされたことはなかなか忘れられないようだ。
 敵襲があれば誰より早く気付く友弥であるのに、こうも近くにいてぼんやりとしているのは幸介だと分かっていたからだろう。無意識のうちに幸介だから問題ないと判断して体が睡眠を選んでいたのだ。

「どーしたの……?」

 友弥は眉根を寄せ、重い瞬きを繰り返している。今にも眠ってしまいそうに薄い声をしていた。

「生きてっかなーと思って」

 寝起きの幼い様子を見せる友弥に、急速に不安が遠のいていくのが分かった。幸介は声を潜めて言いながら小さく笑う。友弥は数秒の間は耳に入った言葉を飲み込めなかったようだが、やがて全てを理解したかのように大人びた微笑を零した。

「……おかげさまで、生きてるよ」

 そう言って目を閉じた友弥はもう子供ではなかった。小柄な体をふらつかせ、いつも青白い顔色をしていた病弱な子供はもうどこにもいない。親にうとまれ、薬剤や洗剤を飲まされ、嘔吐しては苦しんでいた自分よりもかわいそうな子。まだ自分はマシなのだと幸介の精神を支えてくれたあの頃の友弥。
 友弥が生きていてくれるだけでどんな悪夢も過去でしかないのだと思わせてくれた。だって、友弥を生かすために自分は友弥の両親を殺したのだから。そして同じ日に幸介を生かすために友弥は幸介の両親を殺した。正しくは友弥が殺したのはたくさんいる男のうちの一人だったけれど。だから友弥が生きているということは幸介も生きているということで、もう自分を脅かすものがいないという確かな証明なのだ。

「俺もおかげさまで生きてる」

 幸介は自分に言い聞かせ、改めて確認するように言葉にした。友弥は閉じていた目を薄く開いて笑みの形にする。こいつは子供の時から同じように、全て見透かしているような目をしていたとふと思い出す。友弥は何も言わなかったがまるで幸介が悪夢にうなされていたことも、その夢の内容までも知っているようだった。しばらくこんなことはなかったのに、友弥は変わらない目で笑うのだ。

「寝れないなら、付き合おっか? ……ゲーム、とか………」

 友弥はとろとろと瞬きをしながら今にも寝息になってしまいそうな声で聞く。目の開いている時間はどんどん短くなり今にも眠ってしまいそうだ。それでも幸介が付き合って欲しいと言ったら眠気が来るまでゲームに付き合ってくれるのだろう。

「いいよ、もう寝る」

 なんとか瞼を持ち上げようとしているのがおかしくて笑い混じりに言う。おやすみ、と声をかければ友弥は返事をしようとしてむにゃむにゃと何かを言った。しかし眠気が限界だったのか、言葉にならずにそのまま寝息が聞こえだす。
 幸介、寝れないの?と聞いてきた幼い声が思い出された。あれから10年以上が経っても寝顔は大して変わっていない。そっと笑みを浮かべる。自分の中で怯えて泣いていた子供はすっかり眠りに就いたようだった。またしばらくは起き出すこともないだろう。今は友弥だけでなく、ヨウも涼もいるのだから。
 ぐっすり眠っているだろう二人の仲間を思う。重苦しい感覚はすっかりなくなっていた。自分がうなされている間も二人は眠りこけていたのだろうと思うだけでなんだかおかしくて、悪夢など見ている自分が馬鹿らしく思えた。
 友弥の警戒心を刺激しないように多少物音を立てて部屋を出ていく。急に眠気が襲ってきてあくびをひとつした。もうすぐ夜が明けてしまう。
 まだ体温の残る布団の間に潜り込めばすぐにうとうととし始めた。幸介は抗わずに目を閉じ、優しい感覚に身を委ねる。過去にはできなかった穏やかな顔で眠る子供の自分がちらりと見えたような気がした。
しおりを挟む

処理中です...