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第三章

22 臆病者

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 パーティー会場まで、どうやって戻ってきたのか記憶がない。夢遊病患者みたいにふらふらとした足取りで大広間に入ると、まだ貴族たちはダンスホールに釘付けになっていた。

 その視線を追って、何組かのぺアが踊っているダンスホールを見つめる。みなが観ているのは、軽やかなステップを踏んで踊るフィルバートとダイアナの二人だ。二人の唇が動いているのを見ると、どうやら踊りながらずっと喋り続けているらしい。

 それが仲睦まじく見えるのか、貴族たちの間からヒソヒソと小さな声が聞こえてきた。


「どちらも美しくて、本当に絵になるお二人ね」
「ブラウン伯爵家は、すでに兄がロードナイトの契約を結んでいるし、次は妹が妃に選ばれるんじゃないか?」
「そうなるとブラウン伯爵家は、爵位関係なく実質最有力の貴族になるぞ。今からでも交流を深めておいた方が良さそうだな」


 薄汚い政略的な話まで、勝手に耳に入ってくる。

 思わず顔が歪みそうになった瞬間、不意に、ハハッ、と高らかな笑い声が聞こえてきた。驚いて視線を向けると、ダイアナと向かい合ったフィルバートが破顔しているのが見えた。その笑顔に、一瞬息が止まる。

 今までフィルバートが笑顔を浮かべるのは、ニアの前だけだった。だが、今はその笑顔をダイアナへと惜しげもなく向けている。それがどうしようもなくショックだった。

 そして自分がショックを受けている事実に、ニアは更にショックを受けた。ずっと大切に抱き締めていた宝箱の中身が、勝手にバラまかれたような惨めな気持ちだった。だが、そんな気持ちを抱いてしまうのも馬鹿げたことだと自分で解っていた。


「俺は、馬鹿だ」


 無意識に、小さな声が零れた。

 フィルバートから与えられるものが、自分だけのものだと恐れ多くも勘違いし始めていた。だけど、そんなことは有り得ない。自分の分(ぶ)をわきまえなければならない。

 自分に言い聞かせるように思いながら、かすかに震える息を吐き出す。

 そのとき、ふと斜め下からか細い声が聞こえてきた。


「あの……ニア・ブラウン様……」


 視線を落とすと、小柄な令嬢が両手を組んでニアを見上げていた。その瞳はかすかに潤んでおり、頬は走った後のように淡く火照っている。


「はい、何か――」
「私とダンスを踊って頂けませんでしょうかっ」


 ニアが問い掛ける前に、令嬢が泣き出しそうな声で言う。その言葉に、ニアは軽く目を剥いた。令嬢が、畳みかけるように早口で続ける。


「あのっ、今日のお召し物とてもお似合いですっ」
「あ、ありがとう」
「踊って頂けたら、一生の思い出になりますっ。どうか私と踊ってくださいっ」


 小柄な令嬢の一生懸命な様子が目立ったのか、なぜだか周りに令嬢たちが集まり出すのが見えた。みなが口々に声を上げ始める。


「それなら、私とも踊ってください!」
「以前から素敵な方だと思っていましたが、今日は一段と精悍です!」
「何度かお手紙お送りしたのですがお読みになっていませんか? どうかお返事を頂けないでしょうかっ」


 周囲から一斉に話し掛けられて、雛鳥にせっつかれる親鳥のような気持ちになる。

 ニアが戸惑っていると、不意に密やかな笑い声が聞こえてきた。


「まるで大樹(たいじゅ)に群がる小鳥みたいですね」


 列をなした令嬢たちの横をするりと通り過ぎて、クリスタルがニアに近付いてくる。そうしてニアの目の前まで来ると、クリスタルは可憐な微笑みを浮かべた。


「ニア様、私と踊りませんか?」


 訊ねているようで、それは確定事項を告げている声音だった。

 ニアが唖然としていると、クリスタルは当たり前のようにニアの腕を掴んでダンスホールへと進み出た。背後から、令嬢たちの残念そうなため息が聞こえてくる。流石に公爵令嬢であるクリスタルに非難の声をあげることはできないのだろう。

 クリスタルが無言のまま、両腕を上げてダンス開始のポーズを取る。ニアはほとんど反射的に、クリスタルの手を掴んで、その細い腰を掴んだ。同時にステップが始まる。

 楽団の演奏にあわせて踊りながら、ニアは困惑の目でクリスタルを見下ろした。クリスタルはしばらく黙り込んでいたが、ふとぽつりと呟いた。


「貴方と結婚なんかしたくありません」


 はっきりとしたクリスタルの主張に、ニアは短い相づちを返した。


「ああ、そうだろうな」
「私は貴方が嫌いです。貴方は卑怯な手を使ってヘンリーお兄さまを陥れたし、私の前で『ダイアナは世界一可愛い』なんてヘンリーお兄さまに無理やり叫ばせたし、何よりもあの憎ったらしいダイアナの兄ですから」


 滑らかに吐き出されるクリスタルの暴言に、ニアは思わず苦笑いを浮かべた。曖昧に笑うニアを腹立たしそうに見上げたまま、クリスタルが続ける。


「でも、私は貴方のもとへ嫁ぎます」
「結婚したくないのに嫁ぐ?」
「ええ、そうです。家のためなら、たとえ死にかけの老人にでも嫁ぐ。それが貴族に生まれた娘の義務ですから」


 取り澄ました声で、クリスタルが呟く。だが、その言葉から滲む覚悟に、ニアはかすかに胸を打たれた。まだ十五歳の少女がこんな風に決意するのは、あまりにも痛ましい。


「違う」


 思わずぽつりと言葉が零れていた。クリスタルが怪訝な眼差しで、ニアを見上げてくる。その大きな瞳を見つめたまま、ニアは続けた。


「これは君の人生だ。家のために自分の人生が決められるようなことは間違いだ」


 ニアの言葉に、クリスタルは口角に哀れむような嘲笑を滲ませた。


「そんなの、ただの綺麗事ですよ。次期ロードナイト様はずいぶんと甘い考えをお持ちなんですね」
「そうだな、綺麗事だ」


 ニアが呆気なく肯定を返すと、クリスタルはますます眉を歪めた。怒りを滲ませた顔を見据えたまま、ニアは唇を開いた。


「俺はただ……俺の目の届く限りは、誰にも後悔のある人生を送って欲しくないんだ」


 そう思ってしまうのは、ニア自身が前の人生で後悔を抱えたまま死んだからかもしれない。何一つとして守れず息絶えたのは、周りに流されるまま生きて、自分の意志できちんと人生を選択してこなかったせいだ。


「後悔ばかりを抱えて終わるのは、とても惨めで悲しいことだから」


 そう続けると、クリスタルは一瞬だけ驚いたように目を大きく開いた。だが、すぐさま嘲りと哀れみが入り交じった眼差しでニアを見てくる。


「貴方は、まるで夢見る子供みたいに愚かですね。切り捨てるものをきちんと切り捨てないと、大事なものは何も守れないんです。そうやって貴方は、要らないものまで抱え込んで、本当に大事なものを守りきれずに手の内から取り零していくんです」


 自分の魂ごとぶつけてくるようなクリスタルの言葉に、ニアは息を呑んだ。クリスタルの言葉は、ある意味正論だ。ニアは、まだ何かを切り捨てる覚悟を決められていない。


「私にとって大切なのはハイランド家であって、自分の人生ではありません。ハイランド家が栄光を手に入れるためなら、幾らでも私の人生を踏み躙って貰って構わない。私は、もう覚悟を決めています――貴方は?」


 その問い掛けに、ニアはぼんやりと考えた。自分にとって一番大切なものは何か。命を懸けても守りたいものは何なのか。

 過去に戻った日のことを思い出す。処刑されたはずの家族が生きているのを目にして、心から神に感謝したことを。家族を守るためなら、どんなことでもすると心に誓ったことを。


「俺にとって一番大切なのは、家族が幸せに生きることだけだ」


 それは本当のことのはずなのに、どうしてだか悲しい響きがした。結局、自分はクリスタルのように確固たる覚悟を決められていないのだ。どうしても愛する家族の周りに、ちらちらとフィルバートの顔が浮かんでしまう。それが悔しくて、もどかしくて堪らない。

 彼は、前の人生で俺と家族を殺した冷酷で残忍な人だ。だけど、今の人生では違う。フィルバートは冷酷なだけではなく、本当は冗談が好きでよく笑い、無茶なことも言うけども必ず後ろでニアを見守り、第一王子という地位に甘んじず自身の行動で周囲を変えていく強い人だ。そして、きっととても寂しい人だ。フィルバートが時折見せる寂しさに、ニアはどうしようもなく心を揺さぶられる。

 こんなに近付くはずではなかった。もっと遠い場所で、平和に過ごすはずだった。それなのに自分は、もう後退もできない場所に立っている。そして、心のどこかでこの場所を誰にも譲りたくないと思ってしまっている。

 ニアを見据えて、クリスタルが声を上げる。


「それなら、私と結婚してください。貴方ももう解ってるはずです。家のためにも、国のためにも、私たちが結婚するのが最善策だって」


 逃げ道を塞ぐような、強い語気だった。その言葉に、ニアは何も答えられなかった。確かにダイアナとフィルバートを結婚させるよりかは、自分とクリスタルが結婚する方が良いのかもしれない。だが、それが最善策とはどうしてもニアには思えなかった。

 ニアが黙り込んでいると、クリスタルは顔を歪めて小さな声でこう吐き捨てた。


「臆病者」


 嘲りの声が聞こえた直後、突然クリスタルの背後からニュッと二本の腕が伸びてきた。その手がクリスタルの二の腕をガッシリと掴んで、一気にニアから引き剥がしていく。


「ひぇえぇッ!」


 突然のことに、クリスタルが恥も外聞もない悲鳴をあげる。

 その光景に唖然としていると、ニアも背後からぐいっと腕を引っ張られた。


「うえぇ!」
「妙な声をあげるな」


 ぐるりと身体を半回転させられて、手と腰を強く鷲掴まれる。視線を向けると、目の前にフィルバートの顔が見えた。息が苦しくなるぐらい身体を強く密着させると、流れるようにダンスが始まる。

 とっさにステップを踏みながら、ニアは混乱したまま声をあげた。


「ちょ、え、なんで……っ」


 右側に視線を向けると、ダイアナに振り回されるようにして踊っているクリスタルの姿が見えた。どうやらクリスタルを浚っていったのはダイアナだったらしい。目を白黒させるクリスタルを見て、ダイアナがニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべていた。

 ペア入れ替えを余興か何かだと思っているのか、周りにいた貴族たちが歓声を上げているのが聞こえる。


「なぜ勝手に踊っている」


 ニアが困惑の表情を浮かべていると、フィルバートが不機嫌そうな声を漏らした。


「なぜって……先ほど『お前も自由にして構わん』ってフィル様がおっしゃったじゃないですか」
「女と踊ってもいいとは言っていない」
「それ滅茶苦茶ですよ」


 屁理屈どころか理屈が崩壊したフィルバートの返答に、ニアは呆れ果てた声を返した。怒りを覚えたように、フィルバートの指先がニアの腰骨にグッと食い込んでくる。そのかすかな痛みに、ニアは片目を細めた。


「あの女に何を言われた」
「え?」
「どうして、そんな顔をしている」


 そんな顔と言われても、自分が今どんな顔をしているのかニアには解らなかった。ニアが緩く首を傾げると、フィルバートが低い声で問い掛けてきた。


「まさか、あの女に心を奪われたんじゃないだろうな」


 見当違いなフィルバートの問い掛けに、ニアはぽかんと口を開いた。顔面にありありと憤怒を浮かべたフィルバートを、混乱したまま見つめる。フィルバートがこんなにも怒りを露わにするのは初めてだ。たとえ腹の底が煮え滾っていても、いつも冷静な表情を崩さずにいるのに。

 ニアが言葉に詰まっていると、フィルバートはニアの腰裏に手を回して、ググッと上半身を倒してきた。押されるままに背を仰け反らせながら、ニアはとっさに倒れないようにフィルバートの肩を強く掴んだ。

 真上からニアの顔を見据えて、フィルバートがうなるような声で言う。


「俺から離れることは許さない。たとえお前が死んだとしても、血も肉も骨も一つ残らず喰って、永遠に俺の腹の中に閉じ込めてやる」


 まるで心臓に一言一言刻み込むような呪いの言葉だ。ぞわりと皮膚が粟立って、見開いた目が閉じられなくなる。

 ニアの瞳を覗き込んだまま、フィルバートが冷たい声で囁く。


「ニア、俺から離れられると思うな」


 それは四年前にも聞いた言葉だ。だが、以前よりもずっと重たく、生々しく、おぞましく聞こえた。

 頭の中は真っ白なのに、唇だけが勝手に動く。


「離れていくのは貴方のほうじゃないですか」


 ニアが口に出した瞬間、フィルバートは訝しげに目を細めた。

 フィルバートが薄く唇を開く。だが、その唇が言葉を発する前に、楽団の演奏が終わった。直後、万雷の拍手が鳴り響く。貴族たちが賞賛の拍手を打ち鳴らしながら、こちらを見ていた。ダイアナが華麗に礼をしている横で、クリスタルが死にそうな顔でぜぇぜぇと荒い息をついているのが視界に入る。

 ニアが慌てて体勢を戻して立ち上がると、すぐさまフィルバートに右手首を掴まれた。そのままフィルバートが大股で歩き出す。引っ張られるままに歩きながら、ニアは掠れた声を漏らした。


「フィル様、どこに行かれるんですか」


 訊ねても、フィルバートは振り返ってもくれない。手首に食い込んだ指先がかすかに痛かった。


「逃げませんから、手を離してください」


 そう訴えかけると、フィルバートが確かめるように肩越しにチラと視線を向けてきた。躊躇うように指先が何度も手首を握り直した後、そっと離れていく。

 扉の前まで来ると、フィルバートは大広間の方を振り返って声をあげた。


「みな大いに楽しみ、騎士団の功績を讃えよ。エルデン王国に栄光あれ」


 貴族たちが「栄光あれ」と声を揃えて叫ぶ。その声を聞くと、フィルバートはすぐさま大広間から出て行った。かすかに痺れたように痛む手首をさすりながら、ニアはフィルバートの後を黙ってついていった。
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