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3巻

3-2

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 それが見えた瞬間、雄一郎は足下の雪を思いっきり蹴り上げた。真っ白な粉雪が、一気にサーシャへと向かって舞い散る。出鼻をくじかれて足取りが鈍ったサーシャに、雄一郎は一気に突っ込んだ。
 短刀を握り締めるサーシャの右手首をわしづかむのと同時に、肩からタックルをする。背中から倒れ込んだサーシャに馬乗りになったまま、雄一郎はナイフの先端をその細い喉元に突き付けた。

「自分達の不幸の責任も取れねぇ奴が、正義の味方づらしてんじゃねぇよ」

 浅い呼吸の合間に、うなるように吐き出す。サーシャは雄一郎を見上げたまま、腹立たしげに目を細めていた。先ほど雄一郎に殴られた右頬が赤くれ始めている。
 だが、不意に気付いた。サーシャの身体を押さえるために、胸元へと乗り上げた右膝に柔らかい感触が当たっていることに。その瞬間、ひどく苦々しい気持ちが込み上げてきた。

「女か」

 そうつぶやいた瞬間、サーシャがカッと目を見開いた。暴れようとするサーシャのへと更にナイフの切っ先を近付ける。プツリと皮膚が切れて、赤い血が一筋サーシャの首筋を流れていった。

「お前がユリアだな」

 確信に満ちた雄一郎の問い掛けに、サーシャは噛み付くように答えた。

「だったら何だと言う!」
「だったら? お前は正義の味方どころか、ただの卑怯者だと思うだけだ」

 王族の一人でありながら、ユリアであることを隠し、偽名で正義の味方ごっこをするとは見下げた根性だ。自身が背負うべき重荷を手放していない分、まだニカの方がまともに思える。
 ひくりとサーシャのうごめく。そのさまを見据えながら、雄一郎は寒々とした声で続けた。

「お前は、兄貴以上の卑怯者だ。近場の人間だけを助けて、正義を気取っている。もっと多くの人間を助けることができるのに、自分の正体を明かさず、成すべきことを成そうとしない。なぜだ? お前は、処刑されることを恐れているのか?」
「ち、がうッ!」

 った声でサーシャが叫び返す。そのこわった顔を見下ろして、雄一郎は小さく首を傾げた。

「なら、自分のせいで多くの民が死ぬのが怖いのか?」

 そう問い掛けると、サーシャは口をつぐんだ。かすかにおびえをにじませた灰色の瞳を見つめて、雄一郎はサーシャの喉元に突き付けたナイフをゆっくりと引いた。離れていくナイフを眺めて、サーシャが動揺したように目をまたたかせる。
 その困惑を冷たく見据えて、雄一郎は小さな声でささやいた。

「お前もニカも、この国が滅びるまで、ずっと黙って震えてろ」

 そうつぶやいた瞬間、サーシャの顔が泣き出しそうにゆがんだ。短刀をつかんでいるサーシャの右手首を離す。だが、雪の上にあおけになったままサーシャは動こうとしない。
 立ち上がる瞬間、雄一郎の左頬からしたたった血がサーシャの頬にポタリと落ちた。白い肌に、鮮烈なほど赤い血がにじむ。
 頬をしたたる血を手の甲でぬぐって、雄一郎は歩き出した。


 村に戻る雪道を、荒い足取りで歩く。
 先ほどから腹のムカつきが止まらない。サーシャとの遣り取りを思い出す度に、腹の底から吐き気にも似たいらちが込み上げてくるのを感じた。それはサーシャへの感情というよりも、自分自身に対するいらちだった。
 下唇を噛み締めた時、こちらへと向かってくる人影が見えた。立ち止まって見ていると、やがてそれが見知った顔だと気付いた。だが、服装がいつもと違う。
 目を丸くしていると、近付いてきた人影が怒りをにじませた声をあげた。

「その傷は何ですか」
「いや、お前こそ、その服は何だ」

 唖然とした声で問い返すが、テメレアはそんなことはどうでもいいと言わんばかりに、黙ってポケットから手布を取り出した。まだ血をしたたらせる雄一郎の左頬に手布を押し当てる。途端、白い布にじわりと血の色が染み込んでいった。
 不機嫌そうな顔で雄一郎の左頬に布を当てるテメレアをじっと眺める。
 テメレアは、どこかの王子様のような純白の礼服を身にまとっていた。礼服のところどころには、銀色の繊細な装飾がほどこされており、長い髪は首の後ろで一つに結われている。
 普段は中性的に見えるテメレアだが、カチッとした礼服を着ていると、男性的な部分が際立って見えた。アオイがテメレアに惚れるのも解る。まさしく少女漫画に出てくるような、眉目秀麗な王子様という出で立ちだ。

「一体どこで何をしていたんですか」

 怒った口調でテメレアが問い掛けてくる。雄一郎はテメレアに見入ったまま、上の空で答えた。

「あぁ……サーシャに襲われた」
「襲われた?」

 噛み付くような声で問い返される。テメレアの目がとがって、その表情にまぎれもないふんにじんだ。

「あいつに何をされたんですか」
「別に何も……頬を切られたぐらいだ。あとは、サーシャがユリアだったと解ったぐらいで」
「サーシャがユリア? それは間違いないのですか?」
「それより、お前の格好は何なんだ」

 話をさえぎるように、食い気味に問い掛ける。テメレアは釈然としない表情を浮かべながらも、仕方なさそうにしゃべり始めた。

「貴方が私を置いていくものだから、アオイさんに捕まったんですよ。この衣装を着るまで絶対に離さないと、石みたいに腕にしがみ付かれて」
「子泣きじじいみたいだな」
「コナキジジイ?」

 オウム返しにするテメレアの片言じみた口調に、思わず笑いが込み上げた。の奥で押し殺した笑いを漏らしていると、先ほどまで巣食っていたいらちが少しずつ霧散していくのを感じた。

「よく似合ってるぞ。そうやってるとお前もちゃんと男に見える」
「私は、元から男です」

 溜息ためいき混じりにテメレアが言い返す。雄一郎は手を伸ばして、きっちりと締められたテメレアの襟元に触れた。襟の合わせ目の金具には、花のような美麗な紋様が刻まれていた。紋様をそっと指先で撫でながら、独りごちるようにつぶやく。

「葵のセンスはなかなか悪くないな」
「やめてください。こんな馬鹿みたいな服、さっさと脱ぎたいんです」
「脱がしてやろうか?」

 探るように問い掛けると、テメレアはパチリと一度大きくまたたいた。ニヤつく雄一郎を眺めて、それからげんそうに顔をゆがめる。

「くだらない冗談はやめてください」
「冗談にしていいのか?」

 更に問い返すと、テメレアは困惑したように眉尻を下げた。

「どうしたんです。何があったのですか」

 今度は子供をなだめるみたいにたずねてくる。背中に当てられるテメレアの手のひらの感触に、わずかにが詰まった。口元に浮かべていた薄笑いが消えて、苦々しい感情が込み上げてくる。

「……お前と話してると、調子が狂う」

 八つ当たりじみた言葉を吐き出すと、テメレアは意表を突かれたように目を丸くした。その後、淡い笑みを浮かべる。

「それは、ありがとうございます」
めてねぇぞ」
「私にとってはめ言葉です。貴方は頑固で偏屈だから、そういう貴方を崩せるのが自分なのかと思うと、とても光栄ですね」

 目を伏せて、テメレアが小さく笑い声を漏らす。笑い声と一緒に、唇から白いもやがふわりと浮かび上がった。それを見た瞬間、不意に温かい何かが込み上げてきた。目の前の男が確かに生きて、呼吸をしていることが無性にいとおしい。
 手を伸ばして、そっとテメレアの頬に触れる。白くきめ細かい肌が冷気のせいでわずかに赤くなっている。頬に触れた瞬間、テメレアの手が重なってきた。

「手が冷えていますね」
「お前の手も冷たい」
「なら、冷たい者同士でちょうどいいです」

 冗談めいた言葉をつぶやいて、テメレアは静かに微笑んだ。その微笑みを見た瞬間、不意に涙が出そうになった。胸の奥で膨れ上がった何かが身体を勝手に動かす。
 テメレアの胸にぶつかるように、一歩足を進める。テメレアの驚いた表情を見つめたまま、その口へと唇を重ねた。冷えて、いつもより少し硬い感触がする。
 角度を変えて、何度もゆっくりと唇を重ねていると、不意に唇の合間に熱いものが触れた。柔らかな舌が口内へと静かにもぐり込んでくる。唇は冷たいのに、その舌は吃驚びっくりするぐらい熱かった。
 舌を擦り合わせて、キツく絡め合う。口付けの合間に吐き出される息が、互いの顔の前で白い水蒸気へと変わっていく。粘ついた唾液が舌と舌の狭間でねちゃねちゃといやらしい音を立てて、まくが犯される。
 いつの間にかテメレアの両腕が腰に回っていた。身体を引き寄せられて、ピッタリとテメレアと密着する。触れ合った心臓から速い鼓動が伝わってくる。それが自分の鼓動なのか、テメレアの鼓動なのかもう区別が付かない。

「ん、ぁ……」

 舌の裏側の血管をぞろりと舐められる感触に、鼻にかかった声が漏れた。
 舌が引き抜かれて、左頬の傷にわされる。熱い舌が冷たい頬の上を滑っていく感触に、ぞくりと背筋が震えるのを感じた。
 白い息を吐き出しながら、美しい男の横顔を見つめる。

「そんな恰好だと……違う奴みたいに見えるな……」

 かすれた声でささやくと、思いがけずテメレアの顔が怒りにゆがんだ。雄一郎の腰を両脇からわしづかんで、テメレアが耳元でうなるように吐き捨てる。

「他の男とこんな口付けをしたら許さない」

 自分自身に嫉妬するような言葉に、馬鹿馬鹿しさとともに歓喜が込み上げてくる。雄一郎はゆるを反らして、押し殺した笑いを漏らした。

「許さないって、一体どうするんだ」
「貴方を殺して、私も死にます」

 テメレアの迷いない返答に、とうとう高らかな笑いが漏れた。笑い混じりに言い返す。

「他の男は駄目なのに、ノアはいいのか?」

 問い返すと、テメレアはふっとその顔から表情を消した。どこか無感情なまなしがじっと雄一郎を見つめている。そのまなしに雄一郎は一瞬息を呑んだ。
 テメレアは二、三度ゆっくりとまたたいた後、静かに唇を開いた。

「私は、見た目よりもずっと欲深い人間です。ノア様に嫉妬を覚えなかったことなど、一度たりともありません」

 淡々とした口調でテメレアがつぶやく。

「ですが、私はノア様を可哀想だとも思っています」
「可哀想?」
「私は、あの子が母からどんなことをされていたのか知っています」

 そうつぶやいた瞬間、テメレアの顔がかすかにゆがんだ。痛みに耐えるような、悲痛な表情だ。

「私が覚えている母は、いつも優しく、ほがらかな人でした。毎週お菓子を焼いて、私や父のために仕事場まで届けてくれた。母は、私たちに全身全霊で愛情を注いでくれていました。その母が壊れて、自分の子供であるノア様に暴力を振るっていたと聞いて、これほどおぞましいことがあるのかと思いました」

 はぁ、と短くテメレアの唇から息が吐き出される。

「あの子がねたましい。だけど、同じぐらいあの子が可哀想なんです。生まれた時から味方もなく、一人ぼっちで耐えることしかできなかったあの子が。……私はあの子に幸せになってほしいと願っています」

 あの子は、たった一人の私の弟なんです。と、テメレアはこぼした。テメレアはどこか悲しげな表情で雄一郎を見つめて、それから不意に背中を抱き締めてきた。

「貴方が欲しい。だけど、ノア様を悲しませたくはない」

 うめくような口調で漏らして、テメレアは雄一郎の肩口にひたいを押し当てた。

「テメレア」

 小さく名前を呼ぶと、背中を抱く腕の力が更に強くなる。

「テメレア、苦しい」

 まるで子供のような口調でつぶやくと、ようやく腕の力が弱まった。テメレアは泣き出しそうな表情で雄一郎を見つめている。

「貴方を苦しめているのは私ですか?」

 唐突に問い掛けられた言葉に、雄一郎は鈍く目をまたたかせた。

「解らない。たぶん、違う」

 曖昧あいまいな言葉を返すと、テメレアはぶたを伏せた。

「私は……話してほしいんです。貴方が何に苦しんでいるのか」

 テメレアの声音は、ほとんど懇願するようだった。ゆるく目を見開いて、テメレアを凝視する。テメレアの目は雄一郎から離れない。それがひどく恐ろしく感じて、後ずさりしそうになった。

「話したから、何だっていうんだ」

 ぽつりと唇から言葉がこぼれた。
 話したところで何も変わらない。もう元には戻らない。ただ、自分のみじめさを他人に知らしめるだけじゃないか。
 唇に笑みが浮かんだ。自嘲じみた笑みに口角がじれる。

「話したって、何の意味もない」

 切り捨てるようにつぶやく。途端、テメレアの表情が痛々しくゆがむのが見えた。その顔を見ていたくなくて、雄一郎はテメレアからそっと離れた。背を向けて、村の方へ歩き出す。

「そろそろ馬鹿騒ぎが始まる。村に戻るぞ」

 視線を向けると、村の中心に明るい火がともっているのが見えた。祭りが始まる。


 村への帰りしなに、テメレアに先ほどのサーシャとの出来事を端的に伝える。テメレアは終始不愉快そうに眉をひそめていた。

「他の中隊長達とも情報を共有するように」
「承知いたしました」
「祭りの間は、それぞれ村の各場所に散らばらせる。異変が起こったら、即座に報告するように徹底させろ」
「もちろんです」

 言葉少なにテメレアは答えた。
 村に辿たどり着くと、すぐさまかえるような食い物の匂いがただよってきた。まるでのようだなと思う。これじゃ、盗賊達にどうぞ襲ってくださいとアピールしているようなものだ。
 すでに辺りは暗く、日が沈みかけている。まだ時刻は夕方ほどだが、この国では夜が早いらしい。
 村の中心へと近付くと、大量に積み上げられたたきぎ煌々こうこうと燃えているのが見えた。その周りにはテーブルが並べられており、大量の料理が載っている。集まってきた村人達がテーブルに群がり、我先にと食べ物をむさぼっている。その周りでは、警戒するように何十人もの自警団員が辺りを見渡していた。
 そうして、即席で作られたらしき低い壇上にはニカの姿があった。周りから浮いて見えるほど豪奢ごうしゃな金塗りの椅子に腰かけ、つまらなそうなまなしで料理をむさぼる村人達を眺めている。そのかたわらには、所在なげにたたずむノアの姿も見えた。
 ノアは雄一郎の姿に気付くと、控えめな笑みを浮かべて、手首だけを動かして小さく手を振ってきた。雄一郎が仕方なくうなずきを返すと、嬉しそうに目を細める。
 その間に、チェトが駆け寄ってきた。テメレアが手短に指示を伝えると、チェトは承知したと答える代わりにニヤッと笑みを浮かべた。去る直前に、チェトが雄一郎の耳元へとささやく。

「女神様、どうかくれぐれもお気をつけください」
「何か動きがあったか」
「いいえ。ですが、こんなのは最悪な予感しかしませんよ」
「俺も同じだ」

 そう答えると、チェトは苦笑いを浮かべた。チェトの肩を軽く叩きながら、小さな声で告げる。

「言うまでもないが、何かあったらノアを第一に守れ。最悪、ノアだけ連れて逃げろ。何があろうと俺を守ろうとはするな」

 告げた瞬間、チェトの表情がかすかにゆがんだ。どこかこらえるような表情を浮かべた後、チェトはまた笑みを浮かべた。

「貴方は、我々に守らせてくれないじゃないですか」

 なじるような口調でつぶやいて、チェトはゆるく頭を下げて続けた。

おおせのままに、女神様」

 駆けていくチェトの後ろ姿を眺めていると、不意に音楽が始まった。舞台の上に、いつの間にか音楽隊らしき男女が座っている。元の世界とは違う形をした楽器を使って、美しい音色を奏でている。焚き火がパチパチとぜる音に混じって、柔らかなバラードが響く。
 音楽の始まりとともに、わぁっと歓声が聞こえた。声の方へと視線を向けると、純白のドレスを身にまとったアオイの姿が見えた。結い上げられた頭には花の刺繍が施されたヴェールまで被って、まるで花嫁のような出で立ちだ。

「お姫さまみたいー」
「女神さま、お姫さまだぁ」

 口の周りを料理でよごした小さな子供達がアオイに群がって、楽しげな声をあげる。それに対して、アオイは慈愛に満ちた微笑みを返していた。
 迷いのない足取りで、アオイがこちらに近付いてくる。長袖といえども肩がしになったドレスを見て、寒くはないのかと要らぬ考えがよぎる。
 アオイはテメレアの前で立ち止まると、少し不安そうな声でつぶやいた。

「テメレアさん、私と踊ってくれる?」

 声をかけられたテメレアは、あからさまに眉をひそめた。

「アオイさん、私は――」
「ね、一曲だけでいいの。一曲踊ったら、もうまま言わないから。お願い」

 ピンク色の唇がかすかに震えている。その震えすらも演技なのだろうか。もしそうなら主演女優賞ものだ。

「このドレスもテメレアさんと踊りたくて、一生懸命仕立てたの。テメレアさんの服とペアになるように。テメレアさんの横に並んでも恥ずかしくないように、って……」

 か細く、今にも途切れそうな声でアオイが続ける。伏せられた目には、うっすらと涙が浮かんでいた。その様子を見て、後ろについてきていた子供達が一斉に声をあげだす。

「女神さまを泣かすなー!」
「かわいそう、女神さま」
「イジワルするなー!」

 ギャンギャンと喚き立てられて、テメレアが困惑したように唇を引き結ぶ。その様子を眺めて、雄一郎は大きく溜息ためいきを漏らした。

「踊ってやれ」

 そう短く告げると、テメレアは驚いたように雄一郎を見やった。

「本気ですか」
「そうでもしないと、収拾がつかんだろうが」

 これ以上、アオイや子供達にまとわり付かれるのも面倒だった。そのせいで警戒が緩むぐらいなら、少しの時間テメレアを貸し出した方が早くすむ。
 他人事のような雄一郎の言葉に、テメレアの表情が一瞬悔しそうにゆがむ。気が付くと、アオイがじっと雄一郎を見上げていた。無表情のまま、アオイがぽつりとつぶやく。

「あんたって、本当にひどい奴」
「あぁ?」
「人の気持ちを踏みにじっても、何とも思わないのね」

 そうつぶやいた後、アオイは小さな声で続けた。

「私のお父さんみたい。本当は誰のことも興味ないんだわ」

 その声は何かをあきらめたようにも、遠い昔の思い出を語っているようにも聞こえた。

「お前の父親?」

 いぶかしげにつぶやくが、もうアオイは雄一郎の言葉を聞いていないようだった。テメレアの腕を両手でつかんで、嬉しげな笑みを浮かべている。

「ほら、テメレアさん行こっ」

 アオイに引っ張られるままに、テメレアが歩いていく。一瞬テメレアは物言いたげに雄一郎を見つめたが、結局何も言わずに視線を伏せた。
 焚き火に照らされた広場では、相変わらず村人達が食事を取っている。だが、ある程度腹が満たされたのか、今は料理を食べながらまったりと周りと笑い合っているようだった。
 ふわふわと淡く雪が降る広場に、テメレアとアオイが立つ。そのまま音楽に合わせて、テメレアとアオイがゆっくりと踊り出した。それはゆるやかで、まるで子供のお遊戯会のような動きだった。テメレアの大きな手が、アオイの細い腰をつかんでいる。
 その姿を、まるで夢でも見るかのように村人達がうっとりと眺めている。周りにいる子供達が楽しそうに叫ぶのが聞こえた。

「お姫さまと王子さまだ!」

 どうしてだろう、その言葉を聞いた瞬間に、心臓がしびれるように痛んだ。淡雪の中、手を取り合って踊る二人の姿は、確かに絵本に描かれているお姫様と王子様の姿そのものだ。

「……何なんだ」

 無意識のうちに唇からうめくような声が漏れていた。その言葉の馬鹿馬鹿しさに頬がる。何なんだも何も、自分がテメレアにアオイと踊れと命じたのだ。
 それなのに、あの二人の姿を見ていたくない。一刻も早く、引きがしてやりたい。あれは、俺のものなのに。俺だけの男なのに。
 頭がおかしくなったような考えが脳裏をよぎって、髪をむしりたくなる。
 自分が嫉妬しているだなんて思いたくなくて、わざとテメレアとアオイを真っ直ぐに見つめる。テメレアを見上げるアオイの瞳ににじんでいるのはまぎれもない恋情だ。焚き火に照らされて、アオイの瞳がキラキラと赤く輝いている。その瞳を見下ろすテメレアの顔が見れない。もしも、その表情にわずかでもいとおしさがにじんでいたら、耐えられない。
 奥歯を鈍く噛み締めた時、不意に隣から突き出される腕に気付いた。ぎょっと目を見開いて視線を向けると、卑屈そうな笑みを浮かべたドリスが立っていた。この村を訪れた時に、雄一郎達をニカのところまで案内した女だ。
 ドリスはその細い両腕に大きな盆を抱えていた。盆の上には、スープが注がれた椀がいくつも並んでいる。

「あ、あのっ、スープはいかがですか……」

 相変わらずおびえた声で話す。周りへ視線をやると、辺りを警戒している自警団員達が片手でスープを飲んでいる様子が見えた。自警団へのねぎらいのためなのか、どうやらスープを配り歩いているらしい。

「いいや、俺は大丈夫だ」

 そう断ると、ドリスは挙動不審に視線を揺らした。

「でっ、でも、おいしいスープなんですよ……こんなスープ、めったに飲めないですよ……」
「なら、余計に村の者達だけで飲んだらいい」

 こんなものに配らなくてもいいと言外に返すと、ドリスはわなわなと唇を震わせた。その姿に、雄一郎は大きく目をまたたかせた。

「でも、でもっ……」

 まるで言葉を忘れたように、ドリスが繰り返す。ひゅうひゅうと聞こえる呼吸の間隔が狭まっていくのを聞きながら、雄一郎はとっにドリスの手首をつかんでいた。骨と皮だけの細すぎる手首だ。
 ドリスがヒッと短く声を漏らして、手から盆を滑り落とす。途端、地面に落ちた椀からスープが辺りに飛び散った。

「何をした」

 ドリスを見据えて、短く問い掛ける。ドリスはかすかに唇を震わせたまま、何も答えない。ただ、助けを求めるようにキョロキョロとせわしなく辺りを見回している。

「お前は、何をした」

 再び問い掛ける。ドリスは暴力におびえる子供みたいに身体をすくませて、震える声を漏らした。

「わ、私は……」
「何をしているッ!」

 ドリスの言葉が叫び声でさえぎられる。視線を向けると、肩をいからせたサーシャがこちらに近付いてくるのが見えた。

「村の者に危害を加える気か!」

 サーシャの言葉に、先ほどまで長閑のどかだった空気が一変して張り詰める。村人達が恐ろしいものでも見るように、雄一郎を眺めているのが解る。雄一郎はドリスの手首をつかんだまま、短く答えた。

「この女、おそらく料理に何かを混ぜたぞ」
「混ぜただと?」
「仲間にスープを飲ませるな」

 吐き捨てた瞬間、脳味噌に突き刺さるような金切り声が響いた。まるでステンレスのシンクを金タワシで擦ったような、ひどく不愉快でおぞましい悲鳴だ。それはドリスの口からあふれ出ていた。

「ひィ、ィヤァアぃアアぁあひぃぃアぁッーーー‼」

 まくつらぬくような悲鳴に、とっに耳をふさぎそうになる。そして、その悲鳴と同時に、鈍いうめき声が聞こえてきた。視線を向けると、先ほどスープをそうに飲んでいた自警団員の一人が地面に倒れる姿が見えた。屈強な男が脂汗あぶらあせを流して、腹を抱えてもだえている。
 視線を向けた拍子に、その向こうに見える光景も視界に映ってしまった。驚いた表情をして、こちらを凝視しているテメレア。その顔を、ぐいっとアオイが引き寄せる。次の瞬間、唇が重ねられるさまがはっきりと見えた。王子様とお姫様のキスシーンなんて、まるで安っぽい少女漫画みたいな光景だ。
 テメレアがアオイの肩をつかんで、すぐさまその細い身体を引きがす。アオイは慌てた様子のテメレアを見て、ピンク色の唇を左右に引き裂くようにして笑った。
 それは数秒の出来事だというのに、雄一郎の目にはスローモーションのように映った。だが、呆然とその光景を見ていられたのも一瞬だった。別の場所から、またうめき声が聞こえてくる。数人の自警団員が続けざまに倒れ伏すのを見た瞬間、雄一郎は頭で考えるよりも早く声を張り上げていた。

「全員料理に手を付けるな! 動ける者は、今すぐ迎撃態勢を取れッ!」

 驚愕に目を見開いているサーシャを見据えて、雄一郎は静かに声をあげた。

「皆殺しになりたくなきゃ、さっさと村の人間を逃がせ」

 吐き捨てた瞬間、サーシャがハッとしたように周囲の自警団員に向かって声をあげた。

「村人達を避難させろ! バラバラに散らばらせるなッ!」

 サーシャの声に動き出す前に、また数人の自警団の者が倒れるのが見えた。サーシャが苦々しく顔をゆがめて、動ける者達に次々と指示を飛ばしていく。
 その姿から視線を逸らして、雄一郎は未だ金切り声をあげるドリスをにらみ据えた。

「お前は、誰に村を売った」

 鈍い声で問い掛けた瞬間、ドリスの悲鳴がピタリと止んだ。カクリとドリスの膝が折れる。地面に座り込んだまま、ドリスはどこか呆然とした表情で宙を見つめていた。
 ドリスの腕をつかんだ手に力を込めながら、雄一郎は続けた。

「盗賊か。それとも、葵か。ゴルダールの王か」
「その全てにです」

 答えたのは、ドリスではなかった。こちらに駆け寄ってきたテメレアが、切迫した声で続ける。

「アオイさんに言われました。今から盗賊が襲ってくるから、私を選ぶなら貴方だけは助けてあげる、と。ゴルダールの王は、王のあかしが手に入らないのであれば、この村ごと潰すつもりだったようです」

 利用できないのであれば、王族を生かしておくよりも抹殺まっさつすることを選んだということか。アオイは随分と見切りをつけるのが早い。ニカが王のあかしを渡すつもりがないと判断して、この村ごと潰そうと決めていたのか。それで、よく村の子供に笑いかけられたものだ。
 サーシャに襲われる前、村の外で見た外套がいとうを被った小さな人影はおそらくドリスだったのだろう。盗賊に村の情報を流していたのか、それともスープに入れる毒でも受け取っていたのか。どちらにしても気付かなかった自分自身の平和ボケ加減に、舌打ちが漏れる。
 視線を広場の方へ向ける。煌々こうこうと燃えさかる焚き火の近くに、既にアオイの姿はない。

「葵は――」

 つぶやいた瞬間、先ほどのアオイとテメレアとのキスがぶたの裏に浮かんで、言葉が詰まった。唇を半開きにしたまま固まった雄一郎を見て、テメレアがげんに目をまたたかせる。
 グッと言葉を呑み込んで、再びドリスに視線を向ける。

「盗賊共は何人いる」

 問い掛けても、ドリスは宙を見たまま雄一郎と視線を合わせようとはしない。

「どこから襲撃してくる」
「おなかすいたぁ」

 不意に、子供みたいな気の抜けた声が聞こえた。ドリスが真っ暗ににごった瞳で雄一郎を見上げている。そのまなしは雄一郎へと向けられていたが、何も見ていないようだった。

「おなか、すいて、死んじゃいましたぁ」

 その空虚な声に、ぞわりと二の腕に鳥肌が立つ。

「誰が死んだんだ」

 問い掛けると、ドリスの首がかくりと九十度真横に倒れた。首を倒したまま、ドリスは唇だけをパクパクと動かしている。

「わたしの、赤ちゃんです。赤ちゃん、おなかすかせて、死んじゃったぁ」

 ドリスには子供がいたのか。そういえば、この村に来た当初、ドリスが生まれた村では毎日何人も飢え死にしていたと言っていた。その中の一人に、ドリスの子供が含まれていたのか。

「自分の子供が死んだから、この村の人間も死なせるのか」

 そうたずねると、ドリスはこくんとうなずいた。

「みんな、死んじゃったほうがいいですよ。生きてたって、どうせおなかすいて死んじゃうんだから、生きてないほうが、ずっと幸せですよぉ」

 譫言うわごとめいた言葉を漏らして、ドリスは不意にとろけるような笑みを浮かべた。壊れきった人間の笑顔だ。
 雄一郎が顔をゆがめた瞬間、地鳴りが響いた。ドッドッドッとまるで激しい鼓動のように響いて、地面を揺らす。その音に続いて、とどろくような雄叫びが遠くから聞こえてきた。盗賊共が村への襲撃を開始したらしい。

「来るぞ」

 独りごちるように、ぽつりとつぶやく。ドリスの腕を離して、片手で腰帯のナイフを引き抜く。
 近くにいた自警団員に引きずり起こされたドリスが、へらへらと笑いながら言う。

「こんな世界、だいきらぁい」

 その言葉には覚えがあった。妻子を亡くした雄一郎が思った言葉と同じだ。強い既視感に、ぐらりと視界が揺れる。
 ドリスを見る。その瞬間、ゆるみ切った笑みを浮かべるドリスの目から一筋の涙がこぼれ落ちるのが見えて、どうしようもなく息が苦しくなった。


 一分も経たないうちに、遠くからつんざくような悲鳴が聞こえてきた。逃げ遅れた村人達の悲鳴だろうか。悲痛な断末魔の叫びを聞いて、サーシャが走り出そうとする。だが、雄一郎は片腕を伸ばしてサーシャの腕をつかんだ。

「離せッ!」
「今行っても遅い。手遅れだ」
「だからといって、見殺しにはできないッ!」
「今そこに人員をさけば、助けられる人間も死なせることになる」

 助からない人間のもとに行くよりも、まだ助かる人間を優先させろと言外に言い放つ。サーシャは一瞬泣き出しそうな顔をして雄一郎を見つめた。まるで自分の無力さを嘆く子供みたいな表情だ。
 そのまなしを見返したまま、雄一郎は静かな声で続けた。

「村人を避難させている以外の自警団員を集めろ。村人が避難するまでの時間を稼ぐぞ」

 そう言い放つと、サーシャの唇から困惑の声が漏れた。

「お前は……何を考えている」
「何をだと?」
「なぜ、私達を助けようとする」

 サーシャは、疑心暗鬼をにじませて雄一郎を凝視していた。目の前の男が味方か敵か探るようなまなしだ。その問い掛けに、雄一郎は思わず鼻を鳴らして笑ってしまった。

「こんな時に随分と悠長なことを聞く」
「今だからこそ聞かなくてはならないことだ」
「成り行き。それだけだ」
「はぐらかすな!」
「はぐらかしてるんじゃない。葵達と手を結んだ盗賊共は、お前達だけじゃなく俺達も殺すように命じられているはずだ。どっちにしろ俺達は運命共同体になっている。助かりたいなら、互いに協力するしかない。今はそういう状況だということだけだ」

 淡々とした雄一郎の言葉に、サーシャはグッと下唇を噛み締めた。その顔を見据えたまま、雄一郎は続けた。

「手を貸すか。それとも、皆殺しにされるか」

 どちらか選べとばかりにつぶやく。短い沈黙が流れた。かすかに頬をゆがめた後、サーシャは一度固く目をつむった。そして目を開くと、静かな声で問い掛けてきた。

「どういう作戦を考えている」
「まずは教えてくれ」

 雄一郎の言葉に、サーシャはげんそうに片目をすがめた。その顔を見返したまま、雄一郎はたずねた。

「この村に抜け道はあるのか」

 サーシャが軽く目を見開く。

「腐っても王族が押し込められていた村だ。よっぽどの脳天気じゃなければ、この村にいる間に逃走経路の一つぐらいは用意しておくと思うがどうだ」

 一言も二言も多い雄一郎の台詞せりふに、サーシャの頬がひくりとる。だが、サーシャは淡々と言葉を返した。

「ニカの屋敷の裏手に、山の向こう側へ続く洞窟を掘ってある。狭く、暗いが」
「素晴らしい。絶好の条件だ」

 そう告げると、サーシャの顔がますますろんげにゆがんだ。その時、ちょうどキキが駆け寄ってくる姿が視界に入った。

「女神様、まもなく盗賊共が正面から来ます!」
「敵の数は」
「百人前後かと思われます」
「残った自警団員の数は」

 今度はサーシャへ短く問う。サーシャは即座に答えた。

「現時点で三十前後だ。スープを飲んだ者が他にもいたら、これからまだ減る可能性もある」
「そりゃ最高だな」

 思わず空笑いが漏れた。まったく三十対百なんて。百人を倒そうと思った時に、三十人で真っ向から対決するなんて戦法はあり得ない。
 口元をゆるく手のひらで押さえて、雄一郎はわずかな時間、思考を巡らせた。そして、サーシャに向かって唇を開く。

「残った自警団員を全員ニカの屋敷に向かわせろ。ニカの屋敷を迎撃拠点とする」
「承知した」
「村人達が逃げるのに必要な時間はどれぐらいだ」
「最低一エイト」

 ならば三十分程度ということか。人差し指の側面で下唇をゆるく押さえながら、言い放つ。

「敵を撃退しながら、ニカの屋敷へ全速力で向かう。よろしいか」

 雄一郎の言葉に、サーシャがうなずきを返す。そして、自警団の一人へ怒鳴るように指示を出した。

「村人の避難を急がせろッ!」

 次第に地鳴りが激しくなっていく。盗賊共が近付いてくる気配を感じながら、雄一郎はテメレアへ視線も向けず言い放った。

「お前は俺の後ろについて来い」
「私を守ってくださるのですか? それなら、全力でお断りします」
「お前に、人は殺せないだろう」
「人は殺せませんが、ぶん殴って気絶させることぐらいはできます」

 美しい顔に似合わぬ『ぶん殴る』という言葉が面白くて、場にそぐわぬ笑いが口元ににじむ。らしくもなく粗雑な動作で、テメレアがかたわらにあった柵を蹴り飛ばす。折れた棒を手に取って、テメレアは冗談っぽくつぶやいた。

「ヤキュー、でしたか? 私はきっと得意ですよ」

 以前雄一郎が言った『野球』という言葉を覚えていたのか。その言葉に、雄一郎は笑みを深めた。やはり、この男はとびきり雄一郎好みだ。
 野太い雄叫びに、視線を前方へと向ける。明らかに村の者ではない、髪やヒゲをボサボサに伸ばした男達が広場になだれ込んでくるのが見えた。手には血に濡れた剣が握り締められている。
 男達によって、先ほどまでニカが座っていた豪奢ごうしゃな椅子が踏み倒される。当然だが、そこにはニカやノアの姿はない。村人達と一緒に逃げたのだろうか。それならばいいが。

「一気に抜けるぞ」

 ひとり言のようにつぶやき、右足を後方へ下げる。上半身を落とし、次の瞬間、雄一郎は一気に走り出した。その瞬間、目に映るすべてが遅くなった。
 周りの光景は一瞬で流れ去っているはずなのに、ひどくスローモーションに映る。空から降ってくる粉雪がまるで白い羽のように揺らめきながら、目の前をゆっくりと落ちていく。その中で唯一、右手に握り締めたナイフの感触だけが確かだった。
 ぐんぐん距離が縮まって、盗賊の姿が近くなっていく。残り数メートルまで迫った時、目の前の男が剣を水平に振りなごうとしているのが見えた。その瞬間、雄一郎は地面へとスライディングしていた。勢いのまま、男の斜め下を抜けていく。
 通り抜ける瞬間に、男の右足のアキレス腱をナイフで一閃する。ブツンと切り裂く感触をナイフのグリップ越しに感じるのと同時に、鋭い悲鳴が頭上から響いた。
 男が倒れる姿を見もせず、雄一郎は立ち上がった。視線はすでに次の男に移っている。
 突き出される剣を避け、最初に相手の手首を切り裂く。そして、右肘を軽く後方に引いて、一気にナイフの先端を突き出した。左胸の心臓をただ真っ直ぐつらぬくように。ドッと右腕に衝撃が走って、男の左胸にナイフが深々と突き刺さっているのが見えた。男の口がぱくぱくとくように数度動く。その唇の端から、ツゥッと赤い血があふれ出すのが視界に映った。素早くナイフを引き抜き、あおけに倒れる男に構わず、大股で前方へと足を進める。
 次の標的に視線を据えた瞬間、突然目の前の男の側頭部にトッと細い棒が突き刺さるのが見えた。間を空けることなく、近くにいた他の盗賊二人が矢に射貫かれて地面に倒れ伏す。
 視線をあげると、近くの家屋の屋根から身軽な動作でチェトが降りてきた。

「チェト」

 雄一郎の呼び声にチェトがこたえるよりも早く、すっと家の陰から大柄な男が出てくるのが見えた。ベルズだ。いつもは柔和な笑みを浮かべているベルズが、今はひどく無機質な、感情が失せた能面のようなつらをしている。
 ベルズが大きく腕を動かして、まるで棍棒のようにやりを振るう。そして次の瞬間、やりつかが盗賊の側頭部にゴッと鈍い音を立ててめり込んだ。へこんだ頭部から、まるでビックリ箱のように丸々とした眼球が飛び出す。
 ベルズが次々と周りの敵をぎ払っていく中、チェトが声をかけてきた。

「女神様、ご無事でしたか」
「ああ。話は走りながらだ」
「我々が先導します」

 ベルズとキキが前に進み出る。豪腕ごうわんの二人によって、次々と敵がぎ倒されていく。地面に広がっていく赤い血溜まりを、雄一郎とチェトはただ黙々と踏み進めた。
 駆けながら、息も切らさずチェトが唇を開く。

「ノア様のことですが、姿が見当たりません」

 その報告に、雄一郎は目の端でチェトをにらみ付けた。

「どういうことだ」
「逃げた村人の中に、ノア様とニカの姿はありませんでした。こちらに向かう途中で村の中も捜しましたが、姿が見当たりません」

 誠に申し訳ございません、とチェトが頭を下げる。雄一郎は鈍く奥歯を噛み締めた後、うなるような声を漏らした。

「最初に目を離したのは俺だ。お前を責めるつもりはない」
「ですが」
「これ以上の謝罪は要らん。代わりに、キキを捜索に当たらせろ。お前には、別の仕事を任せる」
「別の仕事とは?」
「火薬は持ってきているな」
「もちろんです。ただ、それほど多くはありませんが」
「少量で十分だ」

 手短にチェトへ指示を出す。雄一郎の命令を聞くと、チェトは困惑したように目を細めた。

躊躇ためらうなよ」

 雄一郎が念を押すように言い放つと、チェトはその頬にった笑みを浮かべた。

「今更ながらに、ゴート副官の苦労が身に染みて解りましたよ」

 その返答に、雄一郎はかすかに笑みをにじませた。かいぎゃくを含んだ雄一郎の表情についじゅうするように、チェトが笑みを深める。チェトはキキに短く指示を投げると、そのまま背を向けて走り去っていった。
 乱戦は続いている。肩越しに振り返ると、サーシャが剣で盗賊を叩っ切っている姿が見えた。

「進めッ! 止まるなッ!」

 剣を振り上げ叫ぶサーシャの姿を見て、どこかで見たような光景だと思う。

「民衆を導く自由の女神」

 無意識のうちに言葉がこぼれ落ちていた。もしかしたら、この国ではサーシャのような人間が女神になるのかもしれない。
 だが、そんなことを考えられたのも一瞬だった。複数の盗賊が前へと飛び出してくる。雄一郎は考えることをやめて、血でぬるついたナイフのグリップを握り締めた。


 ニカの屋敷にたどり着いた頃には、全身が返り血で真っ赤に染まっていた。
 既に自警団の何名かは到着していたのか、屋敷の窓枠から銃の先端がのぞいている。屋敷の前には何本も松明たいまつともされており、周囲がぼんやりと照らされていた。

「ベルズ」

 薄暗い屋敷へと入り、前方を突き進んでいたベルズに声を掛けた。肩越しに振り返った端整な男のつらが、血しぶきで凄惨せいさんよごれている。その眼球にはほのぐらい光が浮かんでいた。

「まだ動けるか」
「もちろんです。何なりとお命じください」

 当然のようにベルズは答えた。だが、先ほどから数え切れないほどの人間を突き刺し続けてきたのだ。その無機質な表情にも、かすかな疲労がにじんでいる。
 酷使していると思う。部下の人間性も、気力も、命も、削り取っている。そうせざるを得ない状況が腹立たしかった。己の力不足と采配さいはいの悪手を痛感する。だが、それを嘆く時間はなかった。
 屋敷の外を真っ直ぐ指さして、雄一郎は端的に命じた。

「限界まで食い止めろ。だが、死ぬことは許さん」

 無茶苦茶な雄一郎の命令に、ベルズは軽く片眉を跳ねさせた。そして口元にかすかな笑みを浮かべる。

「ええ、死にません。ヤマを未亡人にするわけにはいきませんから」

 とぼけるような口調で答えると、ベルズは背負っていた長銃を手に取った。窓枠の下にしゃがみ込んで銃の先端を窓から突き出し、迎撃の体勢を取る。
 雄一郎は、後方にいるテメレアへ視線を向けた。暗い室内でも、その唇から白い息がせわしなく吐き出されているのが見える。

「怪我は」
「大したことは。かすり傷ばかりです」
「お前は奥にいろ」
「ご冗談を。私は貴方から離れません」

 クソ頑固者が。そう吐き捨てようとしたが、上手く唇が動かなかった。唇を鈍くらせる雄一郎を見て、テメレアがふっと表情をゆるめる。

「私が貴方を守ります」

 ぽつりとつぶやかれた言葉に、どうしてだか顔がゆがんだ。鼻で笑い飛ばしてやりたいのに笑えなかった。何も言わず、テメレアがただ深くうなずく。

「来るぞ!」

 サーシャの鋭い声が響く。雄一郎は窓際に近付いて、屋敷正面へと視線を向けた。盗賊共が近付いてくるのが見える。
 盗賊共の姿が松明たいまつによって照らされる。返り血でよごれた姿は、まるで地の底からい出てきた赤鬼のように見えた。

「引き付けろ!」

 窓枠前にしゃがみ込んだまま、サーシャが声をあげる。荒い足音がますます近くなり、地響きで窓がカタカタと小さく音を立てるのが聞こえた。松明たいまつに照らされて盗賊共の目のギラつきまでまざまざと見えた瞬間、サーシャが叫んだ。

「撃てッ!」

 サーシャの号令と共に、鋭い発砲音が響き渡る。まるでまくつらぬくような音に、キィンと耳鳴りがした。暗闇に黒くも見える飛沫しぶきが飛び散り、何人もの盗賊共がどうっと雪の上に倒れる。そして、続けざまに暗闇から絶叫が響いてきた。一発で死ねなかったとは気の毒な。
 そう思いながら、雄一郎は大股で廊下を進んだ。その後ろをテメレアがついてくる。

「どちらへ?」
「念のため確認に向かう」

 端的に答えて、一度通ったことのある廊下を突き進んでいく。


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