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第二章
12 今日から、お前の机だ
しおりを挟む朝からため息が止まらない。
城へと向かう馬車に揺られながら、ニアはもう何度目になるか分からないため息を大きく吐き出した。気分が憂鬱なせいか、空は明るく晴れ渡っているというのに、どこかその青色が褪せて見える。
窓からぼんやりと空を見上げたまま、ニアは自分自身に言い聞かせるように呟いた。
「落ち着け。大丈夫だ。最悪な方向にはまだ進んでいない……はず」
最後に『はず』とつけてしまう自分の弱気が情けなかった。
実際、昨夜のバンケットでは、ダイアナがフィルバートに一目惚れすることを見事防いだ。予想外な襲撃にだって立ち向かって、敵を倒すことにも成功した。ただ一点だけ後悔してもし足りないのは……ニアがフィルバートに一目惚れしたという誤解を解けなかったことだ。
『一目惚れ』という言葉を思い出す度に、昨日の自分をボッコボコにぶん殴りたい衝動にかられた。その場にしゃがみ込んで、うわぁああぁ、と大声で喚いて、地面に頭を打ち付けたくなる。だが、そんなことをしたらブラウン家の長男が正気を失ったと思われてしまうから絶対にできないが。
同性にも関わらず第一王子に懸想する身の程知らず、と思われるのはまだ我慢できる。だが、もっと最悪だったのはフィルバートがトンチンカンな告白を面白がって、ニアを自分の傍らに置くことを選んでしまったことだ。
まさか、前の人生で自分を処刑した男の近くにいる羽目になるなんて――
せっかく神にやり直す機会をもらったというのに、なぜこんな悪夢みたいな事態になっているのか。
本来であれば、王子直々に登城を命じられたことは名誉なことだ。実際、昨夜のことを告げたら、ニアの父は子供みたいにはしゃいだ声をあげた。
「流石、我が息子! 王子を襲撃からお守りして側付きに選ばれるとは! 次のロードナイトに選ばれるのは間違いなくお前だッ!」
喜びのあまりくねくねとダンスまで踊り出した父の姿を、ニアは曖昧な笑みを浮かべて眺めた。母は何も言わなかったが、どこか誇らしげな眼差しで二アを見つめていた。
両親のそんな姿を見たら、本当は行きたくないんだ、なんてことは口が裂けても言えなかった。
結局何も打ち明けられず、しょんぼりと肩を落としたまま城へ向かっている。
気付けば、いつの間にか馬車は城門までたどり着いていた。すでにフィルバートから話は通されているのか、ニアの姿を見るなり見張り兵は何も言わずに城門の脇に作られた出入口を開いた。扉を通ると、門扉の横で待機していたらしき若いメイドがすぐさま近付いてきた。
メイドはくすんだ金髪をボブカットにしており、目元には細いフレームの丸眼鏡をかけている。眼鏡の奥に見える大きな瞳は目尻がツンと尖っており、どこか不機嫌な猫を想像させた。
「ニア・ブラウン様ですね。ご案内しますので、こちらへどうぞ」
にこりとも笑わず、若いメイドが恭(うやうや)しく頭を垂れる。そのまま、若いメイドはスタスタと迷いない足取りで歩き出した。その後ろを、慌ててついて行く。
城の中は、まるで迷路のように入り組んでいた。何度か城内に入ったことはあるが、ここまで奥まった場所に来るのは初めてだった。
西側一番奥の部屋の前まで来ると、メイドは重そうな扉を片手でコンコンと叩いた。
「ニア・ブラウン様がお越しです」
「入れ」
室内から短い返事が聞こえてくる。メイドが扉を開けると、書類が山積みになった執務机の向こう側にフィルバートの姿が見えた。よく見ると、床の至る所にも書類が積まれており、ひどいところでは雪崩が起きて散乱している。そこは王子の部屋というよりも、仕事をしすぎてノイローゼ気味な書記官の執務室のように見えた。
机の上に視線を落としたまま、フィルバートが事務的な声をあげる。
「クロエ、三年前の会計書類を一式持ってこい。それから、北部地方の鉄の採掘量の資料も」
「かしこまりました」
「それから、四年前の会計責任者を調べて檻にぶち込んでおけ。書類を見る限り、使途不明金が多数ある。おおかた自分の懐にでも入れていたんだろう。共犯がいないか吐くまで絞り上げろ」
「かしこまりました」
メイドとの会話とは思えないほど殺伐としたやり取りに、ニアは唖然とした。クロエと呼ばれたメイドが、ニアを置いてさっさとその場から去ってしまう。
呆然と立ち尽くしていると、フィルバートがわずかに視線をあげた。
「何をしてる。中に入ってこい」
その言葉に、慌てて室内に入って扉を閉める。フィルバートに向き直ると、ニアは胸元に手を当てて敬礼した。
「ニア・ブラウン、参りました」
「ああ、こっちに来い」
手元の資料に目を落としたまま、フィルバートが自身の横を指さす。積まれた書類を倒さないように気を付けながら、ニアは机を回ってフィルバートの隣に立った。そのまま直立していると、フィルバートがこちらを見上げた。
指をくいくいと動かされて、顔を近付けるように促される。不思議に思いながらも、ニアは言われるがままにフィルバートに顔を寄せた。途端、片手でガシッと無造作に下顎を掴まれる。
「ぅ、えっ!?」
「毒の後遺症はないか」
素っ頓狂な声をあげるニアを無視して、フィルバートがニアの左頬をじろじろと眺めてくる。そこには昨夜、毒剣が掠った傷が残っていた。
「へっ、平気です」
上擦った声でニアが答えると、フィルバートは、そうか、と呟いて呆気なく手を離した。それから素早い手付きで、手元の書類に文字を書き込んでいく。手を動かしたまま、フィルバートが言う。
「お前は、書類仕事は得意か?」
「え、あ、はい、不得手ではありません」
前の人生では、第二騎士団の事務作業の最終チェックは、すべてニアが行っていた。その中には、百人以上の経費計算や膨大な在庫管理なども含まれている。団員たちに『ニア副団長は細かすぎる!』と嘆かれるぐらいには、きっちりとした仕事をしていた自負はある。
「なら、そこの資料を年代別にわけて計算に間違いがないか確認してくれ」
フィルバートが、ペン先で床に山積みになった書類を指す。それを見て、ニアは思わず頬を引き攣らせた。あんなのは、どう考えても一月や二月程度で終わる量とは思えない。
「あれを、全部ですか?」
嘘だと言ってくれ、と言わんばかりに呟くと、フィルバートは顔を上げないまま呟いた。
「できないか?」
その問い掛けからは、突き放すような冷淡さを感じた。『できないのなら、さっさと帰れ』と暗にニアに告げているのだ。
それが解った瞬間、握り締めた拳に力が篭もった。『なんだ、このやろう』と対抗心が湧き上がって、頭の芯が熱を帯びたように熱くなる。だが、同時に打算じみた考えも浮かんだ。
ここでフィルバートに役立たずだと判断されるのは宜しくない。いざという時に、処刑される可能性が高まってしまう。それならばニアが有能な人間だと印象づけた方が有利だ。
「勿論、できます」
当たり前だと言わんばかりにニアが答えると、フィルバートは視線を上げた。少し怒ったようなニアの表情を見て、フィルバートが訊ねてくる。
「どれくらいで?」
「一月……いいえ、二十日いただければ」
ニアが挑むように答えると、フィルバートは目を細めて笑った。
「お前は、案外負けず嫌いなんだな」
悪くない。と独り言のように呟いて、フィルバートはニアの二の腕を軽く叩いた。
上手く誘導されたような気がして釈然としないが、それでもニアは黙ったまま床に積まれた書類へ手を伸ばした。数字がビッシリと並んだ紙を見て、すでにげんなりしつつも訊ねる。
「これは何の書類なんですか?」
「ここ十年間で各領地から提出された収支計算書だ。どこもかしこも財源不足などとほざいて領民の税をあげた上に、自分たちは横領やら賄賂やらと舐めた真似をしている。この機会に、腹を肥やした豚共を全員檻の中にぶち込んでやろうと思ってな」
口調は淡々としているが、その声音はかすかに楽しげだった。
言い方はともかくとして、フィルバートの言っていることは至極真っ当だった。まさか将来この国の頂点に立つ第一王子が自ら、こんな七面倒くさい調査までして悪徳貴族を追い出そうとしているなんて。
ニアが目を丸くしていると、ひらりと一枚の書類を手に取ってフィルバートが言った。
「ブラウン家は真面目だな。収支計算書も見やすいし、中身も一点の曇りもなくクリーンだ」
「ブラウン家は、真面目と馬鹿力だけが取り柄なので」
ニアがそう答えると、フィルバートはおかしそうに咽喉の奥で笑い声を漏らした。
――この人、案外よく笑うんだな。前の人生では、笑うことのない機械みたいな人だと思っていたのに。
フィルバートの顔を横目に眺めながら、ニアは床に積まれた書類をゆっくりと持ち上げた。ずっしりと重たい紙の束に、またため息が溢れてきそうになる。
「そこの机を使え」
示されたのは、フィルバートの机から少し離れた位置にある机だった。その机の上だけまっさらで、何も置かれていない。
机に書類を置きながら、ニアは訊ねた。
「どなたの机ですか?」
「俺の付き人のために用意された机だ」
その返答に、ニアは思わず目元を引き攣らせた。
「それは、つまり」
「『昨日まで』は、ヘンリー・ハイランドの机だった」
昨日まで、と付けられた前置きに、ニアは余計に自分の顔が歪むのを感じた。机の前で硬直するニアを見やって、フィルバートが面白がるように言う。
「『今日から』は、お前の机だ」
ニアはとっさに取り繕うこともできず、うえぇ、という奇妙なうめき声を上げてしまった。
登城するように言われたときから薄々感づいていたが、自分は本格的にフィルバートの『付き人』になってしまったらしい。付き人というのは、つまりロードナイト候補の筆頭でもある。昨日までヘンリー・ハイランドが鼻高々に座っていた椅子を、意図せず奪い取ってしまったということか。
――絶対に、死ぬほど恨まれてる。死ぬほどというか、殺したいほどというか……。
ニアが遠い目をしていると、フィルバートが楽しげな口調で続けた。
「ヘンリーは腕は立つが、計算が不得意で書類仕事では役に立たなかったからな。だが、俺は運が良い。ヘンリーよりも強く、計算もできる付き人が昨夜現れたからな。しかも、そいつは俺に惚れているというオマケ付きだ」
フィルバートが、にやにやと人の悪い笑みを浮かべている。そのいたぶるような笑みに、咽喉をゴクリと上下させてからニアは唇を開いた。
「あの、フィルバート様――」
「フィルでいい」
一目惚れと言ってしまったのは間違いなんです、と言いたかったのに、その前に言葉を遮られた。目を丸くするニアを見て、フィルバートが繰り返す。
「フィルと呼べ」
「え、あの、ですが」
「フィル」
言い聞かせるように繰り返されて、ニアは肩をすぼめると小さな声で言った。
「……フィル様」
「宜しい」
満足げな様子で、フィルバートが呟く。そのまま、手元の紙にペンを滑らせ始める。もうこれ以上は、何も聞いてくれなさそうな様子だ。
ニアは手元の書類を見下ろすと、フィルバートに聞こえないように小さくため息を漏らした。
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