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3巻

3-3

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 銃声が響き続ける中、覚えのある扉を開く。そこは最初に通された、ニカがいた広間だった。広間の奥へ向かっていくと、こんもりと膨らんだ毛皮の敷物が見えた。敷物がぶるぶると震えているのが判る。

「ニカ」

 声を掛けると、ビクンッと敷物が跳ねた。震えるだけの敷物を眺めたまま、雄一郎はゆっくりとした口調で続けた。

「お前は一生そこで震えてるつもりか」

 問い掛けても、敷物の下でおびえる男は声をあげようとしない。

「お前の妹は、民を守るために命がけで戦ってるぞ」

 淡々とした声で告げると、ようやく敷物の下からくぐもった声が聞こえた。

「……ユリアと、お、俺は違う……」
「何が違う。お前達は兄妹だろう。同じ血を引いている」
「それでもッ……ユ、ユリアは見てないんだ……目の前で、家族が殺されるさまを……お、俺はもう二度と見たくない……あ、あんな光景は二度と、二度と無理だ……」

 ニカの押し殺した声が響く。駄々をねる子供のような声音だと思った。
 雄一郎は小さく息を漏らして、静かにたずねた。

「それじゃあ、今度は妹を見殺しにするのか」

 敷物が再びビクッと跳ねるのを眺めて、雄一郎は寒々とした声を漏らした。

「お前は民だけでなく、唯一残った妹まで見殺しにするのか。民達の死体の山を見て、妹の死骸を目の前にして、お前は自分の選択を後悔しないか。自分は間違っていないと胸を張って言えるか」

 問い掛けるように言葉を紡ぐ。

「お前は、どうしたい」

 そう告げた瞬間、更に敷物の震えが激しくなった。だが、ニカは何も答えない。ゆる溜息ためいきを漏らした時、テメレアがつぶやいた。

「ノーラ様はどこですか」

 こわったテメレアの声に、雄一郎は敷物をじっと眺めた。どう見ても、人一人分の膨らみで、ノアまで入っているとは思えない。

「おい、ノーラはどこに――」

 震えるニカへ問い掛けようとした瞬間、不意にドォンと鈍い轟音ごうおんが響きわたった。あまりの衝撃に、ぐらりと床が揺れる。
 足踏みをしてぐらつく身体を支えながら、視線を轟音ごうおんのほうへ向ける。屋敷正面側からの音ではない。屋敷左側からの破壊音だ。

「な、何が」

 テメレアのうわった声を聞きながら、雄一郎はかついでいた銃を手に取った。製鉄工であるカンダラに作らせた新式の銃だ。

「敵は正面だけじゃないらしい」

 自分自身に確認するようにつぶやく。おそらく今のは屋敷側面を爆薬で吹き飛ばした音だろう。

「俺より前に出るな。お前はそいつを守ってやれ。できれば死なせるな」

 そう命じると、テメレアは不服そうな表情を浮かべた。雄一郎は銃を手に、広間の扉へ歩き出した。
 扉の陰から廊下の方へと視線をやる。廊下の奥は、まるで深い森のように暗く陰っていた。暗闇から無数の足音が近付いてくる。屋敷の床がギィギィと割れそうなほどきしんでいるのが聞こえた。
 そうして、暗闇から人影が浮かび上がってきた瞬間、雄一郎は照準を合わせた銃の引き金を引き絞った。慣れ親しんだ乾いた音とともに、肩にグッと重力がかかる。

「ギャッ!」

 暗闇から響く短い悲鳴と、人が倒れる音を聞きながら、雄一郎はかすかに口角を吊り上げた。良い手応えだ。父を越えると言っただけあって、カンダラの作った銃の性能は悪くない。
 廊下を駆けてくる影に向かって、雄一郎はただ撃ち続けた。頭の中で残り弾数を数える。手元にあるマガジンは一つきりだ。つまり、二十二発しかない。
 撃った人数が片手を超えた辺りから、口内に嫌な唾液がわき上がってきた。廊下の奥からは深い血臭がただよってくる。そうして、すすり泣きにも似たうめき声も絶えず聞こえてきた。それは地獄の底から響くじゅのようにも思える。
 まるでうじのように盗賊共が次々と湧いて出てくる。屋敷の正面側からも、雄叫びのような怒声がいくつも聞こえてきた。続けて剣を打ち合う音が響き始める。正面側でも、とうとう白兵戦が始まったのだろう。
 波のように押し寄せる盗賊共を一人で抑えきることはできず、次第にその距離が縮まっていく。銃の残弾数ももう残り少ない。盗賊共との距離が十メートルを切った瞬間、雄一郎は銃を放り投げて腰帯のナイフを手につかんでいた。

「雄一郎様ッ!」

 テメレアの声を聞きながら、一気に廊下へ駆け出す。
 突き進んでくる盗賊の一人が長刀を振り上げるのが見える。それが振り下ろされるよりも早く、走る速度を上げて一気にナイフごと盗賊の身体に体当たりした。ナイフの先端が肉に深く埋まるのを、グリップ越しに感じる。心臓の激しい脈動がナイフを握る指を叩く。
 ゴボッと盗賊が血反吐ちへどを吐く。熱い血潮が頬にかかって、首筋を伝っていった。心臓を突き刺された盗賊の手から長刀を奪い取って、既に息絶えたその身体を、こちらへと駆けてきていた他の盗賊に向かって突き飛ばす。仲間の亡骸に押し潰されて、もう一人の盗賊が床に尻餅をつく。雄一郎は片手につかんだ長刀を振り上げて、尻餅をついた盗賊の首へとめがけて無慈悲に振り下ろした。

「た、たす――」

 命乞いが途中で途切れる。目を見開いたままの盗賊の男の首が宙を舞った。まるでボールのように数回バウンドして廊下を転がっていく。首の断面から、まるで噴水のように血が噴き上がって、壁を凄惨せいさんよごした。長刀を床へ放り捨てて、息絶えた盗賊の胸からナイフを引き抜く。
 息を切らす間もなく、次の盗賊が現れる。何人いるのか、いつ終わるのか、救援は来るのか、そんなことを考える余裕もなく、雄一郎はただひたすら殺されないために殺し続けた。
 ナイフを握る手のひらの感覚がなくなりかけた時には、足下に血の海が広がっていた。足をおろす度に赤い水飛沫が跳ねるほどだ。
 振り下ろされる長刀をナイフで受け止めた瞬間、その衝撃で、ズッと足が血溜まりを滑った。片膝が折れて、長刀が眼前に迫る。まずいと思うのと同時に、目の前の盗賊の顔面に棒が叩きつけられた。
 隣を見ると、棒を握り締めたテメレアが野球のバッターのような姿勢をして立っていた。

「……俺より前に出るなと言ったはずだ」
「はい、とお答えした記憶はありません」

 屁理屈を言って、床でうめく盗賊の顔面にテメレアは更に棒を振り下ろした。完全に気絶したのか、盗賊はうめき声ひとつ漏らさなくなった。
 血に濡れた手のひらを服でぬぐって、ナイフを握り直す。ふらつく身体を奮い起こして立ち上がろうとした瞬間、テメレアの悲痛な叫び声が響いた。

「雄一郎さ――ッ!」

 叫び声と共に、テメレアの身体が覆い被さってきた。テメレアの身体越しにドッと重たい衝撃が走る。視界の端で赤い飛沫しぶきが散り、床に小さな穴が開くのが見えた。

「ッ、ぐ……!」

 押し殺された悲鳴が聞こえた瞬間、雄一郎はテメレアの胸倉をわしづかんで、近くの扉の中へと引きずり込んでいた。盾のように扉を外側へ大きく押し開くのと同時に、扉の上側にドンッと小さな穴が空く。銃痕だ。
 テメレアの身体を扉の内側へと転がす。その左鎖骨付近から真っ赤な血がにじみ出しているのが見えた。テメレアの美しい顔が苦痛にゆがんでいる。そのさまを見た途端、すぅっと身体から血の気が引くのが解った。

「テメレア」

 自分の声が遠い。テメレアはうめき声を噛み殺しながら、目を細めて雄一郎を見上げた。

「私のこと、は……いい、ですから……」

 いいわけがない。駄目だ。絶対に駄目だ。この男の代わりなんて、どこにもいるわけがない。
 先ほどまで燃えるように熱かった身体が、急速に冷たくなっていく。
 廊下から向かってくる足音がどんどん近付いてくる。盾のようにしていた扉から、短銃を持った盗賊が顔をのぞかせた。雄一郎とテメレアを見下ろして、盗賊がニヤリと笑みを浮かべる。
 反射的にナイフを握り直そうとするが間に合わない。頭部に向けられた銃口を見つめた直後、突然盗賊の後ろから小さな影が飛び出してきた。その影が真下から突き上げるようにして、短銃をつかんでいた男の腕へと漆黒のナイフを突き刺す。
 同時に引き金が引かれたのか、パンッと乾いた音と共に耳の近くを銃弾がかすめた。キィンと耳鳴りが響く。
 小さな影はうめき声をあげる盗賊の腕からナイフを一気に引き抜くと、今度はその腹目掛けて突き刺した。鋭い絶叫をあげた盗賊がもだえるようにして床へと倒れる。小さな影はトドメをさすように、盗賊の身体に馬乗りになってその胸部へともう一度ナイフを突き立てた。
 もう悲鳴は聞こえない。代わりのように、荒い呼吸音が聞こえた。肩で息をしながら、小さな影が肩越しに振り返る。

「雄一郎、大丈夫?」

 そうたずねるノアの顔は、今しがた息絶えた男の血で赤くよごれていた。
 ぐちゃり、と盗賊の胸からナイフが引き抜かれる。粘ついた血がナイフの先端からしたたり落ちているのが見えた。そのナイフを握るのは、まだ幼さを残した小さな手のひらだ。
 ノアは、もう女の格好をしていない。長い髪のカツラを脱ぎ捨て、動きやすそうな服に着替えている。
 ナイフをキツく握り締めたまま、ノアはどこか据わったまなしで男の亡骸を眺めていた。その眼球ににじ仄暗ほのぐらい光に、雄一郎はかすかに唇を震わせた。人間が人間を殺す場面なんて今までいくらでも見てきたというのに、ひどく陰惨なものを見ている気分になった。

「ノア」

 名前を呼ぶと、ノアは鈍い動作で雄一郎へと視線を向けた。そのまま、口角をわずかにらせる。笑おうとしたのかもしれない。

「雄一郎、大丈夫? 怪我はない?」

 また大丈夫かとたずねてくる。だが、その声は小刻みに震えているように聞こえた。
 その直後、廊下を駆ける複数の足音が聞こえた。とっにノアの腕を引いて、自身の後ろへと押しやるのと同時に、見覚えのある枯草色の頭が視界に映った。

「女神様」
「キキ」

 キキの後ろには、数人の自警団員の姿も見えた。誰もが全身を血に染め、交戦の痕を色濃く残している。倒れたテメレアを見ると、キキはその顔を苦々しくゆがめた。

「遅くなり申し訳ございません」
「お前のせいじゃない。正面側の状況は」

 たずねながら、テメレアの上着を開く。傷口を確かめると、どうやら銃弾は体内を抜けていったようだった。おそらく臓器も損傷していないだろう。致命傷ではないことに、こわっていた身体からほっと力が抜ける。

「正面側の攻撃は、先ほどよりは落ち着きました。ですが、すぐに第二陣の攻撃が来るかと」
「ああ、時間がないな」

 もしもアオイが本格的にこの村を潰そうと考えているのなら、盗賊共に続いてゴルダールの軍が襲ってくることも十分に考えられる。軍が来れば、戦う間もなく蹂躙じゅうりんされることは目に見えていた。
 キキの声にこたえながら、テメレアの傷口に服を破った布を押し付ける。すぐさま布に真っ赤な血がじわりと染み込んでいった。傷口を押さえていると、テメレアがゆるく首を左右に振った。

「私は、大丈夫です。ノア様を……」

 そうささやく声に、視線を再びノアへ向ける。ノアは、どこかうつろなまなしを足下に向けたまま微動だにしていない。

「ノア」

 再び名前を呼ぶ。ノアは、今度は雄一郎を見なかった。ナイフのグリップにギリギリと食い込むノアの指先を見て、雄一郎は眉をひそめた。

「指から力を抜け」

 手を伸ばして、ノアの腕をつかむ。だが、ノアはうつむいたまま首を小さく左右に振った。

「雄一郎を守る」

 譫言うわごとのようにつぶやくノアの姿に、心臓にわずかな痛みを覚えた。ノアは初めて人を殺した。雄一郎のために、自分の手を血でよごした。

「ああ、そうだ。守ってくれた。もう大丈夫だ」

 言い聞かせるようにつぶやくと、ノアはようやく視線をあげた。どこか感情をうかがわせないノアの瞳をのぞき込んで、雄一郎はそっと告げた。

「よくやった」

 そうささやいた瞬間、こわっていたノアの口角がひくりと戦慄わなないた。ノアの顔がくしゃくしゃにゆがめられる。その頭を、軽く胸元へと抱き寄せた。

「お前はやるべきことをやった」

 お前は悪くないとは言えない。だが、確かにノアは今この戦場で必要なことを行った。そう言い聞かせるようにつぶやく。
 小さな後頭部をぽんぽんと手のひらで叩いていると、ふと広間の奥から唖然とした声が響いた。

「ノ……ノーラ……?」

 敷物の下から頭をのぞかせたニカが呆然とこちらを見ている。敷物に半ば埋まったままのニカを見た瞬間、ノアの表情が怒りにゆがんだ。大股でニカに近付いていくと、ノアはあらん限りの声で叫んだ。

「いつまで隠れてるつもりだッ!」

 ノアらしくない、低くとどろくような声だった。ビリビリと大気を震わせるノアの声に驚いたのか、ニカは身体をビクッと大きく震わせた後、敷物をね上げるようにしてその場に正座した。
 硬直しているニカを見下ろして、ノアがうなるような声で続ける。

「自分に失望したまま死ぬ気なのか」

 その問い掛けに、ニカの眉尻がくにゃりと下がる。ニカは力なくうつむいて、ぼそぼそと聞き取りにくい声でつぶやいた。

「……お、俺には、何もできない」

 言い訳のようなニカの台詞せりふに、ノアの表情が悔しげにゆがむ。ノアは血で真っ赤に染まった手を、ニカの目の前に突き出した。途端、ニカがヒッとおびえたようにうわった声をあげる。

「できることはある」

 力強いノアの声に、ニカがぱちぱちと目をまたたかせる。その顔を見据えたまま、ノアは続けた。

「僕を助けて」

 間の抜けた言葉だと思った。だが、その声音には愚直なまでの切実さがあった。
 ノアは「国を」とも「民を」とも「妹を」とも言わなかった。ただ、目の前にいる自分を助けてほしいと、逃げ隠れる男に懇願していた。

「僕も、きみを助けるから」

 ささやくようなノアの声に、ニカの表情が泣き出しそうにゆがむ。最初の傲慢ごうまんで怠惰な男のなりは消えて、まるで小さな子供みたいにニカはノアを見上げていた。

「お前は……誰なんだ……」

 ニカの問い掛けに、ノアは迷わず答えた。

「僕は、ノア=ジュエルドだ」

 ノアの言葉に、ニカの顔に驚愕が浮かぶ。だが、すぐさまその顔は悲しげにゆがんだ。

「俺は……俺は王じゃない……この国の王には、なれない……」
「きみが王じゃなくても構わない。僕は、王じゃないきみに助けてほしい。僕も王じゃないきみを助ける」
「な、何のために……」

 疑るようなニカの言葉に、ノアは切なげに目を細めた。わずかに沈黙した後、小さな声で答える。

「きみと僕は一緒だから。同じ苦しみを知っているから」

 まるで幼い子供のような声音だった。
 ニカの目が見開かれる。その身体が硬くこわって、直後ガックリと脱力する。
 静寂が流れた。ノアが差し出していた手のひらを引っ込めようとする。だが、その直前、ニカがキツくノアの手のひらをつかんだ。

「もう……自分に失望したくない……」

 そうかすれた声でつぶやいて、ニカはゆっくりとノアを見上げた。その目ににじんでいるのはおびえと決意だ。ノアと同じ目をしている。
 ノアが小さくうなずいて、握り締めたニカの手を引っ張る。立ち上がったニカは一瞬ぎゅっと目をつむった。赤く染まった目の端から、ぽろりと一粒の涙が伝って落ちた。


 屋敷正面側も惨憺さんたんたる状況だった。屋敷正面には、敵とも味方ともつかぬ死体が転がっており、真っ白だったはずの雪が赤い絨毯でも敷かれたように深紅に染まっている。
 長刀の先端から血をしたたらせたまま、サーシャが大股で近付いてくる。その瞳には、やはり戦場独特の据えた光がにじんでいた。

「無事か」
「ああ、そちらは」
「仲間を半分以上失った。再度、敵の攻撃が来れば防げない」

 サーシャの口調からは、淡々とした凄惨せいさんさを感じた。言葉と感情が噛み合っていないような、ひたすら感情を殺して事務的に徹しようとしているような希薄さすらある。
 血をしたたらせる髪の毛を掻き上げながら、サーシャがめた声で続ける。

斥候せっこうに出した者から、村に向かっている軍勢を確認したと報告を受けた。数はゆうに三百を超えている」
「村人達の退避は完了したか」
「ああ、おそらく問題がなければ」

 ひどく淡泊なやり取りを行っていた時、ふとサーシャの視線が動いた。ノアの後ろに立ち尽くすニカの姿を見た瞬間、無表情だったサーシャの顔が痛みを覚えたようにゆがんだ。

「ニカ」
「ユリア」

 双子の兄妹はお互いの名前を呼び合って、一瞬だけ沈黙した。ニカがかすれた声でつぶやく。

「ユ、ユリア……怪我はないか」

 問い掛ける声に、サーシャは答えなかった。ただ、射るようなまなしでニカをじっと見据えている。ニカがおびえた声で続ける。

「わ、悪かった……お前ばかりに、ずっと戦わせて……」

 その言葉を聞いた瞬間、サーシャの肩が膨らんだ。肩をいからせて、うなるような声で叫ぶ。

「今更……今更何を……ッ!」

 だが、それ以上言葉は続かなかった。サーシャは唇を小刻みに震わせた後、目元を片手で押さえた。打ちひしがれた妹の姿を見て、ニカも言葉を失っていた。双子の兄妹の間に生まれたあつれきは、そう易々と埋まるものではないのだろう。
 だが、サーシャはすぐさま片手を目元から外すと、ニカから視線を逸らして言った。

「時間がない。行こう」

 そうつぶやくと、サーシャは足早に廊下を歩き出した。その背を追いかける。ニカも躊躇ためらいながらも、とぼとぼと足を進めた。
 後方からベルズが近付いてくる。先ほど見た時よりも、ベルズの全身は血にまみれていた。

「敵が到着するまで、あと五ワンスもかからないかと」
「そうか」
「チェトに合図を出しますか」
「ああ、お前に任せる」

 そう答えると、ベルズは一度だけうなずいた。ベルズが長い足を動かして足早に進んでいくのを眺めてから、雄一郎はわずかに足取りをゆるめた。鈍い足取りで歩くテメレアの横について、短くたずねる。

「どうだ」
「問題ありません」
「身体に穴があいていて、問題なくはないだろう」
「私より重傷を負っている者はたくさんおります。私のような軽傷の人間が足手まといになるなど許されません」

 テメレアはひたいからあぶらあせにじませながらも、周りへと視線を巡らせた。片足を失った自警団の男が他の者に助けられて、一本足で歩いている姿が見える。だが、そういうテメレアも未だ血は止まっていない。元から白いテメレアの肌が、今は青ざめてけているようにすら見える。

「倒れる前に呼べ」
「倒れません」

 即答された言葉に、思いがけず苦笑いがにじんだ。相変わらずこの男は、見た目に似合わずひどい頑固者だ。

「意地を張るな」

 テメレアのひたいからしたたる汗へと手を伸ばして、指先でぬぐう。途端、テメレアが驚いたように雄一郎を見やった。その青い瞳の中に、自分の淡い微笑みが映っていた。戦場だというのに、自分がひどく穏やかな表情をしているのが不思議だった。

「お前の代わりはいない」

 唇から勝手に言葉がこぼれ落ちていた。そうつぶやいた瞬間、すとんとその言葉が胸の奥に落ちてきた。テメレアの代わりはいない。どこにも、どんな世界にも。
 テメレアの顔がくしゃりと泣き出しそうにゆがむ。

「そんなの……死ねなくなるじゃないですか……」
「死ぬなバカ」

 まるで子供みたいなののしりを漏らすと、テメレアは泣き笑うような表情のまま、ふふ、と笑い声を漏らした。そのまま、かすれた声でつぶやく。

「貴方が、私の女神でよかった……」

 そうささやく声に、不意に胸に込み上げるものがあった。今まで唾棄だきしてやりたいと思っていた女神という名称が喜ばしいもののように思えて戸惑う。心臓の内側で広がっていく温かいものに、一瞬息ができなくなった。
 戸惑いに気付かれる前に、雄一郎は大股で歩き出した。雄一郎の戸惑いを見抜いているのか、後ろからテメレアの小さな笑い声が聞こえてきた。


 屋敷の裏口から出ると、何人もの自警団員が岩壁を崩している姿が見えた。大きな岩を転がり落としていくと、人が二人横並びで通れそうなほどの洞窟が現れる。
 サーシャが火のともされた松明たいまつを差し出してくる。

「岩山の向こう側まで続いている。抜けるまで一晩はかかる」

 端的にそう告げるサーシャを見据えて、雄一郎は口を開いた。

「追撃が来る可能性はあるか」
「いいや、ない」
「なぜそう言い切れる」
「追撃が来ないように、お前は既に手を打っているんだろう」

 サーシャの声音は確信に満ちていた。その苦々しさを含んだ声に、雄一郎はゆるく肩をすくめた。

「お見通しか」
「お前がしようとしていることは許し難いが、今は許容せざるを得ない」

 それに、もうこの村に戻ることはできない。サーシャはあきらめたように、そう続けた。
 うれいをにじませたサーシャの表情を見て、雄一郎は静かにうなずいた。サーシャから松明たいまつを受け取り、ベルズにたずねる。

「準備は」
「できています」

 ベルズの足下には発煙筒がいくつも置かれている。その時、キキが屋敷内から駆けてきた。

「ゴルダール軍が村に進入してきました!」

 そう告げる声に、雄一郎は即座に言い放った。

「火をつけろ。すべての発煙筒に点火次第、洞窟に入れ」

 その言葉の直後、ベルズの手によって次々と発煙筒に火がつけられていった。真っ暗な夜空へと、大量の白煙が昇っていく。
 白煙を見上げた瞬間、遠くの空からドォンッと鈍い爆発音が聞こえた。チェトが村よりもずっと上の雪山で火薬を爆発させた音だろう。
 爆発音は連続し、その直後、地面が揺れ始めた。ゴゴゴゴゴと鈍い地鳴りが聞こえてくる。仰ぎ見ると、遠くの山の地面が動いていた。大量の雪が滑って、すべてを呑み込むように降りてくる。

「早く中へ!」

 そう叫ぶキキの声に、雄一郎は身をひるがえして洞窟の中へと飛び込んだ。地鳴りは更に勢いを増し、真っ直ぐ立っていることもできないほどだった。
 洞窟の奥へと無我夢中で進んでいると、背後から激しい破壊音が聞こえた。村が雪崩なだれぎ倒される音だ。まるで木製のオモチャの家を、素手で叩き潰しているような音だと思った。
 振り返ると、洞窟の入口は真っ白な雪で閉ざされていた。


 洞窟の中は、ひどく歩きづらかった。ゴツゴツとした岩肌に足を取られて、何度も転びそうになる。はるか前方に見える松明たいまつあかりを追いかけるようにして、狭く息苦しい空間を一同はひたすら歩き続けた。
 外気はこごえるほど寒いというのに、ひたいから汗が止まらない。吐き出す息は、まるで紫煙のように白く眼前に立ちのぼる。時間の感覚はなく、まるで地獄の底へと永遠に下り続けているようだった。
 何時間歩き続けたのだろうか。ようやく狭い道が終わって、洞窟内に大きく開けた空間が現れた。松明たいまつを何本もともせば、黒い岩肌がぼんやりとオレンジ色に照らされる。
 疲労でかすかにぼやけた視界を向けると、サーシャとニカが何事かを話している姿が見えた。どこか淡々とした様子で、そこには兄妹の親愛がにじんでいるようには見えない。
 ぼんやりとその姿を眺めていると、ふとサーシャが小走りで近付いてきた。

「夜が明けるまで、ここで休息を取る。負傷者の手当てを行うので、彼は向こうへ」

 青白い顔をしたテメレアを見ながら、サーシャは言った。開けた空間の隅に、負傷者達が固められている。その周りで、自警団の人間がせわしなく手当てを行っていた。
 キキへと視線を向けて、軽くあごうながす。キキは黙ってうなずくと、素早くテメレアを連れて行った。テメレアとキキが遠ざかっていったのを見ると、サーシャはじっとノアを見据えた。

「貴方がノア=ジュエルドというのはまことですか」

 その声音には、ありありと困惑と疑いがにじんでいた。目の前にいる幼い少年が隣国の王というのは、なかなか信じられることではないのだろう。
 サーシャの戸惑いの言葉に対して、ノアははっきりとうなずいた。

「僕がジュエルドの王、ノア=ジュエルドです」
「王になったのが第三王子とは聞いていましたが、まさかこんな……」

 サーシャの言葉が途切れる。その言葉の続きが解ったのか、ノアは小さく笑いながら続けた。

「こんな子供だとは思わなかった?」

 ノアの言葉に、サーシャが口ごもる。サーシャは数度口をもごつかせた後、深く頭を下げた。

「失礼なことを申し上げた。無礼を許していただきたい」
「いいえ、疑われるのも当然です。それに、そろそろお互いに堅苦しい口調もやめませんか。これじゃあ、いつまで経っても話が進まない」

 見た目にそぐわぬ大人びた口調で、ノアは答えた。その姿を見て、雄一郎は目を丸くした。ノアでも、こんな対外的な言葉遣いができるのか。
 サーシャは躊躇ためらうようにあごを引いたが、すぐさまうなずきを返してきた。そのまま背筋をグッと伸ばして、口を開く。

「それでは、我々は貴方と話がしたい。互いの国のこれからの話を」

 単刀直入なサーシャの切り出しに、ノアはゆっくりとうなずいた。雄一郎は視線をベルズへと向けて「休んでおけ」と小声で告げた。ベルズは射るような視線をサーシャへと向けた後、あごを引いて遠ざかっていった。
 代わりのようにニカがよたよたとした足取りで近付いてくる。ニカが寄ってきたのを見ると、サーシャはその場に座り込んだ。ノアと雄一郎も腰を下ろす。
 松明たいまつのわずかな光が四人の顔をぼんやりと照らしている。こんな寒々しい場所に、血にまみれた姿で王族が三人もいるというのがひどく奇妙に思えた。
 口火を切ったのは、やはりサーシャだった。

「結論から伝えると、我々はゴルダールの現国王であるバルタザールと戦う。戦わざるを得ない状態になった」

 それは雄一郎達を責める口調ではなかった。雄一郎達が来なかったところで、この結果は避けられなかったと悟っているのだろう。サーシャが淡々とした口調で続ける。

「私達はこれから各地を回り、仲間を増やし、解放軍を結成する。だが、我々には圧倒的に足りないものがある」
「兵糧か」

 即座につぶやくと、サーシャの視線が雄一郎へ向けられた。サーシャがうなずく。

「その通りだ。武器は調達できても、元よりない食料は手に入れることができない。食うものがなければ、行き着く先は飢え死にだ。ゴルダールには元々、食物を潤沢に育てるだけの土地がない。だが、ジュエルドにはある」
「つまり、戦争を起こす代わりに、僕らにきみ達の食料を支援しろということ?」

 ノアが穏やかな声で問い掛けると、サーシャは大きくうなずいた。

「反乱が起きれば、ゴルダールはジュエルドの内乱に関わっている暇はなくなる。私達も食料があれば戦える。互いに損はない話だと思うが」

 サーシャの言葉に、ノアは思案するように視線を伏せた。数秒の沈黙の後、ノアが視線を上げる。

「構わない。食料の支援は、僕らが責任を持つ」
「ただ、問題は」

 やや食い気味にサーシャが口を開く。サーシャは、ノアを見据えたまま静かな声で告げた。

「この内乱が終わったあとに、ゴルダールとジュエルドが戦争を起こさないかということだ」

 ノアがパチパチと大きく目をまたたかせる。そうして、困ったようなまなしでサーシャを見つめた。サーシャがゆるく頭を左右に振って、続ける。

「気が早いと思うだろう。すべては仮定の話だ。だが、私達はそこまで見据えて話をしたいと思っている」
「僕らが信用できないと」
「そうは言わない。だが、盲目的に信用するのはリスクが高すぎる。お互いに」

 サーシャの懸念も当然だ。実際、もしもジュエルドの内乱が先に終わった場合、解放軍への食料支援を打ち切られれば、サーシャ達はれ死にするしかない。
 結局のところ、すべては互いの信頼関係の上に成り立つ話だ。だが、その信頼はもろく弱い。の糸で綱渡りするようなもので、どちらかが裏切ればすぐにプツリと切れてしまう。そして次の瞬間、奈落へと落ちていく。
 雄一郎は、あぐらをかいた膝の上に片肘をついたまま、二人のやり取りを黙って眺めた。ニカは、どこか不安げなまなしでサーシャとノアを交互に見やっている。だが、次の瞬間、ニカの口から出た言葉に、雄一郎はずるっと片肘を滑らせた。

「ノア、ユリアと婚約してくれないか」

 ニカの突拍子もない申し出に、ノアがギョッとしたように目を見開く。すぐさま、ノアのまなしが雄一郎へ向けられる。雄一郎も同じように目を丸くしたまま、ノアを見つめた。

「い、いきなり何を……」

 ニカに視線を戻して、ノアがうわった声でつぶやく。ニカはどこかバツが悪そうなまなしで膝元を眺めたまま、ぼそぼそとした声で続けた。

「この内乱が終わったら、ユリアを正妃にすると約束してほしい。そうすれば、ゴルダールとジュエルドの友好関係も深まる」

 ニカの言葉を聞いて、口角にかすかな空笑いがにじんだ。

「つまり、自分の妹を人質に差し出すと?」

 雄一郎の問い掛けに、ニカの首がぐにゃりと折れる。ニカは深くうつむいたまま、キツくこぶしを握り締めていた。だが、痛恨もあらわなニカに対して、サーシャは淡々とした声で返した。

「ニカと話して決めたことだ。私に異論はない。もちろん、正妃と言っても名だけ与えて貰えればいい。私のことは元からいない者として扱ってくれて構わない」

 サーシャの言葉に悲愴感はなく、ひどく事務的だった。だが、口調よりもその言葉の意味はずっと重たい。国のために、自らをにえにするようなものだ。愛されないことを解っていて縁の薄い国へ嫁ぐなど、そんな孤独な人生を受け入れるというのか。
 だが、実際は人質だとしても、王と隣国の姫の婚姻というのは、国と国とを結びつける意味では有効だ。人質を出している国は身内がいるという理由から、また人質を受け入れた方も人道的な観点から戦争を仕掛けることが難しくなる。少なくとも婚姻が続く限りは、表面上だけでも友好関係を続けなくてはならない。子供が産まれれば、尚更その年月は長くなる。
 サーシャが言う。

「ジュエルドとゴルダールは、歴史上何度も戦争を繰り返してきた。我々の代で、無益な争いは終わりにしたい。だから、どうかお願いできないだろうか」

 人質を出すのは、ニカとサーシャからの誠意のあかしのつもりなのかもしれない。だが、ノアは何とも言えない複雑なまなしで二人を眺めていた。その視線が雄一郎へ向けられる。戸惑いながらも、その目の奥底は揺らいではいない。ただ真っ直ぐ、雄一郎を見つめている。
 そのまなしを見た瞬間、ノアの言いたいことが解った。その目が訴えている。雄一郎を選ぶのだと。三十七歳の、美しさも可愛げもない男を、自分の唯一の妻として選ぶと。
 それに気付いた瞬間、身体の奥底からおぞが込み上げてきた。皮膚がぞわりと震えて、あまりの恐ろしさに一瞬息ができなくなる。
 あり得ない。ノアのような前途有望な少年が、ただの人殺しの男を正妃として選ぶなんて、そんなことが許されるわけがない。自分は、ノアに選ばれるような人間ではない。
 そう思った瞬間、唇が勝手に動いていた。

「ノア、ユリアと婚約しろ」

 告げるのと同時に、ノアの身体がこわるのが見えた。ノアが信じられないものでも見るかのように目を見開いて、雄一郎を凝視している。そのまなしを見返さないままに、雄一郎は早口で続けた。

「気は早いが、悪い話じゃあない。内乱が終わった後に、ゴルダールと戦争にならない保証はない。ユリアが正妃になれば、民達の隣国に対する反感も薄まっていく。ユリアとの子供ができれば尚更いい。その子供がジュエルドとゴルダールを結ぶ橋になる可能性もある」

 自分でも甘っちょろい空論だと思いながらも、ぺらぺらと口が動く。止まらない。一度でもしゃべるのをやめてしまえば、顔がみにくゆがんでしまいそうだった。

「争いをなくすために王の娘を隣国へ嫁がせるっていうのは、俺の元いた世界でもよくあった。だから、ニカとユリアの申し出は、ある意味合理的な――」
「雄一郎、黙って」

 言葉がさえぎられる。声の方へ顔を向けて、雄一郎は息を呑んだ。今まで見たことがないほど無機質な表情のノアと視線が合った。そのまなしに、口元がる。
 ノアはわずかにあごを引いて、確かめるように雄一郎を見つめた。

「あんた、自分が何言ってるのか解ってるのか」

 弾劾だんがいするような言葉に、皮膚が震えそうになる。なぜ、自分がノアの言葉におびえているのか不思議だった。かすかに咽喉のどを上下させて、唇を開く。

「ああ、解っている」

 答えた瞬間、これ以上ないほどノアの顔が白くなった。

「そう」

 一人で納得するみたいにつぶやいて、ノアは雄一郎から視線を逸らした。ニカとサーシャは、どこか困惑した表情でノアと雄一郎のやり取りを眺めている。
 二人に視線を向けると、ノアは感情のげた声でつぶやいた。

「悪いけど、返事は朝まで待ってほしい」

 そう言い放つなり、ノアは雄一郎の腕をつかんで立ち上がった。思いのほか強い力だった。ノアの指先が腕に食い込むのを感じながら、雄一郎は戸惑いながらも立ち上がった。雄一郎を一瞥いちべつもせず、ノアが歩き出す。

「お、おい……」

 どこに行くんだと問い掛けられる空気ではなかった。まるで悪さをした生徒が教師に指導室へと連行されるかのような雰囲気だ。
 元来た通路を戻るようにノアはずんずんと進んでいく。松明たいまつあかりが遠くなった頃、ノアの足が止まった。暗がりの中、ノアが振り返る。次の瞬間、背中を岩壁へとキツく押し付けられた。ノアの両手が雄一郎の胸倉をつかんでいる。

「何のつもり?」

 冷たく問い掛けてくる声に、背筋がこわる。雄一郎はりそうになる唇に無理やり笑みを浮かべて、おどけるように両手を軽く掲げた。

「おい、何をそんなに怒ってるんだ」
「あんた、解ってるだろう。僕が怒ってる理由を解っているくせに、解らないふりをしてる。巫山戯ふざけるなよ、雄一郎」

 ノアらしかぬ乱暴な物言いだった。その顔にはありありとふんが浮かび、奥歯の辺りからガギッと歯が擦れ合う音が聞こえてくる。雄一郎の胸倉をつかむノアの手にも力が込められて、かすかに息が詰まった。

「僕は言ったはずだ。あんたが好きだって。雄一郎が僕の妻だって」

 うなるような声で、ノアが吐き捨てる。その言葉のおぞましさに、また震えが走りそうになる。
 こいつは一体何を言っているんだ。まさか、本気でこんなオッサンを愛してると言うのか。王の妃としてめとろうなんて考えているのか。馬鹿馬鹿しい、こんなのは現実的じゃない。
 そう考えた瞬間、口角に嘲笑ちょうしょうにじんだ。自分でも嫌になるぐらい、人を小馬鹿にするような笑い方だと思った。

「お前は、本当にガキだな」
「何を……」
「何回かヤッたぐらいで、こんなオッサンを好きだなんて勘違いして、随分と目出度めでたい頭をしてるもんだ。雛鳥ひなどりじゃあるまいし、少しは現実を見たらどうなんだ」

 うすら笑いを浮かべたまま、言葉を吐き出す。だが、言葉が唇からこぼれる度に、心臓がギシギシと音を立ててきしむ。心臓が千切れそうだ。いっそ身体ごと真っ二つに裂けてしまえばいいのに。
 暗がりでも判るぐらい、ノアの顔色が悪くなっていく。

「現実……?」

 ノアがかすれた声でつぶやく。ノアの震える唇を見たくなくて、雄一郎は顔を逸らした。暗い洞窟の奥を眺めながら、唇だけを機械的に動かす。

「内乱が終われば、お前はユリアと結婚して子供を作る。それでジュエルドとゴルダールは平和になる。オッサンをめとるより、よっぽど現実的だ」

 そうだ。これが正しい結末だ。成長したノアの隣には、ドレスを着たサーシャが立っている。美しい男女の夫婦。国の誰もが祝福する結婚。そして、いつか産まれる、灰色の髪と青い目をもつ可愛らしい赤ん坊。美しく、平和な世界。
 想像した瞬間、どうしてだかひどい喪失感を覚えた。その美しい光景の中に、雄一郎の姿はない。あってはいけない。
 耐えきれず、下唇をキツく噛み締める。眼球がうるみそうになるのを必死でこらえる。どうして、なぜ泣きそうになっているのか自分でも解らない。ただ、苦しい。
 身体が震えそうになるのを抑えていると、ノアがひどくか細い声でつぶやいた。

「雄一郎は……」

 胸倉をつかむノアの指先にぎゅうっと力が込められる。まるで小さな子が親にすがるように。

「雄一郎は、僕のことを何とも思ってないの?」

 悲しげな声に、何度でも心が砕かれる。あれだけ伝えたのに、あんなに心を捧げたのに、何も伝わっていないのか、と問い掛けられている。
 渇いた咽喉のどに何度も唾を流し込んで、声がかすれそうになるのをこらえる。そうして、雄一郎はわざとらしいほど茶化した声をあげた。

「大人は、子供の言うことを信用しないもんだ」

 そうやって、ノアの心を踏みにじる。俺は大人で、お前は子供で、物事の分別も付いていないのだと。今までのノアの言葉など、雄一郎は何一つとして信じていないのだと。
 そう告げた瞬間、胸倉をつかんでいたノアの手から力が抜けた。両腕をだらりと垂らしたまま、ノアが力なくうつむく。
 長く、重たい沈黙が流れた。ノアはピクリとも動かない。お互いのか細い呼吸音だけが聞こえる。不意に、ノアがつぶやいた。

「あんたは、ずっとそうだ」

 その言葉の意味が解らず、雄一郎は眉をひそめた。ノアが顔をあげる。うるんだ瞳が雄一郎を真っ直ぐにらみ付けてきた。

「あんたは誰のことも信じないで、自分の気持ちは何も言わないで、何もかも勝手にあきらめて、そうやってひとりで死んでいくんだ……ッ」

 ドンッとノアのこぶしが雄一郎の右胸を叩く。瞬間、心臓に抜けない杭が突き刺さったように感じた。それほど強い力ではないというのに、頭が真っ白になって足元がふらつく。
 ノアが大きく目をまたたかせる。その瞬間、とがった目尻から一筋の涙が流れた。

「子供なのは、あんたの方じゃないかッ!」

 そう叫んで、ノアが背を向けて歩き出す。雄一郎は暗い場所に立ち尽くしたまま、その背を呆然と見つめた。


   ***


 どうやって洞窟の広場まで戻ったか記憶がない。
 薄暗い広場の真ん中に突っ立ったまま、雄一郎はぼんやりと目の前の光景を眺めている。視線の先で、何十人もの人間が地面にへたり込んですすり泣いていた。

「何が起こった」

 気の抜けた声で問い掛けると、うつむいていたキキが顔を上げた。その顔は涙で濡れている。

「――テメレア様が亡くなりました」

 そう告げる声に、は、の形で口が固まった。一瞬で全身の血が落ちて、指先がこごえるように冷たくなる。唇を開けたまま動かなくなった雄一郎を見つめて、キキがひどく悲しげな声で続ける。

「出血が止まらず、先ほど意識が混濁こんだくを始めて……気付いた時には息をしておりませんでした……」

 頭の中が真っ白で、キキの言っている意味が上手く理解できない。テメレアが死ぬはずがない。あんなにも美しく、献身的な男が、雄一郎をかばって死ぬなどあり得ない。

「冗談だろ」

 自分の唇から、空気が抜けるような声が漏れた。視線が定まらず、ぐらぐらと視界が揺れる。
 視界の端でキキが首を左右に振る。その瞬間、つんざくような叫び声が響いた。

「あんたのせいだッ!」

 声の方向へ視線を向ける。そこには怒りで顔をゆがめたノアがいた。その近くには目を閉じたまま、静かに横たわったテメレアの姿もある。テメレアの胸は上下しておらず、その皮膚はあまりにも白くなり過ぎて、一瞬けているようにも見えた。

「テ――」
「あんたのせいだッ! テメレアはあんたを庇って死んだんだッ!」

 名前を呼ぼうとした声がノアの怒声でさえぎられる。あまりにも激しいノアのふんに触れて、雄一郎は小さく息を呑んだ。

「やっぱりあんたなんか女神じゃなかった! 最初から、あんたみたいな人殺しは疫病神やくびょうがみだと思ってたんだ! どうして、この世界に来た! 人殺しにこの世界が救えるわけがないのに! 誰も救えるわけがないのにッ!」

 来たくて来たわけじゃない。勝手に飛ばされて、勝手に女神と呼ばれて、勝手にこの世界を救えと言われて――
 頭の中で無意味な言い訳ばかりがぐるぐると回る。血の気が完全に失せたテメレアの顔から視線が外せない。死に顔ですら、神々しいまでに美しい。それがあまりにも悲しかった。
 ノアは両目からぼろぼろと涙をこぼしながら、雄一郎を真っ直ぐにらみ付けて言った。

「尾上雄一郎、お前は一生救われない。永遠に、誰からも許されない」

 違う、ノアはこんなことは言わない。絶対に言うわけがない。なら、これは何だ。目の前のノアは誰だ。自分は今、一体何を見ている。
 目の前の光景がぐるぐると渦を巻いていく。めいていするような感覚に、思わず両手で顔を覆う。残酷な世界から目をふさぐように。
 その瞬間、耳元でささやくような声が聞こえた。

「これがきみの望みか?」


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