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第三章
20 お似合いの二人
しおりを挟むパーティー会場となった城内の大広間は、ごちゃごちゃとした音と臭いに溢れていた。色とりどりなドレスや礼服を着た貴族たちがひしめき合い、各々が会話に花を咲かせている。円形の広間には、それぞれが身に纏った香水や、並べられた料理の匂いが複雑に混ざり合って、えもいわれぬ臭気に満ちていた。先ほど騎士団の表彰式が行われている間は静かだったが、今は大勢の喧噪に溢れている。
大広間から階段を登った先にある壇上に立ったまま、ニアはその光景をじっと見下ろした。絶え間なく人間や色が蠢く広間は、くるくると回る万華鏡のようにも思える。
万華鏡の中から、時折こちらへとじっと視線が送られているのを感じた。敵意ではなく、どこか陶酔と欲望が入り交じった生々しい眼差しだ。その視線を見返すと、こちらを見上げていた令嬢がハッとした様子で頬を赤らめながら顔を逸らした。だが、顔を逸らした後も、時折こちらを熱っぽい目でチラチラと覗き見ている。
一体なんなんだとばかりにニアが顔を顰めていると、壇上に置かれた椅子に座ったフィルバートが薄く笑い声を漏らした。
「ずいぶんと物欲しげな目で見られてるな」
愉快そうなフィルバートの声に、ニアはうんざりとした視線を向けた。
「見られてるのは、俺じゃなくてフィル様ですよ」
純白の礼服を身に纏ったフィルバートは、その冷たい顔立ちも相まって神々しいまでに美しかった。人を寄せ付けないのに、どこか吸い寄せられるような艶やかな魅力も感じる。
フィルバートから無理やり視線を逸らしながら、ニアは自身の額を片手で撫でた。髪の毛が後ろに撫で付けられているせいで、剥き出しの額が妙にすぅすぅして落ち着かない。それに詰め襟型の礼服のせいで首元も詰まっていて少し息苦しい。
不機嫌そうに眉を顰めるニアを横目で見て、フィルバートが言う。
「俺たちを見ているんだ」
フィルバートが自身とニアを交互に指さす。その指の動きを眺めてから、ニアは自身の身体に視線を落とした。
ニアが着ているのは、フィルバートとは真逆の漆黒の礼服だった。光を一切反射しない塗り潰されたような黒の布地に、襟元や袖口には金色の刺繍が丁寧に縫い込まれている。ニアの地味な顔立ちには似合わぬ、威圧的にすら思える豪奢な礼服だ。肩には黄金色の飾り紐がつけられていて、フィルバートの礼服と対(つい)になっているようにも見える。
そのうえ、ニアの左耳には銀色のカフスが付けられていた。カフスには、フィルバートの目の色と同じ、深い青色の宝石がはめられている。まるでフィルバートの所有物だと主張するようなそれが、ニアには気恥ずかしくて堪らなかった。
指先で所在なくカフスに触れながら、ニアはわざと素っ気ない声で返した。
「地味な男が、分不相応な服を着ていると笑われているんですよ」
「地味だと?」
フィルバートがニアを見上げて、目を細める。その真剣な眼差しに、ニアは一瞬たじろぎそうになった。まじまじとニアを見つめた後、フィルバートが呆れた口調で呟く。
「お前は確かに華はないが、顔立ちは整っているし十分に美丈夫(びじょうふ)だ」
「はぁ、それは……どうも、ありがとうございます」
飛び抜けた美形にそんなことを言われても、全然まったく信憑性がなかった。ニアがまったく気持ちのこもっていないお礼を述べると、フィルバートは緩く肩をすくめた。
「お前は俺の言うことを右から左に流す癖があるな。可愛げがないぞ」
「フィル様の冗談を真に受けていたら、心臓がいくつあっても足りないので」
「では、心臓を増やせ」
「そういう変な命令ばかりするから、俺の可愛げがどんどんなくなっていくんです」
売り言葉に買い言葉を返していると、フィルバートが声をあげて笑った。ニアの腰裏を数度叩きながら、フィルバートが笑い混じりに言う。
「お前は本当に可愛い奴だ」
「つい今しがた『可愛げない』とおっしゃったばかりじゃないですか。矛盾しています」
「矛盾してていいんだ」
まったくもって意味不明だ。普段は矛盾を嫌うくせに、こういう時ばかりは真逆なことを言うフィルバートが憎たらしかった。
ニアが呆れた目で見やると、フィルバートは口元に柔らかな笑みを浮かべた。その笑顔にかすかに心臓が跳ねて、息が苦しくなる。
とっさに唇を引き結んだとき、階下から声が聞こえてきた。
「王子殿下に、ご挨拶を」
視線を下ろすと、階下に父と母とダイアナの姿が見えた。
ダイアナは、長い髪をポニーテールにまとめて、夜空のような深い藍色のドレスを着ていた。だが、髪型やドレスがシンプルだからこそ、ダイアナの華やかな容貌やすらりとした体躯の美しさがより際立っている。十五歳になって、その顔立ちにも大人びた聡明さが滲み出していた。
「ダイアナ」
ニアが思わず名前を呼ぶと、ダイアナはニアを見上げてにっこりと笑みを浮かべた。ニアへと向ける笑顔は、幼い頃と同じ無邪気なものだ。それが胸がいっぱいになるぐらい愛おしかった。
フィルバートが首肯を返すと、父が胸に手のひらを当てて敬礼を向けた。
「ライアン・ブラウン、王子殿下の元へ参りました」
「エヴァ・ブラウン、王子殿下の元へ参りました」
「ダイアナ・ブラウン、王子殿下の元へ参りました」
形式的な挨拶が終わると、フィルバートは鷹揚な声を返した。
「よく来てくれた。ブラウン伯爵家を歓迎する。こちらへ上がって来てくれるか」
フィルバートの言葉に、ほんの一瞬広間がざわついた。壇上に上がれるのは王族か、よっぽど王族に近しい一部の貴族のみだ。実際のところニアがフィルバートのロードナイトに選ばれてから、ブラウン伯爵家は第一王子派閥の筆頭になっていた。
フィルバートに呼び寄せられて、父は高揚したように鼻穴を膨らませていた。三人が階段を登って近付いてくる。
三人が壇上に来ると、フィルバートはらしくないぐらい柔らかな声をあげた。
「みな健勝だったか?」
「はい。家族全員、健康そのものです」
父が意気込んだ声で答えると、フィルバートはうなずきを返した。
「ならば良かった。お前たちが健やかに過ごしていることが私の幸福だ」
気遣いがたっぷりと含まれた台詞に、ニアはとっさに目を見開いてフィルバートをガン見してしまった。先ほどまで性格ねじ曲がり男だったはずなのに、中身が善人に入れ替わってしまっている。まるで結婚の挨拶に来た男が、義家族の前で猫をかぶっているみたいで正直気味が悪かった。
ニアのドン引きな顔に気付く様子もなく、フィルバートの労(いたわ)りの言葉に父は感涙しそうな勢いだった。小さく鼻をすする父を見据えて、フィルバートが確かめるように問い掛ける。
「それでブラウン伯爵、以前頼んだことは恙無(つつがな)く進んでいるか?」
あえて本質を隠すような曖昧な質問に、ニアは眉根を寄せた。
父が背をピシッと伸ばして答える。
「勿論です。申し出はすべて断っておりますし、手紙も一枚残らず握り潰しております」
「宜しい。今後も続けて頼む」
フィルバートが薄っすらと笑みを浮かべてうなずく。その様を見て、ニアは困惑の声をあげた。
「申し出とか手紙とか、何の話ですか?」
ニアの問い掛けに、フィルバートはわずかにだけ視線をこちらに向けた。だが、何も言わずに目を逸らしてしまう。
「お前が知る必要のないことだ」
そう言われた瞬間、ニアは自分でも意外なくらい動揺した。自分がフィルバートのことで知らないことがあるとは思ってもいなかった。四六時中と思えるぐらい一緒にいたのに、フィルバートは自分に隠している事があるのか。
とっさに歪みそうになった顔を伏せると、ダイアナの声が聞こえてきた。
「恐れ入ります。殿下とのファーストダンスの栄誉を、どうか私に頂けないでしょうか?」
口調は丁寧だが、その声音にはどこか寒々とした響きがあった。驚いて顔をあげると、にこにこと満面の笑みを浮かべたダイアナがまっすぐフィルバートを見つめていた。まさか今更フィルバートに恋をしてしまったのかとニアは焦ったが、ダイアナの貼り付いたような笑顔からは、フィルバートに対する恋心は欠片も感じられない。
唐突なダイアナの申し出に、フィルバートが片眉を跳ね上げる。
「お前とダンスか」
「ええ、私とダンスです」
「断ったら?」
綱渡りな交渉でもするみたいに、フィルバートが訊ねる。するとダイアナはゆったりと目を細めて答えた。
「私が殿下を『おにいさま』とお呼びする機会は永遠になくなるかと」
「踊ろう」
フィルバートが即答して、椅子から立ち上がる。その豹変っぷりに、ニアはギョッと目を剥いた。
そもそも、今の会話は何だったのか。なぜダイアナがフィルバートを『おにいさま』と呼ぶのかも意味が解らない。
ダイアナと二人ですたすたと階段を降りていくフィルバートの背に、ニアは慌てて声をかけた。
「フィル様、危険ではありませんか?」
「流石にこの大勢の中で襲ってくる暗殺者はいないだろう。俺も自衛するから、しばらくお前は自由にして構わん」
「ですが」
「ニアお兄さま、大丈夫よ。すぐに戻ってくるからね」
ダイアナが安心させるように、ニアにウインクしてくる。それからダイアナは弾んだ声でこうも付け加えた。
「今日のお兄さま、とっても素敵! その服、すっごく似合ってるわ!」
ダイアナの褒め言葉に、どうしてだかニアではなくフィルバートの方が得意げにうなずいているのが見えた。
そのまま階段を足早に下っていく二人の姿を、ニアは呆然としたまま見送った。父と母も、二人の後を追って広間の方へ降りていってしまう。
大広間に作られたダンスホールに二人が出ると、一瞬で辺りが静まり返った。大勢の貴族たちの視線を浴びたまま、平然とした様子でフィルバートがダイアナの手を握り、その細い腰を掴む。その光景を見た瞬間、ニアはどうしてだか心臓が引き絞られるような感覚を覚えた。
二人が踊り出すのと同時に、楽団が演奏を始めた。柔らかな音楽にあわせて、フィルバートとダイアナが息の合ったダンスを披露する。まるで絵画の一枚みたいな完璧な光景に、ニアは息をすることも忘れて見入った。
不意に『自分が間違っているのではないか』という考えが脳裏をよぎって、ニアは動揺した。自分は今まで死にものぐるいでダイアナをフィルバートから遠ざけようとしてきたが、それは正しいことだったのか。もしかしたら、本当は結ばれるべき二人をただ引き裂いてきただけなのでは――
脳裏に浮かんだ考えを、頭を左右に振って振り払う。
――違う、そんなわけがない。どうせ三年後には聖女が現れて、フィルバートの心は彼女のものになる。だから、ダイアナとフィルバートはどう足掻いても結ばれないのだ。だから、自分は間違っていない。これまでの選択が間違いだったはずがない……。
そう自分に言い聞かせても、眼下の光景から目が逸らせなかった。それぐらいフィルバートとダイアナはお似合いの二人だった。
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