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3巻
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銃声が響き続ける中、覚えのある扉を開く。そこは最初に通された、ニカがいた広間だった。広間の奥へ向かっていくと、こんもりと膨らんだ毛皮の敷物が見えた。敷物がぶるぶると震えているのが判る。
「ニカ」
声を掛けると、ビクンッと敷物が跳ねた。震えるだけの敷物を眺めたまま、雄一郎はゆっくりとした口調で続けた。
「お前は一生そこで震えてるつもりか」
問い掛けても、敷物の下で怯える男は声をあげようとしない。
「お前の妹は、民を守るために命がけで戦ってるぞ」
淡々とした声で告げると、ようやく敷物の下からくぐもった声が聞こえた。
「……ユリアと、お、俺は違う……」
「何が違う。お前達は兄妹だろう。同じ血を引いている」
「それでもッ……ユ、ユリアは見てないんだ……目の前で、家族が殺される様を……お、俺はもう二度と見たくない……あ、あんな光景は二度と、二度と無理だ……」
ニカの押し殺した声が響く。駄々を捏ねる子供のような声音だと思った。
雄一郎は小さく息を漏らして、静かに訊ねた。
「それじゃあ、今度は妹を見殺しにするのか」
敷物が再びビクッと跳ねるのを眺めて、雄一郎は寒々とした声を漏らした。
「お前は民だけでなく、唯一残った妹まで見殺しにするのか。民達の死体の山を見て、妹の死骸を目の前にして、お前は自分の選択を後悔しないか。自分は間違っていないと胸を張って言えるか」
問い掛けるように言葉を紡ぐ。
「お前は、どうしたい」
そう告げた瞬間、更に敷物の震えが激しくなった。だが、ニカは何も答えない。緩く溜息を漏らした時、テメレアが呟いた。
「ノーラ様はどこですか」
強張ったテメレアの声に、雄一郎は敷物をじっと眺めた。どう見ても、人一人分の膨らみで、ノアまで入っているとは思えない。
「おい、ノーラはどこに――」
震えるニカへ問い掛けようとした瞬間、不意にドォンと鈍い轟音が響きわたった。あまりの衝撃に、ぐらりと床が揺れる。
足踏みをしてぐらつく身体を支えながら、視線を轟音のほうへ向ける。屋敷正面側からの音ではない。屋敷左側からの破壊音だ。
「な、何が」
テメレアの上擦った声を聞きながら、雄一郎は担いでいた銃を手に取った。製鉄工であるカンダラに作らせた新式の銃だ。
「敵は正面だけじゃないらしい」
自分自身に確認するように呟く。おそらく今のは屋敷側面を爆薬で吹き飛ばした音だろう。
「俺より前に出るな。お前はそいつを守ってやれ。できれば死なせるな」
そう命じると、テメレアは不服そうな表情を浮かべた。雄一郎は銃を手に、広間の扉へ歩き出した。
扉の陰から廊下の方へと視線をやる。廊下の奥は、まるで深い森のように暗く陰っていた。暗闇から無数の足音が近付いてくる。屋敷の床がギィギィと割れそうなほど軋んでいるのが聞こえた。
そうして、暗闇から人影が浮かび上がってきた瞬間、雄一郎は照準を合わせた銃の引き金を引き絞った。慣れ親しんだ乾いた音とともに、肩にグッと重力がかかる。
「ギャッ!」
暗闇から響く短い悲鳴と、人が倒れる音を聞きながら、雄一郎はかすかに口角を吊り上げた。良い手応えだ。父を越えると言っただけあって、カンダラの作った銃の性能は悪くない。
廊下を駆けてくる影に向かって、雄一郎はただ撃ち続けた。頭の中で残り弾数を数える。手元にあるマガジンは一つきりだ。つまり、二十二発しかない。
撃った人数が片手を超えた辺りから、口内に嫌な唾液がわき上がってきた。廊下の奥からは深い血臭が漂ってくる。そうして、啜り泣きにも似た呻き声も絶えず聞こえてきた。それは地獄の底から響く呪詛のようにも思える。
まるで蛆のように盗賊共が次々と湧いて出てくる。屋敷の正面側からも、雄叫びのような怒声がいくつも聞こえてきた。続けて剣を打ち合う音が響き始める。正面側でも、とうとう白兵戦が始まったのだろう。
波のように押し寄せる盗賊共を一人で抑えきることはできず、次第にその距離が縮まっていく。銃の残弾数ももう残り少ない。盗賊共との距離が十メートルを切った瞬間、雄一郎は銃を放り投げて腰帯のナイフを手に掴んでいた。
「雄一郎様ッ!」
テメレアの声を聞きながら、一気に廊下へ駆け出す。
突き進んでくる盗賊の一人が長刀を振り上げるのが見える。それが振り下ろされるよりも早く、走る速度を上げて一気にナイフごと盗賊の身体に体当たりした。ナイフの先端が肉に深く埋まるのを、グリップ越しに感じる。心臓の激しい脈動がナイフを握る指を叩く。
ゴボッと盗賊が血反吐を吐く。熱い血潮が頬にかかって、首筋を伝っていった。心臓を突き刺された盗賊の手から長刀を奪い取って、既に息絶えたその身体を、こちらへと駆けてきていた他の盗賊に向かって突き飛ばす。仲間の亡骸に押し潰されて、もう一人の盗賊が床に尻餅をつく。雄一郎は片手に掴んだ長刀を振り上げて、尻餅をついた盗賊の首へとめがけて無慈悲に振り下ろした。
「た、たす――」
命乞いが途中で途切れる。目を見開いたままの盗賊の男の首が宙を舞った。まるでボールのように数回バウンドして廊下を転がっていく。首の断面から、まるで噴水のように血が噴き上がって、壁を凄惨に汚した。長刀を床へ放り捨てて、息絶えた盗賊の胸からナイフを引き抜く。
息を切らす間もなく、次の盗賊が現れる。何人いるのか、いつ終わるのか、救援は来るのか、そんなことを考える余裕もなく、雄一郎はただひたすら殺されないために殺し続けた。
ナイフを握る手のひらの感覚がなくなりかけた時には、足下に血の海が広がっていた。足をおろす度に赤い水飛沫が跳ねるほどだ。
振り下ろされる長刀をナイフで受け止めた瞬間、その衝撃で、ズッと足が血溜まりを滑った。片膝が折れて、長刀が眼前に迫る。まずいと思うのと同時に、目の前の盗賊の顔面に棒が叩きつけられた。
隣を見ると、棒を握り締めたテメレアが野球のバッターのような姿勢をして立っていた。
「……俺より前に出るなと言ったはずだ」
「はい、とお答えした記憶はありません」
屁理屈を言って、床で呻く盗賊の顔面にテメレアは更に棒を振り下ろした。完全に気絶したのか、盗賊はうめき声ひとつ漏らさなくなった。
血に濡れた手のひらを服で拭って、ナイフを握り直す。ふらつく身体を奮い起こして立ち上がろうとした瞬間、テメレアの悲痛な叫び声が響いた。
「雄一郎さ――ッ!」
叫び声と共に、テメレアの身体が覆い被さってきた。テメレアの身体越しにドッと重たい衝撃が走る。視界の端で赤い血飛沫が散り、床に小さな穴が開くのが見えた。
「ッ、ぐ……!」
押し殺された悲鳴が聞こえた瞬間、雄一郎はテメレアの胸倉を鷲掴んで、近くの扉の中へと引きずり込んでいた。盾のように扉を外側へ大きく押し開くのと同時に、扉の上側にドンッと小さな穴が空く。銃痕だ。
テメレアの身体を扉の内側へと転がす。その左鎖骨付近から真っ赤な血が滲み出しているのが見えた。テメレアの美しい顔が苦痛に歪んでいる。その様を見た途端、すぅっと身体から血の気が引くのが解った。
「テメレア」
自分の声が遠い。テメレアは呻き声を噛み殺しながら、目を細めて雄一郎を見上げた。
「私のこと、は……いい、ですから……」
いいわけがない。駄目だ。絶対に駄目だ。この男の代わりなんて、どこにもいるわけがない。
先ほどまで燃えるように熱かった身体が、急速に冷たくなっていく。
廊下から向かってくる足音がどんどん近付いてくる。盾のようにしていた扉から、短銃を持った盗賊が顔を覗かせた。雄一郎とテメレアを見下ろして、盗賊がニヤリと笑みを浮かべる。
反射的にナイフを握り直そうとするが間に合わない。頭部に向けられた銃口を見つめた直後、突然盗賊の後ろから小さな影が飛び出してきた。その影が真下から突き上げるようにして、短銃を掴んでいた男の腕へと漆黒のナイフを突き刺す。
同時に引き金が引かれたのか、パンッと乾いた音と共に耳の近くを銃弾が掠めた。キィンと耳鳴りが響く。
小さな影は呻き声をあげる盗賊の腕からナイフを一気に引き抜くと、今度はその腹目掛けて突き刺した。鋭い絶叫をあげた盗賊が悶えるようにして床へと倒れる。小さな影はトドメをさすように、盗賊の身体に馬乗りになってその胸部へともう一度ナイフを突き立てた。
もう悲鳴は聞こえない。代わりのように、荒い呼吸音が聞こえた。肩で息をしながら、小さな影が肩越しに振り返る。
「雄一郎、大丈夫?」
そう訊ねるノアの顔は、今しがた息絶えた男の血で赤く汚れていた。
ぐちゃり、と盗賊の胸からナイフが引き抜かれる。粘ついた血がナイフの先端から滴り落ちているのが見えた。そのナイフを握るのは、まだ幼さを残した小さな手のひらだ。
ノアは、もう女の格好をしていない。長い髪のカツラを脱ぎ捨て、動きやすそうな服に着替えている。
ナイフをキツく握り締めたまま、ノアはどこか据わった眼差しで男の亡骸を眺めていた。その眼球に滲む仄暗い光に、雄一郎はかすかに唇を震わせた。人間が人間を殺す場面なんて今までいくらでも見てきたというのに、ひどく陰惨なものを見ている気分になった。
「ノア」
名前を呼ぶと、ノアは鈍い動作で雄一郎へと視線を向けた。そのまま、口角をわずかに引き攣らせる。笑おうとしたのかもしれない。
「雄一郎、大丈夫? 怪我はない?」
また大丈夫かと訊ねてくる。だが、その声は小刻みに震えているように聞こえた。
その直後、廊下を駆ける複数の足音が聞こえた。咄嗟にノアの腕を引いて、自身の後ろへと押しやるのと同時に、見覚えのある枯草色の頭が視界に映った。
「女神様」
「キキ」
キキの後ろには、数人の自警団員の姿も見えた。誰もが全身を血に染め、交戦の痕を色濃く残している。倒れたテメレアを見ると、キキはその顔を苦々しく歪めた。
「遅くなり申し訳ございません」
「お前のせいじゃない。正面側の状況は」
訊ねながら、テメレアの上着を開く。傷口を確かめると、どうやら銃弾は体内を抜けていったようだった。おそらく臓器も損傷していないだろう。致命傷ではないことに、強張っていた身体からほっと力が抜ける。
「正面側の攻撃は、先ほどよりは落ち着きました。ですが、すぐに第二陣の攻撃が来るかと」
「ああ、時間がないな」
もしもアオイが本格的にこの村を潰そうと考えているのなら、盗賊共に続いてゴルダールの軍が襲ってくることも十分に考えられる。軍が来れば、戦う間もなく蹂躙されることは目に見えていた。
キキの声に応えながら、テメレアの傷口に服を破った布を押し付ける。すぐさま布に真っ赤な血がじわりと染み込んでいった。傷口を押さえていると、テメレアが緩く首を左右に振った。
「私は、大丈夫です。ノア様を……」
そう囁く声に、視線を再びノアへ向ける。ノアは、どこか虚ろな眼差しを足下に向けたまま微動だにしていない。
「ノア」
再び名前を呼ぶ。ノアは、今度は雄一郎を見なかった。ナイフのグリップにギリギリと食い込むノアの指先を見て、雄一郎は眉を顰めた。
「指から力を抜け」
手を伸ばして、ノアの腕を掴む。だが、ノアは俯いたまま首を小さく左右に振った。
「雄一郎を守る」
譫言のように呟くノアの姿に、心臓にわずかな痛みを覚えた。ノアは初めて人を殺した。雄一郎のために、自分の手を血で汚した。
「ああ、そうだ。守ってくれた。もう大丈夫だ」
言い聞かせるように呟くと、ノアはようやく視線をあげた。どこか感情をうかがわせないノアの瞳を覗き込んで、雄一郎はそっと告げた。
「よくやった」
そう囁いた瞬間、強張っていたノアの口角がひくりと戦慄いた。ノアの顔がくしゃくしゃに歪められる。その頭を、軽く胸元へと抱き寄せた。
「お前はやるべきことをやった」
お前は悪くないとは言えない。だが、確かにノアは今この戦場で必要なことを行った。そう言い聞かせるように呟く。
小さな後頭部をぽんぽんと手のひらで叩いていると、ふと広間の奥から唖然とした声が響いた。
「ノ……ノーラ……?」
敷物の下から頭を覗かせたニカが呆然とこちらを見ている。敷物に半ば埋まったままのニカを見た瞬間、ノアの表情が怒りに歪んだ。大股でニカに近付いていくと、ノアはあらん限りの声で叫んだ。
「いつまで隠れてるつもりだッ!」
ノアらしくない、低く轟くような声だった。ビリビリと大気を震わせるノアの声に驚いたのか、ニカは身体をビクッと大きく震わせた後、敷物を撥ね上げるようにしてその場に正座した。
硬直しているニカを見下ろして、ノアが唸るような声で続ける。
「自分に失望したまま死ぬ気なのか」
その問い掛けに、ニカの眉尻がくにゃりと下がる。ニカは力なく俯いて、ぼそぼそと聞き取りにくい声で呟いた。
「……お、俺には、何もできない」
言い訳のようなニカの台詞に、ノアの表情が悔しげに歪む。ノアは血で真っ赤に染まった手を、ニカの目の前に突き出した。途端、ニカがヒッと怯えたように上擦った声をあげる。
「できることはある」
力強いノアの声に、ニカがぱちぱちと目を瞬かせる。その顔を見据えたまま、ノアは続けた。
「僕を助けて」
間の抜けた言葉だと思った。だが、その声音には愚直なまでの切実さがあった。
ノアは「国を」とも「民を」とも「妹を」とも言わなかった。ただ、目の前にいる自分を助けてほしいと、逃げ隠れる男に懇願していた。
「僕も、きみを助けるから」
囁くようなノアの声に、ニカの表情が泣き出しそうに歪む。最初の傲慢で怠惰な男のなりは消えて、まるで小さな子供みたいにニカはノアを見上げていた。
「お前は……誰なんだ……」
ニカの問い掛けに、ノアは迷わず答えた。
「僕は、ノア=ジュエルドだ」
ノアの言葉に、ニカの顔に驚愕が浮かぶ。だが、すぐさまその顔は悲しげに歪んだ。
「俺は……俺は王じゃない……この国の王には、なれない……」
「きみが王じゃなくても構わない。僕は、王じゃないきみに助けてほしい。僕も王じゃないきみを助ける」
「な、何のために……」
疑るようなニカの言葉に、ノアは切なげに目を細めた。わずかに沈黙した後、小さな声で答える。
「きみと僕は一緒だから。同じ苦しみを知っているから」
まるで幼い子供のような声音だった。
ニカの目が見開かれる。その身体が硬く強張って、直後ガックリと脱力する。
静寂が流れた。ノアが差し出していた手のひらを引っ込めようとする。だが、その直前、ニカがキツくノアの手のひらを掴んだ。
「もう……自分に失望したくない……」
そう掠れた声で呟いて、ニカはゆっくりとノアを見上げた。その目に滲んでいるのは怯えと決意だ。ノアと同じ目をしている。
ノアが小さく頷いて、握り締めたニカの手を引っ張る。立ち上がったニカは一瞬ぎゅっと目を瞑った。赤く染まった目の端から、ぽろりと一粒の涙が伝って落ちた。
屋敷正面側も惨憺たる状況だった。屋敷正面には、敵とも味方ともつかぬ死体が転がっており、真っ白だったはずの雪が赤い絨毯でも敷かれたように深紅に染まっている。
長刀の先端から血を滴らせたまま、サーシャが大股で近付いてくる。その瞳には、やはり戦場独特の据えた光が滲んでいた。
「無事か」
「ああ、そちらは」
「仲間を半分以上失った。再度、敵の攻撃が来れば防げない」
サーシャの口調からは、淡々とした凄惨さを感じた。言葉と感情が噛み合っていないような、ひたすら感情を殺して事務的に徹しようとしているような希薄さすらある。
血を滴らせる髪の毛を掻き上げながら、サーシャが醒めた声で続ける。
「斥候に出した者から、村に向かっている軍勢を確認したと報告を受けた。数はゆうに三百を超えている」
「村人達の退避は完了したか」
「ああ、おそらく問題がなければ」
ひどく淡泊なやり取りを行っていた時、ふとサーシャの視線が動いた。ノアの後ろに立ち尽くすニカの姿を見た瞬間、無表情だったサーシャの顔が痛みを覚えたように歪んだ。
「ニカ」
「ユリア」
双子の兄妹はお互いの名前を呼び合って、一瞬だけ沈黙した。ニカが掠れた声で呟く。
「ユ、ユリア……怪我はないか」
問い掛ける声に、サーシャは答えなかった。ただ、射るような眼差しでニカをじっと見据えている。ニカが怯えた声で続ける。
「わ、悪かった……お前ばかりに、ずっと戦わせて……」
その言葉を聞いた瞬間、サーシャの肩が膨らんだ。肩をいからせて、唸るような声で叫ぶ。
「今更……今更何を……ッ!」
だが、それ以上言葉は続かなかった。サーシャは唇を小刻みに震わせた後、目元を片手で押さえた。打ちひしがれた妹の姿を見て、ニカも言葉を失っていた。双子の兄妹の間に生まれた軋轢は、そう易々と埋まるものではないのだろう。
だが、サーシャはすぐさま片手を目元から外すと、ニカから視線を逸らして言った。
「時間がない。行こう」
そう呟くと、サーシャは足早に廊下を歩き出した。その背を追いかける。ニカも躊躇いながらも、とぼとぼと足を進めた。
後方からベルズが近付いてくる。先ほど見た時よりも、ベルズの全身は血にまみれていた。
「敵が到着するまで、あと五ワンスもかからないかと」
「そうか」
「チェトに合図を出しますか」
「ああ、お前に任せる」
そう答えると、ベルズは一度だけ頷いた。ベルズが長い足を動かして足早に進んでいくのを眺めてから、雄一郎はわずかに足取りを緩めた。鈍い足取りで歩くテメレアの横について、短く訊ねる。
「どうだ」
「問題ありません」
「身体に穴があいていて、問題なくはないだろう」
「私より重傷を負っている者はたくさんおります。私のような軽傷の人間が足手まといになるなど許されません」
テメレアは額から脂汗を滲ませながらも、周りへと視線を巡らせた。片足を失った自警団の男が他の者に助けられて、一本足で歩いている姿が見える。だが、そういうテメレアも未だ血は止まっていない。元から白いテメレアの肌が、今は青ざめて透けているようにすら見える。
「倒れる前に呼べ」
「倒れません」
即答された言葉に、思いがけず苦笑いが滲んだ。相変わらずこの男は、見た目に似合わずひどい頑固者だ。
「意地を張るな」
テメレアの額から滴る汗へと手を伸ばして、指先で拭う。途端、テメレアが驚いたように雄一郎を見やった。その青い瞳の中に、自分の淡い微笑みが映っていた。戦場だというのに、自分がひどく穏やかな表情をしているのが不思議だった。
「お前の代わりはいない」
唇から勝手に言葉が零れ落ちていた。そう呟いた瞬間、すとんとその言葉が胸の奥に落ちてきた。テメレアの代わりはいない。どこにも、どんな世界にも。
テメレアの顔がくしゃりと泣き出しそうに歪む。
「そんなの……死ねなくなるじゃないですか……」
「死ぬなバカ」
まるで子供みたいな罵りを漏らすと、テメレアは泣き笑うような表情のまま、ふふ、と笑い声を漏らした。そのまま、掠れた声で呟く。
「貴方が、私の女神でよかった……」
そう囁く声に、不意に胸に込み上げるものがあった。今まで唾棄してやりたいと思っていた女神という名称が喜ばしいもののように思えて戸惑う。心臓の内側で広がっていく温かいものに、一瞬息ができなくなった。
戸惑いに気付かれる前に、雄一郎は大股で歩き出した。雄一郎の戸惑いを見抜いているのか、後ろからテメレアの小さな笑い声が聞こえてきた。
屋敷の裏口から出ると、何人もの自警団員が岩壁を崩している姿が見えた。大きな岩を転がり落としていくと、人が二人横並びで通れそうなほどの洞窟が現れる。
サーシャが火の灯された松明を差し出してくる。
「岩山の向こう側まで続いている。抜けるまで一晩はかかる」
端的にそう告げるサーシャを見据えて、雄一郎は口を開いた。
「追撃が来る可能性はあるか」
「いいや、ない」
「なぜそう言い切れる」
「追撃が来ないように、お前は既に手を打っているんだろう」
サーシャの声音は確信に満ちていた。その苦々しさを含んだ声に、雄一郎は緩く肩を竦めた。
「お見通しか」
「お前がしようとしていることは許し難いが、今は許容せざるを得ない」
それに、もうこの村に戻ることはできない。サーシャは諦めたように、そう続けた。
憂いを滲ませたサーシャの表情を見て、雄一郎は静かに頷いた。サーシャから松明を受け取り、ベルズに訊ねる。
「準備は」
「できています」
ベルズの足下には発煙筒がいくつも置かれている。その時、キキが屋敷内から駆けてきた。
「ゴルダール軍が村に進入してきました!」
そう告げる声に、雄一郎は即座に言い放った。
「火をつけろ。すべての発煙筒に点火次第、洞窟に入れ」
その言葉の直後、ベルズの手によって次々と発煙筒に火がつけられていった。真っ暗な夜空へと、大量の白煙が昇っていく。
白煙を見上げた瞬間、遠くの空からドォンッと鈍い爆発音が聞こえた。チェトが村よりもずっと上の雪山で火薬を爆発させた音だろう。
爆発音は連続し、その直後、地面が揺れ始めた。ゴゴゴゴゴと鈍い地鳴りが聞こえてくる。仰ぎ見ると、遠くの山の地面が動いていた。大量の雪が滑って、すべてを呑み込むように降りてくる。
「早く中へ!」
そう叫ぶキキの声に、雄一郎は身を翻して洞窟の中へと飛び込んだ。地鳴りは更に勢いを増し、真っ直ぐ立っていることもできないほどだった。
洞窟の奥へと無我夢中で進んでいると、背後から激しい破壊音が聞こえた。村が雪崩に薙ぎ倒される音だ。まるで木製のオモチャの家を、素手で叩き潰しているような音だと思った。
振り返ると、洞窟の入口は真っ白な雪で閉ざされていた。
洞窟の中は、ひどく歩きづらかった。ゴツゴツとした岩肌に足を取られて、何度も転びそうになる。はるか前方に見える松明の灯りを追いかけるようにして、狭く息苦しい空間を一同はひたすら歩き続けた。
外気は凍えるほど寒いというのに、額から汗が止まらない。吐き出す息は、まるで紫煙のように白く眼前に立ちのぼる。時間の感覚はなく、まるで地獄の底へと永遠に下り続けているようだった。
何時間歩き続けたのだろうか。ようやく狭い道が終わって、洞窟内に大きく開けた空間が現れた。松明を何本も灯せば、黒い岩肌がぼんやりとオレンジ色に照らされる。
疲労でかすかにぼやけた視界を向けると、サーシャとニカが何事かを話している姿が見えた。どこか淡々とした様子で、そこには兄妹の親愛が滲んでいるようには見えない。
ぼんやりとその姿を眺めていると、ふとサーシャが小走りで近付いてきた。
「夜が明けるまで、ここで休息を取る。負傷者の手当てを行うので、彼は向こうへ」
青白い顔をしたテメレアを見ながら、サーシャは言った。開けた空間の隅に、負傷者達が固められている。その周りで、自警団の人間が忙しなく手当てを行っていた。
キキへと視線を向けて、軽く顎で促す。キキは黙って頷くと、素早くテメレアを連れて行った。テメレアとキキが遠ざかっていったのを見ると、サーシャはじっとノアを見据えた。
「貴方がノア=ジュエルドというのは真ですか」
その声音には、ありありと困惑と疑いが滲んでいた。目の前にいる幼い少年が隣国の王というのは、なかなか信じられることではないのだろう。
サーシャの戸惑いの言葉に対して、ノアははっきりと頷いた。
「僕がジュエルドの王、ノア=ジュエルドです」
「王になったのが第三王子とは聞いていましたが、まさかこんな……」
サーシャの言葉が途切れる。その言葉の続きが解ったのか、ノアは小さく笑いながら続けた。
「こんな子供だとは思わなかった?」
ノアの言葉に、サーシャが口ごもる。サーシャは数度口をもごつかせた後、深く頭を下げた。
「失礼なことを申し上げた。無礼を許していただきたい」
「いいえ、疑われるのも当然です。それに、そろそろお互いに堅苦しい口調もやめませんか。これじゃあ、いつまで経っても話が進まない」
見た目にそぐわぬ大人びた口調で、ノアは答えた。その姿を見て、雄一郎は目を丸くした。ノアでも、こんな対外的な言葉遣いができるのか。
サーシャは躊躇うように顎を引いたが、すぐさま頷きを返してきた。そのまま背筋をグッと伸ばして、口を開く。
「それでは、我々は貴方と話がしたい。互いの国のこれからの話を」
単刀直入なサーシャの切り出しに、ノアはゆっくりと頷いた。雄一郎は視線をベルズへと向けて「休んでおけ」と小声で告げた。ベルズは射るような視線をサーシャへと向けた後、顎を引いて遠ざかっていった。
代わりのようにニカがよたよたとした足取りで近付いてくる。ニカが寄ってきたのを見ると、サーシャはその場に座り込んだ。ノアと雄一郎も腰を下ろす。
松明のわずかな光が四人の顔をぼんやりと照らしている。こんな寒々しい場所に、血にまみれた姿で王族が三人もいるというのがひどく奇妙に思えた。
口火を切ったのは、やはりサーシャだった。
「結論から伝えると、我々はゴルダールの現国王であるバルタザールと戦う。戦わざるを得ない状態になった」
それは雄一郎達を責める口調ではなかった。雄一郎達が来なかったところで、この結果は避けられなかったと悟っているのだろう。サーシャが淡々とした口調で続ける。
「私達はこれから各地を回り、仲間を増やし、解放軍を結成する。だが、我々には圧倒的に足りないものがある」
「兵糧か」
即座に呟くと、サーシャの視線が雄一郎へ向けられた。サーシャが頷く。
「その通りだ。武器は調達できても、元よりない食料は手に入れることができない。食うものがなければ、行き着く先は飢え死にだ。ゴルダールには元々、食物を潤沢に育てるだけの土地がない。だが、ジュエルドにはある」
「つまり、戦争を起こす代わりに、僕らにきみ達の食料を支援しろということ?」
ノアが穏やかな声で問い掛けると、サーシャは大きく頷いた。
「反乱が起きれば、ゴルダールはジュエルドの内乱に関わっている暇はなくなる。私達も食料があれば戦える。互いに損はない話だと思うが」
サーシャの言葉に、ノアは思案するように視線を伏せた。数秒の沈黙の後、ノアが視線を上げる。
「構わない。食料の支援は、僕らが責任を持つ」
「ただ、問題は」
やや食い気味にサーシャが口を開く。サーシャは、ノアを見据えたまま静かな声で告げた。
「この内乱が終わったあとに、ゴルダールとジュエルドが戦争を起こさないかということだ」
ノアがパチパチと大きく目を瞬かせる。そうして、困ったような眼差しでサーシャを見つめた。サーシャが緩く頭を左右に振って、続ける。
「気が早いと思うだろう。すべては仮定の話だ。だが、私達はそこまで見据えて話をしたいと思っている」
「僕らが信用できないと」
「そうは言わない。だが、盲目的に信用するのはリスクが高すぎる。お互いに」
サーシャの懸念も当然だ。実際、もしもジュエルドの内乱が先に終わった場合、解放軍への食料支援を打ち切られれば、サーシャ達は野垂れ死にするしかない。
結局のところ、すべては互いの信頼関係の上に成り立つ話だ。だが、その信頼は脆く弱い。蜘蛛の糸で綱渡りするようなもので、どちらかが裏切ればすぐにプツリと切れてしまう。そして次の瞬間、奈落へと落ちていく。
雄一郎は、あぐらをかいた膝の上に片肘をついたまま、二人のやり取りを黙って眺めた。ニカは、どこか不安げな眼差しでサーシャとノアを交互に見やっている。だが、次の瞬間、ニカの口から出た言葉に、雄一郎はずるっと片肘を滑らせた。
「ノア、ユリアと婚約してくれないか」
ニカの突拍子もない申し出に、ノアがギョッとしたように目を見開く。すぐさま、ノアの眼差しが雄一郎へ向けられる。雄一郎も同じように目を丸くしたまま、ノアを見つめた。
「い、いきなり何を……」
ニカに視線を戻して、ノアが上擦った声で呟く。ニカはどこかバツが悪そうな眼差しで膝元を眺めたまま、ぼそぼそとした声で続けた。
「この内乱が終わったら、ユリアを正妃にすると約束してほしい。そうすれば、ゴルダールとジュエルドの友好関係も深まる」
ニカの言葉を聞いて、口角にかすかな空笑いが滲んだ。
「つまり、自分の妹を人質に差し出すと?」
雄一郎の問い掛けに、ニカの首がぐにゃりと折れる。ニカは深く俯いたまま、キツく拳を握り締めていた。だが、痛恨も露わなニカに対して、サーシャは淡々とした声で返した。
「ニカと話して決めたことだ。私に異論はない。もちろん、正妃と言っても名だけ与えて貰えればいい。私のことは元からいない者として扱ってくれて構わない」
サーシャの言葉に悲愴感はなく、ひどく事務的だった。だが、口調よりもその言葉の意味はずっと重たい。国のために、自らを生け贄にするようなものだ。愛されないことを解っていて縁の薄い国へ嫁ぐなど、そんな孤独な人生を受け入れるというのか。
だが、実際は人質だとしても、王と隣国の姫の婚姻というのは、国と国とを結びつける意味では有効だ。人質を出している国は身内がいるという理由から、また人質を受け入れた方も人道的な観点から戦争を仕掛けることが難しくなる。少なくとも婚姻が続く限りは、表面上だけでも友好関係を続けなくてはならない。子供が産まれれば、尚更その年月は長くなる。
サーシャが言う。
「ジュエルドとゴルダールは、歴史上何度も戦争を繰り返してきた。我々の代で、無益な争いは終わりにしたい。だから、どうかお願いできないだろうか」
人質を出すのは、ニカとサーシャからの誠意の証のつもりなのかもしれない。だが、ノアは何とも言えない複雑な眼差しで二人を眺めていた。その視線が雄一郎へ向けられる。戸惑いながらも、その目の奥底は揺らいではいない。ただ真っ直ぐ、雄一郎を見つめている。
その眼差しを見た瞬間、ノアの言いたいことが解った。その目が訴えている。雄一郎を選ぶのだと。三十七歳の、美しさも可愛げもない男を、自分の唯一の妻として選ぶと。
それに気付いた瞬間、身体の奥底から怖気が込み上げてきた。皮膚がぞわりと震えて、あまりの恐ろしさに一瞬息ができなくなる。
あり得ない。ノアのような前途有望な少年が、ただの人殺しの男を正妃として選ぶなんて、そんなことが許されるわけがない。自分は、ノアに選ばれるような人間ではない。
そう思った瞬間、唇が勝手に動いていた。
「ノア、ユリアと婚約しろ」
告げるのと同時に、ノアの身体が強張るのが見えた。ノアが信じられないものでも見るかのように目を見開いて、雄一郎を凝視している。その眼差しを見返さないままに、雄一郎は早口で続けた。
「気は早いが、悪い話じゃあない。内乱が終わった後に、ゴルダールと戦争にならない保証はない。ユリアが正妃になれば、民達の隣国に対する反感も薄まっていく。ユリアとの子供ができれば尚更いい。その子供がジュエルドとゴルダールを結ぶ橋になる可能性もある」
自分でも甘っちょろい空論だと思いながらも、ぺらぺらと口が動く。止まらない。一度でも喋るのをやめてしまえば、顔が醜く歪んでしまいそうだった。
「争いをなくすために王の娘を隣国へ嫁がせるっていうのは、俺の元いた世界でもよくあった。だから、ニカとユリアの申し出は、ある意味合理的な――」
「雄一郎、黙って」
言葉が遮られる。声の方へ顔を向けて、雄一郎は息を呑んだ。今まで見たことがないほど無機質な表情のノアと視線が合った。その眼差しに、口元が引き攣る。
ノアはわずかに顎を引いて、確かめるように雄一郎を見つめた。
「あんた、自分が何言ってるのか解ってるのか」
弾劾するような言葉に、皮膚が震えそうになる。なぜ、自分がノアの言葉に怯えているのか不思議だった。かすかに咽喉を上下させて、唇を開く。
「ああ、解っている」
答えた瞬間、これ以上ないほどノアの顔が白くなった。
「そう」
一人で納得するみたいに呟いて、ノアは雄一郎から視線を逸らした。ニカとサーシャは、どこか困惑した表情でノアと雄一郎のやり取りを眺めている。
二人に視線を向けると、ノアは感情の削げた声で呟いた。
「悪いけど、返事は朝まで待ってほしい」
そう言い放つなり、ノアは雄一郎の腕を掴んで立ち上がった。思いのほか強い力だった。ノアの指先が腕に食い込むのを感じながら、雄一郎は戸惑いながらも立ち上がった。雄一郎を一瞥もせず、ノアが歩き出す。
「お、おい……」
どこに行くんだと問い掛けられる空気ではなかった。まるで悪さをした生徒が教師に指導室へと連行されるかのような雰囲気だ。
元来た通路を戻るようにノアはずんずんと進んでいく。松明の灯りが遠くなった頃、ノアの足が止まった。暗がりの中、ノアが振り返る。次の瞬間、背中を岩壁へとキツく押し付けられた。ノアの両手が雄一郎の胸倉を掴んでいる。
「何のつもり?」
冷たく問い掛けてくる声に、背筋が強張る。雄一郎は引き攣りそうになる唇に無理やり笑みを浮かべて、おどけるように両手を軽く掲げた。
「おい、何をそんなに怒ってるんだ」
「あんた、解ってるだろう。僕が怒ってる理由を解っているくせに、解らないふりをしてる。巫山戯るなよ、雄一郎」
ノアらしかぬ乱暴な物言いだった。その顔にはありありと憤怒が浮かび、奥歯の辺りからガギッと歯が擦れ合う音が聞こえてくる。雄一郎の胸倉を掴むノアの手にも力が込められて、かすかに息が詰まった。
「僕は言ったはずだ。あんたが好きだって。雄一郎が僕の妻だって」
唸るような声で、ノアが吐き捨てる。その言葉のおぞましさに、また震えが走りそうになる。
こいつは一体何を言っているんだ。まさか、本気でこんなオッサンを愛してると言うのか。王の妃として娶ろうなんて考えているのか。馬鹿馬鹿しい、こんなのは現実的じゃない。
そう考えた瞬間、口角に嘲笑が滲んだ。自分でも嫌になるぐらい、人を小馬鹿にするような笑い方だと思った。
「お前は、本当にガキだな」
「何を……」
「何回かヤッたぐらいで、こんなオッサンを好きだなんて勘違いして、随分と目出度い頭をしてるもんだ。雛鳥じゃあるまいし、少しは現実を見たらどうなんだ」
薄ら笑いを浮かべたまま、言葉を吐き出す。だが、言葉が唇から零れる度に、心臓がギシギシと音を立てて軋む。心臓が千切れそうだ。いっそ身体ごと真っ二つに裂けてしまえばいいのに。
暗がりでも判るぐらい、ノアの顔色が悪くなっていく。
「現実……?」
ノアが掠れた声で呟く。ノアの震える唇を見たくなくて、雄一郎は顔を逸らした。暗い洞窟の奥を眺めながら、唇だけを機械的に動かす。
「内乱が終われば、お前はユリアと結婚して子供を作る。それでジュエルドとゴルダールは平和になる。オッサンを娶るより、よっぽど現実的だ」
そうだ。これが正しい結末だ。成長したノアの隣には、ドレスを着たサーシャが立っている。美しい男女の夫婦。国の誰もが祝福する結婚。そして、いつか産まれる、灰色の髪と青い目をもつ可愛らしい赤ん坊。美しく、平和な世界。
想像した瞬間、どうしてだかひどい喪失感を覚えた。その美しい光景の中に、雄一郎の姿はない。あってはいけない。
耐えきれず、下唇をキツく噛み締める。眼球が潤みそうになるのを必死で堪える。どうして、なぜ泣きそうになっているのか自分でも解らない。ただ、苦しい。
身体が震えそうになるのを抑えていると、ノアがひどくか細い声で呟いた。
「雄一郎は……」
胸倉を掴むノアの指先にぎゅうっと力が込められる。まるで小さな子が親に縋るように。
「雄一郎は、僕のことを何とも思ってないの?」
悲しげな声に、何度でも心が砕かれる。あれだけ伝えたのに、あんなに心を捧げたのに、何も伝わっていないのか、と問い掛けられている。
渇いた咽喉に何度も唾を流し込んで、声が掠れそうになるのを堪える。そうして、雄一郎はわざとらしいほど茶化した声をあげた。
「大人は、子供の言うことを信用しないもんだ」
そうやって、ノアの心を踏み躙る。俺は大人で、お前は子供で、物事の分別も付いていないのだと。今までのノアの言葉など、雄一郎は何一つとして信じていないのだと。
そう告げた瞬間、胸倉を掴んでいたノアの手から力が抜けた。両腕をだらりと垂らしたまま、ノアが力なく俯く。
長く、重たい沈黙が流れた。ノアはピクリとも動かない。お互いのか細い呼吸音だけが聞こえる。不意に、ノアが呟いた。
「あんたは、ずっとそうだ」
その言葉の意味が解らず、雄一郎は眉を顰めた。ノアが顔をあげる。潤んだ瞳が雄一郎を真っ直ぐ睨み付けてきた。
「あんたは誰のことも信じないで、自分の気持ちは何も言わないで、何もかも勝手に諦めて、そうやってひとりで死んでいくんだ……ッ」
ドンッとノアの拳が雄一郎の右胸を叩く。瞬間、心臓に抜けない杭が突き刺さったように感じた。それほど強い力ではないというのに、頭が真っ白になって足元がふらつく。
ノアが大きく目を瞬かせる。その瞬間、尖った目尻から一筋の涙が流れた。
「子供なのは、あんたの方じゃないかッ!」
そう叫んで、ノアが背を向けて歩き出す。雄一郎は暗い場所に立ち尽くしたまま、その背を呆然と見つめた。
***
どうやって洞窟の広場まで戻ったか記憶がない。
薄暗い広場の真ん中に突っ立ったまま、雄一郎はぼんやりと目の前の光景を眺めている。視線の先で、何十人もの人間が地面にへたり込んで啜り泣いていた。
「何が起こった」
気の抜けた声で問い掛けると、俯いていたキキが顔を上げた。その顔は涙で濡れている。
「――テメレア様が亡くなりました」
そう告げる声に、は、の形で口が固まった。一瞬で全身の血が落ちて、指先が凍えるように冷たくなる。唇を開けたまま動かなくなった雄一郎を見つめて、キキがひどく悲しげな声で続ける。
「出血が止まらず、先ほど意識が混濁を始めて……気付いた時には息をしておりませんでした……」
頭の中が真っ白で、キキの言っている意味が上手く理解できない。テメレアが死ぬはずがない。あんなにも美しく、献身的な男が、雄一郎をかばって死ぬなどあり得ない。
「冗談だろ」
自分の唇から、空気が抜けるような声が漏れた。視線が定まらず、ぐらぐらと視界が揺れる。
視界の端でキキが首を左右に振る。その瞬間、劈くような叫び声が響いた。
「あんたのせいだッ!」
声の方向へ視線を向ける。そこには怒りで顔を歪めたノアがいた。その近くには目を閉じたまま、静かに横たわったテメレアの姿もある。テメレアの胸は上下しておらず、その皮膚はあまりにも白くなり過ぎて、一瞬透けているようにも見えた。
「テ――」
「あんたのせいだッ! テメレアはあんたを庇って死んだんだッ!」
名前を呼ぼうとした声がノアの怒声で遮られる。あまりにも激しいノアの憤怒に触れて、雄一郎は小さく息を呑んだ。
「やっぱりあんたなんか女神じゃなかった! 最初から、あんたみたいな人殺しは疫病神だと思ってたんだ! どうして、この世界に来た! 人殺しにこの世界が救えるわけがないのに! 誰も救えるわけがないのにッ!」
来たくて来たわけじゃない。勝手に飛ばされて、勝手に女神と呼ばれて、勝手にこの世界を救えと言われて――
頭の中で無意味な言い訳ばかりがぐるぐると回る。血の気が完全に失せたテメレアの顔から視線が外せない。死に顔ですら、神々しいまでに美しい。それがあまりにも悲しかった。
ノアは両目からぼろぼろと涙を零しながら、雄一郎を真っ直ぐ睨み付けて言った。
「尾上雄一郎、お前は一生救われない。永遠に、誰からも許されない」
違う、ノアはこんなことは言わない。絶対に言うわけがない。なら、これは何だ。目の前のノアは誰だ。自分は今、一体何を見ている。
目の前の光景がぐるぐると渦を巻いていく。酩酊するような感覚に、思わず両手で顔を覆う。残酷な世界から目を塞ぐように。
その瞬間、耳元で囁くような声が聞こえた。
「これがきみの望みか?」
「ニカ」
声を掛けると、ビクンッと敷物が跳ねた。震えるだけの敷物を眺めたまま、雄一郎はゆっくりとした口調で続けた。
「お前は一生そこで震えてるつもりか」
問い掛けても、敷物の下で怯える男は声をあげようとしない。
「お前の妹は、民を守るために命がけで戦ってるぞ」
淡々とした声で告げると、ようやく敷物の下からくぐもった声が聞こえた。
「……ユリアと、お、俺は違う……」
「何が違う。お前達は兄妹だろう。同じ血を引いている」
「それでもッ……ユ、ユリアは見てないんだ……目の前で、家族が殺される様を……お、俺はもう二度と見たくない……あ、あんな光景は二度と、二度と無理だ……」
ニカの押し殺した声が響く。駄々を捏ねる子供のような声音だと思った。
雄一郎は小さく息を漏らして、静かに訊ねた。
「それじゃあ、今度は妹を見殺しにするのか」
敷物が再びビクッと跳ねるのを眺めて、雄一郎は寒々とした声を漏らした。
「お前は民だけでなく、唯一残った妹まで見殺しにするのか。民達の死体の山を見て、妹の死骸を目の前にして、お前は自分の選択を後悔しないか。自分は間違っていないと胸を張って言えるか」
問い掛けるように言葉を紡ぐ。
「お前は、どうしたい」
そう告げた瞬間、更に敷物の震えが激しくなった。だが、ニカは何も答えない。緩く溜息を漏らした時、テメレアが呟いた。
「ノーラ様はどこですか」
強張ったテメレアの声に、雄一郎は敷物をじっと眺めた。どう見ても、人一人分の膨らみで、ノアまで入っているとは思えない。
「おい、ノーラはどこに――」
震えるニカへ問い掛けようとした瞬間、不意にドォンと鈍い轟音が響きわたった。あまりの衝撃に、ぐらりと床が揺れる。
足踏みをしてぐらつく身体を支えながら、視線を轟音のほうへ向ける。屋敷正面側からの音ではない。屋敷左側からの破壊音だ。
「な、何が」
テメレアの上擦った声を聞きながら、雄一郎は担いでいた銃を手に取った。製鉄工であるカンダラに作らせた新式の銃だ。
「敵は正面だけじゃないらしい」
自分自身に確認するように呟く。おそらく今のは屋敷側面を爆薬で吹き飛ばした音だろう。
「俺より前に出るな。お前はそいつを守ってやれ。できれば死なせるな」
そう命じると、テメレアは不服そうな表情を浮かべた。雄一郎は銃を手に、広間の扉へ歩き出した。
扉の陰から廊下の方へと視線をやる。廊下の奥は、まるで深い森のように暗く陰っていた。暗闇から無数の足音が近付いてくる。屋敷の床がギィギィと割れそうなほど軋んでいるのが聞こえた。
そうして、暗闇から人影が浮かび上がってきた瞬間、雄一郎は照準を合わせた銃の引き金を引き絞った。慣れ親しんだ乾いた音とともに、肩にグッと重力がかかる。
「ギャッ!」
暗闇から響く短い悲鳴と、人が倒れる音を聞きながら、雄一郎はかすかに口角を吊り上げた。良い手応えだ。父を越えると言っただけあって、カンダラの作った銃の性能は悪くない。
廊下を駆けてくる影に向かって、雄一郎はただ撃ち続けた。頭の中で残り弾数を数える。手元にあるマガジンは一つきりだ。つまり、二十二発しかない。
撃った人数が片手を超えた辺りから、口内に嫌な唾液がわき上がってきた。廊下の奥からは深い血臭が漂ってくる。そうして、啜り泣きにも似た呻き声も絶えず聞こえてきた。それは地獄の底から響く呪詛のようにも思える。
まるで蛆のように盗賊共が次々と湧いて出てくる。屋敷の正面側からも、雄叫びのような怒声がいくつも聞こえてきた。続けて剣を打ち合う音が響き始める。正面側でも、とうとう白兵戦が始まったのだろう。
波のように押し寄せる盗賊共を一人で抑えきることはできず、次第にその距離が縮まっていく。銃の残弾数ももう残り少ない。盗賊共との距離が十メートルを切った瞬間、雄一郎は銃を放り投げて腰帯のナイフを手に掴んでいた。
「雄一郎様ッ!」
テメレアの声を聞きながら、一気に廊下へ駆け出す。
突き進んでくる盗賊の一人が長刀を振り上げるのが見える。それが振り下ろされるよりも早く、走る速度を上げて一気にナイフごと盗賊の身体に体当たりした。ナイフの先端が肉に深く埋まるのを、グリップ越しに感じる。心臓の激しい脈動がナイフを握る指を叩く。
ゴボッと盗賊が血反吐を吐く。熱い血潮が頬にかかって、首筋を伝っていった。心臓を突き刺された盗賊の手から長刀を奪い取って、既に息絶えたその身体を、こちらへと駆けてきていた他の盗賊に向かって突き飛ばす。仲間の亡骸に押し潰されて、もう一人の盗賊が床に尻餅をつく。雄一郎は片手に掴んだ長刀を振り上げて、尻餅をついた盗賊の首へとめがけて無慈悲に振り下ろした。
「た、たす――」
命乞いが途中で途切れる。目を見開いたままの盗賊の男の首が宙を舞った。まるでボールのように数回バウンドして廊下を転がっていく。首の断面から、まるで噴水のように血が噴き上がって、壁を凄惨に汚した。長刀を床へ放り捨てて、息絶えた盗賊の胸からナイフを引き抜く。
息を切らす間もなく、次の盗賊が現れる。何人いるのか、いつ終わるのか、救援は来るのか、そんなことを考える余裕もなく、雄一郎はただひたすら殺されないために殺し続けた。
ナイフを握る手のひらの感覚がなくなりかけた時には、足下に血の海が広がっていた。足をおろす度に赤い水飛沫が跳ねるほどだ。
振り下ろされる長刀をナイフで受け止めた瞬間、その衝撃で、ズッと足が血溜まりを滑った。片膝が折れて、長刀が眼前に迫る。まずいと思うのと同時に、目の前の盗賊の顔面に棒が叩きつけられた。
隣を見ると、棒を握り締めたテメレアが野球のバッターのような姿勢をして立っていた。
「……俺より前に出るなと言ったはずだ」
「はい、とお答えした記憶はありません」
屁理屈を言って、床で呻く盗賊の顔面にテメレアは更に棒を振り下ろした。完全に気絶したのか、盗賊はうめき声ひとつ漏らさなくなった。
血に濡れた手のひらを服で拭って、ナイフを握り直す。ふらつく身体を奮い起こして立ち上がろうとした瞬間、テメレアの悲痛な叫び声が響いた。
「雄一郎さ――ッ!」
叫び声と共に、テメレアの身体が覆い被さってきた。テメレアの身体越しにドッと重たい衝撃が走る。視界の端で赤い血飛沫が散り、床に小さな穴が開くのが見えた。
「ッ、ぐ……!」
押し殺された悲鳴が聞こえた瞬間、雄一郎はテメレアの胸倉を鷲掴んで、近くの扉の中へと引きずり込んでいた。盾のように扉を外側へ大きく押し開くのと同時に、扉の上側にドンッと小さな穴が空く。銃痕だ。
テメレアの身体を扉の内側へと転がす。その左鎖骨付近から真っ赤な血が滲み出しているのが見えた。テメレアの美しい顔が苦痛に歪んでいる。その様を見た途端、すぅっと身体から血の気が引くのが解った。
「テメレア」
自分の声が遠い。テメレアは呻き声を噛み殺しながら、目を細めて雄一郎を見上げた。
「私のこと、は……いい、ですから……」
いいわけがない。駄目だ。絶対に駄目だ。この男の代わりなんて、どこにもいるわけがない。
先ほどまで燃えるように熱かった身体が、急速に冷たくなっていく。
廊下から向かってくる足音がどんどん近付いてくる。盾のようにしていた扉から、短銃を持った盗賊が顔を覗かせた。雄一郎とテメレアを見下ろして、盗賊がニヤリと笑みを浮かべる。
反射的にナイフを握り直そうとするが間に合わない。頭部に向けられた銃口を見つめた直後、突然盗賊の後ろから小さな影が飛び出してきた。その影が真下から突き上げるようにして、短銃を掴んでいた男の腕へと漆黒のナイフを突き刺す。
同時に引き金が引かれたのか、パンッと乾いた音と共に耳の近くを銃弾が掠めた。キィンと耳鳴りが響く。
小さな影は呻き声をあげる盗賊の腕からナイフを一気に引き抜くと、今度はその腹目掛けて突き刺した。鋭い絶叫をあげた盗賊が悶えるようにして床へと倒れる。小さな影はトドメをさすように、盗賊の身体に馬乗りになってその胸部へともう一度ナイフを突き立てた。
もう悲鳴は聞こえない。代わりのように、荒い呼吸音が聞こえた。肩で息をしながら、小さな影が肩越しに振り返る。
「雄一郎、大丈夫?」
そう訊ねるノアの顔は、今しがた息絶えた男の血で赤く汚れていた。
ぐちゃり、と盗賊の胸からナイフが引き抜かれる。粘ついた血がナイフの先端から滴り落ちているのが見えた。そのナイフを握るのは、まだ幼さを残した小さな手のひらだ。
ノアは、もう女の格好をしていない。長い髪のカツラを脱ぎ捨て、動きやすそうな服に着替えている。
ナイフをキツく握り締めたまま、ノアはどこか据わった眼差しで男の亡骸を眺めていた。その眼球に滲む仄暗い光に、雄一郎はかすかに唇を震わせた。人間が人間を殺す場面なんて今までいくらでも見てきたというのに、ひどく陰惨なものを見ている気分になった。
「ノア」
名前を呼ぶと、ノアは鈍い動作で雄一郎へと視線を向けた。そのまま、口角をわずかに引き攣らせる。笑おうとしたのかもしれない。
「雄一郎、大丈夫? 怪我はない?」
また大丈夫かと訊ねてくる。だが、その声は小刻みに震えているように聞こえた。
その直後、廊下を駆ける複数の足音が聞こえた。咄嗟にノアの腕を引いて、自身の後ろへと押しやるのと同時に、見覚えのある枯草色の頭が視界に映った。
「女神様」
「キキ」
キキの後ろには、数人の自警団員の姿も見えた。誰もが全身を血に染め、交戦の痕を色濃く残している。倒れたテメレアを見ると、キキはその顔を苦々しく歪めた。
「遅くなり申し訳ございません」
「お前のせいじゃない。正面側の状況は」
訊ねながら、テメレアの上着を開く。傷口を確かめると、どうやら銃弾は体内を抜けていったようだった。おそらく臓器も損傷していないだろう。致命傷ではないことに、強張っていた身体からほっと力が抜ける。
「正面側の攻撃は、先ほどよりは落ち着きました。ですが、すぐに第二陣の攻撃が来るかと」
「ああ、時間がないな」
もしもアオイが本格的にこの村を潰そうと考えているのなら、盗賊共に続いてゴルダールの軍が襲ってくることも十分に考えられる。軍が来れば、戦う間もなく蹂躙されることは目に見えていた。
キキの声に応えながら、テメレアの傷口に服を破った布を押し付ける。すぐさま布に真っ赤な血がじわりと染み込んでいった。傷口を押さえていると、テメレアが緩く首を左右に振った。
「私は、大丈夫です。ノア様を……」
そう囁く声に、視線を再びノアへ向ける。ノアは、どこか虚ろな眼差しを足下に向けたまま微動だにしていない。
「ノア」
再び名前を呼ぶ。ノアは、今度は雄一郎を見なかった。ナイフのグリップにギリギリと食い込むノアの指先を見て、雄一郎は眉を顰めた。
「指から力を抜け」
手を伸ばして、ノアの腕を掴む。だが、ノアは俯いたまま首を小さく左右に振った。
「雄一郎を守る」
譫言のように呟くノアの姿に、心臓にわずかな痛みを覚えた。ノアは初めて人を殺した。雄一郎のために、自分の手を血で汚した。
「ああ、そうだ。守ってくれた。もう大丈夫だ」
言い聞かせるように呟くと、ノアはようやく視線をあげた。どこか感情をうかがわせないノアの瞳を覗き込んで、雄一郎はそっと告げた。
「よくやった」
そう囁いた瞬間、強張っていたノアの口角がひくりと戦慄いた。ノアの顔がくしゃくしゃに歪められる。その頭を、軽く胸元へと抱き寄せた。
「お前はやるべきことをやった」
お前は悪くないとは言えない。だが、確かにノアは今この戦場で必要なことを行った。そう言い聞かせるように呟く。
小さな後頭部をぽんぽんと手のひらで叩いていると、ふと広間の奥から唖然とした声が響いた。
「ノ……ノーラ……?」
敷物の下から頭を覗かせたニカが呆然とこちらを見ている。敷物に半ば埋まったままのニカを見た瞬間、ノアの表情が怒りに歪んだ。大股でニカに近付いていくと、ノアはあらん限りの声で叫んだ。
「いつまで隠れてるつもりだッ!」
ノアらしくない、低く轟くような声だった。ビリビリと大気を震わせるノアの声に驚いたのか、ニカは身体をビクッと大きく震わせた後、敷物を撥ね上げるようにしてその場に正座した。
硬直しているニカを見下ろして、ノアが唸るような声で続ける。
「自分に失望したまま死ぬ気なのか」
その問い掛けに、ニカの眉尻がくにゃりと下がる。ニカは力なく俯いて、ぼそぼそと聞き取りにくい声で呟いた。
「……お、俺には、何もできない」
言い訳のようなニカの台詞に、ノアの表情が悔しげに歪む。ノアは血で真っ赤に染まった手を、ニカの目の前に突き出した。途端、ニカがヒッと怯えたように上擦った声をあげる。
「できることはある」
力強いノアの声に、ニカがぱちぱちと目を瞬かせる。その顔を見据えたまま、ノアは続けた。
「僕を助けて」
間の抜けた言葉だと思った。だが、その声音には愚直なまでの切実さがあった。
ノアは「国を」とも「民を」とも「妹を」とも言わなかった。ただ、目の前にいる自分を助けてほしいと、逃げ隠れる男に懇願していた。
「僕も、きみを助けるから」
囁くようなノアの声に、ニカの表情が泣き出しそうに歪む。最初の傲慢で怠惰な男のなりは消えて、まるで小さな子供みたいにニカはノアを見上げていた。
「お前は……誰なんだ……」
ニカの問い掛けに、ノアは迷わず答えた。
「僕は、ノア=ジュエルドだ」
ノアの言葉に、ニカの顔に驚愕が浮かぶ。だが、すぐさまその顔は悲しげに歪んだ。
「俺は……俺は王じゃない……この国の王には、なれない……」
「きみが王じゃなくても構わない。僕は、王じゃないきみに助けてほしい。僕も王じゃないきみを助ける」
「な、何のために……」
疑るようなニカの言葉に、ノアは切なげに目を細めた。わずかに沈黙した後、小さな声で答える。
「きみと僕は一緒だから。同じ苦しみを知っているから」
まるで幼い子供のような声音だった。
ニカの目が見開かれる。その身体が硬く強張って、直後ガックリと脱力する。
静寂が流れた。ノアが差し出していた手のひらを引っ込めようとする。だが、その直前、ニカがキツくノアの手のひらを掴んだ。
「もう……自分に失望したくない……」
そう掠れた声で呟いて、ニカはゆっくりとノアを見上げた。その目に滲んでいるのは怯えと決意だ。ノアと同じ目をしている。
ノアが小さく頷いて、握り締めたニカの手を引っ張る。立ち上がったニカは一瞬ぎゅっと目を瞑った。赤く染まった目の端から、ぽろりと一粒の涙が伝って落ちた。
屋敷正面側も惨憺たる状況だった。屋敷正面には、敵とも味方ともつかぬ死体が転がっており、真っ白だったはずの雪が赤い絨毯でも敷かれたように深紅に染まっている。
長刀の先端から血を滴らせたまま、サーシャが大股で近付いてくる。その瞳には、やはり戦場独特の据えた光が滲んでいた。
「無事か」
「ああ、そちらは」
「仲間を半分以上失った。再度、敵の攻撃が来れば防げない」
サーシャの口調からは、淡々とした凄惨さを感じた。言葉と感情が噛み合っていないような、ひたすら感情を殺して事務的に徹しようとしているような希薄さすらある。
血を滴らせる髪の毛を掻き上げながら、サーシャが醒めた声で続ける。
「斥候に出した者から、村に向かっている軍勢を確認したと報告を受けた。数はゆうに三百を超えている」
「村人達の退避は完了したか」
「ああ、おそらく問題がなければ」
ひどく淡泊なやり取りを行っていた時、ふとサーシャの視線が動いた。ノアの後ろに立ち尽くすニカの姿を見た瞬間、無表情だったサーシャの顔が痛みを覚えたように歪んだ。
「ニカ」
「ユリア」
双子の兄妹はお互いの名前を呼び合って、一瞬だけ沈黙した。ニカが掠れた声で呟く。
「ユ、ユリア……怪我はないか」
問い掛ける声に、サーシャは答えなかった。ただ、射るような眼差しでニカをじっと見据えている。ニカが怯えた声で続ける。
「わ、悪かった……お前ばかりに、ずっと戦わせて……」
その言葉を聞いた瞬間、サーシャの肩が膨らんだ。肩をいからせて、唸るような声で叫ぶ。
「今更……今更何を……ッ!」
だが、それ以上言葉は続かなかった。サーシャは唇を小刻みに震わせた後、目元を片手で押さえた。打ちひしがれた妹の姿を見て、ニカも言葉を失っていた。双子の兄妹の間に生まれた軋轢は、そう易々と埋まるものではないのだろう。
だが、サーシャはすぐさま片手を目元から外すと、ニカから視線を逸らして言った。
「時間がない。行こう」
そう呟くと、サーシャは足早に廊下を歩き出した。その背を追いかける。ニカも躊躇いながらも、とぼとぼと足を進めた。
後方からベルズが近付いてくる。先ほど見た時よりも、ベルズの全身は血にまみれていた。
「敵が到着するまで、あと五ワンスもかからないかと」
「そうか」
「チェトに合図を出しますか」
「ああ、お前に任せる」
そう答えると、ベルズは一度だけ頷いた。ベルズが長い足を動かして足早に進んでいくのを眺めてから、雄一郎はわずかに足取りを緩めた。鈍い足取りで歩くテメレアの横について、短く訊ねる。
「どうだ」
「問題ありません」
「身体に穴があいていて、問題なくはないだろう」
「私より重傷を負っている者はたくさんおります。私のような軽傷の人間が足手まといになるなど許されません」
テメレアは額から脂汗を滲ませながらも、周りへと視線を巡らせた。片足を失った自警団の男が他の者に助けられて、一本足で歩いている姿が見える。だが、そういうテメレアも未だ血は止まっていない。元から白いテメレアの肌が、今は青ざめて透けているようにすら見える。
「倒れる前に呼べ」
「倒れません」
即答された言葉に、思いがけず苦笑いが滲んだ。相変わらずこの男は、見た目に似合わずひどい頑固者だ。
「意地を張るな」
テメレアの額から滴る汗へと手を伸ばして、指先で拭う。途端、テメレアが驚いたように雄一郎を見やった。その青い瞳の中に、自分の淡い微笑みが映っていた。戦場だというのに、自分がひどく穏やかな表情をしているのが不思議だった。
「お前の代わりはいない」
唇から勝手に言葉が零れ落ちていた。そう呟いた瞬間、すとんとその言葉が胸の奥に落ちてきた。テメレアの代わりはいない。どこにも、どんな世界にも。
テメレアの顔がくしゃりと泣き出しそうに歪む。
「そんなの……死ねなくなるじゃないですか……」
「死ぬなバカ」
まるで子供みたいな罵りを漏らすと、テメレアは泣き笑うような表情のまま、ふふ、と笑い声を漏らした。そのまま、掠れた声で呟く。
「貴方が、私の女神でよかった……」
そう囁く声に、不意に胸に込み上げるものがあった。今まで唾棄してやりたいと思っていた女神という名称が喜ばしいもののように思えて戸惑う。心臓の内側で広がっていく温かいものに、一瞬息ができなくなった。
戸惑いに気付かれる前に、雄一郎は大股で歩き出した。雄一郎の戸惑いを見抜いているのか、後ろからテメレアの小さな笑い声が聞こえてきた。
屋敷の裏口から出ると、何人もの自警団員が岩壁を崩している姿が見えた。大きな岩を転がり落としていくと、人が二人横並びで通れそうなほどの洞窟が現れる。
サーシャが火の灯された松明を差し出してくる。
「岩山の向こう側まで続いている。抜けるまで一晩はかかる」
端的にそう告げるサーシャを見据えて、雄一郎は口を開いた。
「追撃が来る可能性はあるか」
「いいや、ない」
「なぜそう言い切れる」
「追撃が来ないように、お前は既に手を打っているんだろう」
サーシャの声音は確信に満ちていた。その苦々しさを含んだ声に、雄一郎は緩く肩を竦めた。
「お見通しか」
「お前がしようとしていることは許し難いが、今は許容せざるを得ない」
それに、もうこの村に戻ることはできない。サーシャは諦めたように、そう続けた。
憂いを滲ませたサーシャの表情を見て、雄一郎は静かに頷いた。サーシャから松明を受け取り、ベルズに訊ねる。
「準備は」
「できています」
ベルズの足下には発煙筒がいくつも置かれている。その時、キキが屋敷内から駆けてきた。
「ゴルダール軍が村に進入してきました!」
そう告げる声に、雄一郎は即座に言い放った。
「火をつけろ。すべての発煙筒に点火次第、洞窟に入れ」
その言葉の直後、ベルズの手によって次々と発煙筒に火がつけられていった。真っ暗な夜空へと、大量の白煙が昇っていく。
白煙を見上げた瞬間、遠くの空からドォンッと鈍い爆発音が聞こえた。チェトが村よりもずっと上の雪山で火薬を爆発させた音だろう。
爆発音は連続し、その直後、地面が揺れ始めた。ゴゴゴゴゴと鈍い地鳴りが聞こえてくる。仰ぎ見ると、遠くの山の地面が動いていた。大量の雪が滑って、すべてを呑み込むように降りてくる。
「早く中へ!」
そう叫ぶキキの声に、雄一郎は身を翻して洞窟の中へと飛び込んだ。地鳴りは更に勢いを増し、真っ直ぐ立っていることもできないほどだった。
洞窟の奥へと無我夢中で進んでいると、背後から激しい破壊音が聞こえた。村が雪崩に薙ぎ倒される音だ。まるで木製のオモチャの家を、素手で叩き潰しているような音だと思った。
振り返ると、洞窟の入口は真っ白な雪で閉ざされていた。
洞窟の中は、ひどく歩きづらかった。ゴツゴツとした岩肌に足を取られて、何度も転びそうになる。はるか前方に見える松明の灯りを追いかけるようにして、狭く息苦しい空間を一同はひたすら歩き続けた。
外気は凍えるほど寒いというのに、額から汗が止まらない。吐き出す息は、まるで紫煙のように白く眼前に立ちのぼる。時間の感覚はなく、まるで地獄の底へと永遠に下り続けているようだった。
何時間歩き続けたのだろうか。ようやく狭い道が終わって、洞窟内に大きく開けた空間が現れた。松明を何本も灯せば、黒い岩肌がぼんやりとオレンジ色に照らされる。
疲労でかすかにぼやけた視界を向けると、サーシャとニカが何事かを話している姿が見えた。どこか淡々とした様子で、そこには兄妹の親愛が滲んでいるようには見えない。
ぼんやりとその姿を眺めていると、ふとサーシャが小走りで近付いてきた。
「夜が明けるまで、ここで休息を取る。負傷者の手当てを行うので、彼は向こうへ」
青白い顔をしたテメレアを見ながら、サーシャは言った。開けた空間の隅に、負傷者達が固められている。その周りで、自警団の人間が忙しなく手当てを行っていた。
キキへと視線を向けて、軽く顎で促す。キキは黙って頷くと、素早くテメレアを連れて行った。テメレアとキキが遠ざかっていったのを見ると、サーシャはじっとノアを見据えた。
「貴方がノア=ジュエルドというのは真ですか」
その声音には、ありありと困惑と疑いが滲んでいた。目の前にいる幼い少年が隣国の王というのは、なかなか信じられることではないのだろう。
サーシャの戸惑いの言葉に対して、ノアははっきりと頷いた。
「僕がジュエルドの王、ノア=ジュエルドです」
「王になったのが第三王子とは聞いていましたが、まさかこんな……」
サーシャの言葉が途切れる。その言葉の続きが解ったのか、ノアは小さく笑いながら続けた。
「こんな子供だとは思わなかった?」
ノアの言葉に、サーシャが口ごもる。サーシャは数度口をもごつかせた後、深く頭を下げた。
「失礼なことを申し上げた。無礼を許していただきたい」
「いいえ、疑われるのも当然です。それに、そろそろお互いに堅苦しい口調もやめませんか。これじゃあ、いつまで経っても話が進まない」
見た目にそぐわぬ大人びた口調で、ノアは答えた。その姿を見て、雄一郎は目を丸くした。ノアでも、こんな対外的な言葉遣いができるのか。
サーシャは躊躇うように顎を引いたが、すぐさま頷きを返してきた。そのまま背筋をグッと伸ばして、口を開く。
「それでは、我々は貴方と話がしたい。互いの国のこれからの話を」
単刀直入なサーシャの切り出しに、ノアはゆっくりと頷いた。雄一郎は視線をベルズへと向けて「休んでおけ」と小声で告げた。ベルズは射るような視線をサーシャへと向けた後、顎を引いて遠ざかっていった。
代わりのようにニカがよたよたとした足取りで近付いてくる。ニカが寄ってきたのを見ると、サーシャはその場に座り込んだ。ノアと雄一郎も腰を下ろす。
松明のわずかな光が四人の顔をぼんやりと照らしている。こんな寒々しい場所に、血にまみれた姿で王族が三人もいるというのがひどく奇妙に思えた。
口火を切ったのは、やはりサーシャだった。
「結論から伝えると、我々はゴルダールの現国王であるバルタザールと戦う。戦わざるを得ない状態になった」
それは雄一郎達を責める口調ではなかった。雄一郎達が来なかったところで、この結果は避けられなかったと悟っているのだろう。サーシャが淡々とした口調で続ける。
「私達はこれから各地を回り、仲間を増やし、解放軍を結成する。だが、我々には圧倒的に足りないものがある」
「兵糧か」
即座に呟くと、サーシャの視線が雄一郎へ向けられた。サーシャが頷く。
「その通りだ。武器は調達できても、元よりない食料は手に入れることができない。食うものがなければ、行き着く先は飢え死にだ。ゴルダールには元々、食物を潤沢に育てるだけの土地がない。だが、ジュエルドにはある」
「つまり、戦争を起こす代わりに、僕らにきみ達の食料を支援しろということ?」
ノアが穏やかな声で問い掛けると、サーシャは大きく頷いた。
「反乱が起きれば、ゴルダールはジュエルドの内乱に関わっている暇はなくなる。私達も食料があれば戦える。互いに損はない話だと思うが」
サーシャの言葉に、ノアは思案するように視線を伏せた。数秒の沈黙の後、ノアが視線を上げる。
「構わない。食料の支援は、僕らが責任を持つ」
「ただ、問題は」
やや食い気味にサーシャが口を開く。サーシャは、ノアを見据えたまま静かな声で告げた。
「この内乱が終わったあとに、ゴルダールとジュエルドが戦争を起こさないかということだ」
ノアがパチパチと大きく目を瞬かせる。そうして、困ったような眼差しでサーシャを見つめた。サーシャが緩く頭を左右に振って、続ける。
「気が早いと思うだろう。すべては仮定の話だ。だが、私達はそこまで見据えて話をしたいと思っている」
「僕らが信用できないと」
「そうは言わない。だが、盲目的に信用するのはリスクが高すぎる。お互いに」
サーシャの懸念も当然だ。実際、もしもジュエルドの内乱が先に終わった場合、解放軍への食料支援を打ち切られれば、サーシャ達は野垂れ死にするしかない。
結局のところ、すべては互いの信頼関係の上に成り立つ話だ。だが、その信頼は脆く弱い。蜘蛛の糸で綱渡りするようなもので、どちらかが裏切ればすぐにプツリと切れてしまう。そして次の瞬間、奈落へと落ちていく。
雄一郎は、あぐらをかいた膝の上に片肘をついたまま、二人のやり取りを黙って眺めた。ニカは、どこか不安げな眼差しでサーシャとノアを交互に見やっている。だが、次の瞬間、ニカの口から出た言葉に、雄一郎はずるっと片肘を滑らせた。
「ノア、ユリアと婚約してくれないか」
ニカの突拍子もない申し出に、ノアがギョッとしたように目を見開く。すぐさま、ノアの眼差しが雄一郎へ向けられる。雄一郎も同じように目を丸くしたまま、ノアを見つめた。
「い、いきなり何を……」
ニカに視線を戻して、ノアが上擦った声で呟く。ニカはどこかバツが悪そうな眼差しで膝元を眺めたまま、ぼそぼそとした声で続けた。
「この内乱が終わったら、ユリアを正妃にすると約束してほしい。そうすれば、ゴルダールとジュエルドの友好関係も深まる」
ニカの言葉を聞いて、口角にかすかな空笑いが滲んだ。
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雄一郎の問い掛けに、ニカの首がぐにゃりと折れる。ニカは深く俯いたまま、キツく拳を握り締めていた。だが、痛恨も露わなニカに対して、サーシャは淡々とした声で返した。
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それに気付いた瞬間、身体の奥底から怖気が込み上げてきた。皮膚がぞわりと震えて、あまりの恐ろしさに一瞬息ができなくなる。
あり得ない。ノアのような前途有望な少年が、ただの人殺しの男を正妃として選ぶなんて、そんなことが許されるわけがない。自分は、ノアに選ばれるような人間ではない。
そう思った瞬間、唇が勝手に動いていた。
「ノア、ユリアと婚約しろ」
告げるのと同時に、ノアの身体が強張るのが見えた。ノアが信じられないものでも見るかのように目を見開いて、雄一郎を凝視している。その眼差しを見返さないままに、雄一郎は早口で続けた。
「気は早いが、悪い話じゃあない。内乱が終わった後に、ゴルダールと戦争にならない保証はない。ユリアが正妃になれば、民達の隣国に対する反感も薄まっていく。ユリアとの子供ができれば尚更いい。その子供がジュエルドとゴルダールを結ぶ橋になる可能性もある」
自分でも甘っちょろい空論だと思いながらも、ぺらぺらと口が動く。止まらない。一度でも喋るのをやめてしまえば、顔が醜く歪んでしまいそうだった。
「争いをなくすために王の娘を隣国へ嫁がせるっていうのは、俺の元いた世界でもよくあった。だから、ニカとユリアの申し出は、ある意味合理的な――」
「雄一郎、黙って」
言葉が遮られる。声の方へ顔を向けて、雄一郎は息を呑んだ。今まで見たことがないほど無機質な表情のノアと視線が合った。その眼差しに、口元が引き攣る。
ノアはわずかに顎を引いて、確かめるように雄一郎を見つめた。
「あんた、自分が何言ってるのか解ってるのか」
弾劾するような言葉に、皮膚が震えそうになる。なぜ、自分がノアの言葉に怯えているのか不思議だった。かすかに咽喉を上下させて、唇を開く。
「ああ、解っている」
答えた瞬間、これ以上ないほどノアの顔が白くなった。
「そう」
一人で納得するみたいに呟いて、ノアは雄一郎から視線を逸らした。ニカとサーシャは、どこか困惑した表情でノアと雄一郎のやり取りを眺めている。
二人に視線を向けると、ノアは感情の削げた声で呟いた。
「悪いけど、返事は朝まで待ってほしい」
そう言い放つなり、ノアは雄一郎の腕を掴んで立ち上がった。思いのほか強い力だった。ノアの指先が腕に食い込むのを感じながら、雄一郎は戸惑いながらも立ち上がった。雄一郎を一瞥もせず、ノアが歩き出す。
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冷たく問い掛けてくる声に、背筋が強張る。雄一郎は引き攣りそうになる唇に無理やり笑みを浮かべて、おどけるように両手を軽く掲げた。
「おい、何をそんなに怒ってるんだ」
「あんた、解ってるだろう。僕が怒ってる理由を解っているくせに、解らないふりをしてる。巫山戯るなよ、雄一郎」
ノアらしかぬ乱暴な物言いだった。その顔にはありありと憤怒が浮かび、奥歯の辺りからガギッと歯が擦れ合う音が聞こえてくる。雄一郎の胸倉を掴むノアの手にも力が込められて、かすかに息が詰まった。
「僕は言ったはずだ。あんたが好きだって。雄一郎が僕の妻だって」
唸るような声で、ノアが吐き捨てる。その言葉のおぞましさに、また震えが走りそうになる。
こいつは一体何を言っているんだ。まさか、本気でこんなオッサンを愛してると言うのか。王の妃として娶ろうなんて考えているのか。馬鹿馬鹿しい、こんなのは現実的じゃない。
そう考えた瞬間、口角に嘲笑が滲んだ。自分でも嫌になるぐらい、人を小馬鹿にするような笑い方だと思った。
「お前は、本当にガキだな」
「何を……」
「何回かヤッたぐらいで、こんなオッサンを好きだなんて勘違いして、随分と目出度い頭をしてるもんだ。雛鳥じゃあるまいし、少しは現実を見たらどうなんだ」
薄ら笑いを浮かべたまま、言葉を吐き出す。だが、言葉が唇から零れる度に、心臓がギシギシと音を立てて軋む。心臓が千切れそうだ。いっそ身体ごと真っ二つに裂けてしまえばいいのに。
暗がりでも判るぐらい、ノアの顔色が悪くなっていく。
「現実……?」
ノアが掠れた声で呟く。ノアの震える唇を見たくなくて、雄一郎は顔を逸らした。暗い洞窟の奥を眺めながら、唇だけを機械的に動かす。
「内乱が終われば、お前はユリアと結婚して子供を作る。それでジュエルドとゴルダールは平和になる。オッサンを娶るより、よっぽど現実的だ」
そうだ。これが正しい結末だ。成長したノアの隣には、ドレスを着たサーシャが立っている。美しい男女の夫婦。国の誰もが祝福する結婚。そして、いつか産まれる、灰色の髪と青い目をもつ可愛らしい赤ん坊。美しく、平和な世界。
想像した瞬間、どうしてだかひどい喪失感を覚えた。その美しい光景の中に、雄一郎の姿はない。あってはいけない。
耐えきれず、下唇をキツく噛み締める。眼球が潤みそうになるのを必死で堪える。どうして、なぜ泣きそうになっているのか自分でも解らない。ただ、苦しい。
身体が震えそうになるのを抑えていると、ノアがひどくか細い声で呟いた。
「雄一郎は……」
胸倉を掴むノアの指先にぎゅうっと力が込められる。まるで小さな子が親に縋るように。
「雄一郎は、僕のことを何とも思ってないの?」
悲しげな声に、何度でも心が砕かれる。あれだけ伝えたのに、あんなに心を捧げたのに、何も伝わっていないのか、と問い掛けられている。
渇いた咽喉に何度も唾を流し込んで、声が掠れそうになるのを堪える。そうして、雄一郎はわざとらしいほど茶化した声をあげた。
「大人は、子供の言うことを信用しないもんだ」
そうやって、ノアの心を踏み躙る。俺は大人で、お前は子供で、物事の分別も付いていないのだと。今までのノアの言葉など、雄一郎は何一つとして信じていないのだと。
そう告げた瞬間、胸倉を掴んでいたノアの手から力が抜けた。両腕をだらりと垂らしたまま、ノアが力なく俯く。
長く、重たい沈黙が流れた。ノアはピクリとも動かない。お互いのか細い呼吸音だけが聞こえる。不意に、ノアが呟いた。
「あんたは、ずっとそうだ」
その言葉の意味が解らず、雄一郎は眉を顰めた。ノアが顔をあげる。潤んだ瞳が雄一郎を真っ直ぐ睨み付けてきた。
「あんたは誰のことも信じないで、自分の気持ちは何も言わないで、何もかも勝手に諦めて、そうやってひとりで死んでいくんだ……ッ」
ドンッとノアの拳が雄一郎の右胸を叩く。瞬間、心臓に抜けない杭が突き刺さったように感じた。それほど強い力ではないというのに、頭が真っ白になって足元がふらつく。
ノアが大きく目を瞬かせる。その瞬間、尖った目尻から一筋の涙が流れた。
「子供なのは、あんたの方じゃないかッ!」
そう叫んで、ノアが背を向けて歩き出す。雄一郎は暗い場所に立ち尽くしたまま、その背を呆然と見つめた。
***
どうやって洞窟の広場まで戻ったか記憶がない。
薄暗い広場の真ん中に突っ立ったまま、雄一郎はぼんやりと目の前の光景を眺めている。視線の先で、何十人もの人間が地面にへたり込んで啜り泣いていた。
「何が起こった」
気の抜けた声で問い掛けると、俯いていたキキが顔を上げた。その顔は涙で濡れている。
「――テメレア様が亡くなりました」
そう告げる声に、は、の形で口が固まった。一瞬で全身の血が落ちて、指先が凍えるように冷たくなる。唇を開けたまま動かなくなった雄一郎を見つめて、キキがひどく悲しげな声で続ける。
「出血が止まらず、先ほど意識が混濁を始めて……気付いた時には息をしておりませんでした……」
頭の中が真っ白で、キキの言っている意味が上手く理解できない。テメレアが死ぬはずがない。あんなにも美しく、献身的な男が、雄一郎をかばって死ぬなどあり得ない。
「冗談だろ」
自分の唇から、空気が抜けるような声が漏れた。視線が定まらず、ぐらぐらと視界が揺れる。
視界の端でキキが首を左右に振る。その瞬間、劈くような叫び声が響いた。
「あんたのせいだッ!」
声の方向へ視線を向ける。そこには怒りで顔を歪めたノアがいた。その近くには目を閉じたまま、静かに横たわったテメレアの姿もある。テメレアの胸は上下しておらず、その皮膚はあまりにも白くなり過ぎて、一瞬透けているようにも見えた。
「テ――」
「あんたのせいだッ! テメレアはあんたを庇って死んだんだッ!」
名前を呼ぼうとした声がノアの怒声で遮られる。あまりにも激しいノアの憤怒に触れて、雄一郎は小さく息を呑んだ。
「やっぱりあんたなんか女神じゃなかった! 最初から、あんたみたいな人殺しは疫病神だと思ってたんだ! どうして、この世界に来た! 人殺しにこの世界が救えるわけがないのに! 誰も救えるわけがないのにッ!」
来たくて来たわけじゃない。勝手に飛ばされて、勝手に女神と呼ばれて、勝手にこの世界を救えと言われて――
頭の中で無意味な言い訳ばかりがぐるぐると回る。血の気が完全に失せたテメレアの顔から視線が外せない。死に顔ですら、神々しいまでに美しい。それがあまりにも悲しかった。
ノアは両目からぼろぼろと涙を零しながら、雄一郎を真っ直ぐ睨み付けて言った。
「尾上雄一郎、お前は一生救われない。永遠に、誰からも許されない」
違う、ノアはこんなことは言わない。絶対に言うわけがない。なら、これは何だ。目の前のノアは誰だ。自分は今、一体何を見ている。
目の前の光景がぐるぐると渦を巻いていく。酩酊するような感覚に、思わず両手で顔を覆う。残酷な世界から目を塞ぐように。
その瞬間、耳元で囁くような声が聞こえた。
「これがきみの望みか?」
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