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第五章

40 安全な鳥籠

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 昼食は、庭園にある温室内に用意された。冬に近付いてきて少しずつ気温は下がってきたが、日の光が射し込むガラス張りの温室内はぽかぽかと温かい。

 温室に入ると、柔らかな花の匂いが鼻腔をくすぐってきた。見渡すと、白い花が一面に咲いているのが見える。小さめの花弁が可愛らしい、素朴な雰囲気の花だ。

 先に来ていたのか、フィルバートとニアの姿に気付いたダイアナが立ち上がる。ダイアナは珍しくパンツスタイルの服装だった。真っ白なズボンに、ネイビーブルーのジャケットを着ている。首元には金色の細いリボンを蝶結びにしており、長い髪の毛は一本のおさげに結っていた。

 まるで男装の麗人のようなダイアナの格好を見て、ニアは思わず目を丸くした。

 そして、ダイアナの前には、大きな丸テーブルと椅子が三脚用意されていた。テーブルの上には、昼食兼軽食らしきサンドイッチや焼き菓子が並べられている。

 近付くと、ダイアナは胸に手を当ててフィルバートへと頭を垂れた。その仕草も令嬢の挨拶ではなく、まるで騎士のような仕草だと思う。


「王子殿下に、ダイアナ・ブラウンがご挨拶させて頂きます」
「形式ばった挨拶は不要だ」


 ダイアナの言葉に、即座にフィルバートが返す。そのままフィルバートは椅子に腰掛けると、目線をニアとダイアナへと向けた。着席を促す視線に、ニアとダイアナもすぐさま椅子に腰を下ろす。


「話は食事をしながらでも構わないか」
「もちろんです」


 フィルバートの問い掛けに、ダイアナが微笑みながら答える。

 フィルバートはサンドイッチをひとつ掴むと、そのままそれをニアへと差し出してきた。ハムと卵がたっぷりと挟まったサンドイッチだ。


「お前はハムと卵が好きだろう」


 微笑ましそうに囁くフィルバートの姿に、妙な恥ずかしさが込み上げてくる。わずかに紅潮しながら、ニアは「はい、好きです」と弱々しい声で答えた。

 そのままサンドイッチを受け取って口を開いたのと同時に、今度は前方から別のサンドイッチがずいっと突き出された。真っ赤な木苺と生クリームが挟まったデザートサンドイッチだ。


「ニアお兄さまは、木苺も大好きよね。いつも家に帰ったときにはボウルいっぱい食べてるもの」


 ダイアナの言葉に、ニアは口を開いたまま固まった。なぜこの瞬間にニアの好物などというどうでもいい情報を差し込んできた、と言わんばかりにダイアナを凝視する。だが、ダイアナはにこにこと微笑むだけだ。

 フィルバートが横目でニアを眺めて、訊ねてくる。


「お前は木苺が好きなのか」


 なんだか浮気を問い詰めるような、低い声音だった。慌てて半開きの口を閉じてから、上擦った声で返す。


「は、はい、好きです」
「初耳だな」


 そう呟くと、フィルバートは眉間に皺を寄せた。まるでニアが、国を揺るがす重大事項を隠していたかのような反応だ。

 不機嫌そうに両腕を組むフィルバートを見て、ダイアナがほくそ笑むように口角を吊り上げる。


「あら、ご存知ありませんでしたか? ニアお兄さまは、甘酸っぱい果実が大好きなんですよ」


 なんだかマウントを取るような物言いだ。ふふふ、と口元を押さえて笑うダイアナを、フィルバートが不愉快そうに目を細めて睨み付けている。


「ああ、そうか。それなら、ニアは悩んでいるときに左耳を触る癖があることは知っているか?」


 負けじとばかりにフィルバートが言い返す。その言葉に、ニアは目を剥いた。確かに執務中などに悩んだとき、左耳をいじる癖があることは自分でも自覚していた。だが、それをフィルバートに気付かれているとは思ってもいなかった。

 フィルバートの言葉に、ダイアナがムッとしたように唇を引き結ぶ。だが、すぐさま挑発的な笑みを浮かべるとこう言った。


「では、お兄さまの頭の左後ろだけ少し癖毛で、寝起きはピョンとウサギの尻尾みたいに跳ねていることもご存知ですか?」
「当たり前だろう。毎日同じベッドで眠っているのだから。ついでに言えば、ニアの右内腿の付け根にホクロがあるのも――」
「やっ、やめろ、くださいっ!」


 狼狽のあまり『やめろ』という声に慌てて敬語を付けたせいで、妙ちきりんな言葉になってしまった。ぶわっと顔に熱が溜まるのを感じながら、ニアはもつれた声をあげた。


「へ、変な張り合いをしないでください」
「先に喧嘩を売ってきたのはこいつだ」


 フィルバートが腹立たしそうに顎でダイアナを示す。すると、ダイアナは手のひら出口元を押さえたまま含み笑いを漏らした。


「あら、ただの世間話ですのに、王子殿下はずいぶんと心が狭くていらっしゃるのですね」
「あまり巫山戯(ふざけ)たことを言うな。あの話をなかったことにされたいか?」


 フィルバートが薄笑いを浮かべると、ダイアナは途端口をつぐんだ。

 そのフィルバートの言葉に、ニアは大きく目を瞬かせた。今の発言から考えると、ダイアナが話そうとしている内容をフィルバートはすでに把握しているということか。兄である自分ではなく、フィルバートの方がダイアナのことを知っているという事実に、かすかに胸がモヤつく。

 ダイアナが、黙ったままティースプーンで紅茶をくるくるとかき回し始める。まるで自身の不安を誤魔化すような仕草だ。

 ニアは手に持っていたサンドイッチを皿に置くと、優しい声で訊ねた。


「話って何だ? 何か悩んでいることでもあるのか?」


 訊ねると、紅茶をかき回していたダイアナの手がピタリと止まった。ダイアナが伏せていた視線をゆっくりと上げて、ニアをまっすぐ見つめてくる。その真剣な眼差しに、ニアは一瞬息を呑んだ。


「ニアお兄さまは、私の味方でいてくれるのよね?」


 確かめるように問い掛けてくる声に、ニアは当然とばかりに深くうなずいた。


「もちろん、味方でいるよ」
「私がどんな道を選んでも、それは変わらない?」
「当たり前だ」


 即座に答えると、ダイアナはほんの少し安堵したようにふっと息を吐いた。だが、すぐさま唇をキツく引き結んで、思い詰めたように眉を寄せる。そうして、短い沈黙の後、ダイアナはこう言った。


「私は、騎士団に入るわ」


 一瞬、ダイアナが言った言葉の意味が解らなかった。ぽかんと口を開いたまま、ニアはしばらく唖然とした。


「何を言っているんだ」


 自分の口から、空気が抜けるようなか細い声が漏れた。その自分の声すら、どこか遠くから聞こえてきたみたいに現実味がない。

 ダイアナは痛みに耐えるように目元を歪めてから、静かな声をあげた。


「私はもうすぐ十八歳になる。だから、騎士団の入団試験を受けられるわ」
「馬鹿を言うな。女性が騎士団に入るなんて聞いたことがない」


 とっさに否定的な言葉が漏れる。不安や焦燥といった感情がざわざわと胸から一斉に湧き出してきて、ひどく落ち着かなかった。まるで小さな虫が心臓の上を這い回っているような薄気味悪さが全身に広がっていく。

 だが、ニアが次の言葉を吐く前に、先手を打つようにダイアナが言い放った。


「次年度から、性別関係なく騎士団に入団できるようになるわ。そうフィルバート様が約束してくださったから」


 その言葉を聞いた瞬間、ニアはバッとフィルバートを見つめた。信じられないものを見る眼差しで、フィルバートを凝視する。すると、フィルバートは紅茶を一口飲みながら緩く肩をすくめた。


「何事も、状況に合わせてルールは変わっていくものだ」


 平然と呟く姿が、今はひどく憎々しかった。フィルバートからすれば他人かもしれないが、ニアにとってダイアナは命よりも大切な妹だ。そんな妹を、危険だと分かり切っている道に進ませるわけにはいかなかった。


「駄目だ。俺は絶対に認めない」


 強い口調で吐き捨てると、ダイアナは一瞬傷付いた表情を浮かべた。だが、すぐさま怒りの眼差しでニアを睨み付けてくる。


「どうして? 私がどんな道を選んでも味方だって言ったのは嘘だったの?」
「嘘じゃない。嘘じゃないが……それでも駄目だ」


 うめくような声で答えて、ニアは片手で自身の額を押さえた。目を硬く閉じたまま、訥々(とつとつ)と続ける。


「騎士になったら、有事の際には一番に出陣しなくちゃならない。反乱者や盗賊の討伐もある。怪我をするかもしれないし、死ぬ可能性だってあるんだぞ」


 前の人生では、何人もの騎士が目の前で死ぬのを見た。剣で斬り裂かれ、槍で突き刺され、泣き叫びながら死んでいく仲間たちの姿を思い出して、身震いしそうになる。ダイアナがそんな惨い目にあうのだけは、絶対に耐えられない。


「ニアお兄さまだってロードナイトになったときから、ずっと危険に晒(さら)され続けてきたじゃない。それなのに、私だけは駄目なんておかしいわ。私だって、ずっとお兄さまと一緒に訓練して来た。私は、もう弱くない」
「解ってる。お前は強い。本当に、強くなった」


 そう呟くと、ニアは額から手を外して、ダイアナを見つめた。ダイアナは今にも泣き出しそうな表情をして、ニアを睨んでいる。その憤怒と悲しみが混ざり合ったような瞳を見つめたまま、ニアは静かな声で続けた。


「だけど、どれだけ強くても死ぬときは死ぬ。俺はただ運がよかっただけだ。運よく、ここまで生き残ってきた」


 だが、お前もそうとは限らない。そう訴えるように見つめると、ダイアナは悔しそうに下唇を噛み締めた。その唇から、かすかに震える声が漏れる。


「ニアお兄さまは、私を認めてくれてないのね」
「違う。ただ、自分から危険な道に進んで欲しくないだけだ」
「それは、認めてないのと同じよ」


 鈍く吐き捨てると、ダイアナは潤んだ瞳でニアを強く見つめてきた。瞬きもせず、ニアをまっすぐ見据えている。


「それじゃあ、私は一生家に閉じ篭もっていればいいの? 無難な男と結婚して、子供を産んで、時々パーティーやお茶会に参加してどうでもいいくだらない話をして、そうやって私は穏やかに普通の人生を終えればいいの? それがお兄さまの望み?」


 つらつらと吐き出される言葉に、ニアはとっさに言葉に詰まった。咽喉を小さく上下させて、ダイアナが言う。


「そんなのは、私の人生じゃない」
「ダイアナ」
「そんなの『お兄さまが望んだ』私の人生だわ」


 切りつけるように突きつけられた言葉に、ニアは呼吸を止めた。ダイアナの言葉は正しい。たとえ家族といえども、誰かの人生を思い通りにすることは許されない。それでも、危険な旅路へと向かう妹を笑って見送れるほど、自分は強くはなかった。

 ニアが言葉に詰まっていると、ふと隣からフィルバートの声が聞こえた。


「ニア、お前の妹はもう大人だ。もう自分の道を決めている。それを止めてやるな」


 諭すようなその口調に不意に憎しみがわき上がって、ニアはフィルバートを横目で睨み付けた。だが、フィルバートはただ穏やかな眼差しでニアを見つめている。頑是(がんぜ)ない子供をなだめるような眼差しに、憤怒でパンパンだった体内からぷしゅぷしゅと気が抜けていく。

 ニアが途方に暮れたような表情を浮かべていると、フィルバートがそっと肩に手を置いてきた。


「もう、安全な鳥籠から出してやれ」


 そう促す声に、ニアは思わず両手で目元を覆った。両肘をテーブルに付いたまま、短い前髪をぐしゃぐしゃに握り込んで、鈍くうめき声を漏らす。

 頭の中がめちゃくちゃだ。こんなはずじゃなかった。ダイアナを鍛えたのは、ただ強くまっすぐな心を持って欲しいからだった。前の人生のように我が侭な子になって、処刑されるようなことになって欲しくなかったから――それなのに、こんなのは予想外にも程がある。まさかダイアナが騎士になるなんて……。

 後悔と懺悔めいた感情が、ごちゃまぜになって押し寄せてくる。

 ニアが頭を抱えたまま黙っていると、ふと膝元に触れる手のひらを感じた。薄っすらと目を開くと、ダイアナの細い手が見えた。その指の側面には、令嬢らしかぬ硬く潰れた剣ダコが見える。毎日たゆまず剣を握り続けてきた剣士の手だ。

 ニアの隣に片膝をついたまま、ダイアナが囁くように言う。


「ニアお兄さま、私を信じて」


 乞いながらも、強い意志を感じさせる声音だった。その声を聞いて、もうダイアナは自分の道を進むことを決意しているのだと解った。ニアが何を言おうと、もうダイアナの心が揺らぐことはないのだと。

 それが解った瞬間、眼球が潤んだ。みっともなく溢れてきそうになる涙を拳で拭って、ニアは低い声で告げた。


「首席なら、認める」


 ニアの言葉に、ダイアナが軽く目を見開く。その目をキツく見据えたまま、ニアはうなり声混じりに続けた。


「騎士団の入団試験で、首席が取れなかったら諦めろ。圧倒的な強さを見せられないなら、所詮は女だと馬鹿にされてすぐに潰される。俺を認めさせたいのなら、自分の力で証明してみろ」


 突き放すように言うと、ダイアナは途端ピンと背筋を伸ばした。地面に片膝をついたまま、右拳を自身の胸にドンッと叩き付ける。


「解りました。必ず、認めさせてみせます」


 わざわざ格式張った口調で言うのは、騎士団の序列にならったからだろうか。他人行儀なダイアナの言葉にかすかな切なさを感じながらも、ニアは表情を変えずにうなずいた。

 ダイアナはスッと立ち上がると、フィルバートとニアに礼を向けて、すぐさま立ち去ってしまった。硬く握り締められた拳から想像するに、これから入団試験のための訓練を即時行うのだろう。急いた足取りからは、一分一秒も無駄にできないという焦りを感じた。

 ダイアナが温室から出て行くと、ニアは震える息を大きく吐き出した。途端、フィルバートがいたわるようにニアの背中を撫でてくる。その優しい手を感じながらも、ニアは涙目でフィルバートを睨み付けた。


「どうして、言ってくれなかったんですか」


 なぜダイアナが騎士団に入ろうとしていることを教えてくれなかったのか、と恨みがましい声を漏らす。フィルバートはまた小さく肩をすくめると、ため息混じりに呟いた。


「先に言っていたら、お前は絶対に反対しただろう」
「俺が反対すると解っていて、ダイアナに手を貸したんですか」
「ああ、お前が後悔しないようにな」


 その言葉に、ニアは怪訝に顔を顰めた。ニアの目を見つめたまま、フィルバートが穏やかな声で続ける。


「妹の未来を黙って握り潰したら、お前は一生後悔するだろう」


 まるでニアの心を見透かしたような言葉に、心臓がズキリと痛む。確かにフィルバートの言うとおりだ。ダイアナの道を閉ざしていれば、その罪悪感に一生ニアはさい悩まされただろう。だが、だからといって危険な道に進むことを心から応援できるはずもなかった。

 また、じわりと情けなく涙が滲んでくる。掌の付け根で涙を拭おうとした瞬間、その手をフィルバートに掴まれた。そのままもう片方の腕を肩に回されて、身体を引き寄せられる。


「あまり不安がるな。お前の妹は、お前が思うよりもずっと、したたかでたくましい」


 安心させるように、背中を軽く叩かれる。その仕草に、余計に目が潤んだ。涙が伝う頬をフィルバートの胸に押し付けながら、ニアは小さな声で呟いた。


「俺はただ……ダイアナに幸せになって欲しいだけなんです」


 苦しい思いも、痛い思いもして欲しくない。毎日ただ心穏やかに、笑って過ごして欲しい。だが、それもダイアナを鳥籠に閉じ込めるだけの身勝手な願望なのだろうか。

 ほろほろと涙を零していると、フィルバートが指先でニアの頬を拭いながら囁いた。


「お前の妹も、きっとお前に対して同じことを思っている。だからこそ、自らも戦う道を選んだんだ」


 そう告げる声に、ひっくと咽喉が小さくしゃくり上げる。背中を優しく撫でる掌を感じながら、ニアは声もなく涙を流し続けた。
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