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第四章
27 久しぶりの帰宅
しおりを挟む自身の唇からそっと人差し指を外すと、クロエは少しだけ困ったような表情を浮かべて呟いた。
「フィルバート様も、貴方に出会ってから少しは変わったかと思ったのですが」
変わった、という一言に、ニアは困惑を浮かべた。首を傾けるニアを見て、クロエが淡々とした声で続ける。
「フィルバート様は、幼い頃から何事にも無関心な方でした。まるで心のない人形のように、与えられた役割だけ果たして、あとは何にも興味を示さなかった。あの方の瞳の奥はいつもがらんどうで、何も映そうとしませんでした。ですが、ニア様と出会ってから突然変わられたんです。それまでなあなあに見逃していた悪徳貴族を排除し、国を正しい方向へ導こうと躍起になられ始めた。それこそ、突然目が覚めたかのように」
そこまで話すと、クロエはじっとニアを見つめた。その物言いたげな眼差しに、ニアは咽喉を鈍く上下させた。
「俺は、違います。俺は、関係ありません」
苦い声が唇から零れた。自分はただ家族を死なせないために動いていただけで、フィルバートを変えるようなことは何もしていない。残酷な運命から逃れるために、必死に生きていただけだ。
緩く視線を伏せるニアを見て、クロエが小さくうなずく。
「貴方がそう思われるのも仕方ありません。悪いのは、何一つとして言葉にしないあの人です」
そう素っ気なく呟いてから、クロエはこうも続けた。
「ただ、あんな愚かなことをしても、私にとってはフィルバート様は幼い子供のままなんです。ですから、私はどうか貴方がフィルバート様を見限らないように、ただそれだけを祈っています」
こうお伝えするのも卑怯なことだと思いますが。とクロエがかすかに自嘲混じりに続ける。
声音の淡泊さに対して、その言葉には切実さが滲んでいた。ニアは小さく息を呑んでから、曖昧な笑みを浮かべようとした。だが、笑みはすぐに消えて、苦しげに眉が歪んだ。
「見限ったりなんかしません。俺は、フィル様の騎士ですから」
自分で口に出したくせに、かすかに嫌な唾が舌の上に滲んでくるのを感じた。その言葉は真実のはずだ。だが、自分はすでに騎士という立場を逸脱しているような気もした。
三年後、フィルバートが聖女に出会って恋に落ちたときに、自分は騎士としてあの人の側に立っていられるのか。寄り添う二人を笑顔で眺めて、祝福することができるのか。それを一生、死ぬまで続けて――
不意にぞわりと全身に悪寒が走った。震えを隠すために、拳をキツく握り締める。
黙り込んだニアを見つめて、クロエはふと思い出したように訊ねてきた。
「お食事は取られますか?」
その事務的な口調に、クロエがわざと話題を逸らしてくれたのだと気付く。ニアがわずかに視線を上げると、クロエは窓際のテーブルに用意された食事を手のひらで示した。
「ああ、はい……ただ、すいません、まだ立てそうになくて……」
「大丈夫です。ベッドテーブルをご用意しますね」
テキパキとした動作で、クロエがベッドの上に小さなテーブルを用意していく。ベッドテーブルに緩く湯気を立てるスープやパンが並べられていくのを眺めながら、ニアはふとハッとして唇を開いた。
「あの、フィル様はどちらに行かれたんですか?」
昨夜の衝撃的な出来事のせいで、大切なことが頭からすっぽ抜けていた。専属騎士にも関わらず、フィルバートの行方を知らないというのは完全に職務怠慢だ。
慌ててクッションから背中を浮かすニアの肩を、落ち着けとばかりにクロエが片手で押さえてくる。
「フィルバート様は第二騎士団の精鋭と共におりますので大丈夫です。ニア様はしばらく療養するように命じられております」
「どちらにいらっしゃるんですか?」
続けて訊ねると、クロエは視線を窓の方へ向けた。
「今は秘密裏に国外へ出ていらっしゃるかと」
「国外?」
思わず驚きの声が漏れた。目を丸くするニアを見て、クロエが唇の端にチラと笑みを浮かべる。
「ここ数年、私や数名だけで内密に調査を進めさせていたんですが、大切な宝物にまで手を出されて、もう慎重もクソも言ってられなくなったみたいです。向こう側に気付かれても構わないから、強引に力で押し切るつもりのご様子です」
まるで謎かけのようなクロエの言葉に、ニアは一層怪訝な表情を浮かべた。慣れた手付きでバターを切りながら、クロエが他人事のような口調で続ける。
「それ以上、私からお伝えできることはありませんので、戻られてからフィルバート様に直接お聞きしてください」
愛想のない口調で言いながら、パンが乗せられた皿の上にひとかけのバターが置かれる。完璧に用意された食事を見下ろしてから、ニアはぽつりと呟いた。
「あの……クロエさんって何者なんですか?」
先ほどから言っていることが、まるでスパイみたいだ。
ニアの質問に、クロエはゆっくりと首を傾げた。丸眼鏡の奥の瞳が、三日月みたいに細められる。
「ニア様、女性の素顔を探ろうとするのも野暮なことですよ」
その言葉に、ニアは弱々しい声で、はい、と答えた。
朝食が終わってしばらくすると、少しずつ身体が動くようになってきた。まだ多少へっぴり腰ではあるが、それでも歩くことはできる。しばらく慣らすように部屋を数十周も歩いてから、強張った筋肉をほぐすように軽くストレッチをする。
そして、昼食を取った直後に、ニアはクロエに声をかけた。
「フィル様が帰ってくるまで、実家に戻っていても良いでしょうか?」
フィルバートがいつ戻ってくるかも判らないし、久々に実家に顔を出したかった。それに何よりも、ここにいると昨夜の記憶がちょこちょこ蘇って落ち着くに落ち着けない。
ニアの申し出に、クロエはすぐさま首肯を返してきた。
「宜しいかと思います。どうかご実家でゆっくりなさってきてください」
フィルバート様には私の方からお伝えしておきます。と安心させるように言われて、ニアは久々に実家へ帰ることになった。
揺れる馬車に尻を痛ませつつ実家にたどり着くと、使用人に呼ばれてすぐさま両親が出迎えてくれた。
「ニア、急に帰ってくるとはどうした! 何かあったのか!」
少し焦りを滲ませた声で父が訊ねてくる。その問い掛けに、ニアはかすかに苦笑いを浮かべて答えた。
「ちょっとお休みを頂いたから帰ってきたんだ」
「まさか、何かヘマをしたんじゃないだろうな?」
父のかすかに怯えた声に、ニアは視線を泳がせた。
「ヘマは……したかもしれない」
ニアが気まずそうに答えると、父は愕然とした様子で口を半開きにした。だが、父が次の言葉を言う前に、母が父の身体を押しのけておっとりとした声をあげた。
「何にしても、貴方が帰ってきてくれて嬉しいわ。今日はうんと豪華な夕食にしなくちゃね」
なだめるように母がニアの背に手を押し当てる。その温かい掌の感触に、ニアは淡く笑みを浮かべた。
ふと辺りを見渡して、ニアは呟いた。
「ダイアナは?」
「あの子は、今は鍛錬場にいると思うわ」
「鍛錬場に?」
「そうよ。あの子ったら最近はお茶会にも参加せずに、ずっと鍛錬ばかりしていて大変なんだから」
母の返答に、ニアは驚きに目を見開いた。
確かに、ニアが実家を出てからも鍛錬は続けるようにとダイアナに言ってはいたが、まさかその約束をしっかり守っているとは。
ニアが目を丸くしていると、母は頬に手を当てて困ったような声で続けた。
「たまにパーティーに参加しても、ダンスにお誘いしてくださった男性に対して『私より強い人でなければ踊る価値はありません』なんて言ったりして。それで怒った男性に乱暴に腕を掴まれそうになったら、その方の脛を蹴り飛ばして、床に叩き伏せたのよ。あれは最高にいい気味で……あら、間違えたわ。とにかく大変だったのよ」
途中で母の本音が混ざっていたような気がする。
母の説明に、ニアは唖然とした。ダイアナの心身を鍛えようとは思っていたが、まさかここまでの強者に育つとは思ってもいなかった。
ニアが黙っていると、母の後ろから父がコソコソと声をあげた。
「そろそろダイアナも婚約者を探してもいい年頃だ。お前の方からも誰か気になる相手がいないのか聞いてみてやってくれ」
人任せな父の言葉に、ニアは思いっきり顔を顰めた。露骨に不服げなニアの顔を見て、父が慌てた声で続ける。
「お前だって、ダイアナが変な奴に嫁ぐよりも、好きな相手と婚約させてやりたいだろう」
それが親心ってものだろうが。と言ってから、父が母の後ろにヒョイッと隠れてしまう。だが、図体が大きいせいで全然身体がはみ出している。
その姿を眺めてから、ニアは緩くため息を吐き出して答えた。
「解りました。聞くだけ聞いてみます」
仕方なくそう答えると、母の後ろで父がヤッター! とばかりに両腕を振り上げた。
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