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第五章

45 聖女劇場

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 フィルバートは、しばらく観察するようにサクラをじっと見つめていた。サクラもまるで子鹿みたいな無垢な瞳で、フィルバートを見つめ返している。無言のまま見つめ合う二人の姿を、ニアは固唾を呑んで凝視していた。

 不意にサクラが桃色の唇を開いて、ぽつりと呟く。


「あなた……とっても目がキレイ……」


 うっとりとした声で囁いて、サクラが片手をフィルバートの頬へ伸ばす。その光景を見て、ニアはとっさに叫びそうになった。


――触るな! 彼に触らないでくれ! 彼の瞳を間近で見つめられるのは、俺だけだったのに……。


 だが、口から惨めな叫びが溢れる前に、サクラの手を避けるようにフィルバートがすいっと顔を背けるのが見えた。まるで顔に向かって飛んできた小さな虫を避けるような仕草だ。

 そのままフィルバートは飽きた玩具を放るみたいに、サクラの身体をバルコニーの上にポイッと下ろした。雑に下ろされたサクラが「え?」と驚きの声を漏らすのが聞こえる。サクラの胸元で、真っ赤な宝石がついたペンダントが揺れるのが見えた。

 フィルバートは、ニアの後方で佇(たたず)む騎士たちに視線をやると、冷めた声をあげた。


「この女を別室に連れて行け」


 その命令に、ぎこちない動作で騎士たちがサクラに近付いていく。途端、サクラが慌てた声をあげた。


「え、えっ、なんで、わたし、ここに……あの、ここどこですかっ?」


 サクラが追いすがるように、フィルバートの腕を掴もうとする。だが、フィルバートはするりと自然な仕草でサクラの手をかわすと、素っ気ない口調で答えた。


「ここはエルデン王国だ」


 親切心からではなく、会話を打ち切るために答えているような事務的な口調だった。フィルバートが、また騎士たちを見やって言う。


「さっさと連れて行け」


 近付いてくる騎士たちを見て、サクラが怯えたように後ずさる。直後、サクラはその場にしゃがみ込むと、てこでも動かないとばかりにバルコニーの石柱に両腕で抱き付いた。


「わたしっ、塔の中に閉じ込められる女の人に呼ばれて来たんですっ! わっ、わたしに、この国を救ってほしいってっ!」


 辺りに響き渡るような甲高い声で、サクラがそう叫ぶ。その声はバルコニー下のバンケット会場まで響いたのか、一気に階下がどよめくのが聞こえた。


「塔の中の……まさか王妃様のことか?」
「国を救って欲しいとはどういうことだ?」


 貴族たちが口々に喋り合う声が、嫌でも耳に入ってくる。途端、フィルバートが大きく舌打ちを漏らした。だが、サクラはその舌打ちが聞こえていないのか、無闇矢鱈とでかい声で続けた。


「オウヒ様!? オウヒ様って人が、塔の中にいるんですかっ!? そっ、その人をここに呼んでくださいっ! そしたら、わたしがここに来た理由をきっと教えてくれるはずですっ!」


 キャンキャンと小型犬みたいに吠えるサクラに、フィルバートがうんざりとした表情で片耳を押さえる。そのまま、フィルバートはニアに視線を向けて言った。


「マルグリットを連れて来させろ」
「フィル様……それはまずいのでは」


 罪人であるマルグリットを、こんな公(おおやけ)の場に連れて来ること自体が有り得ないことだ。

 ニアが小声で訊ねると、フィルバートは石柱にしがみ付くサクラを一瞥して答えた。


「あの女を無理やり引き剥がして連行すれば、余計に妙な噂を立てられる」
「ですが」
「ニア、大丈夫だ」


 言い掛けた言葉を遮って、フィルバートが小さな声で囁く。そのまま安心させるように、ニアの背中を軽く掌で叩いてくる。いつもと変わらぬ仕草にわずかに強張りがほぐれるのを感じながら、ニアはしぶしぶうなずいた。

 騎士たちに向かって、声をあげる。


「マルグリットをここへ」


 そう告げると、騎士たちがバタバタと慌てた様子で走っていくのが見えた。

 それから間もなくして、簡素な白服を身につけたマルグリットが現れた。両手首と腰は縄で縛られており、その縄の先は後方に立つ騎士たち二名に握られている。

 マルグリットはふらふらとした足取りでバルコニーへと出てくると、サクラの姿を見て、ああっ、と演技がかった声をあげた。


「ああっ、私の祈りが神に通じたのですね……!」


 マルグリットが大袈裟な仕草で両手を組み合わせて、地面にひざまずく。まるで神に感謝を捧げるようなポーズだ。

 頬に一筋の涙を流すマルグリットを見ると、サクラはようやく石柱から両腕を外して立ち上がった。


「あの……あなたがわたしを呼んだんですよね……?」
「ええ、ええ、そうです。貴女は神がこの国に授けた宝……我が国を救う聖女です!」


 マルグリットが両腕を左右に開いて、声を張り上げる。明らかに周りの人間に聞かせている声だ。途端、階下が更にざわめくのが聞こえた。


「聖女だって……!?」
「王妃が、聖女を呼んだのか?」


 耳に届く幾多の声に、ニアはとっさに奥歯を強く噛み締めた。

 どう考えても、聖女の出現はフィルバートにとってマイナスに働いている。これで王妃が無実などという噂が立てば、これまでフィルバートが固めてきた基盤が揺らぐ可能性だってあった。そう思うと、目の前の二人を今この場で斬り捨ててやりたい衝動にかられる。

 ニアの殺意に気付く様子もなく、マルグリットとサクラは三文芝居じみたやり取りを続けていた。


「聖女って……でも、わたしには、なんの力もないです……」


 サクラが少し怯えたような声で呟くと、マルグリットは大きく首を左右に振った。


「いいえ、貴女には素晴らしい力があります。どうか、こちらに手をかざしてください」


 そう言いながら、マルグリットが縛られた両手首をサクラへと差し出す。その両手首には縄で擦り切れたであろう擦過傷が見えた。じわりと血を滲ませる手首を見て、サクラが痛ましそうに目元を歪める。

 戸惑うように視線を揺らした後、サクラはマルグリットの両手首に両手をかざした。サクラの胸元にかけられた赤いペンダントが仄暗く輝き、同時に掌からふわりと柔らかな光が放たれる。その光景に、騎士たちが驚いたように一歩後ずさるのが見えた。


「ああ……痛みが消えていく」


 ほうっとため息を漏らすと、マルグリットは立ち上がって両腕を高く掲げた。その両手首には、もう傷は残っていない。


「傷は癒されました! これが聖女の力です!」


 階下の貴族へと向かって、マルグリットが知らしめるように叫ぶ。途端、おおっ、と驚嘆の声が一斉に聞こえてきた。

 サクラが驚いた表情で、自分自身の掌を見つめている。だが、その数秒後、サクラは突然小さな悲鳴をあげた。


「きゃっ!」


 サクラの周りを、色とりどりの小鳥たちが戯れるようにして飛んでいるのが見える。まるでサクラにじゃれつくような動きだ。


「ちょっ、きゃっ……あは、あははっ、かわいいっ!」


 最初は驚いていたサクラが、小鳥の羽に頬をくすぐられて無邪気な声をあげる。少女と鳥が戯れる無垢な光景に、周囲に一気に和んだ空気が広がっていくのを感じた。

 だが周りの空気に反して、ニアの背筋には冷たい汗が伝っていた。まるで大根役者の演技を延々と見させられているようで、気色悪くて堪らない。こんなのは露骨すぎる『聖女劇場』だ。


「貴女は神の使いですから、生きとし生けるものは皆、貴女を愛さずにはいられないのです」


 仰々しい口調で、マルグリットがそう説明する。サクラは肩にとまった小鳥を指先で撫でながら、マルグリットに訊ねた。


「それじゃあ、わたしはみんなの怪我をなおすために、この世界に呼ばれたんですか?」


 不思議そうなサクラの問い掛けに、マルグリットは小さく首を左右に振った。


「いいえ、貴女の本当に役割はそんなものではありません」


 そう囁くと、マルグリットは両腕を組んだフィルバートへと視線を向けた。その視線に、嫌な予感がぞわりと走る。


「神は私にこうお告げになられました――聖女の愛が、凍て付いた第一王子の心を溶かすのだと」


 マルグリットの言葉に、ニアは全身が総毛立つのを感じた。頭の天辺から血の気が落ちて、握り締めた拳が震えそうになる。

 マルグリットの視線を受けたフィルバートは、ピクリとも表情を変えていなかった。まるで自分には関係のない、どうでもいい話が偶然耳に入ったような反応だ。

 直後、サクラの素っ頓狂な声が響き渡った。


「え、えええええぇっっ!! そ、それって、もしかして……私と王子様が恋に落ちるってことですかぁ!?」


 両手で口元を覆ったまま、サクラが信じられないようにフィルバートをチラチラと盗み見ている。だが、かすかに赤く染まった顔を見るに、その表情は嫌そうには見えない。むしろ、突然の僥倖(ぎょうこう)に喜んでいるような様子だ。

 フィルバートは、ふっ、と口角をねじるようにして笑みを浮かべると短く吐き捨てた。


「茶番劇だな」


 そう一言漏らすと、フィルバートは騎士たちに言い放った。


「マルグリットを塔に戻せ。その女は、どこか適当な部屋に放り込んでおけ」


 サクラを雑に指さすフィルバートに向かって、マルグリットが突然鋭い声をあげる。


「聖女を不遇に扱うことは神がお許しになりませんよ!」
「神か」


 フィルバートは嘲るように呟くと、マルグリットを見据えて続けた。


「罪人が神を語るな」


 その言葉に、マルグリットが憎々しげに顔を歪める。そのままマルグリットは、騎士たちに連れていかれた。だが、ここに来るときよりも、マルグリットの腰縄を引っ張る騎士たちの手に躊躇いが見える。おそらく騎士たちの心中には『王妃は本当に罪人なのか?』という疑心暗鬼が生まれているのだろう。そして、その疑心暗鬼はここにいる大半の者の胸に生まれているだろうことも想像できた。

 腹立たしさに鈍く奥歯を噛んだとき、サクラの声が聞こえてきた。


「あの……お名前きいてもいいですか?」


 サクラは恋する乙女のような眼差しで、フィルバートをじっと見上げている。かすかに潤んだサクラの瞳を見て、ニアはぞわりと鳥肌が立つのを感じた。

 フィルバートは深く息を吐き出すと、サクラから視線を逸らして、ニアにこう言い放った。


「お前の妹を呼んで来い」
「ダイアナをですか?」
「ああ、今すぐにだ」


 そう答えると、フィルバートはバルコニーに背を向けて歩き出した。
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