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第七章
56 貴方の命は、俺のもの
しおりを挟むニアが驚きに目を見開いていると、フィルバートは少しだけ困ったような笑みを滲ませた。
「お前が処刑された後の話を、簡単に話そう」
疲れた声で言うと、フィルバートは淡々とした口調で話し始めた。
「サクラと婚姻を結んだ俺は即座に父を暗殺して、王の座を奪い取った。そして他国への侵攻を開始し、多くの人間を殺し回った。更に苦言を呈する忠臣たちの首を斬り落とし、私服を肥やす悪徳貴族に権力を与え、民からは吸い上げられるだけの税を吸い上げ、暴君の名を欲しいままにした」
フィルバートの口から語られる救いようのない物語に、ニアは愕然とした。今のフィルバートからは想像もできない、悪夢のような未来だ。
「多くの民が飢え死にし、すぐさまこの国は衰廃(すいはい)した。緑は枯れ果て、家畜は死に絶え、街中には常に何体もの死体が転がっていた。それでも、俺は止まれなかった。あの頃の俺は、自分が何をしているのか、なぜこんなことをしているのか、何一つとして考えられなかった。ただ、サクラに『神さまのお告げに従わないと』と言われると、それが正しいことにしか思えなくなって、言われるがままに動いてしまった。そうして、他国の人間も、自国の人間も無慈悲に殺し続けた」
フィルバートが自身の掌をじっと見つめる。その指先は、小さく震えていた。
それを見て、この人も前の人生を忘れることができず、自らの罪悪に怯え続けているのだと解った。もしかしたら、過去に戻ってから心血をそそいでこの国を立て直そうとしたのは、フィルバートなりの贖罪(しょくざい)だったのかもしれない。
「三年経ったある日、サクラがマルグリットにこう言った。『あともう一人死ねば【この国の半分のヒト】に到達するね』と」
【この国の半分のヒト】という言葉に聞き覚えがあった。
『わたしにこの国の半分のヒトをくれるって約束してくれた』
そうマルグリットが約束してくれたのだと、サクラが言っていたことを思い出す。
ニアが怪訝に顔を顰めていると、フィルバートは言葉を続けた。
「サクラがそう言った直後、当時俺のロードナイトになっていたハリーに背後から刺された。致命傷を負って倒れた俺に近付いて、サクラは笑っていた。『これが最後の一人の命。約束どおり、この国に住む人間半分の命はもらっていくね』と言う言葉を聞いて、ようやくサクラが聖女なんてものではないと気付いた。だが、もうすべて遅かった」
フィルバートが力なくうつむく。ニアは薄く唇を震わせながら、掠れた声で問い掛けた。
「あれは、一体何なんですか……」
ニアの怯えた声に、フィルバートがわずかに視線をあげる。そのままフィルバートは静かな声で答えた。
「あれは、マルグリットが呼び寄せた邪神の一種だ。魔女と呼ばれる存在で、召喚した人間の願いを叶える代わりに、その対価として人間の命を欲する」
忌々しそうにフィルバートの顔が歪む。
「マルグリットの亡き祖国では、多くの民を生贄にして邪悪なるモノを召喚しようとしていた。だが、呼び寄せる直前で、民衆に反乱を起こされ滅びてしまった。しかし、マルグリットはその生贄の魂が篭もった媒体をまだ持っていたのだろう。そして、先日のバンケットの夜にとうとう魔女の召喚に成功した」
はぁ、とフィルバートが遣る瀬ないため息を漏らす。片手で額を抑えるフィルバートを見つめて、ニアはぽつりと呟いた。
「馬鹿げてる。民衆を半分も殺して、そんな荒廃した国を手に入れてどうするんだ」
マルグリットの行動は、どう考えても常軌を逸している。オモチャを無理やり引っ張って、壊しながら手に入れるような破滅的な行動だ。
独り言めいたニアの呟きに、フィルバートは緩く首を左右に振った。
「マルグリットはこの国のことなど考えていない。ただ、自分や自分の子が王座に座れればいいんだ。他国や自国の民を虐殺した罪を俺だけに背負わせて、自分は暴君を倒した救いの女神のように振る舞えれば、あいつの空っぽな心が満たされるんだろうよ」
嘲るようにフィルバートが口角を歪める。だが、すぐさまその口角は下がった。
「空っぽなのは、俺も同じだ。ハリーに刺されて死にかけた俺に近付いたサクラは、こう言った。『きみは、本当に中身がスカスカなやつだったね。きみの心には何もなかった。他者への愛情も、叶えたい信念も、未来への希望も、影も形もなかった。こんなに心が空っぽで操りやすい人間ははじめてだよ』と」
そう吐き出して、フィルバートは視線を伏せた。その眼差しから、フィルバートの心に深く刻まれた傷が見える。
「魔女は、人の心の隙間に潜り込んで意のままに操り、その者が抱える空虚さや闇を増長させて堕落させる。笑うサクラを見た瞬間、生まれて初めて俺は後悔した。自分の人生は一体何だったんだと。何一つとして満たされぬまま、ただ地獄を作り出して終わるのかと――そのとき、サクラの胸元のネックレスから声が聞こえたんだ」
その言葉に、サクラの胸元で揺れる赤い宝石のついたネックレスが頭に思い浮かんだ。仄暗く光るネックレスから『お願い、魔女を殺して!』と聞こえたことを。
「魔女を、殺して」
ニアが呟くと、フィルバートはゆっくりと頷いた。
「その声に最期の力を振り絞って、俺は隠し持っていた短刀でサクラのネックレスを突き刺した。サクラを殺すことはできなかったが、ネックレスは割れて、中に閉じ込められていた生贄たちの魂が一気に溢れ出した」
その瞬間を思い出すように、フィルバートが自身の右手をじっと見つめる。
「死に際に、その魂たちに告げられたんだ。『魔女を殺さなければ、私たちは解放されない。お前を過去に戻すから、次こそは魔女を殺せ』と」
フィルバートの言葉に、背筋が震えた。この二度目の人生は、魔女を殺すために数多の命によって与えられたものだったのか。
だが、合点がいかないところもあった。フィルバートが過去に戻るのは理解できるが、なぜニアまで記憶を残したまま戻されたのか。
「どうして、俺まで……」
ぽつりと漏らすと、フィルバートはまっすぐニアを見つめた。真剣な眼差しに、思わず息を呑む。
「魂たちに過去に戻すと言われたときに、俺は心の底から恐れた。過去に戻ったところで、また魔女に操られて同じ地獄を作り出すだけだと思ったからだ。二度も、そんなことは繰り返したくない。だから、命が尽きる瞬間にひとつだけ願った――どうか自分の心が空っぽにならないようにと」
そう呟くと、フィルバートはニアへと向かってそっと手を伸ばした。だが、その指先は空中で躊躇うように戦慄くと、結局触れることなく下ろされた。
諦めたように視線を伏せて、フィルバートが静かな声で続ける。
「お前が前の記憶を残していると気付いたときは、どうしてお前が戻ってきたのか理解できなかった。だが、お前とともに過ごしているうちにその理由が解った。お前は……俺の空っぽだった心を埋めてくれた」
うつむいたまま、フィルバートが悲しげな笑い声を漏らす。
「お前のひたむきさ、怯えながらも困難に立ち向かっていく心、俺にはすべてが眩しかった。お前とともにいるときだけは、俺は自分の手で作り上げた地獄を忘れて、未来に希望を抱くことができた」
ぽつぽつと吐き出される言葉に、ニアは咽喉をぎこちなく上下させた。息が詰まって、ひどく苦しい。何かを言いたいのに、それを口に出すのが怖かった。
フィルバートがたどたどしい口調で続ける。
「お前が、俺を恐れていることには気付いていた。俺から離れたがっていることにも。それでも、俺はお前を手放したくなかった。どうしても、お前の傍にいたかった」
掠れた声で漏らして、フィルバートは両手で顔を覆った。その瞬間、ぽつりと水滴が滴る音が聞こえた。うつむいたフィルバートの顔から、ぽつぽつと止め処もなく涙が落ちている。その光景を見て、ニアはとっさに言葉を失った。フィルバートが涙を流すのを見たのなんか初めてだ。
「どうすればいい」
うめく声が聞こえる。フィルバートは両手で頭を抱えると、そのまま顔を床に伏せた。ほとんど床にうずくまるような姿勢のまま、フィルバートが繰り返す。
「どうすればいいのか解らない」
涙で震えたフィルバートの声に、心臓が痛いくらい締め付けられる。なじりたいし、怒りたいのに、すべての言葉が腹の底に沈んでいく。ただ目の前の男が痛ましくて、胸が苦しかった。
「俺は、お前を殺した。どうすれば償えるかも解らない。こんなのは身勝手だと解っている。懺悔するのならば、お前を手放さなくてはならないのだと――だが、どうしてもお前を離したくない。お前が傍にいない人生なんて、何の意味もない」
それはニアへの問い掛けというよりも、自問自答のように聞こえた。ニアが息を詰めていると、消え入りそうな声が耳に届いた。
「ニア……愛してる……」
情けなく震えた声で告げられる愛の言葉に、不意に心臓が突き刺されたように痛んだ。
ニアは、冷たい石の床でうずくまる男をじっと見つめた。フィルバートはこの国の頂点に立つ人間なのに、今はただ惨めにニアの愛を乞うている。決して許されないと解りながらも、許されたいと願うその姿がひどく無様で、だからこそ無性に愛おしかった。
「顔を、あげてください」
ニアがそう呟くと、フィルバートはのろのろと上半身を起こした。深い青色の瞳からは、ぽろぽろと涙が零れたままだ。まるで母親に叱られた子供みたいな泣き方だと思った。
「俺を、愛しているんですか」
問い掛けると、フィルバートはゆっくりと瞬いた。その頬をまた涙の粒が伝っていく。
「愛している。お前は、俺のすべてだ」
愚直に告げられる言葉に、強張っていた心がかすかにほどけていくのを感じた。
ニアは震える息を長く吐き出すと、フィルバートを見据えて呟いた。
「こっちに来てください」
促すと、フィルバートはニアに近付いてきた。
手が触れるほどの距離になると、ニアはそっとフィルバートに手を伸ばした。フィルバートは覚悟を決めたように、じっとニアを見つめている。その冷たい頬に触れて、ニアは小さな声で囁いた。
「俺は、ずっと怖かった」
「ああ、すまなかった」
「自分を処刑した男の傍にいるのも、貴方に身体を求められたときも、本当に怖くて堪らなかった」
「すまない……」
後悔に満ちた声で呟いて、フィルバートが視線を伏せようとする。頬を押さえてそれを遮りながら、ニアはフィルバートの瞳を覗き込んだ。
「でも……貴方もずっと怖かったんですね」
ようやくフィルバートの心が解った気がした。ずっと怯えながら進んでいたのはニアだけじゃない。フィルバートもずっとずっと怯えていたのだと。
細く息を吐き出して、潜めた声を漏らす。
「俺は、貴方を許せない。きっと一生、貴方に処刑されたことを忘れることはできない」
「解っている」
「でも、貴方を愛している」
ニアの言葉に、フィルバートが目を大きく開く。その瞳を間近で見つめたまま、ニアは泣きながら笑みを浮かべた。
「貴方が俺に与えてくれた愛を、死んでも手放したくない」
涙が頬を伝っていく。フィルバートが恐る恐るニアの頬へ手を伸ばしてくる。その手を、今度は振り払わなかった。フィルバートの掌が、濡れた頬に触れる。その冷たい掌を感じながら、ニアは唇を開いた。
「俺も、どうしたらいいか解らないんです」
フィルバートへの憎しみと愛しさが同じように存在していた。相反する感情に引き裂かれながらも、それでも自分自身で解っていた。フィルバートを失うことに自分は耐えられないと。
不意に、苦しいぐらい身体を抱き締められた。その背に両腕を回しながら、ニアは懇願するように囁いた。
「愛してると、言ってください」
「愛してる。お前だけを、永遠に愛してる」
求めるだけ与えられる。愛の言葉を繰り返しながら、フィルバートがそっとニアの首に唇を押し当ててくる。あれだけ首に触れられるのが恐ろしかったのに、今は怖くなかった。ずっと血を流し続けていた傷口が、優しく塞がれていくような感覚だ。
飽きるほどに首筋に口付けられた後、ニアはフィルバートの頬を両手で包み込んだ。その瞳を見据えたまま、言い聞かせるように呟く。
「次に俺を遠ざけようとしたら、貴方を殺して俺も死にます」
おぞましい言葉だというのに、フィルバートはひどく嬉しそうに微笑んだ。どこかうっとりとした眼差しで、ニアを見つめてくる。
ニアはフィルバートの左手首を掴むと、その薬指の付け根に一息に噛み付いた。ギリギリと薄い肉に歯を食い込ませてから、ゆっくりと離す。血を滲ませた薬指に舌を這わせながら、ニアは脅すような声音で言い放った。
「貴方の命は、俺のものだ」
その言葉に、フィルバートは堪らないと言わんばかりにニアの胸に額を擦り寄せた。
「ああ、すべてお前のものだ」
同意を返すと、フィルバートは顔を上げた。そのまま、神に捧げるようにそっとニアの唇に口付けてくる。柔らかな口付けが繰り返された後、潤んだ舌が潜り込んできた。途端、貪るように舌が口内を荒らし回る。舌をキツく絡められて、吐き出す息さえも呑み込まれた。
「ん、ぅ……ッ」
久々に感じる舌の感触に、我慢できなくなりそうだった。流れ込んでくるフィルバートの唾液を咽喉を鳴らして飲み込みながら、両手を伸ばしてフィルバートの腰を掴む。今すぐ身体の一番奥深くに、フィルバートが欲しかった。体内をみっちりと太いもので埋められて、滅茶苦茶に肉壁を擦られて、腹から溢れるぐらい熱いものを注ぎ込まれたい。
はしたない衝動に腰を揺らしかけたとき、重なっていた唇が強引に離された。不服げにニアが顔を顰めると、フィルバートはかすかに笑みを浮かべた。
「俺も今すぐお前が欲しいが、先にやるべきことがある」
唾液で濡れたニアの唇を親指で撫でながら、フィルバートが言う。その言葉に、ニアは緩く顎を引いて目を据わらせた。
「魔女を殺す」
「ああ。だが、魔女は用心深い。あれが油断するのは、人の死を見た瞬間だけだ」
そう呟くと、フィルバートはじっとニアを見やった。
「俺を信じて、身を任せてくれるか?」
確かめるように訊ねてくる声に、ニアは唇をへし曲げた。
「俺を殺さないって約束してください」
「当然だ。お前が死んだら生きていけない」
当たり前のように返ってきた言葉に、ニアは少しだけ口元を緩めた。
「じゃあ、一緒に魔女を倒しましょう」
ニアがそう返すと、フィルバートはその瞬間が待ち遠しいと言わんばかりに薄笑いを浮かべた。
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