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Ⅲ 別離
2.ナタリア
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状況が変わったのは、数日後だった。
天窓を見上げていたルカは、鍵が回る音に慌てて涙をぬぐう。侍女が掃除に来たのだと思った。忌み子の姿を気持ち悪がられるのが嫌で、寝台にもぐりこむ。
だが、聞こえてきた声は凛としていた。
「まあ、なんてことなのかしら! もう日も高いというのにゴロゴロして」
え、と思った次の瞬間、上掛けを取り上げられていた。ルカは呆気にとられる。
「ナタリアお姉さま……?」
くりくりとした銀の巻き毛が、この城での彼女の身分を示していた。アドルファスの娘ナタリアは怜悧な青い瞳をすっと細めた。
脇で咳払いする片眼鏡をかけた老人にも見覚えがあった。元老院の貴族、コパだ。
ナタリアは上掛けを放り出して言った。
「このわたくしが見舞いに来たというのに、挨拶もなしとは。偉くなったものですね」
自分の失言に気づいたルカは、慌てて従姉に跪き、臣下の礼をとった。
「も、申し訳ありません、ナタリア王女様」
二つ年上の彼女を『お姉さま』と呼んだのはもう十年前だ。今のルカは王子ではない。
王女は扇子の下で大仰に息をついた。
「……いいわ。特に許します」
部屋の中央に、侍女が茶会の支度を整える。香草を煮出したお茶に、卵の甘い蒸し物、果物、木の実と蜂蜜入りの粥まで付く。
ジェイルのことを思うとルカは食欲が沸かなかったが、王女の誘いは断れない。幸い、胃に優しいものが少しずつ用意されたので、ルカもなんとか食べられそうだった。
「ありがとう。行っていいわ」
ナタリアの素っ気ないともとれる感謝の言葉に侍女たちが一斉に色めき立つ。幼少期からいっそう増して見える従姉の人気ぶりにルカは微笑した。昔から、どんな時でも凛とした態度で人を魅了する王女だった。
ナタリアに命じられ、ルカは恐れ多くも彼女と同じ長椅子に腰かけた。コパはその対面で、いつもの険しい顔をふっと崩した。
「いやはや、お二人とも幼い頃のまま、よく似ておられる。まるでご姉弟のようですな」
「ふふん、従姉弟ですもの」
ナタリアは扇子で口を隠して笑った。城で誰もがそう思いつつ口にできないことを言われて小気味よかったらしい。
実際、ナタリアとルカはよく似ていた。目の色はもちろん違うし、ナタリアのほうが巻き毛の癖が強い。だが声や輪郭、耳の形といった細部が驚くほど似ている。
だからだろうか。ルカは今でも心の中で、彼女を姉のように思っていた。修道院に送られる日、まだ十歳のナタリアは、侍女の静止も聞かずルカを強く抱きしめてくれたのだ。
それから十年が経った今、ルカの横でカップを手にしたナタリアは言った。
「お父様の気が知れないわ。わたくしによく似たルカを手酷く扱うのですもの。政治的な立ち回りとはいえ、背筋が寒くなります」
よく似ているからこそ、とルカは思ったが口には出さなかった。ナタリアにはわからない心理のように感じたからだ。
愛する娘の姿を真似るように成長したルカは憎き緑の民の血をひいていて、しかも男児だ。アドルファスからしてみれば、目障りで気味悪い化け物でしかないのだろう。
コパも同じように思うらしく、曖昧な笑みを浮かべた。ルカに話題を向ける。
「国境に比べると、ここは暖かいでしょう」
「はい…… 。雪がもうないのですね」
「イグナス領の急峻な山が雪雲を遮ります。彼の地が聖都を守っているのです。天候においても、軍事においても」
イグナス領は、漆黒の騎士団の本拠地だ。ルカは、コパが穏やかな口調で何かを伝えようとしているのを感じた。
「テイスティスは亡くすに惜しい男でした」
「あの方をご存知なのですか」
「もちろん。彼は騎士団長にして領主です。愛妻家で……式典などの折には奥方のギルダと共に王城へ来ていました。確か、ナタリア様も親交がおありだったかと思いますが」
ナタリアは澄まし顔して言った。
「お父様の代理で付き合ったまでです。まあ、二人とも悪い人間ではなかったわ……」
ナタリアはテイスティスに『高い高い』をされたわけではないらしい。そう思ったルカは、不意に懐かしさに胸が締め付けられた。戦地の記憶がすでに遠ざかりつつあることがルカには耐えがたかった。
天窓を見上げていたルカは、鍵が回る音に慌てて涙をぬぐう。侍女が掃除に来たのだと思った。忌み子の姿を気持ち悪がられるのが嫌で、寝台にもぐりこむ。
だが、聞こえてきた声は凛としていた。
「まあ、なんてことなのかしら! もう日も高いというのにゴロゴロして」
え、と思った次の瞬間、上掛けを取り上げられていた。ルカは呆気にとられる。
「ナタリアお姉さま……?」
くりくりとした銀の巻き毛が、この城での彼女の身分を示していた。アドルファスの娘ナタリアは怜悧な青い瞳をすっと細めた。
脇で咳払いする片眼鏡をかけた老人にも見覚えがあった。元老院の貴族、コパだ。
ナタリアは上掛けを放り出して言った。
「このわたくしが見舞いに来たというのに、挨拶もなしとは。偉くなったものですね」
自分の失言に気づいたルカは、慌てて従姉に跪き、臣下の礼をとった。
「も、申し訳ありません、ナタリア王女様」
二つ年上の彼女を『お姉さま』と呼んだのはもう十年前だ。今のルカは王子ではない。
王女は扇子の下で大仰に息をついた。
「……いいわ。特に許します」
部屋の中央に、侍女が茶会の支度を整える。香草を煮出したお茶に、卵の甘い蒸し物、果物、木の実と蜂蜜入りの粥まで付く。
ジェイルのことを思うとルカは食欲が沸かなかったが、王女の誘いは断れない。幸い、胃に優しいものが少しずつ用意されたので、ルカもなんとか食べられそうだった。
「ありがとう。行っていいわ」
ナタリアの素っ気ないともとれる感謝の言葉に侍女たちが一斉に色めき立つ。幼少期からいっそう増して見える従姉の人気ぶりにルカは微笑した。昔から、どんな時でも凛とした態度で人を魅了する王女だった。
ナタリアに命じられ、ルカは恐れ多くも彼女と同じ長椅子に腰かけた。コパはその対面で、いつもの険しい顔をふっと崩した。
「いやはや、お二人とも幼い頃のまま、よく似ておられる。まるでご姉弟のようですな」
「ふふん、従姉弟ですもの」
ナタリアは扇子で口を隠して笑った。城で誰もがそう思いつつ口にできないことを言われて小気味よかったらしい。
実際、ナタリアとルカはよく似ていた。目の色はもちろん違うし、ナタリアのほうが巻き毛の癖が強い。だが声や輪郭、耳の形といった細部が驚くほど似ている。
だからだろうか。ルカは今でも心の中で、彼女を姉のように思っていた。修道院に送られる日、まだ十歳のナタリアは、侍女の静止も聞かずルカを強く抱きしめてくれたのだ。
それから十年が経った今、ルカの横でカップを手にしたナタリアは言った。
「お父様の気が知れないわ。わたくしによく似たルカを手酷く扱うのですもの。政治的な立ち回りとはいえ、背筋が寒くなります」
よく似ているからこそ、とルカは思ったが口には出さなかった。ナタリアにはわからない心理のように感じたからだ。
愛する娘の姿を真似るように成長したルカは憎き緑の民の血をひいていて、しかも男児だ。アドルファスからしてみれば、目障りで気味悪い化け物でしかないのだろう。
コパも同じように思うらしく、曖昧な笑みを浮かべた。ルカに話題を向ける。
「国境に比べると、ここは暖かいでしょう」
「はい…… 。雪がもうないのですね」
「イグナス領の急峻な山が雪雲を遮ります。彼の地が聖都を守っているのです。天候においても、軍事においても」
イグナス領は、漆黒の騎士団の本拠地だ。ルカは、コパが穏やかな口調で何かを伝えようとしているのを感じた。
「テイスティスは亡くすに惜しい男でした」
「あの方をご存知なのですか」
「もちろん。彼は騎士団長にして領主です。愛妻家で……式典などの折には奥方のギルダと共に王城へ来ていました。確か、ナタリア様も親交がおありだったかと思いますが」
ナタリアは澄まし顔して言った。
「お父様の代理で付き合ったまでです。まあ、二人とも悪い人間ではなかったわ……」
ナタリアはテイスティスに『高い高い』をされたわけではないらしい。そう思ったルカは、不意に懐かしさに胸が締め付けられた。戦地の記憶がすでに遠ざかりつつあることがルカには耐えがたかった。
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