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ラブラブハッピー番外編
かわいそうなオズヌと素敵なお婿さんのお話③☆
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よそもののトロイメライがミノタウロス族最強の長・グレンを下す。彼がクメミ山の王になり、妻である自分が女王になる。無論、オズヌはそんな天地がひっくり返っても起こりえないような夢物語を信じたわけではなかった。
ただ心の中に、目には見えない城を与えられた気がしたのは確かだ。
そういえば子供の頃のオズヌはよく、地面に四角を描き、そこに石を置いておはじき遊びをしていた。強くて大きな石を自分に見立ててほかの小石をパーンと蹴散らす遊びだ。いかにも子供っぽかったが、いい憂さ晴らしにはなった。
トロイメライがくれた城はそれより上等だった。城には童話で伝え聞くばかりの玉座があり、広々とした寝所があり、ベランダに続く窓を開けるとオズヌ一家を慕う民衆がわっと喜びの声を上げる。
その王国では、誰もオズヌのことを下に見ないのだ。女王の父母は尊敬され、尊き血を引く王子と姫たちは怪我や病気ひとつせずスクスクと育つ。名君トロイメライ王は女王を愛し、彼の治世はとこしえに続く。この世のどこにもない王国は滅びることもないのである。
ひとが聞いたらアホかと思うに違いない。我ながら恥ずかしいと思いつつ、その城はオズヌの心のよりどころとなった。現実でなくとも構わない。精神的な居場所を持つことで、みじめだった心がずいぶん救われたのである。
(わたしが思いついたんじゃない。婿殿が先に思いついて、わたしにお城をくれたんだ)
そのこともまた嬉しかった。お城の中に住んでいるのはオズヌが生み出した幻影だけではない。トロイメライの心の中にもそういうお城がある。二人が別々のからだを持ちながら、共にそこで過ごしている――そう思うとオズヌは尻尾のさきまで震えるほど幸せな気持ちになるのだった。
だからオズヌは、現実にあるミノタウロスの里とはまったく無関係に自分の城を楽しんでいたのだが、トロイメライのほうはそうではなかったらしい。
クメミ山に帰り着いてすぐ、一家は最下層から上へ向かった。長に婚約を報告しなくてはならない。必要なこととはいえ、オズヌは居心地が悪かった。上層に住まう強者たちはみんな、よそ者のトロイメライを値踏みするような目で見ていた。
光る苔で作られた広場で、トロイメライは長に言った。
「ボクは親がありません。式はまだでも、自分はもうオズヌさんの家族だと思ってます」
彼はオズヌとの約束を果たすべく、本気で王になろうとしていた。
「だから結婚式ではうちのひとたちとではなく、長グレンと殴り合いたいです。それでボクが勝てば、この里はボクのものになりますから」
前代未聞の長への挑戦に、人々はどよめいた。グレンは微動だにしなかったが、脇に控えた長の子・ミギワはピキッと額に青筋を立てた。
「ふざけるなよ。よそ者が、ひとの頭をいくつまたいで長に挑戦している」
「なぜですか。イチバン強いひとと戦ったほうがカンタンだし、話が早い」
「そういう問題じゃない!」
「あなた、ボクと戦いたいですか。じゃあ長グレンと戦った後にしてください」
「いったい何様のつもりだ!?」
怒っているのはミギワだけではない。周囲を取り囲む全員から一斉に非難を浴びて、オズヌは失神寸前だった。両親が平然としているのは、耳が遠いのと、婿の意向を先に聞いていたためらしい。
オズヌは全くの初耳だった。いや、『女王様にしてあげる』発言がそういう意味だったとしたらわからないけれど。
だが、決定権があるのはミギワでもトロイメライでもなかった。
クメミ山を統べる長・グレンは、その時なぜかオズヌのほうを見ていた。なにか言葉をかけられたのだったか、種族語を忘れてしまった今のオズヌは思い出すことができない。
しかし、グレンが長蛇の列を作って順番待ちしている挑戦者たちをすっとばしてトロイメライの相手をすると決めたのは――家出した一人娘・ゴズメルが、かつて最下層に入り浸っていたことと無関係ではなかっただろう。
オズヌは緊張のあまり倒れそうだったが、長が自分とゴズメルの友情を覚えていてくれたことについては、素直に嬉しかった。そのせいで花婿がコテンパンに叩きのめされた点に関しては、なんとも言えないのだけれど。
◇◇◇
パチパチと薪が弾けて火の粉が上がった。
かつてのクメミ山は消え去り、ミノタウロス族は種族語を失ったが、火だけは変わらない。
オズヌは正面に座った父に視線を向けた。
「おとうさん」
「……うん?」
父は返事をした。昔は、父のことをこんなふうには呼んでいなかったと思うのに。父はすでに「おとうさん」、母は「おかあさん」になってしまった。
オズヌは「なんでもない」と、笑って首を振った。
「……そうか」
「うん」
「婿殿、遅いな」
「……うん」
父もオズヌと同じようにトロイメライの帰りを待っていたのだ。火を消すと本当に真っ暗になるので、全員が帰るまでは焚火を消せない。
「お父さん先に寝てていいよ。わたしが……」
噂をすれば影が立つ。近くの茂みをガサガサッと揺らして帰ってきたのはトロイメライだった。どこからもいできたのか腕いっぱいに果物を抱いている。
「おかえり」
「遅いよ。みんなもう寝てしまったよ」
「ああ、遅くなってスミマセン、洞窟があったから」
「えっ」
「洞窟。一緒に来て、オズヌさん」
とってきたものをばらっと地べたに置いて、トロイメライはオズヌを引っ張った。腕から果物の甘い匂いがする。
「でも、もう遅いし……」
「ボク、夜目がききます。いいですか、お父さん」
父はむろん逆らわなかった。家で一番強いのはトロイメライだからだ。父が焚火を消すと、あたりは真っ暗になった。迷いなく歩き出すトロイメライにオズヌは思わずすがりついた。彼が嬉しそうに腰に腕を回してくる。
(なんだか、はじめて会った時と変わらないな)
そう思ったとたん、急に悲しくなる。トロイメライは触れ合った妻の心に敏感だった。
「どうかしたの」
「いや……うん……」
「怖い? オズヌさん。ボク、本当にいい洞窟を見つけましたよ。きっと気に入るよ」
そうじゃない。そうじゃなかった。オズヌはあの夜と同じ、星のように眩いトロイメライの瞳を、とても見られなかった。
「ちゃんと思い出せないんだ……」
「? 何を」
「昔のこと……あんたがなんて言ってくれたか、わたしがどう返したか、そういうの、ぜんぶ夢で見たことみたいにぼやぼやして、わたし……」
わたしって誰のことだ、とオズヌは思う。自分のことを言うときに勝手に口から出てくるのだが、なんだか借り物の言葉のように感じる。
「このままじゃ、昔あったことがぜんぶ本当じゃなくなっちゃうんじゃないかって……」
目を閉じると、トロイメライの手だけが頼りだった。彼の温かい手が触れたところにだけ、オズヌは確かさを感じる。トロイメライが触れるからオズヌに腰があった。背があった。手に従って屈むから首があり、胸があった。
「ひう……っ」
授乳が済んで平たくなっていた乳首が、服越しに撫でられて勃起してしまう。目を開けてこわごわと胸を庇うオズヌの背を、トロイメライは「こっち」と押した。変な気分のまま歩きだすと、ますます夢の中にいるような気がする。トロイメライが優しく言った。
「記憶がぼんやりしてるの。悲しいですね」
「……わたしだけみたいなんだ。やっぱり、弱いからなのだろうか」
「それは違います。オズヌさんはほかのひとと違ってバカじゃないから、いろんなことにちゃんと気がつく」
トロイメライがよく通る声でそんなことを言うので、オズヌはドギマギした。うかつに自虐すると、彼は他人を貶してまでオズヌを褒めようとするのだった。もうみんな寝静まっているからいいけれど、同種が集まっているところでこんな発言をするのはケンカのもとでしかない。
「何を思い出したいですか。ボク、手伝えるかも」
もともと独特なしゃべり方をしていたからだろうか、トロイメライは種族語を失った影響が少なく済んでいるようだった。
「別に、何ってわけじゃないけど……」
「そう? さっきまでは何を考えていましたか」
「………」
オズヌはモジモジとした。結婚式で、トロイメライがグレンに挑んで、それで、そのあと――。
「……あんたと……一緒になった時のこと……」
「フーン? うふふ……」
せせらぎが聞こえた。立ち止まるオズヌを、トロイメライは「ダイジョブです」と促した。濡れたところをまたいだつもりでも足が濡れる。その水が冷たくなかった。懐かしい温かさにオズヌは驚く。
形は変わっても、ここは湯の湧き出すクメミ山だった。
「わぁ……」
つる草に覆われたところが洞窟の入り口だった。青く光る苔が足元になだらかな道を作っている。中はホワッと暖かく、何やら甘い香りもする。鼻を上向けると、ツルの張ったところに果物がなっていた。
「果物は奥の広いところにもっとありました。向こうはコウモリが食べに来るみたいで、フンがたくさん」
果物をコウモリが食べ、種が撒かれ、また増えるらしい。オズヌなら簡単に手が届くものを、トロイメライはぴょんと飛び上がって二つもいでくれた。まず自分が食べてみせ、「毒はないと思います」とくれる。甘いのは香りだけでほとんど味はしなかったが、とてもみずみずしい。前のクメミ山にはなかったものだな、と思った。
二人は苔に腰を下ろして果物を食べた。
「どうですか。来てよかったですか」
「うん。うん」
手と口をびしょびしょに濡らして食べるオズヌを、トロイメライはじっと見つめていた。「タネが取りづらいですね」と言って、口と果物のあいだに指を入れてくる。
「ふぁ……はうん……」
実の中心に小さなタネが楕円形にへばりついている。果汁と一緒に飲み干してしまえそうだが、トロイメライが食感を気にしているわけではないことはオズヌも気がついていた。
トロイメライが人差し指と中指でオズヌの舌を挟んでしまう。舌にまとわりつくタネを唾液まじりの果汁と一緒にぬるりと苔に落とした。
「んぁあ……」
オズヌは頭がぼうっとした。情けない声を上げる口を口でふさがれ、柔らかい苔に押し倒される。トロイメライは脱ぎ捨てた服の上に食べかけの果実をふたつ置いた。
「するの……?」
「イヤですか? ボク、お嫁さんと愛し合いたいです」
初めからこのつもりで連れて来たのだろう。うすうす気づいていたが、オズヌは夫の素直さにぽっと顔を赤くした。ミノタウロス族の種族服は肩紐のないチューブトップだ。ふちに指をかけてずりおろすと、すぐに乳房があらわになる。授乳は楽だが、こうなってみると本当に恥ずかしい服だ。
「はじめての時のこと、ちゃんとおぼえてますよ、ボク」
「やだ、やだぁ、いま言っちゃだめぇ」
オズヌは足をドタドタさせて抗議したが、トロイメライは嬉しそうに続けた。
「オズヌさんはボクが死んじゃうと思って、うしろから長に、ズバーン! 体当たりしました。二人して長におしっこをかけられて、一緒におフロに入りました」
「う……ちがう、ちがうよ……」
「アレッ? 違う? どうして?」
血まみれのトロイメライはオズヌを庇い、ひとりでグレンの浴尿を受けたのだった。もうだめだと思った瞬間、影のようにグワッと地べたから這ってきた婿の姿は今も目に焼き付いている。
意識はなかったのだろう。覆いかぶさってきた彼がうわごとのように何か言ったのは憶えている。それがとても嬉しい、人生のなかで一度でもそんなふうに言ってもらえたら、もう死んでもいいと思えるくらい幸せな言葉だったのは確かなのだが、どうしても思い出せないのだった。オズヌはそのことが非常に悔しく、悲しい。他にもたくさんの大事な言葉が泡のように消えてしまったのだ。
ただ心の中に、目には見えない城を与えられた気がしたのは確かだ。
そういえば子供の頃のオズヌはよく、地面に四角を描き、そこに石を置いておはじき遊びをしていた。強くて大きな石を自分に見立ててほかの小石をパーンと蹴散らす遊びだ。いかにも子供っぽかったが、いい憂さ晴らしにはなった。
トロイメライがくれた城はそれより上等だった。城には童話で伝え聞くばかりの玉座があり、広々とした寝所があり、ベランダに続く窓を開けるとオズヌ一家を慕う民衆がわっと喜びの声を上げる。
その王国では、誰もオズヌのことを下に見ないのだ。女王の父母は尊敬され、尊き血を引く王子と姫たちは怪我や病気ひとつせずスクスクと育つ。名君トロイメライ王は女王を愛し、彼の治世はとこしえに続く。この世のどこにもない王国は滅びることもないのである。
ひとが聞いたらアホかと思うに違いない。我ながら恥ずかしいと思いつつ、その城はオズヌの心のよりどころとなった。現実でなくとも構わない。精神的な居場所を持つことで、みじめだった心がずいぶん救われたのである。
(わたしが思いついたんじゃない。婿殿が先に思いついて、わたしにお城をくれたんだ)
そのこともまた嬉しかった。お城の中に住んでいるのはオズヌが生み出した幻影だけではない。トロイメライの心の中にもそういうお城がある。二人が別々のからだを持ちながら、共にそこで過ごしている――そう思うとオズヌは尻尾のさきまで震えるほど幸せな気持ちになるのだった。
だからオズヌは、現実にあるミノタウロスの里とはまったく無関係に自分の城を楽しんでいたのだが、トロイメライのほうはそうではなかったらしい。
クメミ山に帰り着いてすぐ、一家は最下層から上へ向かった。長に婚約を報告しなくてはならない。必要なこととはいえ、オズヌは居心地が悪かった。上層に住まう強者たちはみんな、よそ者のトロイメライを値踏みするような目で見ていた。
光る苔で作られた広場で、トロイメライは長に言った。
「ボクは親がありません。式はまだでも、自分はもうオズヌさんの家族だと思ってます」
彼はオズヌとの約束を果たすべく、本気で王になろうとしていた。
「だから結婚式ではうちのひとたちとではなく、長グレンと殴り合いたいです。それでボクが勝てば、この里はボクのものになりますから」
前代未聞の長への挑戦に、人々はどよめいた。グレンは微動だにしなかったが、脇に控えた長の子・ミギワはピキッと額に青筋を立てた。
「ふざけるなよ。よそ者が、ひとの頭をいくつまたいで長に挑戦している」
「なぜですか。イチバン強いひとと戦ったほうがカンタンだし、話が早い」
「そういう問題じゃない!」
「あなた、ボクと戦いたいですか。じゃあ長グレンと戦った後にしてください」
「いったい何様のつもりだ!?」
怒っているのはミギワだけではない。周囲を取り囲む全員から一斉に非難を浴びて、オズヌは失神寸前だった。両親が平然としているのは、耳が遠いのと、婿の意向を先に聞いていたためらしい。
オズヌは全くの初耳だった。いや、『女王様にしてあげる』発言がそういう意味だったとしたらわからないけれど。
だが、決定権があるのはミギワでもトロイメライでもなかった。
クメミ山を統べる長・グレンは、その時なぜかオズヌのほうを見ていた。なにか言葉をかけられたのだったか、種族語を忘れてしまった今のオズヌは思い出すことができない。
しかし、グレンが長蛇の列を作って順番待ちしている挑戦者たちをすっとばしてトロイメライの相手をすると決めたのは――家出した一人娘・ゴズメルが、かつて最下層に入り浸っていたことと無関係ではなかっただろう。
オズヌは緊張のあまり倒れそうだったが、長が自分とゴズメルの友情を覚えていてくれたことについては、素直に嬉しかった。そのせいで花婿がコテンパンに叩きのめされた点に関しては、なんとも言えないのだけれど。
◇◇◇
パチパチと薪が弾けて火の粉が上がった。
かつてのクメミ山は消え去り、ミノタウロス族は種族語を失ったが、火だけは変わらない。
オズヌは正面に座った父に視線を向けた。
「おとうさん」
「……うん?」
父は返事をした。昔は、父のことをこんなふうには呼んでいなかったと思うのに。父はすでに「おとうさん」、母は「おかあさん」になってしまった。
オズヌは「なんでもない」と、笑って首を振った。
「……そうか」
「うん」
「婿殿、遅いな」
「……うん」
父もオズヌと同じようにトロイメライの帰りを待っていたのだ。火を消すと本当に真っ暗になるので、全員が帰るまでは焚火を消せない。
「お父さん先に寝てていいよ。わたしが……」
噂をすれば影が立つ。近くの茂みをガサガサッと揺らして帰ってきたのはトロイメライだった。どこからもいできたのか腕いっぱいに果物を抱いている。
「おかえり」
「遅いよ。みんなもう寝てしまったよ」
「ああ、遅くなってスミマセン、洞窟があったから」
「えっ」
「洞窟。一緒に来て、オズヌさん」
とってきたものをばらっと地べたに置いて、トロイメライはオズヌを引っ張った。腕から果物の甘い匂いがする。
「でも、もう遅いし……」
「ボク、夜目がききます。いいですか、お父さん」
父はむろん逆らわなかった。家で一番強いのはトロイメライだからだ。父が焚火を消すと、あたりは真っ暗になった。迷いなく歩き出すトロイメライにオズヌは思わずすがりついた。彼が嬉しそうに腰に腕を回してくる。
(なんだか、はじめて会った時と変わらないな)
そう思ったとたん、急に悲しくなる。トロイメライは触れ合った妻の心に敏感だった。
「どうかしたの」
「いや……うん……」
「怖い? オズヌさん。ボク、本当にいい洞窟を見つけましたよ。きっと気に入るよ」
そうじゃない。そうじゃなかった。オズヌはあの夜と同じ、星のように眩いトロイメライの瞳を、とても見られなかった。
「ちゃんと思い出せないんだ……」
「? 何を」
「昔のこと……あんたがなんて言ってくれたか、わたしがどう返したか、そういうの、ぜんぶ夢で見たことみたいにぼやぼやして、わたし……」
わたしって誰のことだ、とオズヌは思う。自分のことを言うときに勝手に口から出てくるのだが、なんだか借り物の言葉のように感じる。
「このままじゃ、昔あったことがぜんぶ本当じゃなくなっちゃうんじゃないかって……」
目を閉じると、トロイメライの手だけが頼りだった。彼の温かい手が触れたところにだけ、オズヌは確かさを感じる。トロイメライが触れるからオズヌに腰があった。背があった。手に従って屈むから首があり、胸があった。
「ひう……っ」
授乳が済んで平たくなっていた乳首が、服越しに撫でられて勃起してしまう。目を開けてこわごわと胸を庇うオズヌの背を、トロイメライは「こっち」と押した。変な気分のまま歩きだすと、ますます夢の中にいるような気がする。トロイメライが優しく言った。
「記憶がぼんやりしてるの。悲しいですね」
「……わたしだけみたいなんだ。やっぱり、弱いからなのだろうか」
「それは違います。オズヌさんはほかのひとと違ってバカじゃないから、いろんなことにちゃんと気がつく」
トロイメライがよく通る声でそんなことを言うので、オズヌはドギマギした。うかつに自虐すると、彼は他人を貶してまでオズヌを褒めようとするのだった。もうみんな寝静まっているからいいけれど、同種が集まっているところでこんな発言をするのはケンカのもとでしかない。
「何を思い出したいですか。ボク、手伝えるかも」
もともと独特なしゃべり方をしていたからだろうか、トロイメライは種族語を失った影響が少なく済んでいるようだった。
「別に、何ってわけじゃないけど……」
「そう? さっきまでは何を考えていましたか」
「………」
オズヌはモジモジとした。結婚式で、トロイメライがグレンに挑んで、それで、そのあと――。
「……あんたと……一緒になった時のこと……」
「フーン? うふふ……」
せせらぎが聞こえた。立ち止まるオズヌを、トロイメライは「ダイジョブです」と促した。濡れたところをまたいだつもりでも足が濡れる。その水が冷たくなかった。懐かしい温かさにオズヌは驚く。
形は変わっても、ここは湯の湧き出すクメミ山だった。
「わぁ……」
つる草に覆われたところが洞窟の入り口だった。青く光る苔が足元になだらかな道を作っている。中はホワッと暖かく、何やら甘い香りもする。鼻を上向けると、ツルの張ったところに果物がなっていた。
「果物は奥の広いところにもっとありました。向こうはコウモリが食べに来るみたいで、フンがたくさん」
果物をコウモリが食べ、種が撒かれ、また増えるらしい。オズヌなら簡単に手が届くものを、トロイメライはぴょんと飛び上がって二つもいでくれた。まず自分が食べてみせ、「毒はないと思います」とくれる。甘いのは香りだけでほとんど味はしなかったが、とてもみずみずしい。前のクメミ山にはなかったものだな、と思った。
二人は苔に腰を下ろして果物を食べた。
「どうですか。来てよかったですか」
「うん。うん」
手と口をびしょびしょに濡らして食べるオズヌを、トロイメライはじっと見つめていた。「タネが取りづらいですね」と言って、口と果物のあいだに指を入れてくる。
「ふぁ……はうん……」
実の中心に小さなタネが楕円形にへばりついている。果汁と一緒に飲み干してしまえそうだが、トロイメライが食感を気にしているわけではないことはオズヌも気がついていた。
トロイメライが人差し指と中指でオズヌの舌を挟んでしまう。舌にまとわりつくタネを唾液まじりの果汁と一緒にぬるりと苔に落とした。
「んぁあ……」
オズヌは頭がぼうっとした。情けない声を上げる口を口でふさがれ、柔らかい苔に押し倒される。トロイメライは脱ぎ捨てた服の上に食べかけの果実をふたつ置いた。
「するの……?」
「イヤですか? ボク、お嫁さんと愛し合いたいです」
初めからこのつもりで連れて来たのだろう。うすうす気づいていたが、オズヌは夫の素直さにぽっと顔を赤くした。ミノタウロス族の種族服は肩紐のないチューブトップだ。ふちに指をかけてずりおろすと、すぐに乳房があらわになる。授乳は楽だが、こうなってみると本当に恥ずかしい服だ。
「はじめての時のこと、ちゃんとおぼえてますよ、ボク」
「やだ、やだぁ、いま言っちゃだめぇ」
オズヌは足をドタドタさせて抗議したが、トロイメライは嬉しそうに続けた。
「オズヌさんはボクが死んじゃうと思って、うしろから長に、ズバーン! 体当たりしました。二人して長におしっこをかけられて、一緒におフロに入りました」
「う……ちがう、ちがうよ……」
「アレッ? 違う? どうして?」
血まみれのトロイメライはオズヌを庇い、ひとりでグレンの浴尿を受けたのだった。もうだめだと思った瞬間、影のようにグワッと地べたから這ってきた婿の姿は今も目に焼き付いている。
意識はなかったのだろう。覆いかぶさってきた彼がうわごとのように何か言ったのは憶えている。それがとても嬉しい、人生のなかで一度でもそんなふうに言ってもらえたら、もう死んでもいいと思えるくらい幸せな言葉だったのは確かなのだが、どうしても思い出せないのだった。オズヌはそのことが非常に悔しく、悲しい。他にもたくさんの大事な言葉が泡のように消えてしまったのだ。
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