少年勇者と廃雄塔の亡霊

佐座 浪

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第八話 花香る図書室

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 ——図書室。所狭しと本棚の並ぶ、塔の中でも異質な部屋。高い天井にはシャンデリアが吊るされ、赤と金の絨毯が敷かれた豪華な空間かと思えば、壁の一部は崩れ落ちたままで、夜空が剥き出しになったチグハグな場所。

「——おや。これは珍しい客だね」

 入ってすぐ正面、長机に座っていた司書が顔を上げる。眼鏡を机の上に置いて立ち上がると、ふわふわと浮かんでいた灯り代わりの光の玉が揺れた。

「はい。確か、火炎魔法に失敗して以来……でしたよね?」
「初耳だ。そんなことがあったのか?」
「……坊ちゃんが塔に来たばかりの頃の話さね。色々焦げて大変だったけど……今となっちゃ、懐かしい思い出だねぇ」
「——んん? 司書さん、誰か居るんすか?」

 雑談していると、奥の方から女性の声がした。

「横着してないで、顔を出してごらんよ。その方が早いだろ?」
「はぁ……誰っすかね——」

 司書に促されて、本棚の影から可愛らしい小柄な金髪の女性——『花屋はなや』がしぶしぶ顔を出したかと思うと、俺を見て固まる。

 くりっとした青の瞳が俺と司書を何往復か繰り返した末に、今度は思いっきりそこから飛び出して、俺の身体をペタペタと触り始めた。

「幻覚じゃない……っすねぇ!? 射手さんもちゃんと居るし……えぇ……えぇ!?」
「おはようございます、花屋さん。お久しぶりですよね?」
「そ、そうっすけど……なんで? いつもの日課は? 今ってそういう時間っすよ——痛いッ!!」

 ガゴン、と派手な打撃音がして、花屋は頭を押さえて座り込んだ。その後ろには何冊かの本を小脇に抱えて、拳を握りしめた学者の姿があった。

「いけないねぇ? 図書室では静かにしなさい」
「で、でもぉ……だってぇ……」
「時と場合というものがあるでしょう。さあ、もう一発食らいたくなければ、小声で話しなさい」

 涙目の花屋の目に、高らかに掲げられた拳が映る。

「うぅ……すみませんでした……」
「分かれば良し。まあ、騒がしいのが悪いこととは言わないけどね。実際、最近はあの二人の喧嘩もなくなって、塔は深海のようになってしまったから」

 学者が静かに丸眼鏡を上げるのを見て、俺はハッとした。そういえば、道具屋と鍛冶屋の喧嘩を最近見ていない。

「そ……ゆ……は……を……」
「ん?」

 ぶんぶん振られた腕が視界に入ったことで、花屋が何か話そうとしていることにようやく気づいた。

「すみません。もう一度言ってもらえますか?」
「ら……き……に……」

 もう一度言ってもらったが、小声過ぎて何を言っているか全く分からない。穴から微かに聞こえる風の音の方が大きいくらいだ。

「……極端が過ぎるね。どうして君はそうなってしまうのか……」
「ここに何をしに来たのか、と聞いているようだ」

 あまりに埒が開かないものだから、横から射手が補足をしてくれた。

「ああ、そういうことかい。あたしもそれは気になってたところさね。何か見に来たんだろうが……何を見るつもりかね?」
「雑記帳を、見せて欲しいんです」
「……坊ちゃん。どこでそれを」

 司書の顔色が変わった。いつもの気さくな雰囲気が一気に消えて、歴戦の魔術師として威容が顔を出す。

 あれだけ柔らかった空気が張り詰めて、まるで戦場のようだった。

「ずっと前、あの馬……預言者からです」
「——そうかい。あの嬢ちゃんがねぇ……」

 全員の視線が、司書に集まる。少しの間があって、再び口火を切ったのは学者だった。

「司書殿。僕が聞くのもおこがましいかもしれませんが、どうされるので?」
「……どうもこうもない。見たい者が居れば見せる。書きたい者が居れば書かせる。それがあたしが来る前から脈々と続く、あの雑記帳のルールだろうに」

 そう言って、司書は長机の一番下の引き出しの鍵を栞で外して、中から一冊の本を取り出す。

「これがそうさ。大分傷んでるから、扱いには気をつけな」

 慎重にそれを受け取る。なんてことはないただの本が、いやに重く感じた。

「ありがとうございます」
「ああ、まだ開くんじゃないよ。皆居なくなってから開けるのさ。ほら、全員今すぐここから出な」
「……こればかりは、仕方がないな。僕は扉の前に居るから、何かあったらすぐに呼んでくれ」

 少し不服そうに、射手が外に向かう。それに司書と学者も続いたが、花屋だけはその場から動こうとしなかった。

「花屋。気持ちは分かるけど——」
「——ああ、もう! 小声はやめ! 司書さん! 私に少しだけ、時間を頂きたいっす!」
「……何をするんだい?」
「勇者君に、どうしても一杯淹れて上げたいんす! 今すぐじゃないと駄目なんす! お願いします!」

 花屋が、深々と頭を下げる。司書はそんな彼女の頭を撫でて、顔を上げさせた。

「分かったから急ぎな。時間は待っちゃくれないよ」
「……ありがとうございます!」

 声が遠ざかる。それからしばらくして、花屋は戻って来た。その手に持っていたティーカップからは、心を直接抱きしめてくれるような柔らかい匂いがした。

「お待たせしたっす。ファンタジアローズマリーティー……私一番の傑作っす。どうか……どうか、飲んで欲しいっす」
「ありがとうございます。花屋さん」
「……こちらこそ、っすよ。お時間取らせて申し訳なかったっす。失礼します」

 ——そうして俺は、一人きりになった。椅子に深く腰掛けて雑記帳を置くと、冷たいそよ風が図書室の中を吹き抜けて、光の玉がまたゆらゆらと揺れる。

 ふわりと舞い上がったお茶の匂いの中で、擦り切れた表紙に手をかけた。
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