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32.あっと驚く濃厚白湯
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子供の泣き声が聞こえる。リーはデスクを立ち、研究室内を歩き回った。
鍵のかかった薬品棚の裏――いない。
実験用培地の置かれた作業台の下――いない。
所狭しと並んだ生体ポッドとポッドの間に、幼いマリアは体を埋めていた。文字通りの『頭隠して尻隠さず』だ。
リーが微笑ってひっぱりだそうとすると、マリアは『さわらないで』と言った。
小さなお尻が怒ったように揺れている。その声は今の今まで泣いていたとは思えないほど乾いていた。
他人が来ると当然のように涙をひっこめる。その大人びた様子に、リーは少しだけ胸が痛んだ。
『また学校で嫌なことを言われたの? マリアちゃん』
『べつに……』
『ねえ、無理して学校に行く必要はないのよ。僕だってお勉強は教えてあげられる。それに、何よりもね、君は特別な女の子なんだから。まわりに合わせる必要なんて全然ないんだ』
特別な女の子。それは二人にとって魔法の言葉だった。
ほかの子供から無視されたり、陰口をたたかれたりするのは、マリアが気味悪い存在だからではない。むしろ特別で、完璧な女の子だから、のけものにされてしまうのだ。
『ええ、そうよ。私は特別なんだから。無理なんて全然してないわ!』
マリアは少し自信を取り戻したようだったが、まだリーを振り向いてはくれなかった。
『……ヨナがね、もう話しかけないでって言ったのよ』
『ふーん。なんでだろう。ひどいね』
『わたし、私ね、コレコとの仲を取り持ってあげようと思ったのよ。二人は両想いだってわかってたから』
リーは密かにため息をついた。まったく、女の子って、なんて色気づくのが早いんだろう! ・・・そう心の中で思ったが、マリアが真剣に悩んでいるのはわかっていたので、口には出さなかった。
『でも、みんなの前でそう言ったら、ヨナはすごく怒った……コレコともケンカになったわ。ねえ、どうしてかしら?』
『……ちょっと変わった子たちなんだと思うよ』
『本当? リー、私のせいではないの? 私が貞節を喰う獣だから、かえって二人の仲をダメにしちゃったんじゃないかしら?』
『そう思うの?』
『思うわ。……だって、二人がケンカしているのを見て、なんだかとってもいい気持ちがしたから』
リーは、ぞくっとした。白衣の前で組んだ手が、興奮でかすかに震えている。やはり、そうなのだ。
たとえ雑種であっても、プレイヤーは種族の本能に抗うことはできない。絶対に。
マリアはすすり泣いた。
『ねえ、私……こんなの、よくないわよね? リー』
マリアは友達に嫌われて悲しんでいたのではない。自分の悪い気持ちに怯えて泣いていたのだった。
『アジリニ神は、とても良い神様なのだもの。こんな私のことをきっと怒っているはずだわ……どうしよう。どうしたらいいの?』
『怒ってなんかない。マリアちゃんはそのままでいいんだよ!』
リーは断言した。アジリニ神は、単なる人工知能だ。どんな極悪人に対しても怒ることはない。
『マリアちゃんが特別な力に気づくために、二人はケンカ別れする必要があったんだ。世の中、結ばれるより別れたほうが幸せなカップルは山のようにいるからね! これからはその能力をどんどん有効活用していこう!』
『でも……そんなの……私、みんなから嫌われっぱなしになってしまうのではない?』
『みんなじゃないよ! 僕はマリアちゃんのことが大好き!』
『…………』
リーではダメらしい。
女の子って本当に難しいな、とリーは思った。かつて自分(の本体)も女の子だったことがあるはずなのだが、それは遠い昔の話だし、そもそも誰に嫌われても自分のやりたいことさえできれば別にそれでよかったような気がする。
しかしマリアはリーが生み出した特別で完璧な存在だった。
彼女は、新天地にたどりつくことができるノァズァークで初めての雑種なのだ。もちろん重要なのは彼女のアバターだけれど、メンタルを病んで自殺でもされたら困る。できるだけ長く経過を観察したいのだ。
『じゃ、こうしよう。いつかマリアちゃんに好きなひとが出来た時、僕は全力で応援するよ!』
『だって。私、きっと誰のことも好きになんかならないわ』
『ガーン! 僕のことも!?』
『……リーは別よ。生まれた時から一緒だもの』
『本当? 嬉しいよ、マリアちゃん!』
手塩に育てた甲斐あって、よく懐かれている。リーはポッドの間に挟まりっぱなしのマリアをスポンと引き抜いた。
『ちょっと、リー! 許可なく触らないでちょうだい、私を誰だと思ってるの!』
『わかってるよ。君は世界一特別で完璧なマリアちゃんだ!』
リーは抱き上げたマリアと一緒になって、クルクルとその場を回った。
『マリアちゃんの気持ちはよくわかるよ。僕も昔はそう思っていたんだ。だけど出会いはある日突然に訪れる!』
『リーにもそんな相手がいるの? 誰? ねえ、誰なのよ?』
『もうこの宇宙のどこにもいない!!』
リーは汗びっしょりになって床に腰を下ろした。
マリアはリーが想像していたよりずっと重くなっていた。
体重を数値で知るのと、実際に抱いてみるのとは全く違うことなのだ。
『……だけどその人は、間違いなくマリアちゃんのことも愛しているんだよ。僕のことを愛してくれたようにね!』
『でも、それってアジリニ神のことでしょう? 違うの?』
マリアはよほど気になるらしい。バイコーンらしく、リーの首や胸元をクンクンと嗅いでいる。
『ねえ、やっぱり、あなた、自分以外は誰のことも好きじゃないじゃない? 私のことだって別にって感じだわ。そうでしょ?』
『…………』
リーはマリアのことを無言で抱きしめた。マリアがそう言うのなら、そうなのだろうと思った。
エゴイストで、誰のことも本当の意味で愛せない。
命を救うために船を出してくれたひとも、手づから育てたマリアさえも。
自分の目的を果たすために、相手を利用することしか考えられない。
その冷ややかな事実は、しかし初夏の薫風のように清々しかった。
『ねえ、ねえ』が止まらないマリアの愛らしい耳に、リーは唇を付けた。
『約束するよ』と言った。
『君が誰かを好きになったら、僕は全力で応援する。――マリアちゃんが、他人にとってどんなに不都合な性質を持っていたとしてもだ。君の恋心は、この世界から絶対に祝福されるべきなんだよ』
◇◆◇
冒険者協会本部、付属研究所。
マップを縮小しても縮小しても似たような研究室が続く広大無辺なエリアである。
「きっとアジリニを隠すためにこんな作りになっているんだろうね。シャインたちだけがアジリニを操作できるようにさ」
「……」
「リリィ?」
ゴズメルはリリィを背負ってたったか走っていた。
亀の甲羅のようにくっついたリリィがギュッと胴に足を絡めてくる。
「ゴズメル、あなた……私が止めなければおじさまの言う通りにしていたのでしょう」
「んん……」
「ちゃんとわかるんですからね。ああやってキスすれば私を丸め込めると思ったの?」
ちょっとそう思っていたゴズメルは「いや、そういうんじゃないけどさ」とモゴモゴ言い訳した。
歩みを緩め、リリィに頬ずりする。
「だってさ、食うったってアジリニは機械なんだし、そんなご飯みたいにムシャムシャ食べるわけじゃないだろう。コピーして学習するだけなら、あたし本体は元データとして残るよね」
「でもクメミ山は消えて無くなったのよ!」
耳元で怒られて、ゴズメルは肩を縮める。しかしリリィが目を三角にしたのはその時だけだった。すぐに「ああゴズメル……」と悲しそうな声を出す。
「お願いだから、あんまり向こう見ずなことを考えないでちょうだい。私たちは二人で一緒にアルティカに帰って祈願をするの。そうでしょう?」
「うん……」
「じゃあ、もっと自分のことを大事にしてくださる? ゴズメル」
「……わかった。心配させてごめんよ、リリィ」
「いいのよ。私こそごめんなさい」
ゴズメルが謝ると、リリィは頬に仲直りのキスをしてくれた。
(……でも、もしもあたしが傷つくことでリリィが生き延びられるなら、どうしたってそっちを選んじゃうと思う! これは絶対にナイショだけど!)
リリィはとても芯の強い女性だが、ひよわな妖精族なのだ。ピンチの時には、絶対にゴズメルが守ってあげなければならない。リリィもそのほうが嬉しいだろうし。
むふふ、とヒロイックな想像をふくらませるゴズメルに、リリィは密やかなため息をついた。
「そこを右に曲がってくださる? それからしばらくはまっすぐよ」
ゴズメルの角の所在を、リリィはおおよそ感知できる。鱗粉を付けたことがあるからだ。
「……でも、やはり折られたあとに洗浄されたみたい。なんとなくの方角しかわからないわ」
「十分だよ。研究所の中にあることは間違いない。カトーはアップデートの後からこの施設を動いていないんだろう」
マップと照らし合わせながら場所を突き止めるしかない。研究所内は監視カメラがいくつも設置されていたが、人手が足りていないのか、意図して見逃されているのか、誰も二人を止めには来なかった。
「なんだか不気味だね。隔壁も自動で閉じたようだったけど……人の気配がなさすぎる」
「今はアジリニへの対応で忙しいのかもしれないわ」
通信で、ジーニョは『今のアジリニは、赤ん坊を押し付けられたようなものだ』と言っていた。
『ハイハイしまくる赤ん坊が散らかすものを片付けながら、どうにか食事を作ったり、風呂を支度したりしている。アジリニにとってもノァズァークは生命線だから、船を動かす機能は最低限維持しているが、部屋は荒れ放題、自分の身なりも整えられないといったありさまだろう。かわいそうに……』
妙に実感のこもった口ぶりだったが、ジーニョは子育ての経験でもあるのだろうか。いや、年の離れた兄弟でもいたのかもしれない。
走っていくうちに、だんだんと美味しそうなにおいが漂いはじめた。ゴズメルは鼻先をひくひくさせる。
「ねえリリィ、あたしの気のせいじゃなかったらさ……」
「ええ……なんだか、ラーメンの匂いがするような」
「だよねえ!」
走り回ってちょっと小腹が空いていたゴズメルは食い気味に言った。
「絶対、どっかで豚骨ラーメンを食ってるやつがいる! あたしにはわかるんだ!」
においを嗅いだけで、白濁した濃厚なスープと汁によく絡む極細ストレート麺が脳裏に浮かぶ。マリアは『あんな低俗な食べ物』と言って避けていたが、ラーメンのどこが低俗なんだかゴズメルにはわからない。あのスープは十時間も煮込まなくてはならないのだ!
考えてみれば研究所にだって働くひとがいるんだから、食堂などがあってしかるべきだ。マリアのもとでは彼女好みの高尚な食べ物を、地下アジトではつましい芋食を食べていたゴズメルは、大衆的な料理に飢えていた。
足取りも軽くなるゴズメルに対し、リリィは「どういうことかしら」と首をかしげていた。
「カトーが角を持ち歩いていて、今は食堂にいるってこと……?」
「そりゃいいな! カトーをぶっとばせば角を取り返せるうえ、ラーメンまで食べられる!」
ギョーザも付けたい。チャーハンも捨てがたい。
食欲に任せてスピードアップしたゴズメルは、バーンと出入口を開けて、非常にがっかりした。
そこは暗い実験室だった。リリィは呟いた。
「……どう見ても食堂ではないわ」
「まっまだわからないよ! すっごく内装のシュミが悪い、食堂、かも・・・」
そう返すゴズメルの声は尻すぼみだった。
確かにいい匂いはこの部屋から漂っているけれど、そこらじゅう置かれている気味の悪いポッドときたらなんだろう。青緑の燐光を放つポッドは液体で満たされ、中には全裸の人形が浮かんでいる。
「リリィ、あたしはうすうす思っていたんだが」
「ええ、ゴズメル。私たちはきっと同じことを考えているわ……」
「だよね!? やっぱりカトーってかなり変態性癖をこじらせてるんだ!」
リリィはかくっと肩を落とした。ゴズメルはかまわずに部屋を両腕で示した。
「だって、ここにいる人形たちをごらんよ。男も女もおかまいなしだし、いろんな種族の掛け合わせみたいな姿をしているだろう。たとえばこの男の人形には、バイコーンの角と蛇族の鱗……が……」
マリアと同じ、蛇族とバイコーン族の掛け合わせ。
「おい、まさか、ここにいるの全部……」
ゴズメルはゾッとして後ずさった。
「ええ。人形じゃないわ……」
リリィは小さくつぶやいて、ポッドの表面を手で撫でた。
「どうやら、ここで雑種のアバターを養殖しているようね。新天地に行ける、新しい雑種を」
「うん。その通り」
パチンと実験室の明かりが点いた。ゴズメルとリリィは、声のしたほうを振り向く。
「それはマリアちゃんのお婿さん用に準備したんだ。結局、必要なくなっちゃったけど……」
声の主の顔はわからなかった。まるでサバイバルゲームみたいなフェイスマスクを着けているからだ。ゴズメルは目を細める。だぶだぶの白衣を着た小柄な姿には見覚えがある。
なによりマリアをちゃん付けする人物を、ゴズメルは一人しか知らなかった。
「あんた……リーなのかい」
「アハハ! そうだよね、こんな格好でごめん。僕まで鱗粉の餌食にはなりたくないからさ……」
武器を構える二人に対して、リーは「荒っぽいことはよしてよ」と顔の前で手を振った。
「君たちの話は筒抜けだったんだ。ラブシーンまで見る羽目になるとは思わなかったけど……ねえ、僕たち、話し合う余地があると思わない? アジリニはあんなことになっちゃったんだし」
「……あんたがあたしの角を持ってるのか。リー」
「うん、有効に使わせてもらってるよ。カトーはホントに勝負勘が強いよね。あの土壇場でスペアを確保するんだから」
「スペア……?」
「見せてあげるよ。こっちにおいで」
簡単にこちらに背を向けるリーに、ゴズメルとリリィは顔を見合わせた。ゴズメルはこそっと耳打ちする。
「リーを背後から襲って、角を寄越せって言えばさ……」
「ちなみに僕の身に何かあったらカトーが飛んでくるよ。そういう約束のもと、君たちを泳がせといたんだからね」
背中を向けたままリーが叫ぶ。リリィはゴズメルの口をそっと片手でふさいだ。
「今はついていくしかないわ。あの余裕たっぷりの態度は気がかりだし……」
歩けば歩くほど、豚骨ラーメンのにおいは強くなった。
「…………」
ゴズメルは非常に嫌な予感がして、足が遅れがちになった。(いや、まさか。さすがにそんなことは……)リリィも今度こそ同じことを考えているようで、首にしがみついてくる。
だから、ドラム缶みたいにデカい寸胴鍋の中でふつふつと茹でられている自分の角を見た時は「うわあああ!やっぱり!!」と叫んでしまった。リーが驚いたようにふりむく。
「やっぱり、ってどうして?」
「どうしてもこうしてもないだろ! ひとの角で出汁をとるんじゃない!! シャインってのはバカの集まりなのか!?」
「えぇ、出汁? 何を言ってるの、ゴズメル」
リーはラーメンじみたにおいには無頓着だった。
脚立に座り、鍋のなかに恐ろしく長い菜箸をつっこんでいる。
ゴズメルはリリィを肩車して、おずおずと中を覗き込んだ。本当にスープみたいに脂が浮いて、いい匂いがしている。
おかげで下のほうがどうなっているかは見えなかった。角のてっぺんがチョコンと水面から覗いている。
・・・その角も、どこか奇妙だった。ゴズメルの角は途中で折れたはずなのに、なんだかやけに長い。
(スープの中で成長している? まさか……)
髪の毛みたいなものが浮いているのも見えて、ゴズメルは後ずさった。
「お、おい、コレって、まさか……」
「ゴズメル、君はマリアちゃんを選ばなかったね」
思ってもみない話題の転換に、ゴズメルとリリィは息をのむ。
「それ自体は仕方のないことだ。君とマリアちゃんの出会いは最悪だったし、付き合いも短かった。僕らは君が鱗粉の呪いから解放されることを望んでいたけど、こうなった今、無理強いはできないよ」
マスクを被ったリーの声は歪んでいた。笑っている。自らの手で新しい生命を生み出すことが、彼女には楽しくて楽しくて仕方ないのだった。
「だから僕はマリアちゃんのために、この角からもう一人の君を生み出すことにしたんだ!」
「ウワーッ、やっぱダメだコイツ、狂ってやがる!」
「あんなに可愛いマリアちゃんを好きにならない君なんて、もう用済みだ! アジリニに食われてしまうがいい!」
ゴズメルはリリィが止める間もなく、リーの脚立を蹴飛ばした。
鍵のかかった薬品棚の裏――いない。
実験用培地の置かれた作業台の下――いない。
所狭しと並んだ生体ポッドとポッドの間に、幼いマリアは体を埋めていた。文字通りの『頭隠して尻隠さず』だ。
リーが微笑ってひっぱりだそうとすると、マリアは『さわらないで』と言った。
小さなお尻が怒ったように揺れている。その声は今の今まで泣いていたとは思えないほど乾いていた。
他人が来ると当然のように涙をひっこめる。その大人びた様子に、リーは少しだけ胸が痛んだ。
『また学校で嫌なことを言われたの? マリアちゃん』
『べつに……』
『ねえ、無理して学校に行く必要はないのよ。僕だってお勉強は教えてあげられる。それに、何よりもね、君は特別な女の子なんだから。まわりに合わせる必要なんて全然ないんだ』
特別な女の子。それは二人にとって魔法の言葉だった。
ほかの子供から無視されたり、陰口をたたかれたりするのは、マリアが気味悪い存在だからではない。むしろ特別で、完璧な女の子だから、のけものにされてしまうのだ。
『ええ、そうよ。私は特別なんだから。無理なんて全然してないわ!』
マリアは少し自信を取り戻したようだったが、まだリーを振り向いてはくれなかった。
『……ヨナがね、もう話しかけないでって言ったのよ』
『ふーん。なんでだろう。ひどいね』
『わたし、私ね、コレコとの仲を取り持ってあげようと思ったのよ。二人は両想いだってわかってたから』
リーは密かにため息をついた。まったく、女の子って、なんて色気づくのが早いんだろう! ・・・そう心の中で思ったが、マリアが真剣に悩んでいるのはわかっていたので、口には出さなかった。
『でも、みんなの前でそう言ったら、ヨナはすごく怒った……コレコともケンカになったわ。ねえ、どうしてかしら?』
『……ちょっと変わった子たちなんだと思うよ』
『本当? リー、私のせいではないの? 私が貞節を喰う獣だから、かえって二人の仲をダメにしちゃったんじゃないかしら?』
『そう思うの?』
『思うわ。……だって、二人がケンカしているのを見て、なんだかとってもいい気持ちがしたから』
リーは、ぞくっとした。白衣の前で組んだ手が、興奮でかすかに震えている。やはり、そうなのだ。
たとえ雑種であっても、プレイヤーは種族の本能に抗うことはできない。絶対に。
マリアはすすり泣いた。
『ねえ、私……こんなの、よくないわよね? リー』
マリアは友達に嫌われて悲しんでいたのではない。自分の悪い気持ちに怯えて泣いていたのだった。
『アジリニ神は、とても良い神様なのだもの。こんな私のことをきっと怒っているはずだわ……どうしよう。どうしたらいいの?』
『怒ってなんかない。マリアちゃんはそのままでいいんだよ!』
リーは断言した。アジリニ神は、単なる人工知能だ。どんな極悪人に対しても怒ることはない。
『マリアちゃんが特別な力に気づくために、二人はケンカ別れする必要があったんだ。世の中、結ばれるより別れたほうが幸せなカップルは山のようにいるからね! これからはその能力をどんどん有効活用していこう!』
『でも……そんなの……私、みんなから嫌われっぱなしになってしまうのではない?』
『みんなじゃないよ! 僕はマリアちゃんのことが大好き!』
『…………』
リーではダメらしい。
女の子って本当に難しいな、とリーは思った。かつて自分(の本体)も女の子だったことがあるはずなのだが、それは遠い昔の話だし、そもそも誰に嫌われても自分のやりたいことさえできれば別にそれでよかったような気がする。
しかしマリアはリーが生み出した特別で完璧な存在だった。
彼女は、新天地にたどりつくことができるノァズァークで初めての雑種なのだ。もちろん重要なのは彼女のアバターだけれど、メンタルを病んで自殺でもされたら困る。できるだけ長く経過を観察したいのだ。
『じゃ、こうしよう。いつかマリアちゃんに好きなひとが出来た時、僕は全力で応援するよ!』
『だって。私、きっと誰のことも好きになんかならないわ』
『ガーン! 僕のことも!?』
『……リーは別よ。生まれた時から一緒だもの』
『本当? 嬉しいよ、マリアちゃん!』
手塩に育てた甲斐あって、よく懐かれている。リーはポッドの間に挟まりっぱなしのマリアをスポンと引き抜いた。
『ちょっと、リー! 許可なく触らないでちょうだい、私を誰だと思ってるの!』
『わかってるよ。君は世界一特別で完璧なマリアちゃんだ!』
リーは抱き上げたマリアと一緒になって、クルクルとその場を回った。
『マリアちゃんの気持ちはよくわかるよ。僕も昔はそう思っていたんだ。だけど出会いはある日突然に訪れる!』
『リーにもそんな相手がいるの? 誰? ねえ、誰なのよ?』
『もうこの宇宙のどこにもいない!!』
リーは汗びっしょりになって床に腰を下ろした。
マリアはリーが想像していたよりずっと重くなっていた。
体重を数値で知るのと、実際に抱いてみるのとは全く違うことなのだ。
『……だけどその人は、間違いなくマリアちゃんのことも愛しているんだよ。僕のことを愛してくれたようにね!』
『でも、それってアジリニ神のことでしょう? 違うの?』
マリアはよほど気になるらしい。バイコーンらしく、リーの首や胸元をクンクンと嗅いでいる。
『ねえ、やっぱり、あなた、自分以外は誰のことも好きじゃないじゃない? 私のことだって別にって感じだわ。そうでしょ?』
『…………』
リーはマリアのことを無言で抱きしめた。マリアがそう言うのなら、そうなのだろうと思った。
エゴイストで、誰のことも本当の意味で愛せない。
命を救うために船を出してくれたひとも、手づから育てたマリアさえも。
自分の目的を果たすために、相手を利用することしか考えられない。
その冷ややかな事実は、しかし初夏の薫風のように清々しかった。
『ねえ、ねえ』が止まらないマリアの愛らしい耳に、リーは唇を付けた。
『約束するよ』と言った。
『君が誰かを好きになったら、僕は全力で応援する。――マリアちゃんが、他人にとってどんなに不都合な性質を持っていたとしてもだ。君の恋心は、この世界から絶対に祝福されるべきなんだよ』
◇◆◇
冒険者協会本部、付属研究所。
マップを縮小しても縮小しても似たような研究室が続く広大無辺なエリアである。
「きっとアジリニを隠すためにこんな作りになっているんだろうね。シャインたちだけがアジリニを操作できるようにさ」
「……」
「リリィ?」
ゴズメルはリリィを背負ってたったか走っていた。
亀の甲羅のようにくっついたリリィがギュッと胴に足を絡めてくる。
「ゴズメル、あなた……私が止めなければおじさまの言う通りにしていたのでしょう」
「んん……」
「ちゃんとわかるんですからね。ああやってキスすれば私を丸め込めると思ったの?」
ちょっとそう思っていたゴズメルは「いや、そういうんじゃないけどさ」とモゴモゴ言い訳した。
歩みを緩め、リリィに頬ずりする。
「だってさ、食うったってアジリニは機械なんだし、そんなご飯みたいにムシャムシャ食べるわけじゃないだろう。コピーして学習するだけなら、あたし本体は元データとして残るよね」
「でもクメミ山は消えて無くなったのよ!」
耳元で怒られて、ゴズメルは肩を縮める。しかしリリィが目を三角にしたのはその時だけだった。すぐに「ああゴズメル……」と悲しそうな声を出す。
「お願いだから、あんまり向こう見ずなことを考えないでちょうだい。私たちは二人で一緒にアルティカに帰って祈願をするの。そうでしょう?」
「うん……」
「じゃあ、もっと自分のことを大事にしてくださる? ゴズメル」
「……わかった。心配させてごめんよ、リリィ」
「いいのよ。私こそごめんなさい」
ゴズメルが謝ると、リリィは頬に仲直りのキスをしてくれた。
(……でも、もしもあたしが傷つくことでリリィが生き延びられるなら、どうしたってそっちを選んじゃうと思う! これは絶対にナイショだけど!)
リリィはとても芯の強い女性だが、ひよわな妖精族なのだ。ピンチの時には、絶対にゴズメルが守ってあげなければならない。リリィもそのほうが嬉しいだろうし。
むふふ、とヒロイックな想像をふくらませるゴズメルに、リリィは密やかなため息をついた。
「そこを右に曲がってくださる? それからしばらくはまっすぐよ」
ゴズメルの角の所在を、リリィはおおよそ感知できる。鱗粉を付けたことがあるからだ。
「……でも、やはり折られたあとに洗浄されたみたい。なんとなくの方角しかわからないわ」
「十分だよ。研究所の中にあることは間違いない。カトーはアップデートの後からこの施設を動いていないんだろう」
マップと照らし合わせながら場所を突き止めるしかない。研究所内は監視カメラがいくつも設置されていたが、人手が足りていないのか、意図して見逃されているのか、誰も二人を止めには来なかった。
「なんだか不気味だね。隔壁も自動で閉じたようだったけど……人の気配がなさすぎる」
「今はアジリニへの対応で忙しいのかもしれないわ」
通信で、ジーニョは『今のアジリニは、赤ん坊を押し付けられたようなものだ』と言っていた。
『ハイハイしまくる赤ん坊が散らかすものを片付けながら、どうにか食事を作ったり、風呂を支度したりしている。アジリニにとってもノァズァークは生命線だから、船を動かす機能は最低限維持しているが、部屋は荒れ放題、自分の身なりも整えられないといったありさまだろう。かわいそうに……』
妙に実感のこもった口ぶりだったが、ジーニョは子育ての経験でもあるのだろうか。いや、年の離れた兄弟でもいたのかもしれない。
走っていくうちに、だんだんと美味しそうなにおいが漂いはじめた。ゴズメルは鼻先をひくひくさせる。
「ねえリリィ、あたしの気のせいじゃなかったらさ……」
「ええ……なんだか、ラーメンの匂いがするような」
「だよねえ!」
走り回ってちょっと小腹が空いていたゴズメルは食い気味に言った。
「絶対、どっかで豚骨ラーメンを食ってるやつがいる! あたしにはわかるんだ!」
においを嗅いだけで、白濁した濃厚なスープと汁によく絡む極細ストレート麺が脳裏に浮かぶ。マリアは『あんな低俗な食べ物』と言って避けていたが、ラーメンのどこが低俗なんだかゴズメルにはわからない。あのスープは十時間も煮込まなくてはならないのだ!
考えてみれば研究所にだって働くひとがいるんだから、食堂などがあってしかるべきだ。マリアのもとでは彼女好みの高尚な食べ物を、地下アジトではつましい芋食を食べていたゴズメルは、大衆的な料理に飢えていた。
足取りも軽くなるゴズメルに対し、リリィは「どういうことかしら」と首をかしげていた。
「カトーが角を持ち歩いていて、今は食堂にいるってこと……?」
「そりゃいいな! カトーをぶっとばせば角を取り返せるうえ、ラーメンまで食べられる!」
ギョーザも付けたい。チャーハンも捨てがたい。
食欲に任せてスピードアップしたゴズメルは、バーンと出入口を開けて、非常にがっかりした。
そこは暗い実験室だった。リリィは呟いた。
「……どう見ても食堂ではないわ」
「まっまだわからないよ! すっごく内装のシュミが悪い、食堂、かも・・・」
そう返すゴズメルの声は尻すぼみだった。
確かにいい匂いはこの部屋から漂っているけれど、そこらじゅう置かれている気味の悪いポッドときたらなんだろう。青緑の燐光を放つポッドは液体で満たされ、中には全裸の人形が浮かんでいる。
「リリィ、あたしはうすうす思っていたんだが」
「ええ、ゴズメル。私たちはきっと同じことを考えているわ……」
「だよね!? やっぱりカトーってかなり変態性癖をこじらせてるんだ!」
リリィはかくっと肩を落とした。ゴズメルはかまわずに部屋を両腕で示した。
「だって、ここにいる人形たちをごらんよ。男も女もおかまいなしだし、いろんな種族の掛け合わせみたいな姿をしているだろう。たとえばこの男の人形には、バイコーンの角と蛇族の鱗……が……」
マリアと同じ、蛇族とバイコーン族の掛け合わせ。
「おい、まさか、ここにいるの全部……」
ゴズメルはゾッとして後ずさった。
「ええ。人形じゃないわ……」
リリィは小さくつぶやいて、ポッドの表面を手で撫でた。
「どうやら、ここで雑種のアバターを養殖しているようね。新天地に行ける、新しい雑種を」
「うん。その通り」
パチンと実験室の明かりが点いた。ゴズメルとリリィは、声のしたほうを振り向く。
「それはマリアちゃんのお婿さん用に準備したんだ。結局、必要なくなっちゃったけど……」
声の主の顔はわからなかった。まるでサバイバルゲームみたいなフェイスマスクを着けているからだ。ゴズメルは目を細める。だぶだぶの白衣を着た小柄な姿には見覚えがある。
なによりマリアをちゃん付けする人物を、ゴズメルは一人しか知らなかった。
「あんた……リーなのかい」
「アハハ! そうだよね、こんな格好でごめん。僕まで鱗粉の餌食にはなりたくないからさ……」
武器を構える二人に対して、リーは「荒っぽいことはよしてよ」と顔の前で手を振った。
「君たちの話は筒抜けだったんだ。ラブシーンまで見る羽目になるとは思わなかったけど……ねえ、僕たち、話し合う余地があると思わない? アジリニはあんなことになっちゃったんだし」
「……あんたがあたしの角を持ってるのか。リー」
「うん、有効に使わせてもらってるよ。カトーはホントに勝負勘が強いよね。あの土壇場でスペアを確保するんだから」
「スペア……?」
「見せてあげるよ。こっちにおいで」
簡単にこちらに背を向けるリーに、ゴズメルとリリィは顔を見合わせた。ゴズメルはこそっと耳打ちする。
「リーを背後から襲って、角を寄越せって言えばさ……」
「ちなみに僕の身に何かあったらカトーが飛んでくるよ。そういう約束のもと、君たちを泳がせといたんだからね」
背中を向けたままリーが叫ぶ。リリィはゴズメルの口をそっと片手でふさいだ。
「今はついていくしかないわ。あの余裕たっぷりの態度は気がかりだし……」
歩けば歩くほど、豚骨ラーメンのにおいは強くなった。
「…………」
ゴズメルは非常に嫌な予感がして、足が遅れがちになった。(いや、まさか。さすがにそんなことは……)リリィも今度こそ同じことを考えているようで、首にしがみついてくる。
だから、ドラム缶みたいにデカい寸胴鍋の中でふつふつと茹でられている自分の角を見た時は「うわあああ!やっぱり!!」と叫んでしまった。リーが驚いたようにふりむく。
「やっぱり、ってどうして?」
「どうしてもこうしてもないだろ! ひとの角で出汁をとるんじゃない!! シャインってのはバカの集まりなのか!?」
「えぇ、出汁? 何を言ってるの、ゴズメル」
リーはラーメンじみたにおいには無頓着だった。
脚立に座り、鍋のなかに恐ろしく長い菜箸をつっこんでいる。
ゴズメルはリリィを肩車して、おずおずと中を覗き込んだ。本当にスープみたいに脂が浮いて、いい匂いがしている。
おかげで下のほうがどうなっているかは見えなかった。角のてっぺんがチョコンと水面から覗いている。
・・・その角も、どこか奇妙だった。ゴズメルの角は途中で折れたはずなのに、なんだかやけに長い。
(スープの中で成長している? まさか……)
髪の毛みたいなものが浮いているのも見えて、ゴズメルは後ずさった。
「お、おい、コレって、まさか……」
「ゴズメル、君はマリアちゃんを選ばなかったね」
思ってもみない話題の転換に、ゴズメルとリリィは息をのむ。
「それ自体は仕方のないことだ。君とマリアちゃんの出会いは最悪だったし、付き合いも短かった。僕らは君が鱗粉の呪いから解放されることを望んでいたけど、こうなった今、無理強いはできないよ」
マスクを被ったリーの声は歪んでいた。笑っている。自らの手で新しい生命を生み出すことが、彼女には楽しくて楽しくて仕方ないのだった。
「だから僕はマリアちゃんのために、この角からもう一人の君を生み出すことにしたんだ!」
「ウワーッ、やっぱダメだコイツ、狂ってやがる!」
「あんなに可愛いマリアちゃんを好きにならない君なんて、もう用済みだ! アジリニに食われてしまうがいい!」
ゴズメルはリリィが止める間もなく、リーの脚立を蹴飛ばした。
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