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第五章

41 似たもの兄妹

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 数ヶ月前の記憶が細波のように押し寄せて、ゆっくりと引いていく。

 そうして、目の前に戻ってきたのは現実だ。ダイアナが首席を取ったという、ニアにとっては受け入れがたい、受け入れるしかない現実。

 ニアの身体に抱きついたまま、ダイアナがじっとこちらを見上げている。だが、不意にハッとしたように身体を離すと、上官に対するように胸に拳を押し当ててかしこまった声をあげる。


「浮ついた言動をしてしまい、大変申し訳ございませんでした。以後注意いたします」


 これも騎士団の序列に従った言葉なんだろう。騎士団に入団した以上、ここにいる間はニアはダイアナにとって兄ではなく上官だ。

 ピシッと背筋を伸ばすダイアナを見て、不意に堪えがたい寂寥が込み上げてくる。卵から育てていた小鳥が巣立っていくような切なさに突き動かされて、ニアはダイアナの身体を強く引き寄せていた。細い背中を両腕で掻き抱いて、その耳元でうめくように囁く。


「頼むから……命だけは失わないでくれ……」


 本音を言うと、怪我だってして欲しくない。擦り傷ひとつでもついて欲しくない。だけど、そんなことは叶わないと解っていた。だから、せめて命だけでも守って欲しい。そう願いながら、ニアはじわりと目に涙を滲ませた。

 ニアに抱き締められたまま、ダイアナが小さく息を吐き出す。


「ねぇ、認めてくれるでしょう?」


 問い掛けてくる声に、ニアは咽喉を小さく震わせて答えた。


「認める。認めるよ」


 情けない涙声を聞いた途端、ダイアナが、ふふっ、と軽やかな笑い声を漏らした。両腕をニアの背中に回して、ダイアナが嬉しげな声で言う。


「大丈夫よ、お兄さま。私はもう誰にも負けない。そのために、ここに来たんだから」


 そう呟くと、ダイアナはニアの背中をぽんぽんと優しく叩いた。その感触に、また涙ぐみそうになる。

 ぐずぐずと鼻を鳴らしていると、第二騎士団の団長がこちらへと近付いてくるのが見えた。


「おめでとう、ニア」


 目尻に皺を浮かべながら、朗らかに声をかけてくる。ニアの直属の上官にあたる、五十代近い男性だ。髪の毛に白いものは混ざっているが、未だに身体は筋骨隆々で、二の腕は丸太のように太くたくましい。部下からも慕われている、豪放磊落で明るい人だ。

 ニアはダイアナの身体をゆっくりと離して、団長へと向き合った。


「ガルド団長、ありがとうございます」
「息子だけでなく娘まで優秀とは、ライアン元団長もさぞ誇らしいだろう」


 ガルドの口から『ライアン』と父の名前が出てくる。そういえば、父が第二騎士団の団長についていた頃、ガルドは副団長の任についていたはずだ。だからこそ、ニアに対してもこれほどまでに親しみの篭もった対応をしてくれるのかもしれない。

 ニアの肩をバシバシと片手で叩きながら、ガルドが豪快な笑い声をあげる。


「そのうえとんでもない美人とは、騎士たちが浮き足立つのも仕方ないな」


 ははは、と笑うガルドの姿に、ニアは反射的に目を吊り上げた。よく見たら、いつの間にかガルドの後ろには騎士たちが勢ぞろいしている。どいつもこいつも、にまにまとやに下がった表情でダイアナを眺めていた。その表情を見て、ニアはスゥッと表情を消した。


「すいません、ガルド団長。俺のほうから皆に一言伝えても宜しいですか?」
「ああ、もちろん」


 ニアの冷め切った表情に気付いていないのか、ガルドがにこにこと笑顔のまま答える。ニアはガルドに一礼向けた後、周囲に群がる騎士たちを見渡して唇を開いた。


「先に宣言しておきます。万が一にでもうちの妹(ダイアナ)に手を出したら、その瞬間に首が飛ぶと思ってください」


 ニアの極端すぎる宣言に、ガルドの笑顔が一瞬でピキッと凍り付くのが見えた。周りにいる騎士たちも全員身体を硬直させて、ニアを凝視している。

 ガルドが頬を引き攣らせながら、半笑いな声で言う。


「え~っとぉ……首が飛ぶっていうのは、騎士団を退団させるという暗喩的なやつか?」
「いいえ、物理的に首を刎ね飛ばします」


 迷いなく答えると、ガルドは、あ~、と鈍い声を漏らして、片手でガシガシと頭を掻いた。しばらくニアとダイアナを交互に眺めた後、ガルドが後ろを振り返って騎士たちに告げる。


「お前たち、首が胴体からおさらばしたくなければ、しっかり心に刻んでおけ」


 ガルドの促す声に、青ざめた騎士たちがブンブンと大きく首を上下に振る。その姿を冷たく見据えていると、ダイアナがくすくすと小さな笑い声を漏らした。


「やだ、ニアお兄さまったら。そんな心配しなくても大丈夫よ。そういうときは『アレ』をぺちゃんこに踏み潰してやるから」
「こら、はしたないことを言うんじゃない」


 ニアが叱り付けると、ダイアナはおどけた様子で軽く舌を出した。だが、ダイアナのそんな可愛らしい仕草にも、騎士たちの顔色はどんどん悪くなっていくばかりだ。

 肩を縮こまらせる騎士たちを見渡すと、ニアは不意にくにゃりと眉を下げた。そのまま、団長や騎士たちに向かって深々と頭を下げる。


「まだ未熟なところもありますが、どうか妹をよろしくお願いします」


 打って変わってしおらしくなったニアの懇願を聞いて、騎士たちが狼狽したようにざわめく。それでも、ニアは頭を上げられなかった。

 騎士たちがざわめく中、ガルドの声が耳に届く。


「ニア、顔を上げなさい」


 まるで小さな子供に言い聞かせるような声音だ。ニアがゆっくりと顔を上げると、ガルドはまっすぐこちらを見つめた。


「ロードナイトの妹だからといって優遇はしない。女性だからといって差別もしない。他の騎士たちと同じく、厳しく公平に指導する。それで良いな?」
「もちろんです」


 ニアが大きくうなずくと、ガルドは今度はダイアナへ視線を向けた。ダイアナが背筋を伸ばして、軽く顎を上げる。


「初めての女性騎士だ。何かと大変なこともあると思うが……負けるんじゃないぞ」
「はい、負けません。絶対に、負けたままでは終わらせません」


 自分自身に言い聞かせるような口調で、ダイアナが答える。すると、ガルドは面白がるように目を細めた。


「似たもの兄妹だな」
「え?」


 ニアが不思議そうな声をあげると、ガルドはニアを指さして肩を揺らした。


「君もものすごい負けず嫌いだろう」


 笑い声混じりの指摘に、ニアはぱちりと目を瞬かせた後、かすかにはにかんで「はい」と答えた。







 入団試験後、ニアは城門前までダイアナを送った。

 迎えの馬車はすでに到着しており、乗り口の扉も開かれている。馬車の中で、不機嫌そうに壁にもたれて座っている人影を見た瞬間、ニアは思わず驚きの声をあげていた。


「ロキ様?」


 ニアの声に、ロキがじろりと苛立った眼差しを向けてくる。だが、その唇は一文字に結ばれたまま開かれない。

 久々に見るロキの姿だった。もしかしたら数年ぶりかもしれない。ロキはマルグリット幽閉後、ブラウン家に預けられたが、ニアがたまに実家に帰省しても部屋に閉じこもって顔を見せてくれることはなかったのだ。

 十五歳になったロキは、以前とはまったく雰囲気が異なっていた。身長もぐんと伸びて、ダイアナとほぼ同じぐらいの目線になっている。生意気そうな顔立ちは、少し粗暴さを滲ませた険のあるものに変わっていた。以前はお喋りだったのに、今はムスッとした表情で一言も喋ろうとしない。

 ニアの手を借りて馬車に乗り込みながら、ダイアナがちらとロキを見やって言う。


「あら、迎えに来てくれたの?」
「エヴァが迎えに行ってくれって言うから、仕方なくだ」


 エヴァというのは、ニアとダイアナの母の名前だ。

 苛立った口調でロキが答えると、ダイアナは、ふぅん、と素っ気ない相づちを漏らした。


「相変わらずお母さまの言うことだけは聞くんだから」
「うるせぇ」


 ダイアナの軽口に、ロキが威嚇する犬のように鼻梁に皺を寄せる。

 馬車の中を覗き込むと、ニアはロキにそっと声をかけた。


「ロキ様、お久しぶりです」


 そう話しかけても、ロキはそっぽを向いて答えようとしない。自分から母親を奪ったニアを、まだ許せないのだろう。

 ニアがわずかに眉尻を下げて笑みを浮かべると、向かい側の椅子に腰を下ろしたダイアナがベシッとロキの太腿を片手で叩いた。まるで犬でも叱り付けるような叩き方に、ニアは思わず目を剥いた。母親が罪人として幽閉されたとしても、ロキは王の血を引く王族の一員だ。そんな相手を気安く叩くなんて。

 ダイアナに叩かれたロキが、鋭い声をあげる。


「いってぇ!」
「ニアお兄さまが話しかけてるんだから、ちゃんと答えなさいよ」


 ダイアナが低い声で言い放つ。腹立たしそうな表情でダイアナを睨み付けると、ロキはつっけんどんな口調で返した。


「うるっせぇな、口出しすんなよババア」


 ロキが幼稚な悪態を漏らした瞬間、ダイアナはにっこりと怖いぐらい完璧な笑顔を浮かべた。その貼り付いたような笑みに、ぞわりと背筋に悪寒が走る。恐怖を感じているのはロキも同じなのか、片頬を小さく戦慄かせていた。

 ダイアナが美しい微笑みを浮かべたまま、ロキに声をかける。


「帰ったら、腕立て伏せ二百回、腹筋三百回、スクワット三百回、それから朝まで二十キロの荷物を担いで夜行訓練ね」
「はぁっ!?」
「明日は、棒術の訓練を一日中するわよ」
「ふっっざけんなよ、クソババアッ!」
「荷物を二十キロから三十キロに変更で。あと弓の訓練も追加ね」


 にこにこと笑顔を浮かべたまま、何とも惨いことを言う。ニアですら一瞬震えが走るほどの訓練量だ。

 ロキが泣き出す直前みたいに、顔をくしゃくしゃに歪める。その表情を見据えたまま、ダイアナが緩く首を傾げて言う。


「ニアお兄さまに、ご挨拶は?」


 促すようにダイアナが顎をしゃくると、ロキはしょぼくれた犬みたいにうなだれた。そのまま、ぼそぼそと小さな声で呟く。


「……こん……ちは……」
「声が小さい」


 ダイアナが指摘すると、ロキはやけくそになったように叫んだ。


「こんにちはぁ!!」


 がなり立てるような声に目を丸くしつつ、唇を開く。


「こ、こんにちは……」


 ぽつりと返事を漏らして、まじまじとロキを見つめる。ロキは相変わらず泣き出しそうな表情を浮かべたままだ。その顔は、幼い頃から変わっていないように見える。そう思うと、口元にかすかに笑みが滲んだ。


「ロキ様、お元気にしていますか? 我が家で何か不便なことはありませんか?」


 そう問い掛けると、またロキは不貞腐れたように口をつぐんだ。だが、ダイアナが冷たく見据えると、しぶしぶ唇を開いた。


「元気、だけど……」
「だけど?」
「おっ、お前の妹をどうにかしろよぉ! 毎朝毎朝、俺を無理やり起こして鍛錬場に引き摺って行くんだぞっ!」


 ロキが糾弾するようにダイアナを人差し指でさす。だが、ダイアナは涼しい表情で素知らぬフリをしている。


「朝から晩までトレーニングさせて、人のことボコボコにしやがって!」
「言ったでしょう? 私より強くなったらトレーニングは終わりにしてあげるって」


 お前が弱いのが悪い、と言わんばかりの口調だった。ダイアナの言葉に、ロキがじわりと目を潤ませる。


「まっ、毎日身体がギシギシ痛ぇし、手もボロボロだし……」


 半ば泣き言のように漏らして、ロキが自身の手を見下ろす。その手を見やると、確かに掌の皮が剥けてボロボロになっており、ひび割れた指からは薄っすらと血が滲んでいた。

 ニアが思わずその手を掴むと、ロキの肩が小さく震えた。


「ああ、確かにこれは痛いですね」


 ぽつりと呟きながら、上着の内ポケットから白い貝殻を取り出す。貝殻を開くと、中にはクリーム状の傷薬が入っていた。指先に傷薬を取って、そっとロキの手に塗っていく。

 途端、ロキが唇を引き攣らせるのが見えた。その頬がじわじわと朱色を滲ませていく。


「傷によく効きますから、今度から怪我をしたらこちらを塗ってくださいね。なくなったら訪問医にお伝え頂ければ、新しいものが貰えますから」


 そう言いながら、傷薬を塗り終えたロキの手に貝殻を置く。それからニアはダイアナへと視線を向けた。


「ダイアナ、鍛えるのは止めないが、怪我にはちゃんと気を配ってあげなさい」
「はぁい」
「それにロキ様は成長期なんだから、負荷をかけ過ぎると逆に骨や関節を痛める。だから、担がせる荷物は十キロまでだ」


 ニアの言葉に、ロキが露骨にほっとした表情を浮かべる。だが、続く言葉を聞くと、ロキは再び顔を強張らせた。


「その代わり、自重トレーニングを増やせばいい。腕立て伏せと腹筋とスクワットを各百回ずつ追加したら丁度いいだろう」


 ニアがそう言うと、ダイアナは同意を示すようににっこりと微笑んだ。ロキは愕然とした表情で、ニアを見つめている。唇をわなわなと震わせるロキを見返すと、ニアは軽く首を傾げて言った。


「健やかな心は、健やかな肉体が作り上げます。どうか頑張ってください」


 そう言って、片腕でグッとガッツポーズを作る。唖然としたロキの向かい側で、ダイアナがニアを真似るように満面の笑みでガッツポーズを作るのが見えた。

 そのままダイアナは口早に別れの挨拶を述べると、馬車の扉を閉めた。走り出した馬車の中から、ロキの引き攣った声が響き渡る。


「こっ、この筋肉バカ兄妹ッ!」


 悲鳴じみた叫び声の後、ダイアナの高笑いが聞こえてきた。
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