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第六章
47 骨付き肉
しおりを挟む現状を受け入れられないまま、一日が過ぎた。あまりにも唐突過ぎる展開に脳味噌がついていけていないのか、目が覚めても頭がぼやけたような感覚が続いている。城内にある自室のベッドに仰向けになったまま、ニアは大きくため息を漏らした。
いつもだったら目が覚めるのは、隣にあるフィルバートの私室だった。背中に重なる体温を感じながらゆっくりと目を開くと、フィルバートがニアの耳に唇を押し当てながら「ニア、おはよう」と囁いてくるのだ。そのまま頬や目蓋に何度もキスを落とされて「ちょっと、そろそろ起きないと」とニアが小言を言うまでが毎朝のルーティンだった。
その甘くて柔らかな記憶を思い出した途端、胸の奥がじくりと膿むように痛んだ。膿んだ場所から、またどうしようもない言葉が滲み出てくる。
『どうして、フィルバートは突然変わってしまったのか』
聖女が現れる前までは、怖いくらい何もかも上手くいっていた。国だってようやく安定していたし、フィルバートだって溺れるほどにニアに愛を注いでいてくれていたはずだ。それなのに、昨夜その何もかもが壊れてしまった。
フィルバートと喧嘩別れしてしまったことを思い出すと、胃の辺りがチクチクとうずいた。だが、いつまでも感傷に浸っているわけにもいかず、脇腹を掌で押さえながら鈍く起き上がる。
浮かない気持ちのまま身だしなみを整えていると、廊下の方から話し声が聞こえてきた。フィルバートが誰かと話しているらしき様子だ。いつもの起床時間よりもずいぶんと早い。
気付いた瞬間、ニアは上着のボタンをはめ切れていないまま慌てて部屋の外へ飛び出した。廊下に出ると、フィルバートが自身の私室前で五人の騎士たちと話している姿が見えた。おそらくニアの代わりに用意した護衛だと思うと、また胸が締め付けられた。
「フィル様」
ニアが途方に暮れた声で名前を呼ぶと、フィルバートは露骨に不機嫌そうに眉を顰めた。
「城から離れろと言ったはずだ」
「それはお断りしたはずです」
「なら、お前と話すことは何もない」
切り捨てるように言い放つと、フィルバートはそのままニアに背を向けて歩き出した。ニアに対するフィルバートの冷淡な態度を見ると、騎士たちはギョッとしたような表情を浮かべた。四六時中一緒だったニアとフィルバートが一体どんな仲違いをしたんだ、と言わんばかりの表情だ。
反射的にその後ろを追いかけると、フィルバートが肩越しに振り返って鋭い声をあげた。
「着いてくるな」
「嫌です」
「これ以上、俺に着いてくるなら牢に入れるぞ」
「入れればいいじゃないですか。どうぞ俺を牢にぶち込んでください」
駄目だと解っているのに、悔しさのあまり売り言葉に買い言葉を返してしまう。
フィルバートはひどく憎たらしそうな眼差しでニアを見やった。騎士の一人に目をやって、フィルバートが短く告げる。
「そいつを着いてこさせるな」
フィルバートの命令に、戸惑ったように騎士が視線を揺らす。だが、フィルバートに鋭く見据えられると、騎士は覚悟を決めたようにニアの前に立ち塞がった。
「ニア様、どうか」
懇願するように騎士が言う。その姿を見据えて、ニアは低い声をあげた。
「どけ」
「どうか、お願いです」
恐怖で強張った騎士の表情を見て、ニアはとっさに泣きたくなった。どうして、こんな不毛な言い争いをしなくてはならないのか。ただ、自分はフィルバートの傍にいたいだけなのに。
やるせない無力感に、ニアは虚しく視線を伏せた。途端、ほっとしたように騎士が安堵の息を漏らす。
しばらく床を見つめてから顔を上げると、もうそこにはフィルバートの姿はなかった。
まるで閑職(かんしょく)に飛ばされた文官のようだと思う。当て所もなく城内をとぼとぼと歩きながら、今の自分の姿をそんな風に自嘲する。
のろのろと亀のような速度で歩くニアを、使用人たちが時折心配するように見ているのを感じる。時々、馴染みのメイドが近付いてきては「ニア様、ご気分でも悪いのですか?」「落ち込んでいるときは、甘いものを食べるのが一番ですよ」などと言って飴玉や菓子を差し出してくるのが、余計に居たたまれなかった。ポケットの中を飴玉や菓子でぱんぱんに膨らませながら、皆の視線から逃げるようにして城内を歩き回る。
行くあてがないのなら、フィルバートの命令通りに城から出て、実家に帰るのが一番良いのかもしれない。そうすれば、これ以上フィルバートから嫌われることもない。傷付くのが恐ろしいのなら、さっさと逃げ出してしまえばいい……。
そんな気弱なことを考え出した頃、ふと騒がしい声が聞こえてきた。喧噪に誘われるようにして声の方へ近付いていくと、そこは騎士団の待機所だった。
レンガ造りの平屋を覗き込むと、室内の一角に人の輪ができていた。誰かを取り囲んで、何十人もの騎士たちが列をなしている。その中心にいる人物が誰なのかは、すぐに判った。
「みなさ~ん、一列に並んでくださいねっ! ひとりずつ、ちゃあんと治していきますからっ!」
語尾を弾ませながら、片手をあげてぴょんぴょんと飛び跳ねているサクラの姿が見える。その落ち着きのない子供みたいな動作を見て、騎士たちが和んだように笑い声をあげているのが聞こえた。
「はーい、じゃあ治しますねっ! えいっ! やあっ!」
妙なかけ声をあげて、サクラが椅子に座った騎士の右腕に両手をかざす。途端、ぼぉっと淡い光がサクラの掌から放たれて、切り傷があった騎士の右腕から傷が消えていった。同時に、サクラの胸のペンダントもかすかに赤く光る。
治療をしてもらった騎士は右腕から傷が消えたのを確認すると、感激の声をあげた。
「聖女様、ありがとうございます!」
「えへへっ、喜んでもらえてよかったですっ」
サクラがにっこりと笑って、嬉しそうに返す。そのまま、サクラは周囲を見渡して言った。
「ケガしてる人はどんどんっ並んでくださいね~! わたしがみ~んな治しちゃいますからっ!」
サクラの言葉に、騎士たちが、おおおっ、と歓喜の声をあげる。
「聖女様、次は俺を!」
「昔の古傷も治せますか? 寒くなると、ひどく痛むんです」
「傷じゃなくて、腰痛とかはどうなんだ? ぎっくり腰になっちまって」
騎士たちが一斉にサクラに話しかける。すると、サクラは腰に両手を当てて、ぷくっと頬を膨らませた。
「もぉ~、いっぺんに話すのはダメですっ! わたしの耳はひとつしかないんだからっ! あっ、ちがう……耳はふたつでしたぁ」
言い間違えたとばかりに、サクラが右拳でコツンと自身の頭を叩く。その仕草がおかしかったのか、騎士たちはドッと笑い声をあげた。途端、サクラが恥ずかしそうに両手で頬を押さえる。まるっきり古臭い台本を棒読みしているような薄ら寒い光景だ。
よく見ると、サクラの傍らに後ろ手を組んだダイアナが立っているのが見えた。ダイアナは意識を半分飛ばしているのか、死んだ魚みたいな目をして宙を眺めている。『いっそ殺してくれ……』と言わんばかりの表情からも、ダイアナが一日にしてすでに精神の限界を迎えているのが伝わってきた。
思わずダイアナに近付こうとしたとき、ふと上擦った声が近くから聞こえた。
「ニア様っ」
声の方へ視線をやると、直立不動の姿勢をした騎士が立っていた。ニアよりも背が高く、まだ十代であろう若々しい肌艶をした好青年だ。身に付けた騎士団の隊服が真新しいのを見ると、まだ入団して間もない新人だろう。まだ幼さを残してるが、その爽やかな顔立ちには見覚えがあった。
ニアがまじまじと顔を見つめていると、新人騎士はかすかに頬を赤らめて、恥じるように視線を逸らした。その横顔を見て、ようやく思い出す。
「ミック・ヘザーだよな?」
確かダイアナと入団試験のときに戦っていた長身の青年だ。ダイアナに負けず劣らず剣の腕前に優れていたことを思い出して、無意識に口元がほころぶ。
ニアが名前を覚えてくれていたことに感動したのか、ミックはズイッと大きく一歩近付いてきた。身体が触れ合いそうな距離に、ニアはとっさに後ろに仰け反ってしまった。
「俺の名前っ、覚えていてくださったんですか」
「ああ、うん」
「あの、俺、ニア様にずっと憧れていて……騎士団に入ったのも、ニア様に一目お会いしたかったからで……」
緊張のせいか、たどたどしい口調でミックが言い募る。憧憬を滲ませた健気な言葉に、ニアは困ったように笑みを浮かべた。ニアの笑みを見て、ミックが更に勢いづいた様子で言葉を続ける。
「大斧を振るうニア様の強靱さは、騎士団に入ろうとする者全員の憧れです。更に十六歳にして第一王子のロードナイトとなり、数多(あまた)の敵を倒し、新型砲台の開発まで携わって他国の侵攻を退けた。ニア様は、まさにエルデン王国の守護神です」
口を挟む隙を与えない早さで、ミックが喋る。その勢いに押されつつ、ニアはますます苦笑いを浮かべた。
昨日までだったら純粋にその言葉を嬉しいと思えたのだろうが、フィルバートに突き放れている今だと妙に後ろめたいような、息が詰まるような感覚を覚えてしまう。
「俺は――いや、ありがとう」
俺は君が思うような人間じゃないよ、と言い掛けたが、結局言葉を呑んだ。わざわざ若者の憧れを壊すのも大人げないことだろう。
ニアが中途半端な笑顔を浮かべていると、ミックが小さな声で訊ねてきた。
「良ければ、握手していただけないでしょうか……?」
ミックが両手を出しながら、恐る恐るといった様子で問いかけてくる。その仕草にかすかに笑いながら、ニアは右手を差し出した。
「俺で良ければ」
そう告げると、ミックは壊れ物に触れるみたいにニアの右手を両手で包み込んだ。じんわりと噛み締めるように瞬きをして、ミックが大きく息を吐き出す。赤い絵の具でも落とした水みたいに、その頬がじわじわと紅潮していくのが見える。
三十秒近く経っても、ミックはニアの手を離そうとしない。もうそろそろいいだろうか、とニアが言おうとしたとき、ミックが勢い込んだ声で訊ねてきた。
「もしっ……もし宜しければ、今度我が家で食事でも――」
「おい、ニア」
ミックの言葉を遮って、呼ぶ声が聞こえてくる。視線を向けると、待機所近くに植えられている大木に寄りかかるようにして、ロキが立っているのが見えた。
「ロキ様」
ニアが驚きの声をあげると、ロキはちょいちょいと人差し指を動かして招く動作をした。それを見て、ニアはミックに視線を向けた。
「ありがとう。今後も精進してくれ。期待している」
「あ……はい」
ぽつりと相づちを漏らして、ミックが名残惜しそうにニアの手を離す。ミックの胸をぽんっと軽く掌で叩いてから、ニアはロキの方へ小走りで向かった。
近付くなり、ロキが不機嫌そうな声で呟く。
「この人たらし」
「はい?」
「無闇矢鱈(むやみやたら)と人をたらしていくな」
ロキの言葉に、ニアは困惑に眉を寄せた。
「俺は、別に誰もたらしてなんかないですよ」
「たらしてるだろう。さっきのあいつだって骨付き肉を眺める目でお前を見てたぞ」
ロキが先ほどミックが立っていた場所を指さして、強い口調で言う。
「骨付き肉って」
言葉の選定にニアが小さく笑い声をあげると、ロキは呆れたように首を左右に振った。
「隙だらけな上に自覚もねぇのかよ。あいつが裏で手を回す理由がよく解るな」
独り言みたいに、ロキが小声で呟く。ニアが「あいつ?」と繰り返しても、ロキは不貞腐れた表情でそれ以上は答えてくれなかった。
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