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ラブラブハッピー番外編
ロナウジーニョ氏と社長の話01
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「……はっ!」
ジーニョ――否、ロナウジーニョ氏はトイレの個室で覚醒した。目の前のドアを、何者かがドンドンと乱暴に叩いている。
「おい、おっさん! ロナウジーニョ、死んでるんじゃねーだろうな、オイ!!」
カトーだ。記憶が混乱している。ロナウジーニョ氏は追い立てられるように個室を出た。職場のトイレだ。床の白いタイルが照明を反射している。手洗い場の鏡と向かい合って、氏は立ちすくんだ。
チョコレート色の肌に、着古したグレーのスーツ。苦み走った皺が眉間に寄っている。短く刈り上げてもチリチリと丸まろうとするキンキーヘアも。自分で設定したアバターとは似ても似つかない姿がそこにあった。
「……なんだ? 寝ぼけてんのか、おっさん」
「カトー、か……?」
「んぁ?」
大陸全土に名を馳せた冒険者協会会長の面影はみじんもない。生意気そうな少年が、頭の後ろで手を組む。
「ったく。疲れてんなら仮眠室で寝ろよ」
「ああ……」
「うお、気持ち悪い。いやに素直だな」
単に聞いていなかっただけだ。洗面台に手をついて考え込む氏に呆れて、カトーはトイレを出て行った。一人になった氏は蛇口の前に手を出した。温水が出る。手が濡れる。その感触がある。現実としか思えない。
(……だが、そのはずはない。星が滅ぶXデイはすでに到来した。俺はノァズァークに乗り、あのゲーム世界の中に入った)
ロナウジーニョ氏は記憶を整理しつつバシャバシャと顔を洗った。ポケットにはイニシャル入りのハンカチが入っている。当時の習慣そのままだ。(記憶をもとにして構築された幻覚に違いない)と氏は考えた。
(おれはずっと社員『ジーニョ』として働いていたんだ。美しい妖精族のお嬢さんと、間抜けな牛女と知り合って……あの二人が世界を救うのを助けた)
濡れた顔を拭き、ため息をつく。元職場にいるせいか、思い返すすべての記憶を荒唐無稽な夢のように感じる。だが、夢はむしろ今いる世界のほうだ。
(俺は後始末のためにポップルへ向かった。そこではミノタウロス族を筆頭に、研究所に捕らわれていた種族が暴動を起こしていた――)
だんだんと記憶が蘇ってきた。ロナウジーニョ氏は、鏡の中の自分を睨みつけた。まったく、ひどい悪夢の中へ迷い込んだものだ。ロナウジーニョは――否、ジーニョは一刻も早く目覚めなければならない。
◇◇◇
リリィが卵を抱いている。それを知ったジーニョは揺籃の作成にとりかかった。
孵卵器を兼ねた揺りかごのことだ。本来、妖精族は隠れ里にある清い泉でのみ産卵ができる設定だった。ところが戦争のために隠れ里が破壊されてしまった。産卵できる泉を求め、また種族としての能力を強化するため、妖精族はレベルアップに邁進し――結果、絶滅への道を歩むこととなった。
リリィが生を受けたのは、母とその母たちが数世代をかけて試行錯誤を積み重ねた結果だろう。社員として、ジーニョはリリィにそんな苦労をかけさせたくなかった。思い返せば戦中、戦後とろくな働きができなかった。せめて生き残った彼女の産卵を助けたいと思ったのである。
新しいクメミ山で、ジーニョは揺籃の設計に集中した。ゴズメルとリリィが体力を回復し、設計図が仕上がった頃、三人はアルティカへ出発した。素材はその道のりで集める。現物の作成には設備の整った工房が必要だが、意外なことにゴズメルにはそのアテがあると言った。
「アルティカに魔道具屋をやってる友達がいるんだ。ミックっていうんだけど、すごくいいヤツでさ。事情を話せば店の工房を貸してくれると思う」
ガサツなゴズメルの知り合いというのがひっかかったが、今は信じるほかなかった。世界アップデートで鐵刑の塔を消され、工房どころか寝床も何もかも失った。最終目的地はポップル。先を急ぐ旅だ。工房探しの時間を短縮できるのならそれに越したことはない。
アルティカはひなびた町だった。ゴズメルに紹介された魔道具屋というのも、ちんけな骨董品屋で、ジーニョは辟易した。
友達とは言うがしょせんは店と客の間柄だ。おまけにゴズメルは数か月前まで指名手配を受けていたのである。そんな相手から紹介を受けて、みずしらずの老人に工房を貸すわけがない。
が、ミックは「利用料を払ってくれればかまわない」と言った。なるほど、がめつい男らしかった。おまけになれなれしい。作業中にちょくちょく「じいさん、少しは休んだほうがいいんじゃないか」などと声をかけられてジーニョはイラついた。揺籃が仕上がった時にはホッとした。なんとか情が沸く前にやり遂げた。
社員を長く続けていればわかるが、一般プレイヤーというのは実にあっさりと死ぬ。ゲーム世界で、違う時間の流れを生きているプレイヤーと親しくなっていいことなどひとつもない。リリィのような例外は何百年かに一人で十分だ。
揺籃を託した時もミックは「さすがにじいさん一人で遠出は厳しいんじゃないか?」と、引き留めてきた。ジーニョの半分も生きていないくせに「あんたが受けた仕事なんだから、あんたがゴズメルに渡すべきだ」と生意気な口を利く。
ジーニョは聞く耳持たずに旅立った。アルティカはまったく嫌な町である。緑が多く、ひとびとは明るくて穏やか。ポップルでの騒ぎも遠い国の出来事かのようだ。うかうか長居したらこっちの頭まで平和ボケしてしまう。
神殿から神殿へ。システムに侵入し、人目につかない程度にショートカットを繰り返す。クメミ山という未開の地では使えなかった手段だ。まったく快適な移動だった。卵を抱いたリリィを心配する必要もなく、ゴズメルの間抜けな声に煩わされることもない。快適すぎてやや物足りなさを感じたのは、やはり、アルティカに毒されたということだろう。
が、快適な移動もポップルのシステムに弾かれるまでだった。ジーニョは忌々しい気分で端末を閉じた。これまでは道々に設置されたアジリニ神の像を利用していたが、セキュリティが厳しくなっている。ハッキングにカンづいた社員が対策したのか。あるいは――。
ポップルの高層建築群は遠目にもくっきりと見えた。戦後、社員が強制力を最大限に用い、極度に発展させた電脳都市だ。(社長が見たらがっかりするだろうか)と、ジーニョは想像した。
かのひとが愛した宗教的聖典には、高い高い塔の物語がある。おごりたかぶった人間は神に逆らって塔を築いた。神はこれに怒って塔を打ち砕き、人類の共用語をばらばらにしてしまったそうだ。
しかし社長ならば、ノァズァーク世界の発展を喜びそうでもある。気に食わないと思っているのは、ジーニョが都市計画に参加できなかったからかもしれない。それも塔に軟禁されてのことだった。
ジーニョ――否、ロナウジーニョ氏はトイレの個室で覚醒した。目の前のドアを、何者かがドンドンと乱暴に叩いている。
「おい、おっさん! ロナウジーニョ、死んでるんじゃねーだろうな、オイ!!」
カトーだ。記憶が混乱している。ロナウジーニョ氏は追い立てられるように個室を出た。職場のトイレだ。床の白いタイルが照明を反射している。手洗い場の鏡と向かい合って、氏は立ちすくんだ。
チョコレート色の肌に、着古したグレーのスーツ。苦み走った皺が眉間に寄っている。短く刈り上げてもチリチリと丸まろうとするキンキーヘアも。自分で設定したアバターとは似ても似つかない姿がそこにあった。
「……なんだ? 寝ぼけてんのか、おっさん」
「カトー、か……?」
「んぁ?」
大陸全土に名を馳せた冒険者協会会長の面影はみじんもない。生意気そうな少年が、頭の後ろで手を組む。
「ったく。疲れてんなら仮眠室で寝ろよ」
「ああ……」
「うお、気持ち悪い。いやに素直だな」
単に聞いていなかっただけだ。洗面台に手をついて考え込む氏に呆れて、カトーはトイレを出て行った。一人になった氏は蛇口の前に手を出した。温水が出る。手が濡れる。その感触がある。現実としか思えない。
(……だが、そのはずはない。星が滅ぶXデイはすでに到来した。俺はノァズァークに乗り、あのゲーム世界の中に入った)
ロナウジーニョ氏は記憶を整理しつつバシャバシャと顔を洗った。ポケットにはイニシャル入りのハンカチが入っている。当時の習慣そのままだ。(記憶をもとにして構築された幻覚に違いない)と氏は考えた。
(おれはずっと社員『ジーニョ』として働いていたんだ。美しい妖精族のお嬢さんと、間抜けな牛女と知り合って……あの二人が世界を救うのを助けた)
濡れた顔を拭き、ため息をつく。元職場にいるせいか、思い返すすべての記憶を荒唐無稽な夢のように感じる。だが、夢はむしろ今いる世界のほうだ。
(俺は後始末のためにポップルへ向かった。そこではミノタウロス族を筆頭に、研究所に捕らわれていた種族が暴動を起こしていた――)
だんだんと記憶が蘇ってきた。ロナウジーニョ氏は、鏡の中の自分を睨みつけた。まったく、ひどい悪夢の中へ迷い込んだものだ。ロナウジーニョは――否、ジーニョは一刻も早く目覚めなければならない。
◇◇◇
リリィが卵を抱いている。それを知ったジーニョは揺籃の作成にとりかかった。
孵卵器を兼ねた揺りかごのことだ。本来、妖精族は隠れ里にある清い泉でのみ産卵ができる設定だった。ところが戦争のために隠れ里が破壊されてしまった。産卵できる泉を求め、また種族としての能力を強化するため、妖精族はレベルアップに邁進し――結果、絶滅への道を歩むこととなった。
リリィが生を受けたのは、母とその母たちが数世代をかけて試行錯誤を積み重ねた結果だろう。社員として、ジーニョはリリィにそんな苦労をかけさせたくなかった。思い返せば戦中、戦後とろくな働きができなかった。せめて生き残った彼女の産卵を助けたいと思ったのである。
新しいクメミ山で、ジーニョは揺籃の設計に集中した。ゴズメルとリリィが体力を回復し、設計図が仕上がった頃、三人はアルティカへ出発した。素材はその道のりで集める。現物の作成には設備の整った工房が必要だが、意外なことにゴズメルにはそのアテがあると言った。
「アルティカに魔道具屋をやってる友達がいるんだ。ミックっていうんだけど、すごくいいヤツでさ。事情を話せば店の工房を貸してくれると思う」
ガサツなゴズメルの知り合いというのがひっかかったが、今は信じるほかなかった。世界アップデートで鐵刑の塔を消され、工房どころか寝床も何もかも失った。最終目的地はポップル。先を急ぐ旅だ。工房探しの時間を短縮できるのならそれに越したことはない。
アルティカはひなびた町だった。ゴズメルに紹介された魔道具屋というのも、ちんけな骨董品屋で、ジーニョは辟易した。
友達とは言うがしょせんは店と客の間柄だ。おまけにゴズメルは数か月前まで指名手配を受けていたのである。そんな相手から紹介を受けて、みずしらずの老人に工房を貸すわけがない。
が、ミックは「利用料を払ってくれればかまわない」と言った。なるほど、がめつい男らしかった。おまけになれなれしい。作業中にちょくちょく「じいさん、少しは休んだほうがいいんじゃないか」などと声をかけられてジーニョはイラついた。揺籃が仕上がった時にはホッとした。なんとか情が沸く前にやり遂げた。
社員を長く続けていればわかるが、一般プレイヤーというのは実にあっさりと死ぬ。ゲーム世界で、違う時間の流れを生きているプレイヤーと親しくなっていいことなどひとつもない。リリィのような例外は何百年かに一人で十分だ。
揺籃を託した時もミックは「さすがにじいさん一人で遠出は厳しいんじゃないか?」と、引き留めてきた。ジーニョの半分も生きていないくせに「あんたが受けた仕事なんだから、あんたがゴズメルに渡すべきだ」と生意気な口を利く。
ジーニョは聞く耳持たずに旅立った。アルティカはまったく嫌な町である。緑が多く、ひとびとは明るくて穏やか。ポップルでの騒ぎも遠い国の出来事かのようだ。うかうか長居したらこっちの頭まで平和ボケしてしまう。
神殿から神殿へ。システムに侵入し、人目につかない程度にショートカットを繰り返す。クメミ山という未開の地では使えなかった手段だ。まったく快適な移動だった。卵を抱いたリリィを心配する必要もなく、ゴズメルの間抜けな声に煩わされることもない。快適すぎてやや物足りなさを感じたのは、やはり、アルティカに毒されたということだろう。
が、快適な移動もポップルのシステムに弾かれるまでだった。ジーニョは忌々しい気分で端末を閉じた。これまでは道々に設置されたアジリニ神の像を利用していたが、セキュリティが厳しくなっている。ハッキングにカンづいた社員が対策したのか。あるいは――。
ポップルの高層建築群は遠目にもくっきりと見えた。戦後、社員が強制力を最大限に用い、極度に発展させた電脳都市だ。(社長が見たらがっかりするだろうか)と、ジーニョは想像した。
かのひとが愛した宗教的聖典には、高い高い塔の物語がある。おごりたかぶった人間は神に逆らって塔を築いた。神はこれに怒って塔を打ち砕き、人類の共用語をばらばらにしてしまったそうだ。
しかし社長ならば、ノァズァーク世界の発展を喜びそうでもある。気に食わないと思っているのは、ジーニョが都市計画に参加できなかったからかもしれない。それも塔に軟禁されてのことだった。
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