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第四章

30 贈り物

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 それから数日間、ニアは実家でのんびりと過ごした。家族とともに穏やかな時間を過ごしていると、あの戦勝パーティーの夜の記憶がどこか夢のようにも思えた。フィルバートに身体を求められたのも、何かの記憶違いだったのではないだろうかと。

 だが、数日経っても消えない鬱血痕が、あれは夢ではないとニアに何度も知らしめた。身体中に散らされた赤い痕を見る度に、フィルバートの苛烈さと執着心を思い知らされて、妙に胸が苦しいような堪らない気持ちになる。

 フィルバートは一体どういうつもりなのか。なぜ、自分などを閨の相手に選んだのか。性欲処理であれば、他にいくらでも相手はいるだろうに。ただ手近にいて、安全な相手として自分が選ばれただけなのか……。

 何度考えても、ぐるぐると同じ問い掛けを繰り返すばかりで答えはでなかった。流石に知恵熱のようなものも出始めたので、ニアは考えることをやめて、今はただ平和な時間を享受することにした。

 実家に帰った五日後には、休暇を取って今は子育てに専念しているジーナが子供とともに顔を見せに来てくれた。ニアの顔を見るなり「ご立派になられて」と泣き出したジーナを慰めたり、やんちゃ盛りな三歳男児の相手をしているうちにあっという間に時間は過ぎていった。

 異変が起きたのは、ジーナや子供とともに昼食を取った少し後だ。中庭で子供とともに駆けっこをして遊んでいると、不意に屋敷の中から騒がしい声が聞こえ始めた。何だろうと思っていると、屋敷の中から飛び出してきた若い使用人の男がニアに向かって叫んだ。


「ニア様、大変です! 屋敷がパンクします!」


 使用人の泣き出しそうな声に、ニアは思わず目を剥いた。屋敷がパンクするとは一体どういう意味なのか。だが、考えるより前に身体が動いた。ジーナと子供に口早に詫びを伝えると、すぐさま屋敷の中に駆け込む。正面玄関につくと、ニアは目の前に広がった光景に呆然と口を開いた。

 決して狭くはないはずの正面玄関の間(ま)に、鮮やかな青薔薇や綺麗にラッピングされた箱がギッシリと敷き詰められている。今あるものだけではなく、更に追加の荷物が使用人たち総出で次々と運び込まれているのが見えた。このままでは確かに屋敷中を埋め尽くしてしまいそうだ。


「なんだこれは」


 噎せ返るような薔薇の匂いを感じながら、唇から唖然とした声を漏らす。ニアが立ち尽くしていると、不意にダイアナのはしゃいだ声が聞こえた。


「キャアッ! この宝石すっごぉい!」


 視線を向けると、ダイアナが大きな宝石を両手に掲げているのが見えた。小さな子供の拳大ぐらいはありそうな巨大なルビーだ。窓からの日射しを受けて、赤い光がキラキラと乱反射している。


「こら、ダイアナ。贈り物をひとりで勝手に開けないの」
「開けてないもん。最初から勝手に開いてたもん」


 母の指摘に、ダイアナが不貞腐れたように唇を尖らせる。だが、自分の後ろにサッとルビーを隠す辺り、チャッカリしている。

 ニアの姿に気付いて、父が床を埋め尽くす花をかき分けて近付いてくる。父はニアの肩を掴むと、混乱した様子で大きな声をあげた。


「ニッ……ニア! これはどういうことだっ!」
「どういうことと言われましても……何ですか、これは……」


 空気が抜けるような声で問い返すと、父は眉をギュッと寄せて叫んだ。


「フィルバート様からの贈り物だっ!」


 その言葉に、ニアは電流を受けたように身体をビクッと大きく震わせた。とっさに周囲を見渡して、屋敷中を埋め尽くさんばかりの大量の青薔薇や贈り物の箱を見つめる。


「キャアァ! こっちはダイアモンドがいっぱい入ってる! こっちは黄金の鞍(くら)に最高級の毛皮! 有名パティスリーの焼き菓子と最高級の茶葉まで!」


 興奮したダイアナが次々と贈り物の箱を開いては、驚きの声をあげている。もう咎めても無駄だと悟ったのか、母は片頬に手を当てて、呆れた様子でダイアナを眺めていた。


「あらあら、なんだか結納品みたいねぇ」


 聞こえてきた母の独り言に、ニアはくにゃりと眉尻を下げた。隣ではニアの腕を掴んだ父が、身体をぐらぐらと揺さぶってきている。


「おまっ、お前、どういうことだ? フィルバート様とどうなったんだ?」


 未だに運び込まれている贈り物を見て、父が動揺した声で訊ねてくる。その問い掛けに、ニアは思わず唇を震わせた。

 どうなったのかと聞かれても答えられるわけがない。なぜ、こんなものが贈られているのか、ニアにだってさっぱり理由が解らないのに。

 ニアが黙っていると、贈り物を運んでいた使用人たちの動きが不意にピタリと止まった。みな扉の方へと食い入るように視線を向けている。その視線の先を見やると、フィルバートが急いた足取りで屋敷内に入ってくるのが見えた。

 積み上げられた贈り物を一瞥してから、フィルバートがすぐさま辺りに視線を巡らせる。その眼差しが自分へ向けられた瞬間、ニアは身体を強張らせた。唇を引き結んだまま硬直していると、フィルバートがこちらへと向かって足早に近付いてくる。


「ニア」
「フィル様、誠に申し訳――」


 フィルバートの外出に同行できなかったことを謝罪しようとした途端、不意に息が止まるぐらいの強さで身体を抱き締められた。ニアの背中をキツく抱いたまま、フィルバートがうめくような声で呟く。


「ニア、悪かった。戻ってきてくれ」


 フィルバートらしくない懇願の言葉に、ニアは唇を半開きにしたまま固まった。ニアとフィルバートの様子を、家族や使用人が目を丸くして眺めているのが視界の端に映る。


「フィ、フィル様?」


 舌をもつらせながらも何とか名前を呼ぶ。すると、ニアの肩に額を押し付けていたフィルバートがゆっくりと顔を上げた。その表情を見て、ニアはハッと息を呑んだ。

 フィルバートの顔は、ひどく切なげに歪んでいた。泣き出す直前のようにも見えるその顔に、ニアはとっさに掠れた声を漏らしていた。


「どうして、そんな顔をしてるんですか」


 率直すぎるニアの問い掛けに、フィルバートは自身の下唇を強く噛んだ後、苦しげな声で呟いた。


「クロエから、お前があの日の朝に実家に帰ったと聞いた。俺のことが嫌になって、もう二度と戻ってこないかもしれないと」


 フィルバートの説明に、ニアはとっさに、うえっ? と変な声を漏らしそうになった。確かに実家に帰るとは言ったが、別に戻らないつもりなんて毛頭ない。クロエはフィルバートの行為に心底怒っていたから、ニアの帰省をきっと大袈裟に伝えたのだろう。

 ニアが言葉を失っていると、フィルバートはわずかに視線を伏せて続けた。


「この程度の贈り物で許されるとは思っていない。お前が許してくれるまで何度でも謝罪する。だから、どうか戻ってきてくれ」


 フィルバートの言葉に、ニアはとっさに大量の青薔薇と贈り物へと視線を向けた。まさか、これらすべてがニアへ許しを乞うための捧げ物ということか。


「こ、これは、そのために贈ったんですか……?」
「そうだ、これでは足りないか? 足らないならいくらでも増やそう」


 フィルバートの気前が良すぎる返答に、ニアはとっさに首を左右に振ろうとした。だが、その前にダイアナの大きい声が響き渡る。


「ニアお兄さまは、もっと大きなダイアモンドが欲しいって言ってます!」
「解った。すぐに用意しよう」


 ダイアナの欲望まみれな嘘に、フィルバートがすぐさま了承の声を返す。そのやり取りに目を剥きながら、ニアは慌てて声をあげた。


「ダイアナ、嘘を言うんじゃない! フィル様も、もう贈り物はいらないです!」


 ニアが困惑のままそう叫ぶと、フィルバートはどうしてだか苦しげに顔を歪めた。


「では、どうすればいい。どうすれば、俺を許してくれる」


 叱られた子供みたいな弱々しい声を聞いて、ニアは途方に暮れそうになった。そもそも自分はフィルバートを許す立場ではない。ただの従者に、主人を許す権利なんてものはないはずだ。フィルバートは、ただ『戻ってこい』と一言命じればいいだけなのに、なぜニアに許しを乞おうとしているのか。

 言葉に詰まっていると、ふとニアの両腕を掴むフィルバートの手がかすかに震えていることに気付いた。その震えを感じた瞬間、息が止まりそうなぐらい胸が締め付けられた。

 彼は誰よりも冷酷で有能で、この国の次期王になる身分の高い人なのに。今目の前にいるフィルバートは、まるっきり不器用な子供みたいだ。それがひどく痛々しいのに、堪らなく愛おしいとも思う。

 そう思った瞬間、冷えていた指先にじわりと体温が巡ってきた。じわじわと体内から熱が込み上げて、皮膚が見る見るうちに熱くなっていく。一気に顔を真っ赤にしたニアを見て、フィルバートが驚いたように目を瞬かせている。その眼差しが恥ずかしくて仕方ない。


「ニア」


 フィルバートが名前を呼んで、ニアの頬に手を伸ばしてくる。だが、その手が頬に触れる前に、パンッと手が打ち鳴らされる音が聞こえた。視線を向けると、ダイアナが両手を重ねたままでこちらをじっと見据えていた。


「申し訳ございませんが、これ以上はお二人で話して頂いても宜しいですか?」


 ダイアナがにっこりと笑って言う。その首元には、いつの間にか大きなエメラルドがついたネックレスがつけられていた。ダイアナが好きそうな、精巧な細工がされた華奢なネックレスだ。

 ダイアナをちらと眺めてから、フィルバートが鷹揚にうなずく。


「場を用意してもらえると助かる」
「承知いたしました。では天気も良いですから、中庭の東屋をご用意しますね」


 そう答えるなり、ダイアナが使用人たちに東屋を整えるように指示を出す。使用人たちは抱えていた贈り物をその場に置くと、慌てた様子で準備のために動き出した。

 フィルバートはその間、決して離さないと言うように、ただニアの手をキツく握り締めていた。
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