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第四章

31 本当の気持ち

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 十分も経たずに東屋の準備が整ったようだった。中庭に向かうと、すでに東屋にはテーブルと椅子が二脚用意されていた。白いクロスが広げられた丸テーブルの上には、今しがた贈られたばかりの青薔薇が花瓶に活けられている。花瓶を挟んで、これまたフィルバートからの贈り物の焼き菓子や紅茶が並べられていた。気遣いなのか、テーブルのセッティングが終わると、蜘蛛の子を散らすように使用人たちが屋敷へと戻っていく。

 ニアとフィルバートは、黙ったまま椅子に腰を下ろした。午後の日射しは柔らかく、中庭の草花を長閑(のどか)に照らしている。ゆるやかな風が、草葉をサワサワと揺らす音が聞こえた。なんだか、ここだけ時が止まったような穏やかな時間が流れているような気すらする。

 ぼんやりと庭を眺めていると、フィルバートの声が聞こえた。


「すまなかった」


 その声に視線を向けた途端、ニアはギョッと目を見開いた。フィルバートが、机に額が付きそうなほど深々と頭を下げている。思わず椅子から腰を浮かせて、ニアは上擦った声をあげた。


「や、やめてくださいっ」


 動揺のあまり、語尾が震えそうになる。だが、フィルバートは顔を上げようとはしない。


「俺がお前にしたことは心底卑劣なことだ。謝って済むことではないと解っている。何をしても許されることではないと。だが、それでも俺はお前を失いたくない。どうすれば、俺を許してくれる。どうすれば、お前は俺の傍にいてくれる」


 淡々と、だが切実な声音で紡がれる言葉に、ニアはどうしてだか泣きそうになった。


「謝らないでください。俺は、ただの従者です。従者に、主君が謝罪する必要なんてありません」


 掠れた声でそう訴えて、フィルバートの頭を上げさせようと右手を伸ばす。だが、その手がフィルバートの肩に触れる前に、パシッと掴まれた。ニアの右手を握り締めて、フィルバートがわずかにだけ顔を上げる。


「だが、お前を傷付けた」


 その言葉に、ニアは咽喉を大きく上下させた。だが、無理やり口元に笑みを浮かべて首を左右に振る。


「驚きはしましたが、俺は傷付いていません。別に女性のように妊娠することもありませんし、ただの性欲処理の相手として選ばれたところで、何も傷付くようなことは――」
「待て」


 ぺらぺらと喋っていた言葉が、鋭い一声で遮られる。ニアを強く見据えたまま、フィルバートがわずかに怒りが滲んだ表情を浮かべていた。


「何だ、その性欲処理の相手というのは」
「ですから、手近なところにちょうど俺がいたから……」
「待て、やめろ。それ以上、何も言うな」


 フィルバートは、右手で軽く額を押さえた。だが、その左手は相変わらずニアの手を掴んだまま離さない。

 うつむいたフィルバートの奥歯が、硬く噛み締められているのが強張った頬肉から解る。深い怒りを感じているらしいフィルバートの様子に、ニアは身を硬くした。だが、ニアの緊張が伝わったのか、フィルバートが顔を上げて言い訳するような声をあげた。


「違う、お前に怒っているんじゃない。自分に腹を立てているだけだ」


 そう釈明されて、ニアはわずかに安堵の息を漏らした。椅子に座るように視線で促されて、そろりと腰を下ろす。

 フィルバートはニアの右手を掴んだまま、しばらく考え込むようにうつむいていた。沈黙の間も、フィルバートの親指がニアの手の甲をゆるゆると撫でてくるから、妙に落ち着かない気分になる。

 長い静寂の後、フィルバートがゆっくりと顔を上げて、ニアを見つめてきた。その真剣の眼差しに、ニアは息を呑んだ。


「お前の目は美しい」


 唐突に告げられた言葉に、ニアは大きく目を見開いた。


「お前の目が好きだ。淡い薄緑色の瞳はペリドットのようで、光に当たると朝露に濡れた新緑のように瑞々しく輝く。その輝きを見るのが、俺は堪らなく心地よい」


 歯の浮くような台詞が、次々とフィルバートの口から出てくる。その言葉に、ニアはカッと皮膚が熱くなるのを感じた。唇をかすかに震わせて、上擦った声を漏らす。


「いきなり何をおっしゃっているんですか」
「目だけではない。お前の手も好きだ。豆が何度も潰れても、諦めることなく鍛錬をつみ続けたことがよく判る不屈の手だ」


 言いながら、フィルバートの指がゆっくりとニアの指に絡まってくる。まるで恋人同士のように絡められた指を見て、ニアはくしゃくしゃに顔を歪めた。指先が火が付いたみたいに熱くなって、小さく戦慄く。


「何よりも俺は、お前の真っ直ぐで、偽ることを知らない純粋な心根が愛しくてたまらない。本当は怖がりのくせに、敵を前にしても決して引かず、立ち向かい続けるお前が、俺の目にはひどく眩しく映る。最初に出会ったときから、ずっと、ずっとそう思っていた」


 もう全身で赤くない場所なんてないんじゃないかと思った。それぐらい身体中が熱くて堪らなかった。ニアが泣き出しそうな顔のまま見つめていると、フィルバートはかすかに困ったように微笑んだ。


「お前に会う前の俺は、何もかも諦めていた。俺がどう動こうが、この世界は何も変わらない。富んだ者が餓えた者から奪い取り、正しき者が野垂れ死に、領地を欲して国同士が罪なき民衆を殺し合う。そんな不条理な世界で必死に何かを変えようとしたところで、何の意味もないのだと」


 ニアの手を握るフィルバートの掌に、かすかに力が込められる。フィルバートは視線を伏せたまま、続けた。


「俺は空っぽな人間だった。今も、まだ空っぽかもしれない。だが、お前と一緒にいるときだけは、自分が空っぽでないと思える。この残酷な世界に立ち向かいたいと、力を尽くして必死に生きてみたいと思える」


 そう訥々(とつとつ)と口に出した後、フィルバートは視線を上げた。深い青色をした瞳が、まっすぐニアを見つめていた。


「俺は、お前を愛している」


 はっきりと告げられた言葉に、ニアは呼吸を止めた。目を見開いたまま、フィルバートを凝視する。


「お前に、優しくしたい。お前に辛い思いをさせたくない。本当は、お前を手放してやることが最善だと解っている。俺の傍にいない方が、お前はきっと幸せになれるのだと――だが、できない。お前が他の誰かのものになるなど、死んでも耐えられない。どうしても、お前を手放せない」


 まるで心の澱(おり)を吐き出すような、苦しげな口調だった。そう告げた後、フィルバートはうめくような声音で呟いた。


「どうか、許してくれ……」


 弱々しい哀願の声に、心臓が射抜かれたように震えた。その声音で、本気なのだと解った。フィルバートの言葉は本物で、本当にニアのことを想っているのだと。


「どうして……」


 自分の唇から無意識に声が漏れた。

 どうして、そんなわけがない。フィルバートは、三年後に現れる聖女と恋に落ちるはずだ。自分はただの一貴族の令息に過ぎず、彼の手によって処刑されるだけの脇役みたいな存在だった。それなのに今目の前にいる彼は、ニアを愛していると、手放せないと許しを乞うている。こんなのは前の人生とは真逆すぎる。

 唇を震わせながら、ニアはか細い声を漏らした。


「俺は、男です」
「解っている」
「俺では、世継ぎが産めません」
「解っている。俺は、お前以外に誰かを娶るつもりもない。跡継ぎに関しては、王族の中から養子をとるなりするつもりだ」


 滑らかに吐き出される返答に、とっさに怯えが込み上げた。フィルバートはそこまで覚悟を決めているのかと思うと、恐ろしくて堪らなくなる。

 思わずフィルバートに掴まれた手を引こうとする。だが、離さないというように逆にキツく握り直された。強く力の込められたフィルバートの手を見て、ニアは泣き出しそうに顔を歪めた。


「誰からも認められるわけがない」
「必ず認めさせてみせる」
「無理です。貴方は、全然何も、解ってない」


 途切れ途切れながらも、噛みつくような口調で返す。かすかに潤んだ目尻が、苛立ちで吊り上がった。


「俺のような男が愛人だと噂が立っているだけでも問題なのに、妃を娶らなければ貴方は『男などにうつつを抜かして、王の責務を放棄した愚かな王』として名を残すことになる。貴方は素晴らしい賢王になれるのに、愚王として歴史に名を残すなんて、俺には絶対に耐えられない」


 フィルバートが聖女と結ばれれば、誰からも祝福され、きっと賢王として歴史に記録される。それなのに自分のような者を選んで、周囲から嘲笑われる人生を歩むなんて死んでも耐えられなかった。

 ニアの悲痛な訴えに、フィルバートは大きく目を瞬かせた後、困ったような笑みを浮かべた。


「お前は自分のことではなく、俺が周りからどう思われるかを心配しているのか」


 ぽつりと呟いた後、フィルバートは長く息を吐き出した。それから、なだめるようにニアの手をもう片方の手で柔らかく包み込む。


「俺は周囲からどう思われようとも、たとえすべてを失っても、お前さえ残っていればいい。お前が傍にいてくれるのなら、どんなことがあろうと俺の人生は報われる」


 そんなのは馬鹿者の詭弁だ。たとえフィルバートがそう信じ込んだとしても、ニアは彼の人生をめちゃくちゃにした罪悪感を一生抱え続けることになる。

 ニアが奥歯を噛み締めていると、不意にフィルバートの口角が薄っすらと吊り上がった。


「それに言っただろう。必ず認めさせてみせると」
「そんなのは無理です」
「無理ではない。お前も知っているだろう。俺は、用意周到に外堀を埋めていくのが得意だと」


 フィルバートが、隠微な笑い声に咽喉を震わせる。その酷薄にも見える愉しげな笑みに、一瞬背筋に寒気が走った。

 ニアが押し黙っていると、フィルバートは殊更優しげな声で続けた。


「ニア、周りのことは何も心配するな。俺はただ、お前の気持ちだけを知りたい。お前の本当の気持ちを」


 祈るようなその声音に、ニアは呼吸を止めた。


「俺が憎いのなら、はっきり言って構わない。もしお前が俺のロードナイトを辞めたいというのなら、それも許す。だから、どうか本当のことを言ってくれ」


 フィルバートの切なげな声に、ニアはますます顔を苦しげに歪めた。


 自分の本当の気持ちなんて、解りたくない。ずっと目を逸らしたままでいたかった。どうせあと三年後には、フィルバートは聖女を愛することになるのだから――だから、いつか惨めに捨てられるだけの気持ちなんか、死んでも口に出すべきではない。

 嫌いだ、と言えばいい。貴方のロードナイトを辞めたいと。俺は、ただ平凡な生活が送れればよかったはずだ。家族が幸せに生きてくれるのなら、それだけでいい。だから、フィルバートから離れて、ただの名もなき一貴族に戻るのが正しい。それなのに、どうして唇が動かない。
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