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しおりを挟む第五章 凍て付く水の底へ
テメレアは、時折夢を見る。
異なる世界から飛んできた女神と愛し合い、互いの子供をもうけ、家族で慈しみ合って生きていくという未来を。だが、その夢は決して叶うことはないとテメレア自身が一番よく解っていた。
隣国の粗末な宿の小さな部屋。その二階の窓辺に座り、灰色の空からはらはらと降る雪を静かに眺めている男を、テメレアは見つめる。
短く刈られた黒髪にナイフの切っ先のように鋭く尖った眦、硬く引き結ばれた唇からは、男の隠し切れない凶暴性が滲み出ている。伸びやかで引き締まった四肢といい、まるで暗く深い山を駆ける獣のようだと思う。この獣と遭遇したら、一息で首を噛み千切られることを覚悟するしかない。
尾上雄一郎。突然この世界に現れ、苛烈な意志のもと、部下や民達を狂奔へと駆り立て、世界を業火で焼き尽くそうとしている。他者の命を奪うことに一切の躊躇いがなく、己の命すら顧みず、敵軍を徹底的に蹂躙する冷酷非道な男。
そんな凶悪な男が、王位を巡って内乱の起きたこの国を救い、王の子を産む『女神』だというのだから、この世界の神は常軌を逸している。彼を崇め奉る民も、彼を寵愛する『正しき王』も、そして彼にすべてを捧げる自分だって完全に正気ではない。何かが決定的に壊れている。
それでも、テメレアは目の前の男が愛しくて堪らない。
「何だ。じろじろ眺めやがって」
窓の外を眺めていた彼が、不意に振り返って声をあげた。まるで威嚇する犬のように、不機嫌そうに鼻梁に皺を寄せている。テメレアは彼の鼻梁に寄った皺を眺めながら、ゆっくりと唇を開いた。
「あまり窓の近くに留まるのはやめた方が宜しいかと。いつ攻撃を受けるか判りませんから」
「そういったことにならないように、チェトとベルズを見張りに出しているんだ」
「キキはどこに?」
訊ねながら、緩く辺りへ視線を巡らせる。
共に隣国へとやってきた、彼の忠実な部下達。皆それぞれ有能なのは間違いないが、生来の本質が獰猛なのも共通している。そういった人間を、目の前の彼が好むこともテメレアは知っていた。
隣国へ同行する部下を選抜したのは、彼の副官であるゴートだ。いつも飄々として本性が掴めず、どこか食えない男。ゴートの彼を見る眼差しを思い出す度に、胸の奥から反吐じみた感情がわき上がってくる。上官に対する信頼と親愛の底に、粘ついた情欲が滲んでいるのがテメレアには解る。自分も同じ眼差しを彼に向けているからこそ、その瞳の生々しさは許し難かった。
だが、そのゴートは、我々が隣国へと旅立った直後、王都から忽然と姿を消したという。そう簡単に誰かに殺されるような男ではないと思うが、それならば一体何の意図があって消えたのか。
思考を巡らせていると、ふと彼の声が聞こえた。
「キキには、葵の動向を見張らせている」
あげられた名前に、一瞬苦々しい感情が込み上げてくるのを感じた。
彼と共に現れた、もう一人の女神である少女・アオイ。反乱軍に荷担し、彼を憎み、殺すチャンスをうかがっている少女だ。
初めて出会った時に、ぼうっと顔を見つめられて「貴方みたいに綺麗な人が私のものなんて夢みたい」と言われたことを思い出す。出会ったばかりの他人を自分の物扱いする少女に、腹立たしさを覚えなかったといえば嘘になる。
「あいにくですが、私の女神はもう決まっています」
テメレアがそう答えた瞬間、まだ幼さを残した少女の頬が嘲るように歪んだ。
「おじさんが女神なんてバッカみたい。ね、私知ってるよ。仕え捧げる者には、女神を愛する『呪い』がかけられるんだって。それなら、おじさんが死んだら、テメレアさんは私のことを好きになるってことだよね」
楽しげな声で吐かれる酷薄な言葉には、少女の浅はかで残忍な本性が滲んでいた。だが同時に、少女の眼差しに縋るような色が滲んでいたことに、テメレアは気付いていた。私を選んで、私を見て、という切実で痛々しい思いだ。だが、その思いを受け止めてやれるほど、テメレアは少女に対して寛大にも親切にもなれなかった。
確かにテメレアには『呪い』がかけられていた。女神を盲目的に愛し、己のすべてを捧げずにはいられない呪いが。その呪いは、自分の魂を強引に捻じ曲げられ、鋼鉄の鎖で心臓を雁字搦めにされるような、途方もない吐き気と苦痛を伴うものだった。
だが、ある瞬間に、心臓に絡み付いた鎖は空中に霧散するように、ふっと消えてしまった。
それは朽葉の民の森で、木の上から落ちそうになった彼の手を必死に掴んでいた時だった。彼の重みに引き摺られて落ちそうになっているテメレアに対して、彼は自分の手を放すように訴え、そしてこう言ったのだ。
「お前の、呪いも……とける」
あの瞬間、彼は自分の命と引き替えに、テメレアの呪いを解こうとしたのだ。自分の命が助かることよりも、テメレアの魂の解放を望んでくれた。
それが解った瞬間、心臓に絡み付いていた鎖がほどけて、自分自身の心が自由になるのを感じた。だが、その直後、唇から溢れたのは自分でも予想外な言葉だった。
「一緒に死んでください」
そう口に出すのと同時に、テメレアは、自分自身の意志で彼を選んだのだと理解した。もしも呪いがかかったままであれば、仕え捧げる者である自分が女神の死を選択するはずがない。彼と共に死ぬことを選んだのは、仕え捧げる者の使命ではなく、テメレアの意志だった。
もう呪いはかかっていない。テメレアは己の心のまま、尾上雄一郎という一人の男を愛している。冷酷で皮肉屋で、だがどうしようもなく哀れで、脆く、愛おしい人を。
だが、もう呪いは解けたと告げても、彼は信じないだろう。信じないことで、彼は自分自身を守っているのだ。自分には、他者の愛を受け取る価値などないと思っている。そして、与えられた愛を失うことを何よりも恐れている。それは彼が元の世界で妻子を失ったことが原因なのだろう。
亡くした妻子のもとに帰りたいと願う彼が、テメレアはひどく憎らしく、そして同時に言葉にならないほど恐ろしい。いつかこの内乱が終わり、王の子を産んだら、彼は元の世界に戻ってしまうのかと想像するだけで歯の根が合わなくなる。
彼のいない世界に存在している自分を想像したくない。いっそ彼の四肢を切り落として檻に閉じ込めてでも、自分のもとに留めたい。そう思ってしまう自分自身が、テメレアは何よりもおぞましかった。
「テメレア」
彼の声に、邪悪な妄想から現実に引き戻されて、一瞬指先が震えた。その震えに目をとめた彼が、訝しげな声をあげる。
「寒いのか?」
「いえ……」
曖昧に首を左右に振って、否定を返す。だが、彼は開いていた窓を閉じると、ゆっくりとした足取りでテメレアへと近付いてきた。
「見張りの交代まで時間があるだろう。寒いのなら、ベッドに入って寝ていろ」
大丈夫です、と答える前に、手を掴まれてベッドの方へ連れて行かれる。外套を強引に脱がされて、テメレアは強制的にベッドの中に入れられた。
「寒いわけでは……」
「いいから、少しは休め。明日は今日よりも修羅場になるぞ」
寝付かない子供を脅かすような口調で言う。だが、おそらくそれは現実となる予言だ。
「明日は、サーシャと交渉するのですか?」
「交渉する余地があればな。何にしても、ニカは話にもならんから仕方がない」
事も無げに答えて、彼は考えを深めるように視線を伏せた。
隣国の辺境の村シャルロッタを統治している王族の生き残りであるニカ。ニカを煽動して、反乱軍に力を貸す隣国ゴルダールでも内乱を起こさせるという作戦を提案したのはテメレアだ。
だが、ニカは想像以上に自棄になっており、現王に王の証を差し出すように仕向けるアオイと内乱を促す雄一郎、どちらか自分を楽しませた方の言うことを聞いてやると言い出す始末だった。
そして、この村の自警団リーダーであるサーシャは、村に入り込んだ異物――雄一郎やアオイ達に怒り狂っている。害虫共が、と吐き捨てていたサーシャの姿を思い出すと、まともに話ができるとは思えない。何にしても、崖っぷちな状況には変わりなかった。
「ニカのところに残っているノアが、上手い具合に懐柔してくれりゃあ楽だがな」
笑い半分に呟かれた彼の言葉に、一瞬だけ背筋が戦慄くのを感じた。
ノア。神に選ばれたジュエルドの『正しき王』であり、そしてテメレアの異父兄弟。その幼い弟は、いつかテメレアの愛おしい彼を孕ませ、自分の妻とするのだ。
自分だって、心の底から彼を愛している。それなのに、子種がない『仕え捧げる者』では、どれだけ望んでも彼との子供が産まれることはない。なぜ、どうして、同じ血をひいているというのに、自分と弟でこれほどまでに違うのか。
それを思う度に、妬ましく恨めしく、許し難い気持ちに支配される。こんな世界など滅びてしまえばいい、という破滅的な感情すらわき上がってくるほどだ。
だが、青く燃える憎悪の底に、血をわけた弟に対する懺悔と哀切の心も残っていた。テメレアの母が前王との間に産んだ弟は、その母親から欠片も愛されず、むしろ邪魔者としていたぶられていたのだ。
ただの我が侭で臆病な子供であれば良かった。だが、ノアの心には途方もない悲しみが抱えられている。それに気付いた瞬間、テメレアはノアを単純に憎むことができなくなった。
可哀想な弟。この国を変えていく正しき王。だが、愛しい人を奪っていく男。
複雑で捻れた感情を、テメレアは常に抱えている。だが、それでもノアとの関係が決定的に崩壊しないのは、目の前の彼がいるからだ。彼の存在を介して、ノアとテメレアは静かにお互いを見つめ、ゆっくりと関係をつなぎ止めている。
ベッドの端に腰を下ろしたまま、再び窓の方へと視線を向けた彼を、じっと見つめる。その鼻先が赤く染まっているのを見て、テメレアはベッドの端に寄ると、軽く布団の端を持ち上げて呟いた。
「貴方も入ってください」
そう告げると、彼は一瞬面食らったように目を丸くした後、にやりと口角を吊り上げた。
「流石にここじゃあヤらねぇぞ」
「馬鹿なことを言わないでください。貴方も冷えているから温まってほしいだけです」
呆れた口調で言い返すと、彼は少し肩を竦めた後、外套を脱ぎ捨てて布団の中へ入ってきた。彼の身体をそっと抱き寄せると、まるで氷のように冷えている。
「冷たい」
「冷たいなら離せばいいだろ」
「離しませんよ」
テメレアが即座に言い返すと、彼は少しだけ目を細めて笑った。そのまま気まぐれな猫みたいに、テメレアの胸元へと額を擦り寄せてくる。その懐くような仕草に、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
彼の何気ない行動の一つ一つで、簡単に一喜一憂してしまう自分がひどく愚かに思える。だが、テメレアはそういう自分を決して嫌いにはなれなかった。
和んだ眼差しをした彼が、テメレアの髪を指先にすくう。
「ノアがいないと、お前の髪を三つ編みにできないな」
どこか穏やかな彼の口調に、少しだけ笑いが込み上げた。彼がテメレアの髪を三つ編みにし、ノアが最後にリボンを結ぶ、それが三人の日課だった。互いの関係をゆっくりと編んでいくような時間が、テメレアにはひどく心地よく、愛おしかった。
「ノア様が戻ってきたら、また編んでください」
そう告げると、彼は小さな笑いに咽喉を揺らした。柔らかな呼吸に上下する背を抱き寄せて、静かな声で囁く。
「見張りの交代時間まで、貴方も眠ってください」
促すと、彼はテメレアを一度見上げた後、ゆっくりと目を瞑った。かすかに雪の匂いがする彼の髪に鼻先を埋めて、テメレアは未来を想う。決して叶うことのない、彼との幸福な未来を。
冷気から守るように、彼の耳元まで布団を引き上げながら、テメレアはそっと目蓋を閉じた。
***
翌朝、事態は動き始めた。
黄色い髪を尻尾のように揺らしながら宿に入ってきたキキが、息も整わぬうちに報告する。
「女神様、ご報告を。敵が動き始めました」
「葵達か?」
「はい。何やら村の中心に舞台や櫓を建てているようです。村の外からも大量の食料を運び込んでいます。なんでも本日の夜にお祭りを開くとか……」
その言葉を聞いて、雄一郎は肩がどっと重たくなるのを感じた。どうやらアオイ達は正攻法で行くらしい。ニカを楽しませるために、村でお祭り騒ぎでも始めるつもりか。
「サーシャは」
「怒り狂っていますね」
「案内しろ」
手短に返すと、キキは「こちらへ」と先導するように歩き出した。
村の中心部へと向かうと、確かに数人の男達が櫓や舞台を建てているのが見えた。昨日までは何もなかった場所に、早くも高い足場が組まれている。
その足場の近くで、サーシャが大声をあげていた。
「貴様らは何を考えているッ! こんな見せつけるように食料を運び込んで、盗賊共にどうぞこの村を襲ってくださいと言っているようなものだッ!」
サーシャの甲高い怒声に対して、アオイの『仕え捧げる者』であるロンドは露骨にうんざりとした表情を浮かべていた。
「いちいち大袈裟に怒鳴り散らすな。この沈んだ村に活気を起こそうと、心優しき私の女神がわざわざ考えてくださったことだぞ。女神の寛大な御心に、感謝してもらいたいぐらいだ」
「巫山戯るなッ! 国が餓え苦しんでいる時に、遊び踊ることの何が寛大だ!」
唾を飛ばしながら、サーシャが肩をいからせて怒鳴る。ロンドは口角をひくひくと引き攣らせながらも、唸るように返した。
「そもそも、これはお前達の長であるニカが望んだことだぞ」
「ニカの享楽のために、この村を潰すことは許さんッ!」
「ならば、それを本人に言ったらどうだ。お前の言葉がニカに届くのならな」
ふふんとロンドが鼻で笑う。途端、サーシャは奥歯を噛み締めた。顔を歪めるサーシャを見据えて、ロンドが小馬鹿にするように吐き捨てる。
「騒ぐことによって盗賊に見つかるのが怖いのなら、警備を強化すればいい。そのためにお前達がいるのだろう。人様に怒鳴る前に、自分達の弱腰を恥じたらどうか」
そう言い切るなり、ロンドは用事は済んだとばかりに踵を返した。サーシャはキツく拳を握り締めたまま、その場に立ち尽くしている。怒りに震える後ろ姿に、雄一郎は声を掛けた。
「ニカを恨まないのか」
ハッとしたようにサーシャが振り返る。雄一郎の姿に気付くと、サーシャは不愉快そうに鼻梁に皺を寄せた。その表情は、気位の高い猫のようだ。
「中年女神か」
吐き捨てられた言葉に、またガックリと肩を落としそうになる。アオイも噂を広めるのは構わないが、中年と女神をもう少し切り離してほしいものだ。中年と女神を続けて発音されると、何ともいえない脱力感を覚える。
「その呼び方は勘弁してくれ。俺は尾上雄一郎だ」
「オガミユウイチロウ、お前は何のためにこの村に来た」
「あんたが賢い奴なら、俺達の目的は解っているはずだ」
答えると、サーシャは苦虫を噛み潰したように片頬を歪めた。
「余所者はろくでもないことしかこの村に運び込まない。あの小娘女神も、お前も、この村にとってはただの疫病神だ」
「この村にとってはな。だが、この国として考えたらどうだ」
サーシャの片眉が跳ね上がる。その吊り上がった目を見据えたまま、雄一郎はゆっくりと言った。
「この国は滅び掛けている。罪もない家族が離ればなれになり、子供達は盗賊に追われ飢え死にしかけている。これが正しい国の在り方か。皆が望む世界か。ニカは、自棄になって国を見捨てているが、あんたはそれを許容するのか」
淡々とした雄一郎の言葉に、サーシャは怒りに駆られたようにカッと目を見開いた。灰色の瞳が雄一郎を真っ直ぐに睨み付けている。
「ニカがすべてを見捨てても、私は決して見捨てない」
「それはこの村か? それとも国か?」
雄一郎の問い掛けに、サーシャはますますその瞳に怒りを滲ませた。だが、何も答えず、舌打ちをひとつ零して去っていった。
***
膝の上で啜り泣く男を、ノアは呆然と眺めていた。
昨日、雄一郎達に置き去りにされた後、呂律の回っていないニカの繰り言に一晩中相槌を打ち続ける羽目になったのはもちろん最悪だった。だが、今日の朝、目が覚めるなりグズグズと鼻を鳴らして泣き出したニカの姿には、いっそ途方に暮れるしかなかった。
ノアのスカートに顔を押し付けたまま、ニカがひとり言のような泣き声を漏らす。
「こわい……こわい……」
同じ言葉を繰り返しながら泣きじゃくる男に困惑する。
「何が怖いの?」
そう訊ねても、ニカは小さく首を左右に振るだけで答えようとはしない。ノアが離れようとすると、ニカは嫌だと言うようにノアのスカートをぎゅうっと握り締めた。まるで母親にしがみ付く子供のような仕草だ。
仕方なく膝枕をしたまま、ぼんやりとニカを見下ろす。灰色の髪には艶がなく、どこか栄養不足な印象を受けた。何気なく指先を滑らせると、パサパサと乾いた感触がする。どうしてだか、その感触がひどく悲しかった。
不意に、ニカと自分は真逆だと思った。ニカはすべてを与えられるはずだったのに、何もかもを奪われた。ノアは何も与えられないはずだったのに、望みもしない王位を与えられた。真逆だが、同じように苦しみ、藻掻いている。
「ぼ……私もよく泣いてた」
思わず僕と言いそうになって、慌てて私と言い直す。ニカはノアのことを、ノーラという名の女の子だと思っているのだ。
ノアの声に、不意にニカの泣き声が小さくなった。ぐずぐずと鼻を鳴らしながら、ニカが顔を上げる。泣きはらした目が、じっとノアを見上げていた。
「周りにあるものが全部怖かった。自分は誰からも望まれていない人間なんだって、死んだって誰も悲しまない、生きているだけで疎まれる存在だって思っていたから」
ぽつぽつと拙い独白を呟く。
小さかった頃は、母親に叩かれる度に心臓が千切れるように痛んだ。お前なんか産みたくなかった、家に帰りたい、家族に会いたいと啜り泣かれる度に、自分なんか生まれてこなきゃ良かったと思った。どうして、一体何のために自分は生まれてきたんだろうと。
「誰もいない場所に行きたかった。死んだ方がマシだって思う時もあったのに、死ぬのが怖くて……」
鏡合わせのような男に、自分は何を話しているんだろう。ノアが曖昧に微笑むと、ニカは不思議そうに目を瞬かせた。
「……まだ、怖いのか?」
しゃがれた声でニカが問い掛けてくる。その目尻から流れる涙に袖口を当ててやりながら、ノアは穏やかな声で返した。
「まだ怖いけど、前よりかは怖くないよ」
「どうしてだ」
「自分にも生きている意味はあるって思えたから」
訝しげに目を細めるニカを見返しながら、ノアはゆっくりと言葉を続けた。
「大事な人に、美しい世界を見せてあげたい」
その言葉を聞くと、ニカはゆっくりと起き上がった。はらはらと涙を流しながらも、ノアに向き合って唇を開く。
「ノーラには、大事な人がいるのか」
「うん、世界で一番大事な人」
そんなことを本人に言ったら、ものすごく嫌そうな顔をするだろうなと思った。想い人はひどく天の邪鬼で、他人の好意を決して素直に受け取ろうとはしない。傲慢で残酷で、それなのに本当は脆くて壊れやすい。
最初は大嫌いだった。女神とは思えない乱暴狼藉に心底疫病神だと思っていた。だけど、彼が本心では何もかもを恐れ、自分自身にすら怯えて生きていると気付いた瞬間、放っておけなくなった。
大事にしたい。ぎゅっと抱き締めて、彼が怯えるすべてから守ってあげたいと思った。死へと突き進む彼に、生きたいと思ってほしいと――
淡く微笑むノアを見て、ニカは苦しそうに顔を歪めた。
「俺の大事な人は死んだ」
ぽろぽろと雨粒のような涙を流しながら、ニカが小刻みに肩を震わせる。
「誰も助けられなかった。母も姉も兄もみんな、俺の目の前で殺された。俺は見ているだけだった。もう何も見たくない」
そう漏らすと、ニカは両手で顔を覆った。まだ若いはずなのに、その手の甲は乾いて荒れている。
「でも……貴方には、双子の妹が残っているだろう?」
問い掛けると、ニカは弱々しく首を左右に振った。
「あれは……俺を見限っている。俺を弱虫だと、なぜ民を守ろうとしないのだと責めてくる……」
俺に何ができると言うんだ。そう漏らすと、ニカはヒッとしゃくり上げるような呼吸音を漏らした。その痛々しい姿を見つめたまま、ノアは静かな声で告げた。
「でも、貴方が目を閉じていたら、もっとたくさんの人が死ぬ」
淡々としたノアの言葉に、ニカは指の隙間から射るような眼差しでノアを睨み据えた。憎悪を宿したニカの眼差しを受けながら、ノアはゆっくりと続けた。
「貴方なら助けられる」
不意に、ニカの身体からガクリと力が抜けた。ニカは床に伏すと、両腕で頭を抱えた。
「……俺には、何もできない」
掠れた声の後に、再び啜り泣きが聞こえてきた。震える背中に手を伸ばして、そっと撫でる。
「私も、貴方と同じだった。何も見たくなかったし、何にもなりたくなかった。自分が嫌いで、ずっとこの世界から消えてしまえばいいって思っていた。だけど、今は大事なものを守りたい。そう思える自分を誇りに思う」
そう呟いてから、ノアはかすかに笑いが混じった声で告げた。
「自分に失望したまま死ぬのは、悲しいよ」
ぶるりとニカの背中が隆起して、震えが激しくなる。ノアは黙ったまま、その背を撫で続けた。
その時、不意に外から大きな物音が聞こえてきた。窓の方へ視線を向けて、耳を澄ます。重たい物でも運んでいるのか、男達が声を合わせて物を引っ張っているらしき声が聞こえた。
立ち上がろうとすると、ニカが阻むようにノアのスカートの裾を掴んできた。
「行くな……」
縋り付く手に、仕方なく再び腰を下ろす。数分後、ようやく泣きやんだニカが顔をあげて言った。
「……祭りを開くんだと」
「祭り?」
「小娘女神が」
泣きはらした顔のまま、ニカが嘲るように鼻で嗤う。
「どうでもいい。俺はもう……どうでもいいんだ」
何もかも諦めたように呟くと、ニカは再びその荒れた頬に涙を伝わせた。
***
寒々とした灰色の空に、もくもくと白い湯気があがっていく。視線を下ろせば、広場に置かれた巨大な鍋が視界に入る。その中へ、大量の食材が投入されていた。
鍋の周りにむらがっていた子供達がその様を見て、わぁっと声をあげる。鍋だけではなく、広場に設置された机の上にも色とりどりの料理が並べられていた。美味しそうな料理の数々を、痩せた子供達がじぃっと物欲しげに見つめている。
その様子を、雄一郎は広場近くの枯れ木に寄り掛かったまま眺めていた。隣にはテメレアが立っている。他の中隊長達は全員、村の動向を探るため散らばらせていた。
「あれだけの食料……この村なら一ヶ月分の食料です」
テメレアが苦々しい声で呟く。その声を聞きながら、雄一郎は視線を巡らせた。広場の周りには警備を行っているらしき自警団員の姿がある。だが、そこにサーシャの姿はない。
「サーシャの姿がないな」
「警戒のために、村の出入口に自警団を配置し、そこで指示を出しているのかと。万が一、盗賊の襲撃があった時のために、自警団だけでなく村人にまで武器の所持を促しているようです」
「苦労人だな」
苦笑い混じりに呟く。ニカの自暴自棄と、アオイの気まぐれに振り回されるサーシャがひどく気の毒に思えた。
ぼんやりと様子を眺めていると、むらがっていた子供の一人が出来上がった料理にそうっと手を伸ばすのが見えた。途端、料理人らしき男が「触るなッ」と怒鳴り声をあげる。その瞬間、ビクッと身体を震わせた子供が激しく泣き出した。
テメレアが子供に向かって足を進めようとするのを、雄一郎は片腕を伸ばして制した。同時に、まるで台本を読んでいるような作り物じみた声が聞こえてくる。
「もうっ、怒ることないじゃない。お腹がすいてるんなら、食べさせてあげなきゃ」
アオイは料理人へと近付くと、腰に両手を当ててキッと睨み付けた。途端、料理人が萎縮したように後ずさって、深く頭を下げる。アオイは打って変わって満面の笑みを浮かべると、机の上に置かれていた料理を手に取って、子供に差し出した。
「ほら、お腹いっぱい食べていいのよ」
アオイが小さな串に刺さった肉を差し出す。子供は一瞬躊躇うように視線を揺らしたが、飢えに勝てなかったのか、大きく口を開けてパクッと肉を頬張った。途端、パァッと顔を明るくする。
「おいしい!」
そう子供が叫ぶのと同時に、周りにいた子供達も我先に「ぼくも!」「あたしも!」と声をあげ始める。アオイは慈愛じみた笑みを浮かべたまま、雛の餌やりのように子供達の口へと一つ一つ料理を運んでいった。
その様子を眺めていたロンドが、胡散臭い笑みを浮かべて口を開く。
「お前達、アオイ様のお優しさを忘れてはならないぞ。アオイ様こそ本物の女神様なのだから」
そう言い放って、ロンドが嘲るような視線を雄一郎へと向けてくる。女神様という言葉を聞いた子供達が痩けた頬をもぐもぐと動かしながら、口々に叫ぶ。
「めがみさま!」
「めがみさま、もっと食べたいよぉ!」
強請る子供達を目を細めて眺めながら、アオイは柔らかな声で返した。
「はいはい。いっぱいあるから、みんなたくさん食べてね」
差し出される料理に、子供達がワァッと歓声をあげる。その様を、雄一郎は大した感慨もなく眺めた。隣に立つテメレアは、不愉快そうに鼻梁に皺を寄せている。
「目付きが悪いぞ」
そう指摘すると、テメレアは吐き捨てるように呟いた。
「あんなのは茶番です」
「人間はお優しい茶番劇が好きだからな」
「一時的に腹を満たしたところで、行き着く先は飢え死にです」
「それでも、内乱を起こさせようとする俺よりかは、葵の方がよっぽど女神らしいことをしてるだろうよ」
淡々と呟く雄一郎を、テメレアが横目で睨み付けてくる。
「女神は、貴方です」
偏執的と言ってもいいテメレアの言葉に、雄一郎は緩く息を漏らして呟いた。
「それを決めるのはお前じゃない。俺でもないし、ノアでも、神でも、民達でもない」
「では、誰が決めると言うのですか」
「歴史だ」
短く返された雄一郎の言葉に、テメレアが訝しげに目を細める。その眼差しを見ないまま、雄一郎はひとり言のように漏らした。
「勝利した方が、歴史に『本物の女神』として名を残し、負けた方が『偽物の女神』として汚名を被る。女神の名を騙った悪逆非道な戦犯だと」
過程に意味はない。結果こそが全て。勝利と敗北によって、極端に分けられる残酷な世界。
アオイは、その世界の残酷さに気付いているのだろうか。もう自分が勝利しか許されない崖に立たされていることを。
子供達へと微笑みかけるアオイを眺める。その視線に気付いたのか、アオイがふと雄一郎達へと顔を向けた。テメレアの姿を認めると、アオイがパッと表情を明るくする。
「テメレアさんっ、こんにちはっ」
頬を桃色に染めて駆け寄ってくる少女の姿というのは、端から見れば可愛らしいものなのだろう。だが、テメレアはピクリとも表情を動かさず「ええ」と短く相槌を返した。その塩対応を気にする様子もなく、アオイは満面の笑みを浮かべて両手に持っていた皿をテメレアへと差し出してきた。
「テメレアさんも食べませんか? これすっごく美味しいんですよっ」
キラキラと目を輝かせるアオイは、雄一郎のことなど視界に入っていないようだった。いや、気付いてはいるのだろうが、あえて無視しているのだろう。
テメレアは溜息を漏らすと、首を小さく左右に振った。
「いいえ、私は結構です」
テメレアに断られると、アオイは解りやすくしょんぼりと肩を下げた。だが、すぐさま明るい笑みを浮かべる。
「あ、あのっ、今夜音楽隊を呼んでるんですっ! 村の女の人にもドレスを貸し出して、みんなで踊ろうと思って……」
もじもじと何か言いたげに、アオイがテメレアを上目遣いに見上げる。その様子を、テメレアは何とも言えない表情で見下ろしていた。
「迷惑かもって思ったけど……テメレアさんの服も用意したんですっ。あの、良い生地で作ってあるから着心地もいいし、きっとテメレアさんにすごく似合うと――」
「私には必要ありません」
畳み掛けるようなアオイの言葉に被せるように、テメレアは断定的な口調で呟いた。
「アオイさん。何を与えられようと、私は貴方の仕え捧げる者にはなりません」
そう言い放つテメレアの眼差しには、憐れみすら滲んでいるように見えた。テメレアはアオイから視線を逸らすと、こちらを射るような眼差しで睨み付けているロンドを見やった。
「それに貴方には、別の仕え捧げる者がすでにいるではないですか」
テメレアがそう呟くと、アオイは不意にその頬を引き攣らせた。唇がぐにゃりと歪んで、可愛らしい顔立ちがひどく意地の悪い表情に変わる。
「私が選んだわけじゃない」
アオイはそう短く吐き捨てると、続けざまにこう呟いた。
「私は、みんなから選ばれたいし、必要とされたいの」
その言葉は、雄一郎にはひどく空虚に聞こえた。みんなから選ばれる。世界中から必要とされる。そんなことは、絶対にあり得ない。
「ないものねだりだな」
ぽつりと漏れた雄一郎の言葉に、アオイがぐりんと大きく首を回して、雄一郎を凝視してきた。アオイの瞳は光彩をなくして、まるで泥の沼のように真っ暗に見える。まるでホラー映画の悪霊じみたアオイの表情に、雄一郎は一瞬唇を引き攣らせた。
「あんたに言われる筋合いないし」
冷たく漏らされたアオイの言葉に、雄一郎はわずかに片眉を跳ね上げた。雄一郎を見据えたまま、アオイが引き裂くように唇を吊り上げる。
「そんなに死んだ人がいいなら、あんたも死ねば?」
その瞬間、ぞわりと体内の血流が乱れるのを感じた。冷たい何かが背筋を這い上がって、握り締めた拳が小さく戦慄く。
アオイは知っているのか。雄一郎が元の世界で妻子を失ったことを。
なぜ、という疑問すら今は頭に浮かばなかった。呼吸さえも忘れて、真っ直ぐアオイを凝視する。アオイは冷笑を浮かべたまま、雄一郎を見上げていた。
「被害者みたいな顔しないでよ。全部あんたのせいでしょ。あんたのせいで奥さんと子供は死――」
「アオイさん」
遮るようにテメレアが声をあげる。いつの間にか、テメレアの左手が雄一郎の右胸に押し当てられていた。
「言っていいことと悪いことがあります」
テメレアに咎められたアオイは、興がそがれたように小さく鼻を鳴らした。だが、すぐさま無邪気な笑顔をテメレアへと向ける。
「テメレアさんって、すごく優しいのね。テメレアさんだって、雄一郎おじさんからもっとひどいこと言われてるんでしょう?」
アオイの問い掛けに、テメレアはただ黙っている。笑みを浮かべたまま、アオイが続ける。
「ね、人にしたことは全部自分に跳ね返ってくるの。因果応報ってやつ。だから、おじさんが今までやってきたひどいことが全部、奥さんと子供に降りかかっちゃったのかな。可哀想ね。本当に可哀想」
矢のような言葉が心臓に突き刺さる。なぜ自分はアオイに言い返せないのだろう。いつも通り、皮肉じみた言葉を嘲笑とともに返してやればいい。それなのに、言い返せないのはアオイの言葉が間違っていないと、頭のどこかで思ってしまっているからだ。
「アオイさん!」
テメレアが語気を強めて呼ぶと、アオイは貼り付けたような笑顔でゆっくりと首を傾げた。
「ねぇ、こんな人を庇ってたら、次はテメレアさんがひどい目にあっちゃうよ」
その言葉に、不意に耐えられなくなった。全身の血の気が下がって、身体が震え出しそうになる。
一瞬、テメレアを見やる。視線に気付いたテメレアが雄一郎を見つめ返してくる。その美しい顔を見た瞬間、紛れもない恐怖が込み上げてきた。
恐怖に突き動かされるようにして、身体が勝手に動く。気が付いたら、雄一郎はテメレアに背を向けて歩き出していた。自分の半分も年齢を重ねていない少女の言葉に、尻尾を巻いて逃げ出すなんて情けないと解っていても、この場に平気な顔で居続けることはできなかった。
「雄一郎様っ!」
テメレアが呼び止める声が聞こえる。だが、振り返らず雄一郎は大股で歩き続けた。
「行っちゃダメだよ、テメレアさん。あんなおじさんと一緒にいたら、いつかみーんな死んじゃうんだから」
アオイが楽しげな声で、言っているのが聞こえる。軽やかな笑い声から逃れるように、雄一郎は俯いたまま歩き続けた。
辺りも見ずに足を進め続けて、気が付けば村の外に出ていた。
枯れた木がまばらに生え、その周りには雪を被った巨大な岩石がいくつも転がっている。頭上を仰ぐと、灰色の空がどこまでも広がっていた。
冷えた空気が剥き出しの耳朶を刺す。大きく息を吐き出すと、空中に白いもやがふわりと浮かび上がった。それをぼんやりと眺めていると、空から雪が降ってくるのが視界に映った。睫毛の上に乗った雪に目を瞬かせると、体温で溶けた雪が目蓋の上を伝って頬を流れる。
頬を伝う滴を手の甲で拭いながら、雄一郎は無意識に後ろを振り返った。そこにテメレアの姿はない。雄一郎を追わなかったのか、アオイに引き止められて追えなかったのかは判らない。
誰もいない空間を見つめていると、不意に胸が引き攣るように痛むのを感じた。
雄一郎と一緒にいたら、ひどい目にあう。みんな死んでしまう。
そんな言葉は詭弁だ。ただのアオイの嫌がらせだと頭では解っている。それなのに、一瞬恐ろしくなってしまった。
妻と娘は、善良な人間だった。だが、あんなひどい終わり方をした。それは雄一郎自身が積み上げた悪行が招いたことだったのではと。雄一郎の非道な行いが、雄一郎の大事な人に不運として降りかかる。それは恐ろしい妄想だった。
「馬鹿馬鹿しい」
疑念を振り払うように、短く吐き捨てる。傍らにあるゴツゴツとした岩に背を押し当てて、自分を落ち着かせるためにゆっくりと呼吸を繰り返す。
誰が死のうが知ったことじゃない、とこの世界に来た時は確かにそう思っていたはずだ。泣き喚くだけの臆病な子供も、自身を卑下しながら雄一郎に仕える男も、どいつもこいつも鬱陶しくて堪らなかった。
雄一郎は、ただ元の世界に戻りたかっただけだ。愛しい家族が待つ世界へ。本当は誰も待っていないと知っていても、それでも帰りたかった。
そのために義務的に男に抱かれた。さっさと子供を産んで、女神という気味の悪い呼び名も返上したかった。こんな世界にも、誰にも未練はなかったはずなのに。
それなのに、今の自分は何なのだろう。ノアやテメレアが死ぬのが怖いと思っている。もしも自分のせいで、あの二人が死んでしまったら――
想像するだけで、心臓がじくじくと膿むように痛む。
どうして、いつの間にこんなに弱くなってしまったのか。三十七歳にもなって思春期の女子でもあるまいし、情緒が不安定すぎて自己嫌悪が止まらない。
この世界に雄一郎を残そうとするノア。元の世界に戻るのなら一緒に連れて行ってほしいと願うテメレア。二人の男がどうして自分のような中年男に執着しているのか理解できない。
愛していると大好きだと囁かれる度に、嘲りめいた感情とともに戸惑いを覚え始めたのはいつ頃だったのか。そして、その戸惑いは恐怖と紙一重だった。
愛したくない。好きだなんて思いたくない。もう誰にも、心を奪われたくない。大事な人を失うなんて、二度と耐えられない。だから、心を閉ざす。何度でも自分自身に言い聞かせる。
俺は誰も愛していない、これからも決して誰も愛さない、と。
凍える指先に、静かに息を吐きかける。温かい呼気に触れても、指先はまだ小さく震えていた。赤く染まった指先を見つめているうちに、どうしようもない惨めさが込み上げてくる。
自分は一体何をしているのか。今考えなくてはいけないのは、ただ勝つことだけだ。反乱軍を倒して、ノアを王にして、子供を産み――そして、その後は?
元の世界に帰って、また傭兵として戦場を飛び回るのか。そうして、数え切れないほどの人間を殺して、いつか自分も野垂れ死んで、ただの死体のひとつになる。それが自分に最も相応しい終わり方だ。そう解っているのに、自分は一体何を迷っているのだろう。
支離滅裂な思考回路に、両手で頭を抱える。浅い呼吸をゆっくりと繰り返していると、ふと小さな足音が聞こえてきた。
岩壁の後ろに身を隠したまま、そっと足音の方へと視線を向ける。遠くの枯れ木の合間から垣間見えたのは、頭からすっぽりと灰色の外套を被った人影だ。外套のせいで、顔立ちを窺うことはできない。だが、その体躯の小ささからして、おそらく女性であろうことは想像できた。小さな人影は、どこか怯えたようにきょろきょろと辺りを見回しながら、雪道を足早に進んでいく。
あれは村の者なのか。そうならば、なぜこのような場所にいるのかが解らない。村の外に出れば、盗賊に襲われる危険だってあるだろうに。
人影が岩壁の向こうへ消えてしまう。追いかけようと、中腰のまま歩き出そうとした瞬間、不意に視界の端から突風のようにこちらに向かってくる影が見えた。
雪を蹴散らしながら、突き進んでくる灰色の影。その手が銀色に光るものを握り締めているのを視認した瞬間、雄一郎は反射的に腰帯からナイフを引き抜いていた。振り下ろされる銀色の刃を、咄嗟にナイフで受け止める。瞬間、ギィンッと鋭い金属音が高々と鳴り響いた。
勢いを殺しきれず、背中から倒れる。途端、空中に白い粉雪が舞った。眼前で、触れ合った刃同士がギリギリと軋んだ金属音を立てている。ナイフのグリップを掴む右手に力を込めながら、真上にのし掛かっている相手を睨み上げる。
「なんっ、のつもりだ……!」
「消えろ、疫病神ッ!」
目を見開いたサーシャが、射殺すような眼差しで雄一郎を見下ろしていた。厄介事の元凶を消すつもりで、雄一郎の後をつけてきたのか。それとも偶然見つけて殺意が込み上げてきたのか。どちらにしても、随分と勢いまかせな襲撃だ。
怒声をあげながら、サーシャが短刀に全体重をかけてくる。ゆっくりと迫ってくる刃を眺めて、雄一郎は唸るように声をあげた。
「このっ、単細胞が……!」
左腕を振り上げて、舞い飛ぶ粉雪とともにサーシャの右頬を一気に殴り付ける。途端、サーシャの身体が雪の上をゴロゴロと転がった。だが、サーシャはすぐさま獣のように起き上がると、再び雄一郎へと突き進んできた。
雄一郎も即座に立ち上がった。心臓へと向かって突き出される短刀の切っ先を見据えて、右手の短刀を振り上げる。真っ白な光景に似つかわしくない、鈍い金属音が響き渡る。
繰り出される短刀を打ち返しながら、咽喉の奥から叫ぶ。
「俺を殺しても、何も解決しないぞ!」
「黙れッ! 村に災厄をもたらす人間は全員殺す!」
感情的な返答に、思わず口角に嘲笑が滲む。雄一郎の笑みを見て、サーシャはその美しい顔に更に怒りを滲ませた。
「傲慢な女神が! すべてが貴様の思い通りになると思うな!」
そう怒鳴りながら、サーシャが短刀を袈裟懸けに振り下ろしてくる。後方へと身体を下げて避けようとするが、わずかに間に合わない。左頬に痺れにも似た痛みが走るのと同時に、真っ白な雪の上に赤い血が飛び散るのが見えた。
数歩下がりながら、真っ直ぐサーシャを見据える。
「一体何が思い通りだと言うんだ。俺の思い通りになったことなんて、今まで一度だってない」
そう吐き捨てると、サーシャは憎々しげに奥歯を食い締めた。
「戯言をほざくな。この国に災厄を運んできて、貴様らには罪悪感の欠片もないのか」
「俺がここに来る前から、この国には災厄しかなかった。民は徴兵され、子供は飢え苦しみ、野垂れ死んでいる。その責任を誰かに押し付ければ、お前は楽になるのか。だが、俺を殺したところで誰も救われんぞ。民も、お前自身もな」
ナイフのグリップを握り直しながら、淡々と言葉を返す。途端、サーシャの瞳にまた憎悪の炎が浮かび上がった。走り出す直前のように、サーシャの右足の爪先にゆっくりと力がこもる。
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