【完結&コミカライズ進行中】俺の妹は悪女だったらしい

野原 耳子

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第一章

05 トレーニング

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「やだ! もう今日はトレーニングしたくないっ! 足も膝も痛いもんッ! これ以上走ったら、お尻が割れちゃうぅ!」
「逃げるなダイアナッ! これ以上逃げ回るなら、今日は走り込みを十周追加するぞ! それに尻は元から割れてる!」


 喚く声にそう叫び返しながら、部屋の壁に背を当ててじりじりとこちらの様子をうかがうダイアナを見据える。

 イヤだと言いながらも、ダイアナはパジャマ姿ではなくしっかりと動きやすい服装に着替えており、長い髪も一つに括っている。それはもちろんやる気の現れなどではなく、毎朝むりやり屋敷裏の鍛錬場まで引きずっていくニアから逃げるためだろうが。

 ニアが過去に戻った日から、すでに二月が経とうとしている。あの朝食の後から、ニアは毎日逃げるダイアナをひっ捕まえては鍛錬を繰り返していた。基礎的な走り込みや筋トレはもちろん、最近は棒術も習わせている。


「逃げれば逃げるほどトレーニングがキツくなるって、いい加減解ってるだろう――これで、腕立て伏せ五十回追加だ」

 無慈悲にそう告げると、ダイアナは愕然とした表情を浮かべた。


「お兄さまの鬼っ!」
「鬼で結構だ――腹筋百回追加」


 情け容赦なく追加していくニアに、ダイアナが泣き出しそうな声で叫ぶ。


「前のお兄さまに戻ってよぉ!」


 その言葉に、胸が軋むように痛むのを感じた。

 ダイアナにしてみれば、優しかった兄が突然自分を苦しめる悪魔に変貌したようなものだろう。ニアだって、ダイアナに苦痛を与えたいわけではない。

 できれば毎日綺麗なドレスを着させて、甘いものをたっぷりと食べさせて、ダイアナが笑顔になることだけで毎日を満たしてやりたい。

 だが、それでも――


「絶対に、戻らない」


 自分に言い聞かせるように、低い声で言い放つ。

 ニアは両腕を組むと、涙目のダイアナをまっすぐ見据えた。


「今の発言で、模擬戦が三回追加になったな」


 その一言に、ダイアナの顔がくしゃくしゃに歪む。


「棒術なんてやらせてどうするのよぉ! 棒を振り回すような令嬢はいないわっ!」
「何かあったときに自分の身を守れるようになるだろう?」
「何かって何ぃ!?」


 意味不明だと言わんばかりに、ダイアナが金切り声で叫ぶ。その声に、ニアは腰に手を当てて、静かな声をあげた。


「この世界には、不条理で不公平なことが数え切れないほどある。時として絶対的な力によって大切なものを奪われることだってあるだろう。そのときに対抗できるのは、今まで築き上げてきた自分の力だけだ。肉体の強さは、心の強さにも繋がる。俺は、ダイアナに他人や自分に負けない力をつけて欲しいんだ」


 そう淡々と告げる言葉は、ダイアナへの教訓というよりも、自分に対する戒めのように思えた。誰よりもニア自身が、負けない力を欲しているのだから。

 ダイアナは『また兄が変なことを言っている』とばかりに眉を寄せている。だが、今はそれで良いと思う。ダイアナには、まだこの世界の不条理さや人間の残酷さに気付いて欲しくないという気持ちもあった。

 感傷を誤魔化すように、おどけた口調で続ける。


「それに棒ならどこにでもあるから、馬鹿な男に襲われたときに速攻でぶん殴れるぞ」
「私はおしとやかな令嬢だから、そんなはしたないことしないもん……」


 拗ねた口調でダイアナが呟く。その言葉に肩を揺らして笑いながら、ニアは自身を指さした。


「じゃあ、俺を一発でも殴れたら、その時点で鍛錬終了っていうのはどうだ?」


 そう告げた瞬間、ダイアナの目がギラッと鈍く光った。


「それ本当?」
「もちろん」


 両腕を広げて鷹揚に答えると、ダイアナは途端ウキウキとした様子でニアに近付いてきた。


「約束だからねっ! 一発でも当たったら終わりよ!」
「ああ、当たったらな」


 にこやかに答えながら、ニアはダイアナとともに鍛錬場に向かった。



***



「お兄さまのバカァ! うそつきぃ!」
「嘘なんかついてないだろう」
「ざっぎ手加減じてぐれるっで言っだぁ!」


 ダイアナが泣き喚きながら、鍛錬場の真ん中に倒れ込んでジタバタと四肢を暴れさせている。つい四月前までは貴族らしいオシャマな少女だったのに、今は完全に赤ん坊返りしていた。

 この光景を見るのも、もう何度目だろう。少なくとも両手両足では数え切れないほどだ。

 ニアを一発殴ったら鍛錬終了という約束をしてから、今日で二月が経とうとしている。つまりニアが過去から戻って、すでに四月の月日が過ぎていた。

 手に持った長い棒を肩に当てながら、ニアはダイアナを見下ろした。


「手加減はした。その証拠として、今日だって左手しか使ってないだろう?」
「でも、足で私の棒蹴っ飛ばして弾いたぁ!」
「足は使わないとは言っていない」
「うぞづきぃぃい!」


 とうとうギャン泣きし始めたダイアナから視線を外して、ゆっくりと棒を握る自身の手のひらを眺める。かすかにその指先が痺れているのを感じて、ニアは薄っすらと笑みを浮かべた。

 ダイアナも武器の扱いに慣れて、力の乗せ方が上手くなってきた。毎回ギャンギャンと泣き喚いてはいるが、ダイアナの覚えはかなり良い。もっと小さい頃から鍛錬を積んでいたら、センスだけでいったら自分を越えていたかもしれない。

――このまま強くなれば、聖女を階段から突き落とすような卑怯な真似はしないだろう。

 逆に聖女の頭を棒でカチ割ったりしないかは不安だが、肉体的に強い人間の方が安直な暴力には走らないはずだ。

 そう考えつつ、ニアはゆっくりと頭上を仰いだ。朝方に鍛錬を始めてから、すでに太陽は頭のてっぺんまで昇りかけている。いつの間にか、昼時になっていたようだ。

 ニアは、鍛錬場の隅に控えていたメイドのジーナへと視線を向けた。


「ジーナ。午後の授業が始まる前に、ダイアナを屋敷に連れて戻ってくれ」


 午後からは礼儀作法の授業があるから、ダイアナの鍛錬は午前中いっぱいまでと決めていた。

 近付いてきたジーナが、申し訳なさそうにダイアナの両脇に腕を差し込む。しゃくり上げるダイアナの身体を引っ張り上げながら、ジーナは心配そうな眼差しでニアを見つめた。


「ニア坊っ……ニア様も、すこしはお休みになってください」


 坊ちゃんと言い掛けたが、ジーナは一瞬言葉に詰まった後に『ニア様』と言い直した。それはニアが頼んだことだった。前の人生では二十三歳まで生きた自分が『坊ちゃん』と子供みたいに呼ばれるのは、流石に恥ずかしかったからだ。だが、様付けで呼ぶように頼んだときに、ジーナがほんの少し傷ついた表情をしたのには、何だかニアの方まで胸が痛くなった。

 ジーナが、鍛錬場の端に置かれている休憩用のベンチへと視線を向ける。


「あちらにお水と昼食も用意しています。今日は、アランが腕によりをかけてローストビーフのサンドイッチを作っていましたよ」
「ありがとう、後で食べるよ。アランにもお礼を伝えておいて」


 そう告げると、ジーナは少しだけほっとしたように表情を緩めた。だが、その眉尻はまだ不安げに下がったままだ。

 過去に戻ってから突然人が変わってしまったニアを一番心配しているのは、もしかしたらジーナかもしれない。以前は穏やかだったニアが、あんなに猫可愛がりしていた妹を厳しく鍛え始め、それ以上に自分自身を苛烈に苛め抜いているのだから、不安になるのも当然だ。

 ダイアナに約束した通り、ニアはダイアナの三倍以上走り、十倍以上のトレーニングを行っていた。ダイアナとの鍛錬が終わった後も、ひたすら斧を振り続け、肉体を酷使し続けている。

 巨大な斧を扱えるようになるのは勿論、それ以外の武器も使えるようになった方がいいと思い、父に頼んで武術教師も何人か雇ってもらった。毎日日替わりでやってくる教師に、剣や槍や弓の使い方を教わって、ひたすら練習と模擬戦を繰り返している。

 だが、肉体的な力だけでは、元の運命に立ち向かえるとは思えなかった。多くの知識を得て、知恵を回らせ、周囲の状況を先回りして読む力も必要だ。

 だから、日が暮れてからはありとあらゆる本を読みあさり、最近の国内外の情勢に詳しい有識者を招いて話を聞き、父の領地管理の業務にも積極的に参加させて貰っていた。

 そして、周りから世情を聞く度に、前の人生と同じ出来事が起こっていることを知って絶望するのだ。遠い国で疫病が流行って大勢の人間が死んだことも。著名な画家が貴族の妻と不倫をして、屋敷に火をつけて心中した事件も。すべて前の人生と同じだった。それを知る度に、着実に同じ運命が自分たちに迫ってきているのだと気付いてニアは恐れおののいた。

 だからこそ、一歩も足も緩めることはできなかった。一分一秒も無駄にはできない。運命から逃れるためにも、とにかくガムシャラに自分ができることをするしかなかった。

 そうやって寝る間も惜しんで貪欲に動き続けるニアの姿に、周りは様々な反応を返した。

 父は「とうとうブラウン家の跡継ぎとしての自覚が芽生えたんだな」と訳知り顔でうなずき、母は「ニアも思春期なのかしら」とのんきなことを言い、ダイアナは「絶対にどこかで頭を打っておかしくなったのよ!」と声高々に主張した。そして屋敷で働く従者たちは、今まで真面目だけが取り柄だった長男の変わりように目を剥いたが、自分たちに被害がないならいいか、とばかりに黙認の姿勢を取っている。

 だが、ジーナだけは我が子を心配する母親のような眼差しで、ニアを見つめてくるのだ。毎晩、マメが潰れて血だらけになったニアの手足に包帯を巻き直しているときも、青痣だらけの身体に薬草を塗ったガーゼを貼り付けているときも、悲しげに目を潤ませている。

 泣き疲れてグニャリと脱力しているダイアナを抱えたまま、ジーナがぽつりと呟く。


「ニア様……ジーナは心配です」


 その一言に、不意に目の奥が痺れるように痛んだ。涙腺が緩みそうになるのを奥歯をキツく噛んで堪えてから、ニアはジーナへとにこやかな笑みを向ける。


「心配って何がだ?」
「ニア様がご無理をされてないかと……」


 泣き出しそうなジーナの声に、ニアは小さく首を左右に振った。


「ジーナ、俺は大丈夫」


 ジーナではなく、自分自身に言い聞かせるように口に出す。毎日全身の骨や筋肉が裂けるように痛んでも、教本を読んでも疲労のあまり頭が回らなくて癇癪を起こしそうになっても、それでも家族が処刑される未来が訪れるよりかはずっとマシだった。

 大丈夫と伝えたのに、ジーナはなぜか余計に顔をくしゃくしゃに歪めた。咽喉を一度大きく上下させた後、ジーナが掠れた声で言う。


「どうか失礼な発言をお許しください。でも、ジーナには、今のニア様は何かに追い立てられているように見えるのです」


 核心をついたジーナの言葉に、ニアは一瞬唇が震えそうになった。

 追い立てられている。その通りだ。自分は運命から逃れようと必死になっている。もし今自分が足を止めれば、運命が自分たち家族を食い殺しにくると解っているから。

 ぞわぞわと這い上がってくる怖気に、無意識に首筋を手のひらで撫でる。ニアは殊更明るい笑みを浮かべて、何てことない口調で答えた。


「大丈夫だって。俺はただ、ブラウン家の名にふさわしい人間になりたいと思ってるだけだよ。だから、今必死に頑張ってるんだ」
「ですが……」
「ジーナも応援してくれると嬉しい」


 畳み掛けるようにそう続けると、ジーナは開きかけていた唇を閉じた。そのまま、もの言いたげな眼差しでニアを見つめてくる。だが、結局諦めたようにうつむくと、小さな声で囁いた。


「一人で我慢なさらないでくださいね。ジーナは、いつだってニア坊ちゃんの味方ですから」


 ニア様ではなくニア坊ちゃんと呼ばれた瞬間、ニアは子供のときみたいにジーナに縋り付いて泣きたいような衝動にかられた。だが、必死に我慢して、笑顔のまま続ける。


「ありがとう、ジーナ。そう言って貰えて、すごく心強いよ。だけど、ジーナは先にアランとの結婚式のドレスを準備することを考えないといけないんじゃないか?」


 茶化すようにそう言うと、ジーナはそばかすの散った頬をポッと淡く赤らめた。ジーナの初々しい反応に目を細めながら、笑みを深める。


「ドレスはうちから贈らせて欲しい」


 そう告げると、ジーナは躊躇うように視線を揺らした。


「そんな、そこまでして頂くのは申し訳ないです」
「ジーナは長い間ブラウン家に尽くしてくれた。だから、少しだけでもお礼をさせて欲しいんだ」


 言い聞かせるような口調で言うと、ジーナはニアの頑固さを思い出したように小さくうなずいた。だが、その口元は嬉しさを隠しきれないように緩んでいる。

 すると、不意にぐったりとしていたダイアナが目をカッと見開いた。


「ドレス!? ドレスを買いに行くの!?」


 打って変わってはしゃいだ声をあげるダイアナの姿に、ニアは首を左右に振った。


「ダイアナのドレスじゃなくて、ジーナのドレスだよ」
「そんなの解ってるわよ! ねぇ、ジーナ、私と一緒にドレスを買いに行きましょうね! 私がジーナに一番似合うドレスを選んであげるからっ!」


 ダイアナの強い口調に、勢いに押されたジーナがコクコクとうなずく。すると、ダイアナは勢いよくニアを振り返ってきた。


「お兄さまも一緒に買いに行きましょうねっ!」


 その鬼気迫る様子を見て、ようやくダイアナの意図が読めた。目をカッ開いてこちらを凝視するダイアナの姿に、思わず肩を揺らして笑う。


「解った。その日は鍛錬は休んで、みんなで街に出ような」


 ニアの言葉を聞いた瞬間、ダイアナは両腕を振り上げて「やったー!」と淑女らしくない声をあげた。
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