裏社会の何でも屋『友幸商事』に御用命を

水ノ灯(ともしび)

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幼い夜

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 家に帰ってきて宿題を終わらせた頃に玄関で物音がする。じっと息を潜めて耳を澄ませると、母のヒールの音ともう少し重い足音が聞こえる。話し声は片方は聞き慣れた母の声だが男の声は初めて聞くものだった。今夜もまた知らない男が来たのかと身構える。
 部屋を暗くして隅で身を隠していたのにどうしてか自分は見つかってしまう。ゆっくりと開いた扉の隙間から細く光が差し込んで、抱えた膝まで男の影が伸びてくる。
 子供だ、子供がいる、うとましい、いらない、邪魔だ、いなくなってしまえばいいのに。
 母の声に被さって何人もの男の声が聞こえてくる。耳を塞いでも消えない声に噛み締めた唇から血の味がする。ミシリと床が鳴って男が部屋に入ってくる。自分を守るものは何もない。逃げたくても体が動かない、逃げる場所もない。助けてくれる人もいない。また痛いのがくる。苦しいのがくる。振りかぶられた拳の向こう側で男がどんな顔をしているのか、もう分からない。目が逸らせない。痛いのが迫ってくる。怖い、怖くて、痛くて、痛いのが、怖くて、痛い。








 ヒュ、と喉が鳴った音で目が覚めた。ひどく呼吸が荒い。冷たい汗がびっしょりと額を覆っていた。見開いた目には暗い部屋が映り込む。一瞬どこだか分からなかったが、すぐに住み慣れた自分の部屋だと気がついた。
 幸介は少しずつ自分を取り戻していきながらぐったりと重い息を吐く。昔の夢を見るのは随分と久しぶりだった。孤児院にいた頃は毎日のように悪夢にうなされては飛び起きていたが、成長するにつれて見なくなったと思っていたのに。
 今やもう理不尽な暴力に耐えなければいけない環境ではなく、それに対応する力も持っている。それでも幸介の中にいる小さな子供がまだ痛みに怯えて縮こまっているような気がするのだ。頭と腹を庇い、謝罪も懇願もただ飲み込んでされるがままに殴られ蹴られる幼い子。傷だらけの体を長袖長ズボンで隠して周りに媚びた笑顔を振りまく過去の自分。
 昔のことを考えるのはやめよう、と幸介は体を起こした。自分の体にはどこにも痛みなどない。しかし久しぶりに悪夢を見たせいか嫌な感覚がなかなか消えていかなかった。思い出したくもない日々がなぜか浮かんできてしまう。母が連れてくる男の中でも幸介のことを執拗にいたぶってきた男。目つきが怖すぎて目を合わせられなかった男。母にまで暴力を振るった男。自分を疎ましがる母。機嫌が悪くなると物を投げてくる母。毎回違う男の下で声を上げる母。
 最近はこんな風にならなかったのに、と手の平で目を覆う。腹を蹴られ続けた日の夜のように内臓がじくじくと痛むような気がした。昔のことだと思おうとしても自分の中の子供が眠りに就いてくれない。孤児院にいた頃を思い出す。普通の子供でいようと努力して怖がる自分を押し殺してきた。悪夢を見ようが翌朝になれば笑顔を見せ、親を失っても明るく振る舞う健気な子供を演じてみせた。大人に触れられそうになると体が硬くなったが、頭を撫でる手をおとなしく受け入れてもみせた。弱い所を見せられたのは、ただ一人にだけ。
 そっとベッドを下りると冷たい空気が体を覆った。冬の夜特有の乾いているのに湿っぽい匂いの空気。自室を出て、四つ並んだ部屋のうち迷うことなく一つの扉に手をかける。静かすぎない程度に音を殺して扉を開けると、無遠慮に体を滑り込ませた。
 ベッドには仰向けで規則正しい寝息を立てる友弥の姿がある。それだけでなんとなく安心した。あの頃の幸介を知っている男。友人というにはあまりに近すぎる、家族同然というには歪みすぎた関係の彼。悪夢を見た夜は決まって友弥の寝顔を見に行ったものだった。
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