【完結&コミカライズ進行中】俺の妹は悪女だったらしい

野原 耳子

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第五章

42 穏やかな夜

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 少しずつ『その日』が近付いてくるのを感じる。

 ニアは左耳を指先でいじりながら、手元の紙に亀のようなノロノロとした速度でペンを走らせた。薄暗い寝室の中、ランプの灯りに淡く照らされた紙には、ミミズがのたくったみたいな文字が書かれている。


『聖女の出現は初夏の湖? 王妃が見つけて連れて帰った? 処刑されたのは、聖女が出現してから約三ヶ月後?』


 頭の中をまとめるために紙に書き出しては見たものの、すべての文字にはてなマークがついていて、思考がまとまるどころか余計にこんがらかっていく。

 疑問符がついてしまうのは、前の人生で得た聖女の情報があやふやだからだ。ちょうど聖女出現の前後、ニアは騎士団の長期遠征に出ていた。だからこそ、すべてが人づての人づての、そのまた人づてのような真偽不明な情報しか持っていない。

 しかも、長期遠征から戻ってくるなり牢に閉じ込められて、次に外に出たときには処刑台の上だったという最悪な顛末だ。聖女の姿を見たのも、処刑台の上が最初で最後だった。


「ライラー湖から、水面から光とともに浮かび上がるようにして少女が現れた……? それをちょうど避暑に来ていた王妃が見つけて、城まで連れて帰った……?」


 片手で側頭部の髪をわしゃわしゃと掻きながら、記憶を掘り起こすように小声で呟く。先ほど湯浴みをしたせいか、髪の毛はまだしっとりと湿り気を帯びていた。

 今は、ちょうど春を迎えた頃だ。だから、前の人生と同じように進むのであれば、聖女が現れるまであとほんの数ヶ月程度しかない。


「でも今は王妃が幽閉されているから、聖女は現れない? 現れても、見つからなければ……」


 見つからなければ、フィルバートが聖女に心奪われることもない?

 そう思った途端、チクリと針に刺されるような痛みが胸に走った。何もしてないはずなのに、何だか自分自身がひどく卑怯な人間になってしまったように思える。

 寝室の机で頭を抱えていると、ふと扉が開く音が聞こえた。その音に慌てて手元の紙を隠すように、近くにあった書類を引っ張り寄せる。

 扉の方を見やると、湯浴みを終えたフィルバートが寝室に入ってくるのが視界に入った。机の前に座るニアを見ると、フィルバートは怪訝そうに眉を寄せた。


「まだ仕事をしているのか?」
「少し気になることがありまして」


 もごもごと言い訳を言うと、フィルバートはニアに近付いてきた。そのままニアの左肩に右手を置いて、机の上を覗き込んでくる。その仕草に、一瞬ヒヤッとした。


「ああ、バンケットの件か」


 書類を眺めて、フィルバートが呟く。その言葉に視線を落とすと、ちょうど手元に数週間後に開催するブロッサムバンケットの参加者名簿が見えた。

 書類に記載された『ブロッサムバンケット』という文字を見て、ふと七年前のことが脳裏を過ぎる。七年前のバンケットで、ダイアナがフィルバートに一目惚れするのを防ぐために奮闘した結果、なぜかニアがフィルバートの側近になることになったのだ。そして、今ではフィルバートと恋仲になっている。改めて、まったく想像もできない未来になっていることを実感しつつ、ニアは唇を開いた。


「ええ、はい、そうです。貴族の謁見順について、もう少し考えた方がいいかと思いまして」
「爵位と名前順でいいだろう」
「そういうわけにはいきませんよ」


 適当なことを言うフィルバートに、ニアは苦笑いを返した。

 貴族というのは呼ばれる順番一つで、まるで飴玉を取られた子供みたいに不貞腐れるのだ。だからといって前年度と同じ順番でいいかと言えば、一年間で勢力の変化もあるから微妙な調節が必要だ。たかだか順番程度で貴族同士で仲違いされても困るから、毎年ニアは頭を悩ます羽目になっていた。


「貴族の体裁やらプライドというやつは、いつまで経っても厄介なものだな」


 面倒臭そうにため息を漏らすと、フィルバートはニアの左耳に緩く触れてきた。指先で耳輪をなぞるられる感触に、首筋がかすかに戦慄く。


「いっそ貴族という階級を消してしまうか」
「え?」
「ついでに王権制度もなくしてしまえばいい」


 良いことを思い付いたとばかりに言うフィルバートの姿に、ニアは曖昧な笑みを浮かべた。


「そんなことをしたら、今度はガラガラポンどころか、国が真っ逆様にひっくり返りますよ」
「ひっくり返ったって構わない。そうすれば、俺もお前もただの男になって、何のしがらみもなく、どこへでも行けるようになる」


 夢見るようなことを呟くと、フィルバートはニアの左手を掴んで持ち上げた。その左薬指に、柔く唇を落としてくる。ロードナイトの誓いを思い出させるような口付けにかすかに皮膚が熱くなるのを感じながら、ニアはフィルバートを見上げた。


「それは素敵な提案ですが、俺は今のこの国が案外好きなんです。フィル様が必死に守ってきた国ですから」


 笑い声混じりに告げると、フィルバートはわずかに目を細めた。そのまま上半身を折って、ニアに顔を寄せてくる。目を閉じると、唇がそっと触れてきた。開いた唇の隙間から、湿ったフィルバートの吐息が潜り込んでくる。何度か角度を変えて優しく唇をついばまれた後、フィルバートの顔が離れていった。

 ニアがゆっくりと目を開くと、フィルバートは静かに囁いた。


「俺だけが守ってきたわけじゃない。ニア、お前もだ」


 その声に、ニアはわき上がってくる喜びに口元を緩ませた。

 フィルバートの指先が、ニアの短い髪をすくように撫でてくる。


「まだ髪が濡れてるな」
「ああ、すいません。乾かすのが面倒くさくって」


 ニアが怠惰なことを言うと、フィルバートは首にかけていたタオルを手に取った。それをニアの頭にかぶせてくる。


「拭いてやるから、前を向いていろ」
「いっ、いいですよっ」


 流石に、主君に髪を拭かれるのは申し訳なさすぎる。ニアが慌てて立ち上がろうとすると、グッと片手で肩を掴まれて押さえ込まれた。


「いいから、じっとしていろ」


 言い聞かせる声に、ニアは諦めて椅子に腰を下ろした。そのまま丁寧な手付きで、短い髪の毛をタオルで拭われる。その感触に、くすぐったいような、もどかしいような、何とも言えないふわふわとした感情で胸が満たされていく。

 顔を動かさずに目線だけ横に向けると、暗い窓ガラスにフィルバートと自分の姿が映っているのが見えた。フィルバートは、満たされたような表情でニアの髪を拭いている。

 愛しさを滲ませたその眼差しを見て、きっと大丈夫だと思った。大丈夫、この人は絶対に俺を裏切らない。たとえ聖女が現れても、俺たちは何も変わらないと。

 ぼんやりと窓ガラスを眺めていると、フィルバートがらしくないぐらい長閑(のどか)な声で呟いた。


「俺が王じゃなくなって、お前がロードナイトじゃなくなったら、二人でどこかに旅行にでも行くか」
「その頃には、俺もフィル様もよぼよぼのおじいさんになってませんか?」
「いいじゃないか。よぼよぼの爺さんになって旅をするのも」


 楽しそうだろう? と呟いて、フィルバートが咽喉の奥で笑い声を漏らす。

 少しだけ想像する。王やロードナイトという肩書きを下ろして、行きたい場所へと旅に出るよぼよぼな自分たちを。途端、悩んでいるのが馬鹿馬鹿しくなってくるぐらいの清々(すがすが)しさが込み上げてきて、自然と唇が緩んだ。


「そうですね。それは、すごく楽しみです」


 そう答えると、フィルバートがニアの顔を覗き込んで、また唇にキスを落としてきた。
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