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第一章
11 唇を奪った代償
しおりを挟むとっさに音の方向へと視線を向けると、複数の黒い影が温室内に飛び込んでくるのが見えた。顔まで黒い布で覆い隠しており、その手には短刀が握られている。まるっきり絵に描いたような暗殺者の様相だ。
暗殺者の一人が、薔薇の植え込みを突っ切って一気にこちらへと走り寄ってくる。同時に、フィルバートが自身の左腰に下げた剣を引き抜いた。月明かりに剣先がギラリと鈍く光るのが見えた瞬間、フィルバートの振るった剣が暗殺者の身体を斜めに切り裂いていた。
「ギャッ!」
踏まれた猫のような絶叫とともに、暗殺者の身体から噴き出た血が薔薇に飛び散る。途端、薔薇の匂いに混じって、深い血臭が鼻孔に潜り込んできた。そのまま、薔薇の中に埋もれるようにして暗殺者が倒れる。
突然の光景にニアが硬直していると、フィルバートが鋭い声をあげた。
「ニア・ブラウン! さっさと動けッ!」
冷静な見た目に似合わぬ、がなり立てるような叫び声に身体がビクッと跳ねる。
だが、こんなことは前の人生では起こらなかった出来事だ。バンケットの夜に、第一王子が暗殺者に襲われたなんて話は聞いた覚えがない。なぜ前の人生とまったく違うことが起きているのか。
だが、今はゆっくりと考え込んでいる暇はない。混乱しながらも、ニアはとっさに周囲を見渡した。暗殺者たちの人数は、今フィルバートが倒した一人を含めて合計五人のようだ。残り四人の暗殺者たちは、ジリジリとこちらへと距離を詰めてきている。
動けと言われても、ニアの手元には戦う武器すらなかった。先ほど倒れた暗殺者の短刀は、薔薇の中に埋もれて見えなくなってしまっている。
こんなことならヘンリーから剣を奪ってきていればよかったと舌打ちを漏らしそうになったとき、離れた場所から大きな声が聞こえた。
「お兄さまッ!」
視線を向けると、片手に長い棒を持ったダイアナが、大きく振りかぶっているのが見えた。そのままダイアナが勢いよくこちらへと棒を投げ付けてくる。風を切って飛んでくる棒を、ニアは片手で掴み取った。それは温室に置かれていた添え木用の棒のようだった。長さは一メートル半程度と、十分な長さと硬さがある。
棒を受け取るのと同時に、ニアはダイアナへと向かって叫んだ。
「隠れてろッ!」
そう叫んだ直後、四人の暗殺者たちが一斉に襲いかかってきた。
短剣を突き出してくる暗殺者の腕へと向かって、ニアは両手に握った棒を思いっきり振り上げた。次の瞬間、ゴギッと嫌な音を立てて、棒がぶち当たった暗殺者の腕が逆方向に折れるのが見えた。同時に、暗殺者がつんざくような悲鳴を上げる。その隙を逃さず、ニアは暗殺者の側頭部に棒を叩きつけた。ゴッという鈍い音と同時に、暗殺者の身体が真横に吹っ飛んでいく。
その様が視界に映ったのか、フィルバートが暗殺者の首を切り裂きながら笑い声混じりに呟いた。
「噂通りの馬鹿力だな」
こんな切羽詰まった状態だというのに、のんきな口調をあげるところが腹立たしかった。更に言えば、ニアに守れと言ったくせに全然守られる気がない、というか守る必要がないぐらいに隙のない剣捌きも憎たらしい。ニアよりも三歳年下と思えないほどにフィルバートは強く、人を斬ることに一切の迷いが感じられなかった。
「今は集中してください!」
ニアが礼儀も忘れて言い放つと、視界の端でフィルバートが緩く肩をすくめた。
フィルバートと背中合わせになって、それぞれが残った暗殺者と対峙する。流石に仲間を三人も失って警戒しているのか、距離を取ってこちらの様子をうかがっていた。
それを見て、フィルバートがニアにだけ聞こえるように小さな声で呟いた。
「行くぞ」
「はい」
当然のように、自分の口から同意の声が零れた。フィルバートが地面を蹴るのと同時に、ニアも暗殺者に向かって走り出した。
袈裟懸けに振り下ろされる剣を棒で受け止めて、そのまま暗殺者の至近距離まで近付く。頭を大きく後ろに反らすと、ニアは目の前の暗殺者の額へと向かって勢いよく額を叩きつけた。ゴヅッという骨同士がぶつかる音が響いて、暗殺者の咽喉から鈍い悲鳴が溢れる。
その瞬間を逃さず、ニアは暗殺者の手から短剣をもぎ取った。のけぞる暗殺者の心臓めがけて、短剣を一気に突き刺す。同時に、暗殺者の身体がビクッと捌かれた魚のように跳ねるのが見えた。ビクビクと数度跳ねた後、崩れるように地面へと仰向けに倒れていく。
暗殺者が息絶えたのを見てから、ニアは後方へ顔を向けた。視線の先で、フィルバートが最後の一人の暗殺者の胸を剣で貫いているのが見える。倒れた暗殺者から剣を引き抜いたフィルバートが、こちらを振り返った。
「終わったか」
「はい」
剣についた血を払いながら、フィルバートがニアへと近付いてくる。その平然とした姿を見て、ニアは思わず弱々しい声を漏らした。
「こいつらは何なんですか」
ニアの半泣きな声に、フィルバートは一瞬口の端にチラッと笑みを浮かべた。だが、すぐさま飽き飽きしたものでも眺めるかのように、暗殺者たちの死体を見下ろした。
「どこぞの誰かが俺を殺そうと送ってきたんだろう」
「どこぞの誰か、って誰ですか」
「敵なんていくらでもいる」
素っ気ない口調で、フィルバートは答えた。それは自分自身の状況を、どこか俯瞰して諦めているようにも聞こえた。
冷笑を浮かべたまま、フィルバートが続ける。
「今回の奴らは、誰が送ったのかは予想がついている。先日、あの女狐が気に入ってる大臣の裏金を暴いて、持っている鉱山をすべて差し押さえてやったからな。せっかく命だけは見逃してやったのに、自ら死ぬ理由を作るとは馬鹿な奴だ」
せせら笑うようにフィルバートが言う。だが、その中の意味不明な一言に、ニアは首を傾げた。
「女狐?」
オウム返しに呟くと、フィルバートは不愉快そうに目を細めた。だが、ふとニアの額で視線を止めると、怪訝に訊ねてくる。
「これはどうした」
フィルバートがニアの頭へ向かって手を伸ばしてくる。その躊躇のない動作に、ニアは一瞬身体を強張らせた。
フィルバートのひんやりと冷たい指先が、ニアの額に触れる。予想外に優しく、壊れ物に触るかのような繊細な手付きに、ニアは緩く目を見開いた。
ニアの額を指先でゆっくりと撫でて、フィルバートが言う。
「額が赤くなっている」
「これは、先ほど頭突きしたので」
かすかに上擦った声で説明すると、フィルバートは目を丸くした。
「頭突き」
今度は、フィルバートの方がオウム返しに呟く。直後、フィルバートがひどく面白いものでも見つけたように無邪気な笑みを浮かべた。
「お前は、予想外な奴だな」
フィルバートの輝くような笑顔を眺めて『案外よく笑うんだな』とぼんやりと考える。前の人生では、フィルバートが笑うところなんか一度も見たことがない。
吸い込まれるようにフィルバートの顔を見つめていると、不意に視界の端に何かが動くのが映った。最初にフィルバートが切り捨てた暗殺者が、最後の力を振り絞るようにして動いている。その手が投擲(とうてき)用の小刀を握っているのを見て、無意識に身体が動いていた。
「危ないッ!」
フィルバートの肩を掴んで、自身の後方へと押しのける。同時に暗殺者が投げた小刀が、ニアの頬を掠めて飛んでいった。
すぐさま状況を把握したフィルバートは、倒れた暗殺者に近付くとすぐさまその心臓を突き刺してトドメをさした。その淡々とした動作を眺めていると、不意にくらりと眩暈が走るのを感じた。
ぐらぐらと膝が揺れて、呼吸が勝手に早くなっていく。
「ニア・ブラウン?」
こちらを見たフィルバートが怪訝に眉を顰める。何か答えようとしても、咽喉が窄まっていて喋ることができなかった。
ヒュウッと咽喉が妙な音を鳴らすのと同時に膝から力が抜けて、ニアはその場に倒れ込んだ。仰向けになったまま小刻みに痙攣するニアを眺めて、フィルバートが忌々しげに呟く。
「剣に毒が塗られていたのか」
その声が、ひどく遠く聞こえる。目の前の光景が、まるで太陽の逆光でも当たったようにチカチカと点滅している。全身が燃えるように熱いのに、指先から体温が急速に抜けていくのを感じた。
――死ぬ。死ぬのか。せっかく過去に戻ったのに、こんなところで死んでしまうのか。まだ、何も守れていないのに……
後悔と未練に、胸が引き裂かれる。
目蓋がひどく重たくて、もう目を開けていることもできなかった。塗り潰されたような暗闇の中、藻掻くように宙へと手を伸ばす。その手が、誰かに掴まれるのを感じた。
「死にたくないか」
訊ねてくる声に、震える手で硬い掌をキツく握り返した。
「そうか」
ただの相槌のような、呆気なく答える声が聞こえた。
そして意識が完全に消える直前、唇に柔らかいものが触れて、咥内に何かとろとろとした液体が流れ込んでくるのを感じた。
「飲み込め」
命じる声が聞こえて、再び咥内に液体が流し込まれてくる。大半は口の端から零れていってしまったが、それでもわずかな液体が咽喉を通っていくのを感じた。何度も繰り返し、液体が口の中に注がれてくる。
次第に、冷え切っていた体内がじわじわと温まっていくのを感じた。まるで湯たんぽに包まれたみたいに、ほっと安らいだ心地で満たされていく。
はぁ、と淡く息を吐き出すと、再び唇に柔らかいものが押し当てられた。そのぬくもりが心地よくて、ニアは無意識に口元を緩めていた。ふにゃふにゃと子供みたいな笑みを浮かべていると、頭上から小さな笑い声が聞こえてくる。
誰の笑い声だろうか。ぼんやりと考えながら、ニアはゆっくりと目蓋を開いた。だが、次の瞬間、至近距離に見えた顔にカッと目を見開く。
目の前に、フィルバートの顔があった。唇が触れるような距離、というかもう完全に唇が触れている。
ニアが目を覚ましたことに気付くと、フィルバートは悪戯でもするようにニアの下唇をぺろりと舐めてきた。その柔らかく濡れた感触に、ぞわぞわと皮膚が粟立つ。
「な、な、なっ……」
なんでキスしてるんですか。と言いたいのに、言葉が詰まって出てこない。
酸欠の金魚みたいに口をパクパクさせるニアを見て、フィルバートはニッと猫みたいに目を細めた。
「運が良かったな。襲撃者が解毒剤を持っていて」
フィルバートが、ニアの顔の前で見せつけるようにして空っぽになった小瓶を左右に振る。それを見て『つまり、口移しで解毒剤を飲ませてくれたということか』と把握する。だが、どうしても口移しでなければならなかったのか。
ニアが言葉を失っていると、ふとか細い声が聞こえた。
「ニアお兄さま……」
顔を上げると、ダイアナが泣き出しそうな表情でこちらを見ていた。その腕には、先ほどの生意気な少年――おそらく第二王子が捕らえられている。第二王子は、どうしてだか英雄でも見るようなキラキラとした眼差しでニアを見つめていた。
「ダイアナ、怪我はないか?」
「そういうお兄さまこそ、本当に大丈夫なの……?」
駆け寄ってきたダイアナが、地面に膝をつく。ニアの頬に揺れる細い指先がかすかに震えているのを感じて、胸がギュッと締め付けられるのを感じた。
「ああ、大丈夫だよ」
安心させるように答えると、ダイアナはくしゃくしゃに顔を歪めて、ニアの胸に抱き付いてきた。そのまま、子供みたいにわんわんと声をあげて泣き出す。
泣きじゃくるダイアナの背中を優しく撫でていると、不意にはしゃいだ声が聞こえてきた。
「おまえ、つよいんだな! よろこべ! おれの部下にしてやる!」
そう興奮気味に叫んでいるのは、先ほどの第二王子だった。頬を紅潮させる第二王子の姿にニアが呆然としていると、冷え冷えとしたフィルバートの声が響いた。
「ロキ、そいつはお前のものじゃない」
ピシャリと言い放つ声に、ロキと呼ばれた第二王子は不服げな眼差しで、フィルバートを見上げた。
「やだ、おれが欲しいもん!」
「駄目だ。そいつはやらない」
「なんでっ!」
ロキが地団駄を踏んで叫ぶ。その姿を呆れたように眺めてから、フィルバートはニアを横目で見やった。フィルバートの唇が、まるで獲物でも見つけたように薄く吊り上がる。
「ニア・ブラウンは、俺が見つけた」
その言葉を聞いた瞬間、まるでキツい首輪でもはめられたかのように息が詰まるのを感じた。
目を見開くニアの前に、フィルバートがしゃがみ込む。
「なぁ、ニア」
まるで友人に喋り掛けるような親しげな声に、ニアは思わず顔を引き攣らせた。強張ったニアの顔を見つめたまま、フィルバートが言う。
「明日から、俺の元へ来い」
「え、あの、俺は――」
「俺の唇を奪った責任を取ってくれるだろう?」
指先で小虫をいたぶるような楽しげな口調で、フィルバートが言う。その言葉に、ニアはとっさに『俺じゃなくて、あんたが奪ったんだろう!』と言い返しそうになった。だが、そんなことを言い返したところで、目の前の相手にはきっと通じないのも解っていた。
「で、ですが、俺は――」
「『はい』か『いいえ』で答えろ」
先ほど言っていたのと同じ言葉だ。それは言い換えれば『はい』という返事以外は許さないということだ。
完全に逃げ道が塞がれたのを感じて、ニアはガックリとうなだれながら答えた。
「……はい」
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