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無駄吠えの躾

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 友弥の胸倉を掴んで持ち上げたまま、涼のもう片方の腕が首に翳される。急所を覆う大きな手の平から熱が伝わってきた。どく、どくん、と拍動が涼の手を打つ。これから何をするのか分からせるように指先を食い込ませても、友弥は反応を示さなかった。
 少しずつ力が込められていく。気道が狭まり、呼吸を阻害した。たちまち酸素が入ってこなくなり、友弥は苦しげに顔を歪める。顔は真っ赤になり、体が勝手にびくりと震えた。それでも自由なはずの右腕が抵抗してくることはない。微かに動いた唇も言葉を紡ぐわけではなく無意識に酸素を求めているだけだ。友弥の瞳は見開かれたまま、じわりと涙が溜まっていく。その目が次第に焦点を無くし、体が痙攣し始めた。
 涼が乱暴に手を離すと、友弥の体はどさりと落ちてタイルをのたうった。

「げほっ! けほっ、ごほっ! っ、は、はっ、っこほ、っ……!」

 友弥は急に入ってきた酸素に苦しげに咳き込む。反射的に出る咳さえ抑え込もうとしているようだった。手の平で口を覆い、余計に息苦しそうに見える。そうまでして謝るつもりはないと示しているのかと涼の苛立ちは増すばかりだ。友弥はろくに息も整っていないのに必死に口を押さえ、鼻だけで呼吸している。
 友弥の呼吸音を水の音が掻き消している。浴槽の内側は水嵩を増していた。涼は横目でそれを見ると、倒れ伏した友弥の襟をもう一度掴む。相変わらず友弥は人形のようにされるがまま、涼に引き起こされた。タイルの上を引きずり、浴槽の前に連れて来る。
 浴槽の縁に頭を固定され、友弥の眼前には冷たい水面が突きつけられた。蛇口から勢いよく注がれる水が水面を波打たせ、友弥の頬に跳ねる。何をされるか分かっているはずなのに、友弥は口を噤んだまま水を見ているだけだった。
 勢いよく頭を押さえつけられる。ばしゃっと水が跳ね、友弥の頭を飲み込んでいった。浴槽から水が溢れる。友弥の頭だけでなく体まで濡らされた。突然水に沈められた友弥は呼吸の自由を奪われる。ごぼごぼと水面に泡が立ち昇った。反射的に頭を上げようとしても涼の力には敵わない。
 暴れていた体の力が失われかけて、ようやく頭が引き上げられた。咳き込むと飲んでしまった水が溢れてくる。

「っはあ、ごほっ! っ、ぜっ、はあっ」

 友弥は流れ落ちてくる水に目を閉じたまま、溺れかけの呼吸を繰り返す。それも束の間で、呼吸が整う前に再び水の中へと沈められた。
 ごぽごぽと水に沈んでいく音が鼓膜に響く。水中は外の世界と隔てられているようで、深い闇と身を切るような冷たさだけが全てだった。強制的に酸素が奪い取られる。息をしようと肺から空気が抜けた瞬間に沈められたため、思わず水を飲んでしまっていた。漬けられた時点でもう限界を迎えていた。泡として吐く空気もない。生命維持のために体が滅茶苦茶に暴れ回る。しかし足をばたつかせようと頭を押さえる手は跳ね飛ばすことができず、友弥を水の中に閉じ込め続けた。
 目の前が暗くなった瞬間、また引き上げられる。

「ごぽっ、おぇ、ぅ、げぽっ、こほっ」

 咳き込んだ拍子に飲んだ水が吐き戻される。胃がひっくり返りそうに熱く、体力が奪われる。ただでさえ満身創痍だったのに体を冷やされ、虐げられ、もう意識を保つので精一杯だった。
 極限状態にあっても涼は簡単に気絶させてくれない。仕事柄拷問には慣れている。相手を見て限界を見極め、殺さず生かし続けるのは涼の得意分野だった。

「ごめんなさいは?」

 涼は作業的に手を動かしながらまだ一度も聞いていなかった謝罪を促す。泣きながら謝ってみっともなく許しを請えばこの仕置きは終わるはずだった。友弥は一声も漏らすものかと言わんばかりに口を引き結び、苦しげな顔で堪え続けている。まだ涼の声が聞こえなくなるほどではないはずだ。求められているものが分かっていてあえて応えないのだろう。
 そのつもりならともう一度沈めてやる。友弥は全身を跳ねさせて暴れていた。それでも右手は涼を止めに来ない。強く握り込まれ、自分の意思で留めているようだった。
 友弥は強情にも泣き言一つ漏らさずただ体をがくがくと震わせて責めを受け止めている。引き上げると、色を悪くした唇が必死に呼吸を始めた。冷えて白さを増した頬に熱い涙が流れていく。意味のある言葉は一つも出てこなかった。変わらず右手は体の横で握り込まれたままだ。
 頼るどころか縋ることすらしないのかと、カッと頭が熱くなる。まるで降りかかった災害が通り去るのを待つように友弥は身を硬くして耐え続けていた。

「本当に壊すぞ」

 最後通告だと冷ややかな目を投げるが、友弥は黙っているばかりだ。嫌だと言うことも、やめて欲しいと言うこともない。

「はひゅ……ひっ、ひくっ……」

 もはや呼吸は怪しくなっていた。それでも懸命に声を堪えようと、握っていた右手が口を塞ぎにいく。友弥はぶるぶると身を震わせるばかりだ。固く閉じた目は涼を映すこともない。涼は身を焼くほどの苛立ちに任せてひとつ舌打ちをした。
 浴室の外に手を伸ばし、スタンガンを掴む。何の宣告もなくスイッチを入れるとタイルに崩れた友弥の背に押し当てた。意思に関係なく友弥の体が激しく痙攣した。見開かれた目には何も見えていないことだろう。ずっと殺していた声が反射的に漏れ出す。

「ああああああああああああっ!」

 喉を裂かんばかりの絶叫が響く。堪えることすらできぬほど余裕がないのだろう。叫ばなければおかしくなると体は分かっているのかもしれない。逃げようともがく友弥の体を踏みつけ、電流を当て続ける。
 謝らせるという目的すら忘れて涼は瞳孔の開ききった目で苦しむ友弥を見下げる。友弥は謝罪など考える頭も働かないだろう。意味のない言葉を喚きながら暴れ続けるが涼の体を押し返せる筈もなく、痛ましい悲鳴をあげることしかできない。
 突如慌ただしい足音がしたかと思えば勢いよく浴室の扉が開かれた。涼は邪魔が入ったとばかりに友弥の上からそちらを見やる。入り口には幸介が立っていて、涼と目が合った瞬間に憤怒が燃え盛るのが分かった。
 次の瞬間、勢いよく跳ね飛ばされて気づけば壁に叩きつけられていた。涼はかろうじて受け身を取ると自分を殴り飛ばした男を睨み上げる。頬が焼けるように熱い。涼が体勢を立て直すより早く幸介は胸倉を掴み上げ、引きずるように顔を上げさせていた。

「てめえ何やってんだ!」

 胸倉を掴む手が怒りのあまりわなわなと震えている。激怒を浮かべた目で涼を強く睨み、幸介は真っ直ぐに怒鳴りつけていた。

「ちょっとお仕置きしてやっただけだろ、そいつが謝んねえからっ……」

 涼が引き下がることなく声を荒げると幸介は先とは比べ物にならないほどの力で胸倉を引き寄せた。首元が締められて涼は眉を顰める。

「それを友弥に言ったのかよ! おい!」

 凄まじい剣幕で怒鳴りつけられて涼は怒りよりも困惑を浮かべる。何が琴線に触れたのか分からぬまま、ただ勢いに負けじと乱れた髪の隙間から幸介を睨む。

「言ったら何だってんだよ!」

 やけくそのように口走った瞬間、幸介の目が憎悪に染まった。見たことのない色に涼は気圧されて押し黙る。もう一発ぶん殴られる、と唇を結んだ時だった。

「なあ。それは今、ここで、しなきゃいけない話なのかよ」

 静かでありながら語気の強い声が二人を止めた。振り返るとヨウが冷めた目で浴室の外に立っていた。倒れている友弥を見て幸介は胸倉を掴んでいた手をゆっくりと離す。涼はシャツの皺を直すと憮然とした表情でゆるりと立ち上がった。
 友弥はタイルの上で意識を飛ばしてしまっていた。全身ずぶ濡れになっていて、濡れた髪が頬に張り付いている。毛先からは冷たそうな水が滴っていた。顔色は青くなり、唇の色も悪い。投げ出された右手の平は血が滲んでおり、切り揃えられた爪には肉を抉った赤色が残っていた。どれほど強く握り込んでいたのか、それだけで伝わる程だった。

「一旦頭冷やせ」

 ヨウは友弥の体に自分の上着を被せてやりながら冷ややかに告げた。その横顔は確かに怒りを孕んでいた。幸介も涼も、どちらも何も言えないまま立ち尽くす。しばらくの間、死んだように動かない友弥を見下ろしていることしかできなかった。
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