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第三章

23 選ぶしかない

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「脱げ」


 フィルバートの私室に入った瞬間に告げられた言葉に、ニアは身体を強張らせた。

 部屋の中にはランプ一つ灯されておらず、窓から入ってくる月明かりだけが調度品のない殺風景な室内を照らしていた。


「は?」
「今すぐその服を脱げ」


 同じ言葉が繰り返される。ニアが唇を半開きにしたまま立ち尽くしていると、苛立ったようにフィルバートの手が服に伸ばされた。強引に上着を引っ張られて、上擦った声をあげる。


「ちょ、ちょっとっ、破れるから引っ張らないでくださいっ」


 ボタンが弾けそうになって、上着を掴むフィルバートの手を慌てて掴む。途端、フィルバートが腹立たしそうに片目を細めた。


「お前に、こんなものを着せるんじゃなかった」


 吐き捨てられた言葉に、ニアは一瞬心臓が突き刺されたように痛むのを感じた。先ほどニアの礼装を見て、フィルバートは誇らしげな表情をしていたのに。そのときのくすぐったい気持ちを、踏み躙られたような心地になる。

 戦慄きそうになる唇を上下させて、鈍い声を漏らす。


「どうして、そんなこと言うんですか」


 思わずなじるような言葉が零れた。ニアの問い掛けに、フィルバートがこちらを見つめてくる。苛立ちとかすかな焦燥が滲んだ眼差しだ。


「周りから物欲しげに見られるのは構わん。だが、他の者に触られるのは許さない」


 また無茶苦茶なことを言ってくる。ニアが唖然とした表情をしていると、フィルバートが顔を寄せてきた。至近距離でニアを見据えて、問い詰めるように訊ねてくる。


「あの女と何を話した」


 あの女というのは、おそらくクリスタルのことだろう。その問い掛けに、先ほどのクリスタルとの婚姻話を思い出して、ニアはとっさに言葉に詰まった。

 ニアの逡巡に気づいたのか、フィルバートがますます表情を険しくする。掴んだままの上着をグッと引っ張ると、ニアの顔を更に引き寄せてフィルバートは短く命じた。


「言え、ニア・ブラウン」


 主人が家臣に命じる声だ。その声音に、ニアは反射的に言葉を返した。


「クリスタル・ハイランドとの婚姻の話があがりました」


 そう告げた直後、フィルバートの顔が悪鬼の如く歪んだ。憤怒を通り越して憎悪を滲ませたフィルバートの表情に、ニアはたじろぎそうになった。


「王妃だな」


 確信に満ちた声音で、フィルバートがひとりごちる。


「王妃が、お前とクリスタル・ハイランドとの婚姻の話を持ってきたんだろう。どうせ二分された貴族たちをまとめるためにも、ブラウン家とハイランド家が結びつく必要があるとでもほざいて」


 まるで王妃との会話を全部聞いていたかのようなフィルバートの推察に、ニアは目を丸くした。


「はい、その通りです」
「巫山戯(ふざけ)ているな。分断の緩和をうたっておきながら、お前を自分の陣営に引き込む意図が透けて見えている。もしくはお前を自分のスパイにでもするつもりか」


 フィルバートが鼻でせせら笑う。そうしてフィルバートはニアを見据えると、責めるような口調で続けた。


「それで、お前はあの女と婚姻を結ぶつもりなのか」


 まるっきり浮気でも問い詰めるような言い方に、ニアは眉尻を下げた。困惑に声を上擦らせながら答える。


「そんなつもりはありません。ただ――」
「ただ?」


 オウム返しに問われて、ニアはぎこちなく咽喉を上下させた。


「俺とクリスタルが結婚しないのであれば、フィル様とダイアナを結婚させると王妃様がおっしゃっていました」


 口に出した瞬間、不安がざわざわと胸元まで這い上がってくるのを感じた。

 もし、フィルバートがダイアナとの結婚に乗り気になったら、どうしたらいいのか。そのときに止める権限などニアは持っていない。

 ニアの言葉を聞くと、フィルバートはハッと乾いた笑いを零した。


「馬鹿なことを。そもそも、そんなことを王妃の独断で決められるはずもない」


 フィルバートが一笑(いっしょう)に付(ふ)したことに、ニアはひどく安堵した。ニアが胸を撫で下ろしていると、フィルバートは不意に表情を消してぽつりと呟いた。


「ロキの母親だと思ってこれまで多少のことは見逃していたが、俺のものにまで手を出そうとするとは――もう王妃様ごっこも終わりだな」


 呆気ないその口調に、一瞬ぞわりと背筋が粟立つ。這い上がってきた怖気に身体を強張らせながらも、ニアは硬い声で問い掛けた。


「ダイアナと、結婚しないで頂けますか」


 単刀直入なニアの言葉に、フィルバートはわずかに苦笑いを浮かべた。


「なぜ、そんなことを確認する」
「貴方には、もっと相応(ふさわ)しい相手が現れるからです」


 唇から勝手に言葉が溢れていた。フィルバートが目を見開く。その瞳を見つめたまま、ニアは訴えかけるように続けた。


「あと数年もすれば、きっとフィル様が一目で心を奪われるような相手が現れるはずです。互いに愛し合い、周りからも祝福されるような、そんな素晴らしい女性と出会えます。ですから、どうかダイアナだけは選ばないでください」


 最後の言葉は、ほとんど懇願だった。口にすればするほど惨めで泣きたい心地が込み上げてきて、唇が小さく震える。

 驚愕を浮かべていたフィルバートの顔から、見る見るうちに表情が流れ落ちていく。皮膚から血色が失せて、真っ白になった顔がニアを見据えていた。まるで能面のようなフィルバートの無機質な表情に、ニアは一瞬息を飲んだ。


「どれだけ俺が雁字搦(がんじがら)めにしようとしても、お前は俺の手をすり抜けて逃げようとする」


 独り言のようなフィルバートの声が聞こえた。ニアが怪訝に眉を歪めたとき、不意に上着を強く引っ張られた。上着のボタンや金具が一気に弾け飛んで、身体が斜めに傾ぐ。


「なっ……!」
「脱げ」


 何をするんですか、と言うよりも早く、寒々とした声が耳に届いた。先ほどと同じ言葉のはずなのに、どうしてだか先ほどよりも抗(あらが)いがたい圧を感じて、心臓が跳ねる。


「は……」
「服をすべて脱げ、ニア・ブラウン」


 なぜ、と問い返すことすら禁じているような冷たい声音だった。命じる声に、服の下を汗が伝っていくのを感じる。

 無言で見据えてくる眼差しに抵抗することもできず、ニアに覚束ない手付きで上着を脱いだ。そのまま硬直していると、フィルバートが苛立った声で続けた。


「聞こえなかったか。俺は『すべて脱げ』と言ったんだ」


 容赦のない言葉に、ニアは顔をくしゃくしゃに歪めそうになった。下唇をキツく噛んで堪えながら、手に持っていた上着を床に落として、上に着ているシャツのボタンを外していく。

 シャツを脱ぎ落としても、フィルバートは黙ったままだ。まだ納得していない様子を見て、ニアはズボンのベルトを緩めて、ゆっくりと脱ぎ落とした。

 もう身に纏っているのは肌着だけだというのに、フィルバートは唇を開こうとしない。その冷淡な眼差しを見て、ニアはか細い声を漏らした。


「もう、勘弁してください」


 泣き出しそうなニアの声にも、フィルバートは顔色一つ変えない。屈辱と羞恥に打ち震えながら、ニアは続けた。


「俺を辱めて楽しんでいるんですか」


 掠れた声でそうなじるが、フィルバートはやはり何も応えてはくれなかった。ニアが命令を遂行するまでは、何一つとして反応を返してくれないようだ。

 半ば自棄(やけ)になって、ニアは自身の肌着に手をかけた。上下の肌着や靴下まで脱ぎ捨てて裸になると、ひやりとした夜の空気をじかに肌に感じた。皮膚に薄く鳥肌が浮かぶのを感じながら、まっすぐフィルバートを見据える。


「これで宜しいですか」


 フィルバートはしばらく無言のまま、月明かりにぼんやりと照らされたニアの裸体を眺めていた。まるで観察するようなその眼差しに、皮膚の下がじわりと熱を帯びて震えそうになる。

 息を殺したままその視線に耐えていると、ふとフィルバートの手が伸ばされた。冷たい手のひらが、ニアの左胸に押し当てられる。その指先の冷たさに、身体が小さく跳ねた。

 フィルバートの手のひらは、しばらく心音を確かめるようにニアの左胸に触れていた。だが、次第にその手のひらがゆっくりと下りていく。身体の輪郭をたどるように脇腹から腰骨をなぞっていく手の感触に、咽喉が小さく戦慄く。


「フィル様」


 ニアが引き攣った声を漏らしても、フィルバートの手の動きは止まらなかった。その指先が下腹を撫で、薄い陰毛をザリッとくすぐってきた瞬間に、ニアは反射的にフィルバートの手を掴んでいた。


「やめてくださいッ!」


 鋭い声が咽喉から迸った。目を見開いたまま、信じられないものを見るようにフィルバートの顔を見つめる。フィルバートの手を掴んでいる自分の手が、ぶるぶると情けなく震えているのを感じた。


「こんなのは、悪趣味です。冗談の域を越えています」


 半泣きな声でそう訴えかけると、ようやくフィルバートが唇を開いた。


「これが冗談だと?」


 淡々と問い掛けてくる声に、ニアは怖気立った。

 まさか、という言葉が頭の中でぐるぐると回る。まさか、そんなわけがない。まさか、そんなことが求められるわけがない。まさか、自分が選ばれるわけがない。

 ニアに掴まれた手をチラと見下ろして、フィルバートが静かに言い放つ。


「ニア、手を離せ」


 命じる声に、ニアはぎこちなく咽喉を上下させた。


「そ、ういうことがしたいのでしたら、他のお相手をご用意します」


 高位貴族専門で、後腐れなく性欲解消の手伝いをするプロはいる。そういう相手を用意すると訴えかけるニアに、フィルバートはわずかに目を細めた。


「ニア」
「俺は、相応(ふさわ)しくありません。俺は、こういうことに慣れてませんし、そういう知識もあまりありません。俺は――」
「俺は、お前を選んだ」


 言い訳を並べ立てる声を遮って、フィルバートが言い放つ。その強い言葉に、ニアはますます泣き出しそうに顔を歪めた。


「俺じゃ、なくてもいいはずです」


 まだ惨めに足掻く言葉が零れてくる。視線を揺らすニアの頬に、フィルバートがもう片方の手をそっと触れさせてきた。指先は氷みたいに冷たいのに、頬を撫でる仕草が優しいのが余計に苦しくて堪らない。


「お前じゃなきゃ駄目だ」


 そう告げられた瞬間、最後の逃げ道を塞がれたのが解った。それでも、身体が強張っていて掴んだフィルバートの手を離すことができない。

 ニアが言葉を失っていると、ふとフィルバートが柔らかな声で呟いた。


「それとも、お前の妹だったらいいのか」


 その言葉が聞こえた瞬間、自身の咽喉がヒュッと音を鳴らした。ありありと驚愕と恐怖を浮かべたニアの瞳を覗き込んで、フィルバートが問い掛けてくる。


「お前はどっちがいい」


 こんなのは脅迫だ。自分を差し出すか、妹を差し出すか、どちらかを選べと強いている。残酷すぎる選択に、ニアは弱々しい声を漏らした。


「こんなのは、あまりにも卑怯です」
「そうだ。卑怯で下劣で、心底反吐が出る行為だ」


 当たり前のように肯定するところが余計に腹立たしかった。フィルバートは忌まわしげに片目を眇めると、最後通告をするように言い放った。


「それでも、お前は選ぶしかない」


 そう告げる声に、小さく身体が震える。フィルバートの手を掴んだ自分の指先に、痛いくらい力がこもっているのを感じた。だが、フィルバートは痛がる様子もなく、ただニアを見つめている。

 その深い青色の瞳を見た瞬間、フィルバートの手を握っていた指先からふっと力が抜けた。するりと手を離すと、フィルバートが淡く安堵にも似た息を漏らした。


「ニア」


 フィルバートが囁く声が聞こえる。ニアの頬を手のひらで支えたまま、フィルバートがそっと顔を寄せてきた。唇に触れる柔らかい感触に、ニアは震える息を吐き出して目蓋を閉じた。
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