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第六章
50 異様な空気
しおりを挟むサクラが現れてから、少しずつ城内の空気が変わり始めたのを感じる。
貴族の一部の者以外は聖女という存在に懐疑的だったのに、時に経つにつれて全面的にサクラを擁護する者が増えてきた。騎士団にも、傷を治して貰った者たちを中心に、熱狂的なサクラのファンクラブが出来上がっている。そして、最初はサクラの馴れ馴れしい態度に辟易した様子を見せていたメイドたちまで近頃は「無邪気で明るい方で、とっても親しみやすい方だわ」などと真逆のことを言い出している。
「聞いたか? 聖女様が現れた瞬間に、枯れていた花畑が一斉に咲き誇ったらしい」
「先日は、牢に収監されている罪人に語りかけて改心させたって聞いたわ。罪人自身が二度と盗みを働けないよう、自分の手を切り落とすことを望んだって」
「聖女様は、本当に心優しきお方ね。あの方以上にこの国の妃に相応(ふさわ)しい方はいないわ」
城を歩くだけで、そんな会話が次々と耳に入ってくる。
だが、どうにも不気味だったのは、サクラのことを語るときの皆の顔だ。なぜか目を見開いて、語り終わるまで一度たりとも瞬きをしないのだ。口だけがパクパクと機械的に動く姿を見ていると、まるで下手な腹話術でも見させられているようで気味が悪かった。
「やばいな、城の中が新興宗教の根城みたいになってるぞ」
城内の様子を一通り見てきてから、中庭のベンチに腰掛けたロキが言う。その脱力気味な声を聞いて、ニアはくにゃりと眉を下げた。
ロキの言うとおり、今の城内の雰囲気は異様だ。みな取り憑かれたように、サクラの話ばかりしている。まるでサクラ以外の話を語ることを禁じられたかのように。その姿は、神を崇拝する狂信者のようだ。
「フィルバートは、なんでこんな状況を放置しているんだ。あいつなら、もうあの女を追い出す方法を考えてそうなのに」
ロキが苛立った口調で呟く。その言葉には、ニアも同意だった。
フィルバートは、問題が起こったときの対応速度が異常に早く、そのうえ周りへの根回しも上手い。むしろ問題が表面化する前に、水面下で叩き潰して終わらせていることの方が多かった。だからこそ、フィルバートは今まで腹黒い貴族たちに足下を掬われることなく、自身の手元に抑えることができてきたのだ。それが、フィルバートを『冷酷王子』と言わしめた最たる要因かもしれないが。
それなのにサクラに対してだけは、フィルバートは何の措置も取っていないように見えた。ただ放置し、サクラをやりたい放題にさせている。サクラは相変わらずフィルバートにこれ見よがしにアピールして付きまとっているようだが、フィルバートの態度はなしのつぶてだった。ダイアナとは会話するが、サクラに対しては完全拒絶の態度を崩していないらしい。それでも諦める様子がないから、ある意味サクラの心は強靱だと思う。
「サクラ様は……何なんでしょうか」
無意識にぽつりと言葉が零れた。周りの異常とも思える熱狂を見ていると、ニアにはサクラが『聖なる女性』とは思えなかった。むしろ、もっと禍々(まがまが)しく、おぞましい何かに思えて仕方ないのだ。
前の人生で、サクラが原因で家族全員が処刑されたことを思うと、彼女には近付きたくなかった。だが、大切なダイナアがサクラとともに行動しているからには関わらないわけにもいかない。もう二度とあんな恐ろしい最期は迎えたくないのに、自分が着々と処刑台に近付いているような予感が込み上げて、ぶるりと身体が震えそうになる。
「あいつが何なのかは解んねぇけど、どうせロクなもんじゃねぇだろ」
母さまが呼び出したんだから、と小さな声でロキが呟く。その言葉に、ニアは驚いた目でロキを見やった。睨み付けるように地面を眺めたまま、ロキが続ける。
「母さまは、自分のためにしか動かない。国のためだとか、民のためだとか、そんなことは考えてない。俺を王にしたがっていたのだって、俺のためじゃなくて、自分が思うようにこの国を支配したかったからだ。そんな人間が呼び寄せた聖女が、この国を救う存在なわけがない」
淡々とした口調だが、その言葉にはロキの苦悩が滲んでいるように聞こえた。自分が母親から利用されていると気付いた子供が、どれだけ傷付き、長い時間をかけてその事実を受け入れていったのか。想像するだけでも痛ましかった。
「ロキ様」
いたわるようにニアが名前を呼ぶと、ロキは湿っぽい空気を振り払うみたいに口を開いた。
「とにかく、サクラの信者が増えていくほど、王妃を解放しろって声もでかくなっていく。もう相当な貴族がぎゃあぎゃあ喚いてんだろう?」
「はい。有力な貴族たちがこぞって王妃解放を要求しています」
「王妃が解放されたらまた俺を王座にかつぎ上げようとしてるのか、こっちに接触しようって奴らも増えてきてるしな」
ふっ、と嘲るようにロキが笑う。ロキは頭の後ろで両手を組むと、小馬鹿にするような口調で呟いた。
「もし、目論見が上手くいかなかったときは、そいつらは後々地獄を見るな。フィルバートは、そういう小賢しい奴らをねちねちと一人ずつ潰していくのが好きだからな」
「フィル様は、そこまで陰湿ではないですよ」
とっさにニアが擁護の言葉を返すと、ロキは呆れた眼差しでこちらを見やった。
「何言ってんだ、あいつほど底意地悪い奴もいないだろ」
「でも……ああ見えて、結構お優しいところもありますし」
庇えば庇うほど、何だか墓穴を掘っているような気持ちになってくる。ニアがしょぼんとした表情を浮かべていると、ロキはベンチに凭れかかって呟いた。
「そりゃお前限定だろうが」
「いえ、そんなことは……」
そんなことはないと言いたかったが、裏切り者をじわじわと追いつめているときのフィルバートの愉しげな表情を思い出すと断言できなかった。
ニアが言葉に詰まっていると、ロキがちょいちょいと人差し指で手招いてきた。ニアが膝を折って目線を合わせると、ロキはずいっとこちらに顔を寄せてきた。
「お前、フィルバートとデキてんの?」
小声で囁かれた言葉に、ニアはギョッと目を剥いた。だが、その意味を理解するにつれて、じわじわと顔面が熱くなってくるのを感じた。硬直したまま顔を赤くするニアを見て、ロキが、はぁ~、と大きくため息を漏らす。
「やっぱりそうか。昔っからお前がフィルバートの愛人じゃないかって噂は流れてたけど……愛人ってわけでもないんだろう?」
愛人ではなく恋人なんだろう、と暗に訊ねてきているのだと解った。ニアが戸惑ったように視線を揺らしていると、ロキは淡々とした口調で呟いた。
「別に何言われても今更驚かねぇよ」
だから大丈夫だ、と言わんばかりの声音に、ニアは緩くうつむいて唇を開いた。
「申し訳、ございません」
「どうして謝る」
「同姓で、従者の立場である者が、分不相応な方を愛してしまって心から申し訳ないと……」
視線を伏せたまま重々しい口調でそう告げると、ロキは、はっ、と小さく息を吐き出した。
「フィルバートがああなるのも解るな」
「え?」
「お前、もしフィルバートに相応(ふさわ)しい相手が現れたり、自分の存在があいつの邪魔になるようだったら、すぐに身を引こうと思ってるだろう?」
ロキの問い掛けに、ニアは硬直した。目を見開くニアを見て、ロキはどこか突き放すような口調で続けた。
「だから、フィルバートはお前から逃げ道を奪おうと躍起になってる」
そう呟いた後、ロキは宙をじっとりと見据えた。わずかな沈黙の後、ロキがぼそりと呟く。
「もしかして、これも全部あいつの計画のうちなのか?」
ニアへの問い掛けというよりも、自分自身に確認するような口調だった。意味が解らず首を傾げると、ロキはどうしてだか哀れむような眼差しでニアを見やった。
「お前も大変だな」
「な、何がですか?」
妙にぞわぞわとした感覚が這い上がってきて、声が上擦る。ロキはニアの肩をぽんと軽く叩くと、そのまま勢いをつけてベンチから立ち上がった。
「まぁ、俺は別にフィルバートが誰とデキてようがどうでもいいし。つうか、お前とフィルバートの仲を邪魔しようもんなら、俺の方がこの国から追放されるからな」
「そんな、まさか」
自分の弟にそんなことをするはずがない、とばかりにニアが苦笑いを漏らすと、ロキは、まだ解らないのか、と言わんばかりに嫌そうな顔を返してきた。だが、結局何も言わずに、そのままスタスタと歩いていく。
だが、歩き出してからすぐ、甲高い声が聞こえてきた。
「あ~~~!! ロキたむ、やっと見つけたぁ!!」
遠く離れているのに、鼓膜を突き破るような馬鹿でかい声量だ。声の方へ視線をやると、予想通りサクラがぴょんぴょんと跳ねながらこちらへと駆け寄ってくるのが見えた。その後ろを、ダイアナが全速力で追いかけてきている。
サクラの姿を目にした瞬間、ロキは、ゲェッ、とカエルみたいな潰れた声をあげた。近付いてきたサクラが、当たり前のようにロキの腕を掴もうとする。その姿を見て、ニアはとっさにロキの胸を押さえて自分の後ろへと押しやった。途端、サクラが膨れたように、ぶぅ、と声をあげる。
「サクラ様、何かご用ですか?」
事務的に訊ねると、サクラは再びご機嫌になったのか、両手を後ろに組みながら首を真横に傾げた。
「えっとね、騎士さんたちから傷を治したお礼に街に出かけないかって誘われたのっ。だから、ロキたむも一緒に行かないかなって思ってぇ」
くねくねと身体をよじらせながら、サクラが言う。ロキはその様子を不愉快そうに眺めて、短く吐き捨てた。
「行かねぇ」
「え~~~、行こうよぉ。ロキたむと仲良くなりたいんだもん~」
「お前が何をしようが仲良くならねぇから安心しろ」
取り付く島もない返答をされているのに、サクラが諦める気配はない。ロキは不愉快そうに眉を顰めていたが、ふとサクラの後ろに立つ真顔のダイアナを見やると、わずかに表情を和らげた。
ロキの視線に気付いたのか、サクラがダイアナを振り返ってパッと表情を明るくする。
「あっ、ダイアナちゃんももちろん一緒に行くよぉ。お洋服屋さんにも行くから、ダイアナちゃんにもなにかプレゼント買ってあげればいいんじゃないかなぁ?」
サクラがそう促すと、ロキはわずかに躊躇するように眉を寄せた。途端、サクラの後ろに立つダイアナが顔を歪めて、来るなとばかりに首を左右に振る。その仕草が逆に反抗心をあおったのか、ロキは勢い込んだ声で言った。
「じゃあ、行く」
ロキの意固地な返答を聞いて、頭痛でも覚えたようにダイアナが片手で額を押さえる。
そして、サクラは兎みたいにピョンとその場で跳ねると、大きな声で叫んだ。
「やったぁ! みんなでお出かけ楽しみっ!」
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