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無駄吠えの躾

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 友弥はおかしなものを飲まされることは多かったが、殴られたり蹴られたりすることはほとんどなかった。機嫌を損ねないよう気配を消し、親の顔色を伺っていればそれでよかった。
 しかし、幸介は常日頃から暴力を振るわれることが多かったらしい。学校で会うたびに幸介はどこかしら怪我をしていた。夏でも長袖と長ズボンでいることを不思議に思えば、その下は傷跡だらけで綺麗な皮膚の方が少なかった。校内で、二人だけが異質な存在だった。
 体に悪いものばかり摂取しているせいで友弥は体が弱く、いつも体調を崩していた。それに比べて幸介は明るく、友達も多かった。彼のいる環境からすればおかしなくらい明るかった。幸介の笑顔は大人にも子供にも魅力的に映るようだった。随分経ってから、それは周囲に媚びて生きていくための術だったのだと知ったけれど。
 友弥はそんな幸介を可哀想だと思うことでなんとか生きていた。実際、普通の子供達に囲まれながらも自分より辛い目にあっている奴がいると思うとまだ幸運だと思えた。幸介もまた同じように友弥を可哀想なやつだと同情し、世話をすることで自分を保っていた。共依存することで今日を生き、明日を生き、心の支えにしながら生きた。

「…………知らなかった」

 涼は呆然とした様子で言う。友弥はやはり幸介は語らなかったのかと思うだけだ。
 幸介には痛いほど友弥の気持ちが分かったことだろう。謝ったところで暴力は止まない。許しを請うたところで何も変わらない。喚けば喚くほどに痛みは増していく。そうすれば後はただ耐えることしかできない。頭と腹を庇い、歯を食いしばり、なんとか痛みを逃す術を手に入れるだけだ。だから幸介は今でも痛みを負わずに殴られるふりが誰よりうまい。急所を庇うことも、苦痛に耐えることも得意だ。
 そんな幼い二人のある日のこと、遊びに夢中になっていて帰りが遅れた日があった。その日の折檻は特に厳しかった。次の日学校に行くと、幸介は今まで見たことのないくらい傷だらけになっていた。
 思ったのだ。このままでは幸介は殺される。殺される前に、殺さないと。
 その日の放課後、友弥は幸介の両親に幸介のされていたことを仕返してやった。それだけであっさり動かなくなった。だから、やっぱり正しかったのだ。だって幸介のされていたことをしただけで死んでしまったのだから、あのままだったら幸介が殺されていたのだ。
 さらに呆れたことに、それは幸介の両親ではなかった。母親と、知らない男だった。幸介の傷は代わる代わる母親を抱きにくる別々の男達につけられていたらしい。それを知らなかった幼い友弥は幸介を傷つけていたうちの一人しか殺せなかったが、当時はそれで十分だった。
 遅くなると今日も怒られてしまうと急いで家に帰る途中に幸介に会った。そして幸介は友弥に謝った。
 ごめん、お前の父さんと母さん殺しちゃった。

「それでお互いに親の仇になったってわけ」

 あっさりと語られた昔話に涼はまだ困惑しているようだった。友弥はそれも当然だと薄く笑う。まさか幸介が同じことを考えて同じことをしているなんて当時の友弥も思いもしなかったのだから。
 それから二人は普通の子供を装った。何者かに親を殺された可哀想な子供は孤児院に引き取られたが、やはり普通ではいられなかったのか気づけばここにいる。
 “普通の子供”の友弥は言う。優しいお父さんとお母さんを殺した相手を許せません。今でも恨んでいます。そして幸介は言う。一生俺を恨んでもいい。
 それでも、互いに許しあって普通を諦めたのだった。

「だから許してやってね?」

 友弥は涼の頬を見て目を細める。涼は眉を下げて脱力するばかりだった。

「もう十発くらい殴ってもらった方がいいかも」

 力の抜けた声に友弥はくすくすと笑う。解熱剤が効いてきたのか、体が楽になっているのが分かった。
 涼は俄かに真剣な顔つきになって友弥の手を取った。右手の平にはガーゼが貼ってあり、その内側には友弥自身がつけた爪の跡が残っている。ぎゅっと手を握りしめ、真っ直ぐに友弥を見る。

「あのさ。友弥にも幸介にも、助けてって言ってもらえるようになるから。ちゃんと助けに来るって思ってもらえるくらい……がんばるから」

 きゅっと唇を引き結んで言われた言葉を友弥はしっかりと飲み込む。意外と不器用な涼の言葉選びはどこか拙かったが、必死さと誠実さが伝わってきて胸が温かくなる。うん、と答えると涼はふっと笑っていつぞや誰かがやったように後ろを指し示してみせた。

「……って、扉の向こうのヨウも言ってた」

 同じように聞き耳を立てていたのだろう。ぎくっとしているヨウを思い浮かべて友弥は愉快そうな笑いを漏らす。

「これでも信用してるんだよ。ぶっ倒れても迎えに来るって思ってるくらいにはさ」

 友弥はくすぐったそうな顔をすると目を伏せてそう言った。たとえ突っ込んでいって捕まったとしても、連絡ひとつせず瀕死になったとしても、駆けつけて助けてくれるだろうとどこかで確信している自分がいる。

「でも連絡はしろよなー」

 涼が随分柔らかくなった調子で言ってむにっと友弥の頬をつねった。うん、ごめん、と返して友弥は手の力を抜く。長く話したせいかくたびれてしまって眠気に飲まれそうになっていた。

「寝ていいよ、俺ここにいるし」

 罪滅ぼしのつもりか、涼はずっと側で世話を焼いてくれるつもりらしい。それなら安心だと友弥は目を閉じる。痛みも苦しさも既に過去のものになっていた。
 目が覚めたら幸介にも声をかけておこう、と思う。まだ何を言うかは決まっていないが、まとまらない言葉でも幼馴染のあいつなら分かってくれることだろう。
 隣にある気配が心地いい。ゆったりとした呼吸の中で意識がまどろんでいった。長い夜を終え、朝焼けとともに眠りに落ちる。
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