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1巻
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馬鹿馬鹿しい。感傷を振り払って、雄一郎は浴槽から立ち上がった。雑に水気を拭ってから、用意されていた服に袖を通す。上下共に白いシャツとズボンだ。触り心地は麻に近い。
服の傍らには、当たり前のようにAK47とサバイバルナイフが置かれていた。サバイバルナイフはすでに血が落とされ、研がれている。腰裏にナイフを隠し、AK47を肩に担ぐ。
浴室から出ると、扉の直ぐ傍にテメレアが立っていた。テメレアも湯を浴びてきたのか、先ほどと服装が変わっている。脛まである長いローブを羽織り、まだ湿りけを帯びた髪の毛は首の後ろで一つに結ばれていた。
「お待ちしていました」
「待ってくれなんて言ってないがな」
茶化すように憎まれ口を叩くと、テメレアは軽く口角に笑みを浮かべた。
「雄一郎様の気質が少しだけ解ってきました」
「へぇ、どんな気質だ」
「とても愛らしい方だと思います」
雄一郎は、ずっこけそうになった。半眼で見やると、テメレアは更に笑みを深めた。
改めて思ったが、テメレアの美しさは際立ったものがあった。その美貌は、どこか神々しさすら感じる。
「あんたみたいに綺麗な顔をした奴に、美しいだの愛らしいだの言われても、小馬鹿にされてるとしか思えんな」
「私の本心です」
「本心だとしたら狂気の沙汰だ」
「狂気というよりも呪いに近いです」
意味の解らないことを言う。横目で睨み付けると、テメレアは咽喉の奥から小さな笑い声を漏らした。かすかな陰鬱さを滲ませた、羽虫のような笑い声だ。
テメレアに促されるまま、雄一郎は歩き出した。迷路のように入り組んだ廊下を進み、大きな扉の前で立ち止まる。
扉が開かれると、がらんとした広間が見えた。天井に大きな硝子がはめられた、陽当たりのいい部屋だ。
部屋の中央には、白い台座があった。その上には、真珠色に輝く丸石が置かれている。バスケットボールを一回り小さくしたくらいの大きさで、天井から射し込む光に反射して艶やかに輝いていた。
台座の傍らには、すでにノアが立っていた。その隣には、ゴートが気怠げに床に胡座をかいている。こちらに気付いたノアが不機嫌そうに顔を歪めて、そっぽを向いた。
「女神様いらっしゃいませー」
そう言ってゴートがひらりと手を振ってくる。近付くと、ゴートはだらだらとした仕草で立ち上がった。
「その女神様っていうのはやめてくれ。鳥肌が立つ」
両腕を擦りながら言うと、ゴートは、ひひひ、と不気味な笑い声をあげた。
「では、隊長で」
「隊長?」
「今後、軍の指揮権はすべて女神様のものですから、隊長と呼ぶのが相応しいかと」
当たり前のように告げられた言葉に、雄一郎は顔を歪めた。
「軍の指揮権が俺のものだと?」
「そうです。名乗るのが大層遅れましたが、俺はラスティ=フォルグ・ゴートと申します。ノア様とは従兄弟に当たる、しがない弱小貴族です。今後、隊長の副官を務めさせていただきますので、お見知りおきを」
ゴートが仰々しい挨拶を述べて、緩やかに頭を下げる。だが、その顔はにたにたと笑ったままだ。その挨拶に呆れたように、テメレアが呟いた。
「弱小なんていうのは大嘘です。ゴート家は、ジュエルドで最も古く強大な貴族です」
「それも親父が生きていた間だけの話ですよ。ついこの間、親父は教会で骨まで燃やされてしまいましてね」
ははは、とゴートは声をあげて笑っているが、内容はまったく笑えるものではない。口角を引き攣らせて、雄一郎は問い掛けた。
「俺が隊長なんていう話が初耳なんだが?」
「もしかして、まだテメレアから女神様の役割を聞いてないんですか?」
質問に質問で返される。ゴートは目を丸くして雄一郎を見つめていた。雄一郎が睨み付けると、テメレアは軽く肩を竦めた。
「今からご説明します」
悪びれもせずに言う。大人しげな見た目にそぐわず案外いい性格をしてやがる。
テメレアは台座の上に置かれた丸石に手をかざすと、イズラエルと呟いた。まるで何かを呼び起こすような密やかな声だ。
特に何が起こるわけでもなく、沈黙が流れる。
「おい、説明してくれるんじゃないのか」
「それはイズラエルが来てからです」
「イズラエルっていうのは――」
誰だ、と問い掛けようとした途端、首筋をぞろりと這うものを感じた。何か、生温かいものが雄一郎の首筋を撫でている。
ぞわりと背筋が隆起するのと同時に、耳元に声が吹き込まれた。
「来たか、『愛し子』」
振り返ろうとした瞬間、鼻先が触れ合いそうなほどの至近距離で何かと目が合った。爬虫類の目が雄一郎の顔をじっと覗き込んでいる。びっしりと身体を覆った緑色の鱗が陽光に照らされて、ぬるりと艶めいていた。
咄嗟に手が動いた。肩の上に乗っていた何かを叩き落とす。途端、鈍い声があがった。
「いだぁ!」
その声は、叩き落とした何かが上げたようだった。
雄一郎は、足元に転がるそれを見下ろした。それは一瞬、蛇のように見えた。全長は一メートルもなく、細長くうねる身体は緑色の鱗で覆われている。口からは四本の鋭い牙と二股にわかれた真っ赤な舌が見えた。
だが、普通の蛇とは違う。頭には赤い鬣が生え、短い手足もある。鼻先からは二本の髭がふよふよと泳いでいた。
「龍」
唇から無意識に言葉が零れる。東洋の絵画でよく見る龍の姿だ。おとぎ話の生き物が、この世界には存在しているということなのか。
「お、お前、イズに――宝珠に、何てことするんだ……!」
それまで、むっつりとした様子で黙り込んでいたノアが引き攣った声をあげた。
「ええんよ、僕がいきなり触ったんが悪かった」
予想外に砕けた口調が龍の口から出てくる。まるで関西人のおっさんのような喋り方に、雄一郎はぽかんと口を開いた。唖然とする雄一郎を、龍が三日月の浮かんだ瞳でじっと見上げてくる。
「きみ、名前は何て言うん」
「……尾上雄一郎」
「ユーイチローか。僕はイズラエル。この国の宝珠であり、きみの守護獣でもある」
「守護獣?」
「そう、僕がきみを守る」
「守るってどうやって」
小さな蛇のような龍を見下ろして、雄一郎は鼻で笑った。すると、イズラエルと名乗った龍はぷかりと宙に浮かび上がり、雄一郎の顔へその鼻先を近付けた。
「愛で」
「は?」
「まぁ、それは冗談やで」
呆気に取られる雄一郎を見て、イズラエルがその厳つい顔を緩める。龍も笑うんだな、と初めて知る。
イズラエルは無遠慮なまでの仕草で、雄一郎の首元へ身体を擦り寄せてきた。生ぬるい鱗が首筋を舐める感触に、ぞぞっと身体が震える。
「あぁ、僕の愛し子や。ずっときみのことを待っとった」
「やはり、雄一郎様が女神様で間違いありませんか?」
それまで黙っていたテメレアがイズラエルに訊ねる。その声音はどこか刺々しい。
「もちろん、彼や! 彼以外にありえん!」
イズラエルが短い手足でぎゅううぅっと雄一郎の上着を鷲掴んで叫ぶ。雄一郎はイズラエルを見下ろしつつ、薄く唇を開いた。
「俺が女神だって言うのか?」
「間違いない!」
「俺は三十七歳の男というか、おっさんなんだが」
「それでも、きみや」
イズラエルが腕に絡み付いて囁く。
「きみがこの国を救い、この国の国母になる」
「国母!?」
国を救う、という部分はまだ理解の範疇だったが、国母という単語だけは聞き逃せなかった。
素っ頓狂な声をあげた雄一郎に驚いたのか、イズラエルが腕からほどけて床にコロンと転がる。イズラエルはそのつぶらな瞳をぱちぱちと瞬かせながら言った。
「そや、国母や」
「待て。繰り返すが、俺は三十七歳のおっさんだ」
「それは解っとる」
「じゃあ、国母って言葉はおかしいだろうが」
おかしい、というか、完全に正気の沙汰とは思えない言葉だ。頬を引き攣らせた雄一郎を見て、イズラエルは不思議そうに首を傾げた。また、ふよりと浮かんで雄一郎の肩へ身体を沿わせてくる。
「国母ゆうのは、この国の次期王を生む存在のことや。それがユーイチローやと言うとるんだが」
「何度も説明させるな。俺は男だ」
いい加減、話が通じないことに苛々してきた。あからさまに苛立ち始めた雄一郎を見て、テメレアが嘆息を漏らす。
「雄一郎様、貴方が男性であることは関係ないんです」
「何?」
「貴方の世界では違っていたのでしょうが、この世界では男も子を孕めるのです」
テメレアの言葉に、雄一郎は絶句した。テメレアが淡々とした声で続ける。
「女神の役割は二つです。兵を率い、正しき王に勝利をもたらすこと。もう一つは、正しき王と女神の御子をこの世界に残すこと」
反射的に、雄一郎はノアを見つめた。ノアは下唇を噛み締めたまま、かすかに青ざめた表情で床を見つめている。その瞬間、ノアが雄一郎を女神であってほしくないと願った理由が解った。
自分の倍以上の年齢の男を孕ませなくてはならないというのは、幼い子供にはあまりにも酷だ。
「馬鹿じゃねぇのか」
無意識に悪態が口をついて出ていた。
「できるわけねぇだろ、そんなこと」
「できない? 何でや?」
意味が解らないと言いたげなイズラエルの声に、堪えようもない憤怒が湧き上がってきた。
雄一郎は、肩にとまっていたイズラエルの首を片手で鷲掴んだ。途端、ぐぇ、とイズラエルが呻き声をあげる。その三日月の目を間近で睨み付けて、雄一郎は吐き捨てた。
「いきなり訳のわかんねぇ世界に来させられた上に、劣勢の軍を勝たせろ、男だがガキを産めと言われて受け入れられる奴がいるのか? 人を舐めるのもいい加減にしろ」
ギリギリと歯噛みしながら言い放つ。
その間も、イズラエルは苦し気に尾をびたんびたんと宙で蠢かせていた。その様子を、テメレアは冷たい眼差しで眺めている。先ほどから感じていたが、テメレアはイズラエルに好意を抱いていないらしい。憎悪しているようですらある。
不意に、腕を掴まれた。ノアがかすかに震えつつ、雄一郎の腕を掴んでいる。
「イズラエルを放せ」
「なぜだ? お前だって王になりたくねぇんだろうが」
「王様にはなりたくない。なりたくないけど……」
「なら、どうして止める。こいつを助けるってことは、お前が王になるのを受け入れて、その上、俺との間にガキを作るってことだぞ。そんなことお前にできるのか」
挑発するようにノアの顔を覗き込む。途端、ノアは唇をぎこちなく戦慄かせた。躊躇と狼狽が滲む顔。その顔を見据えたまま、雄一郎は笑い混じりに吐き捨てた。
「できねぇなら、黙ってこいつが縊り殺されるのを見てろ」
そう言い放った瞬間、ノアが叫んだ。
「イズは、僕の友達だ!」
同時に、ノアは大きく口を開いて雄一郎の腕に勢い良く噛み付いた。布越しに歯が肉に食い込む痛みに、咄嗟にイズラエルを掴んでいた手から力が抜ける。
イズラエルがぼとりと床に落ちても、ノアは雄一郎の腕に噛み付いたままだ。
「離せ」
犬歯が食い込んだ部分の皮膚が破けて、じわりと布に血が滲み出す。白い布に赤い血が広がる様を冷めた目で眺めながら、雄一郎は繰り返した。
「離せ」
もう一度言うと、ようやく目が覚めたようにノアの唇から力が抜けた。軽く腕を振ると、ノアは床に尻餅をついた。その口元は雄一郎の血でかすかに汚れている。
ゴートがヒュゥと小さく口笛を鳴らす。
「初対面で宝珠を殺そうとする女神様なんて初めてっすよ」
王様に噛み付かれる女神様もたぶん初、と笑って続ける。その重々しさを感じさせない笑い声に、雄一郎は妙に脱力した。袖をまくってノアに噛み付かれた部分を確認する。血の量に比べて、傷口は深くない。刻まれた小さな歯型を眺めていると、テメレアがそっと白い布を傷口へあてがってきた。
「後で治療します」
「別にいい」
「いいえ、させてください」
拒否を許さない頑固な口調に、雄一郎は小さく溜息を漏らした。
一方、意識を戻したイズラエルは床でげふげふと咳込んでいる。
「おぉお……吃驚した。女神に首を絞められるなんて初体験や」
ゴートと同じことを言う。イズラエルは先ほどまで殺されかけたことなど忘れたように雄一郎を見つめると、その目を柔らかく細めた。
「七人目の女神は、中々おてんばやな」
「おてんば……」
先ほどの行為が『おてんば』で済むのか。雄一郎がガックリと肩を落とすと、イズラエルは後ろ足だけで立ち上がった。まるで足の短いダックスフントが二足歩行しているみたいな姿だ。
「ユーイチロー、僕を殺したいなら殺してもええ。でも、そしたら元の世界には一生戻れんで」
それは脅しというよりも淡々と事実を告げている声音だった。雄一郎は、まっすぐイズラエルを見つめて唇を開いた。
「戻る方法はあるのか」
「きみが女神の役割を果たした後に、それでも戻りたいと望むのなら」
女神の役割というのは、先ほど告げられた『勝利』と『受胎』の二つだろう。あまりにも気色が悪すぎて、吐き気すら覚える。嫌な唾を呑み込みつつ、雄一郎は唸るように呟いた。
「……浦島太郎になるんじゃねぇだろうな」
「ウラシマタロー?」
「この世界に何十年もいて、その後に元の世界に戻ったところで俺の居場所はねぇって意味だ」
飛び越えた時の状況を考えると、おそらく自分は戦地にて行方不明。戦死扱いになっているのは間違いない。
だが、イズラエルはぴるぴるとその短い腕を左右に振った。
「それはないで。この世界ときみの世界では時間軸が違うんや。この世界での十年は、あっちの世界では一年にもならん。きみが望むんやったら、新しい肩書を用意してもええ」
「肩書?」
「ユーイチローの世界では、コセキ言うんやったか?」
そう言って、イズラエルがくりんと首を傾ける。戸籍を用意するなんて、随分とこちらのニーズを把握している。むしろ把握しすぎているくらいだ。
「お前は、俺の世界のことをよく知っているのか」
「ようは知らん。けど、時々神様が教えてくれるんや」
神様、という言葉に、雄一郎の片眉は跳ね上がった。女神といい、宝珠といい、神様もいるなんてこの世界の宗教観はどうなっているんだ。
「この世界には神様がいるのか」
「おるで。僕の役割は神様の言葉を伝えることなんや。ユーイチローを女神に選んだのも神様やで」
目の前に神様がいたら、全力でぶん殴ってやりたい。だが、悪態をつくのも、いい加減に疲れてきた。現状を打破できないのであれば、逃げるか受け入れるかどちらかしかない。そして、逃走路はすでに塞がれている。
「お前らの望み通り女神様をやったところで、俺にメリットがない」
「めりっと?」
「元の世界に戻れたところで一文無しになってるんじゃ、つまらんと言ってるんだ」
言いながら雄一郎は、ゴートの首に掛かっていた首飾りを指先で引っ張った。うわ、とゴートが驚きの声をあげる。その声に重なって、カランと石同士が擦れる音が小さく響いた。
「俺は傭兵だ。戦わせるのなら報酬を払え」
この石でいい、と指先で首飾りの先端についていた石を撫でる。
するとイズラエルは、心底不可思議そうに雄一郎を見つめた。
「そんなんでええの? ただの石やで」
「俺の世界では金になる。戦いに勝ったら、こいつで報酬を払ってくれればいい」
「おっ、お金のために女神をやるっていうのか……!」
憤ったようにノアが叫ぶ。その怒りに満ちた顔を見て、雄一郎は冷たく言い放った。
「王様やりたくねぇって逃げ回ってるガキよりかは、よっぽどマシだろ」
寒々とした言葉に、ノアが口ごもる。泣き出しそうなその顔を睥睨して、雄一郎は左右を見渡した。
「どうする?」
テメレアは小さく頷き、ゴートは相変わらず笑いを堪えているようだった。規格外れな女神に笑い転げたいのを必死に抑えているのだろう。
イズラエルはふぅと息を漏らすと、うっとりとした声で呟いた。
「きみって、めっちゃ最悪で格好ええなぁ」
それは合意の意味なのだろうか。イズラエルは雄一郎の足下に這い寄ると、そのふくらはぎへ柔らかく絡み付いてきた。その感触が、奇妙な運命に絡め取られていく予兆に思えて、かすかに皮膚が震える。
「最高の女神や」
恍惚としたイズラエルの声に、思わず雄一郎は笑っていた。もう笑う以外に、自分がどんな表情をすればいいのか解らなかった。
***
夜は暗い。それは、この世界でも同じらしい。ただ異なるのは、藍色の空に七色の銀河が棚引いているところだ。
窓際に腰掛けたまま、小さな宝石をばら撒いたような空を、雄一郎は見上げた。その傍らには、分厚い本が一冊置かれている。古びた表紙には、見覚えのある言語でタイトルが書かれていた。
『OUR DIARY』
『私達の日記』と名付けられた本は、先ほどテメレアから渡されたものだ。歴代の女神達が次世代の女神のために書き残したらしい。
ぱらぱらと数ページめくってみたが、その時の女神によって、書かれている言語は異なっていた。基本は英語だが、ロシア語やスペイン語も見て取れる。読めない言語も存在していた。読める部分だけを抜粋して、ぱらぱらとページをめくっていく。
最初の数十ページはこの世界の基礎知識や元の世界との差異が書かれていた。国の名前はジュエルド。元々は五つの部族が力を合わせて作った連合国だったらしい。その中で最も力を持っていた白の部族が今の王族となったということだ。その他、大体の人口や隣国の名前、貨幣単位等が書き連ねられている。だが、いつの時代の記録か判らないので、記憶の端に留める程度にしておく。
途中で書く女神が変わったのか内容が日々の記録になっている部分もある。そこには、なぜ自分がこんなところにいるのか、なぜ知らない男の子供を身ごもらなければならないのか、元の世界に帰りたい、という泣き言が書かれていた。
その日記は、まるで幼児が書き殴ったような雑然とした文字を最後に、途切れる。
『sacrifice』
サクリファイス――生け贄。それは女神自身が残した言葉なのか。それとも、女神によってこの世界に産み落とされ、そして置いていかれた子供の言葉なのか判別がつかない。
だが、その言葉を見た瞬間、言いようのない胸糞悪さが込み上げてきた。そのまま読み続ける気にもならず、雄一郎は本を閉じた。
指先を本の表紙から離して、窓枠にはめられた鉄格子を意味もなく撫でる。
女神様の寝室です、と案内されたその部屋は、綺麗な監獄のようだ。ベッドには豪奢な天蓋が設けられており、部屋に置かれた調度品も高価なものだと一目で判る出来映えだ。ただ、この窓が全体のイメージを一気に暗くさせている。窓に十字にはめられた太い鉄格子が、中にいるものを決して逃がさないと言わんばかりの重圧を放っている。
短く息を吐いて、鉄格子から指先を離す。直後に、部屋の扉を叩く音が聞こえた。控えめなノックに続き、扉が開かれる。顔を覗かせたのはテメレアだ。
「ご報告を」
雄一郎が小さく首肯を返すと、テメレアは薄暗い室内へ入ってきた。
「ご指示通り、斥候を出しました。短距離と長距離、それぞれ七名単位で各五部隊、別々の方角へ、異なる道筋で。人選はゴートが行ったので間違いないかと。短距離の斥候部隊は、明け方には城の陣営へ戻って参ります」
「宜しい。迅速に敵陣営の位置を掴むように尽力してくれ」
視線を向けぬまま、そう短く返す。だが、会話が終わっても、テメレアが部屋を出ていく気配はない。視線を向けると、テメレアは何とも言えない表情で雄一郎を見ていた。
「眠らないのですか」
「寝る気分じゃない」
「夜食でも持って参りましょうか」
「腹が減って寝れないわけじゃない」
子供を宥めるようなテメレアの言葉に、小さく笑いが滲む。つい数時間前に大量の飯を食わされたばかりだというのに、どれだけ腹ぺこだと思っているんだ。その料理の食材も見たことのないものが多かったが、食べるのには問題ない味だった。
「では、これを」
テメレアが寝台のサイドテーブルに置かれていた瓶を手に取る。瓶の中で、半透明な桃色の液体が揺れているのが見えた。
「それは?」
「シャグリラという果実から作られた飲み物です」
言いながら、テメレアがグラスに液体を注いでいく。
雄一郎は差し出されたグラスを受け取って一口含んだ。途端、ねっとりと甘い味が舌の上に広がる。味は桃に近いが、かすかに日本酒のような清涼感があった。胃へ落ちると、ふわりと身体が奥底から温まる。甘いが、口に合わないものではない。
ちびちびと飲んでいると、テメレアが口を開いた。
「腕はもう痛みませんか」
「あぁ」
ノアに噛まれた方の腕を軽く掲げる。剥き出しの腕には、テメレアによって巻かれた包帯が見えた。真っ白な包帯を見つめた後、テメレアが静かに頷く。
「まだ何かあるか」
「いいえ、ありませんが……」
「突っ立ってるぐらいなら、そこに座ったらどうだ」
部屋に備え付けられた丸テーブルの椅子を指さすと、テメレアは一瞬躊躇うように顔を強張らせた後、椅子に腰を落とした。雄一郎も窓際から移動して、向かいの椅子に腰掛ける。
テーブルの上には分解されたAK47が置かれていた。その細かな部品を眺めて、テメレアが呟く。
「こんな精巧な銃は初めて見ました」
「そうか。あっちの世界では、この銃は構造がシンプルにできている方だがな」
だから、その分頑丈だ。そう返すと、テメレアは目を大きく開いた。
「雄一郎様の世界は、私達の世界よりもずっと技術が発達しているのですね」
「武器に関してはそうかもな。だが、やってることは大してここと変わらん」
「というのは?」
「どちらの世界でも、人は殺し合ってる。それだけだ」
素っ気なく吐き出す。テメレアは、今度は表情を変えなかった。ただ、静かな眼差しで問い掛けてくる。
「貴方は人殺しを仕事にしていたのですか」
「そうだ」
「なぜですか?」
「金のためだ」
この問答はつい最近もした気がする。奇妙なデジャヴに口角を吊り上げながら、雄一郎は首をぐにゃりと傾げてテメレアを見上げた。
「金を稼ぎたいから人を殺すというのは邪悪か?」
服の傍らには、当たり前のようにAK47とサバイバルナイフが置かれていた。サバイバルナイフはすでに血が落とされ、研がれている。腰裏にナイフを隠し、AK47を肩に担ぐ。
浴室から出ると、扉の直ぐ傍にテメレアが立っていた。テメレアも湯を浴びてきたのか、先ほどと服装が変わっている。脛まである長いローブを羽織り、まだ湿りけを帯びた髪の毛は首の後ろで一つに結ばれていた。
「お待ちしていました」
「待ってくれなんて言ってないがな」
茶化すように憎まれ口を叩くと、テメレアは軽く口角に笑みを浮かべた。
「雄一郎様の気質が少しだけ解ってきました」
「へぇ、どんな気質だ」
「とても愛らしい方だと思います」
雄一郎は、ずっこけそうになった。半眼で見やると、テメレアは更に笑みを深めた。
改めて思ったが、テメレアの美しさは際立ったものがあった。その美貌は、どこか神々しさすら感じる。
「あんたみたいに綺麗な顔をした奴に、美しいだの愛らしいだの言われても、小馬鹿にされてるとしか思えんな」
「私の本心です」
「本心だとしたら狂気の沙汰だ」
「狂気というよりも呪いに近いです」
意味の解らないことを言う。横目で睨み付けると、テメレアは咽喉の奥から小さな笑い声を漏らした。かすかな陰鬱さを滲ませた、羽虫のような笑い声だ。
テメレアに促されるまま、雄一郎は歩き出した。迷路のように入り組んだ廊下を進み、大きな扉の前で立ち止まる。
扉が開かれると、がらんとした広間が見えた。天井に大きな硝子がはめられた、陽当たりのいい部屋だ。
部屋の中央には、白い台座があった。その上には、真珠色に輝く丸石が置かれている。バスケットボールを一回り小さくしたくらいの大きさで、天井から射し込む光に反射して艶やかに輝いていた。
台座の傍らには、すでにノアが立っていた。その隣には、ゴートが気怠げに床に胡座をかいている。こちらに気付いたノアが不機嫌そうに顔を歪めて、そっぽを向いた。
「女神様いらっしゃいませー」
そう言ってゴートがひらりと手を振ってくる。近付くと、ゴートはだらだらとした仕草で立ち上がった。
「その女神様っていうのはやめてくれ。鳥肌が立つ」
両腕を擦りながら言うと、ゴートは、ひひひ、と不気味な笑い声をあげた。
「では、隊長で」
「隊長?」
「今後、軍の指揮権はすべて女神様のものですから、隊長と呼ぶのが相応しいかと」
当たり前のように告げられた言葉に、雄一郎は顔を歪めた。
「軍の指揮権が俺のものだと?」
「そうです。名乗るのが大層遅れましたが、俺はラスティ=フォルグ・ゴートと申します。ノア様とは従兄弟に当たる、しがない弱小貴族です。今後、隊長の副官を務めさせていただきますので、お見知りおきを」
ゴートが仰々しい挨拶を述べて、緩やかに頭を下げる。だが、その顔はにたにたと笑ったままだ。その挨拶に呆れたように、テメレアが呟いた。
「弱小なんていうのは大嘘です。ゴート家は、ジュエルドで最も古く強大な貴族です」
「それも親父が生きていた間だけの話ですよ。ついこの間、親父は教会で骨まで燃やされてしまいましてね」
ははは、とゴートは声をあげて笑っているが、内容はまったく笑えるものではない。口角を引き攣らせて、雄一郎は問い掛けた。
「俺が隊長なんていう話が初耳なんだが?」
「もしかして、まだテメレアから女神様の役割を聞いてないんですか?」
質問に質問で返される。ゴートは目を丸くして雄一郎を見つめていた。雄一郎が睨み付けると、テメレアは軽く肩を竦めた。
「今からご説明します」
悪びれもせずに言う。大人しげな見た目にそぐわず案外いい性格をしてやがる。
テメレアは台座の上に置かれた丸石に手をかざすと、イズラエルと呟いた。まるで何かを呼び起こすような密やかな声だ。
特に何が起こるわけでもなく、沈黙が流れる。
「おい、説明してくれるんじゃないのか」
「それはイズラエルが来てからです」
「イズラエルっていうのは――」
誰だ、と問い掛けようとした途端、首筋をぞろりと這うものを感じた。何か、生温かいものが雄一郎の首筋を撫でている。
ぞわりと背筋が隆起するのと同時に、耳元に声が吹き込まれた。
「来たか、『愛し子』」
振り返ろうとした瞬間、鼻先が触れ合いそうなほどの至近距離で何かと目が合った。爬虫類の目が雄一郎の顔をじっと覗き込んでいる。びっしりと身体を覆った緑色の鱗が陽光に照らされて、ぬるりと艶めいていた。
咄嗟に手が動いた。肩の上に乗っていた何かを叩き落とす。途端、鈍い声があがった。
「いだぁ!」
その声は、叩き落とした何かが上げたようだった。
雄一郎は、足元に転がるそれを見下ろした。それは一瞬、蛇のように見えた。全長は一メートルもなく、細長くうねる身体は緑色の鱗で覆われている。口からは四本の鋭い牙と二股にわかれた真っ赤な舌が見えた。
だが、普通の蛇とは違う。頭には赤い鬣が生え、短い手足もある。鼻先からは二本の髭がふよふよと泳いでいた。
「龍」
唇から無意識に言葉が零れる。東洋の絵画でよく見る龍の姿だ。おとぎ話の生き物が、この世界には存在しているということなのか。
「お、お前、イズに――宝珠に、何てことするんだ……!」
それまで、むっつりとした様子で黙り込んでいたノアが引き攣った声をあげた。
「ええんよ、僕がいきなり触ったんが悪かった」
予想外に砕けた口調が龍の口から出てくる。まるで関西人のおっさんのような喋り方に、雄一郎はぽかんと口を開いた。唖然とする雄一郎を、龍が三日月の浮かんだ瞳でじっと見上げてくる。
「きみ、名前は何て言うん」
「……尾上雄一郎」
「ユーイチローか。僕はイズラエル。この国の宝珠であり、きみの守護獣でもある」
「守護獣?」
「そう、僕がきみを守る」
「守るってどうやって」
小さな蛇のような龍を見下ろして、雄一郎は鼻で笑った。すると、イズラエルと名乗った龍はぷかりと宙に浮かび上がり、雄一郎の顔へその鼻先を近付けた。
「愛で」
「は?」
「まぁ、それは冗談やで」
呆気に取られる雄一郎を見て、イズラエルがその厳つい顔を緩める。龍も笑うんだな、と初めて知る。
イズラエルは無遠慮なまでの仕草で、雄一郎の首元へ身体を擦り寄せてきた。生ぬるい鱗が首筋を舐める感触に、ぞぞっと身体が震える。
「あぁ、僕の愛し子や。ずっときみのことを待っとった」
「やはり、雄一郎様が女神様で間違いありませんか?」
それまで黙っていたテメレアがイズラエルに訊ねる。その声音はどこか刺々しい。
「もちろん、彼や! 彼以外にありえん!」
イズラエルが短い手足でぎゅううぅっと雄一郎の上着を鷲掴んで叫ぶ。雄一郎はイズラエルを見下ろしつつ、薄く唇を開いた。
「俺が女神だって言うのか?」
「間違いない!」
「俺は三十七歳の男というか、おっさんなんだが」
「それでも、きみや」
イズラエルが腕に絡み付いて囁く。
「きみがこの国を救い、この国の国母になる」
「国母!?」
国を救う、という部分はまだ理解の範疇だったが、国母という単語だけは聞き逃せなかった。
素っ頓狂な声をあげた雄一郎に驚いたのか、イズラエルが腕からほどけて床にコロンと転がる。イズラエルはそのつぶらな瞳をぱちぱちと瞬かせながら言った。
「そや、国母や」
「待て。繰り返すが、俺は三十七歳のおっさんだ」
「それは解っとる」
「じゃあ、国母って言葉はおかしいだろうが」
おかしい、というか、完全に正気の沙汰とは思えない言葉だ。頬を引き攣らせた雄一郎を見て、イズラエルは不思議そうに首を傾げた。また、ふよりと浮かんで雄一郎の肩へ身体を沿わせてくる。
「国母ゆうのは、この国の次期王を生む存在のことや。それがユーイチローやと言うとるんだが」
「何度も説明させるな。俺は男だ」
いい加減、話が通じないことに苛々してきた。あからさまに苛立ち始めた雄一郎を見て、テメレアが嘆息を漏らす。
「雄一郎様、貴方が男性であることは関係ないんです」
「何?」
「貴方の世界では違っていたのでしょうが、この世界では男も子を孕めるのです」
テメレアの言葉に、雄一郎は絶句した。テメレアが淡々とした声で続ける。
「女神の役割は二つです。兵を率い、正しき王に勝利をもたらすこと。もう一つは、正しき王と女神の御子をこの世界に残すこと」
反射的に、雄一郎はノアを見つめた。ノアは下唇を噛み締めたまま、かすかに青ざめた表情で床を見つめている。その瞬間、ノアが雄一郎を女神であってほしくないと願った理由が解った。
自分の倍以上の年齢の男を孕ませなくてはならないというのは、幼い子供にはあまりにも酷だ。
「馬鹿じゃねぇのか」
無意識に悪態が口をついて出ていた。
「できるわけねぇだろ、そんなこと」
「できない? 何でや?」
意味が解らないと言いたげなイズラエルの声に、堪えようもない憤怒が湧き上がってきた。
雄一郎は、肩にとまっていたイズラエルの首を片手で鷲掴んだ。途端、ぐぇ、とイズラエルが呻き声をあげる。その三日月の目を間近で睨み付けて、雄一郎は吐き捨てた。
「いきなり訳のわかんねぇ世界に来させられた上に、劣勢の軍を勝たせろ、男だがガキを産めと言われて受け入れられる奴がいるのか? 人を舐めるのもいい加減にしろ」
ギリギリと歯噛みしながら言い放つ。
その間も、イズラエルは苦し気に尾をびたんびたんと宙で蠢かせていた。その様子を、テメレアは冷たい眼差しで眺めている。先ほどから感じていたが、テメレアはイズラエルに好意を抱いていないらしい。憎悪しているようですらある。
不意に、腕を掴まれた。ノアがかすかに震えつつ、雄一郎の腕を掴んでいる。
「イズラエルを放せ」
「なぜだ? お前だって王になりたくねぇんだろうが」
「王様にはなりたくない。なりたくないけど……」
「なら、どうして止める。こいつを助けるってことは、お前が王になるのを受け入れて、その上、俺との間にガキを作るってことだぞ。そんなことお前にできるのか」
挑発するようにノアの顔を覗き込む。途端、ノアは唇をぎこちなく戦慄かせた。躊躇と狼狽が滲む顔。その顔を見据えたまま、雄一郎は笑い混じりに吐き捨てた。
「できねぇなら、黙ってこいつが縊り殺されるのを見てろ」
そう言い放った瞬間、ノアが叫んだ。
「イズは、僕の友達だ!」
同時に、ノアは大きく口を開いて雄一郎の腕に勢い良く噛み付いた。布越しに歯が肉に食い込む痛みに、咄嗟にイズラエルを掴んでいた手から力が抜ける。
イズラエルがぼとりと床に落ちても、ノアは雄一郎の腕に噛み付いたままだ。
「離せ」
犬歯が食い込んだ部分の皮膚が破けて、じわりと布に血が滲み出す。白い布に赤い血が広がる様を冷めた目で眺めながら、雄一郎は繰り返した。
「離せ」
もう一度言うと、ようやく目が覚めたようにノアの唇から力が抜けた。軽く腕を振ると、ノアは床に尻餅をついた。その口元は雄一郎の血でかすかに汚れている。
ゴートがヒュゥと小さく口笛を鳴らす。
「初対面で宝珠を殺そうとする女神様なんて初めてっすよ」
王様に噛み付かれる女神様もたぶん初、と笑って続ける。その重々しさを感じさせない笑い声に、雄一郎は妙に脱力した。袖をまくってノアに噛み付かれた部分を確認する。血の量に比べて、傷口は深くない。刻まれた小さな歯型を眺めていると、テメレアがそっと白い布を傷口へあてがってきた。
「後で治療します」
「別にいい」
「いいえ、させてください」
拒否を許さない頑固な口調に、雄一郎は小さく溜息を漏らした。
一方、意識を戻したイズラエルは床でげふげふと咳込んでいる。
「おぉお……吃驚した。女神に首を絞められるなんて初体験や」
ゴートと同じことを言う。イズラエルは先ほどまで殺されかけたことなど忘れたように雄一郎を見つめると、その目を柔らかく細めた。
「七人目の女神は、中々おてんばやな」
「おてんば……」
先ほどの行為が『おてんば』で済むのか。雄一郎がガックリと肩を落とすと、イズラエルは後ろ足だけで立ち上がった。まるで足の短いダックスフントが二足歩行しているみたいな姿だ。
「ユーイチロー、僕を殺したいなら殺してもええ。でも、そしたら元の世界には一生戻れんで」
それは脅しというよりも淡々と事実を告げている声音だった。雄一郎は、まっすぐイズラエルを見つめて唇を開いた。
「戻る方法はあるのか」
「きみが女神の役割を果たした後に、それでも戻りたいと望むのなら」
女神の役割というのは、先ほど告げられた『勝利』と『受胎』の二つだろう。あまりにも気色が悪すぎて、吐き気すら覚える。嫌な唾を呑み込みつつ、雄一郎は唸るように呟いた。
「……浦島太郎になるんじゃねぇだろうな」
「ウラシマタロー?」
「この世界に何十年もいて、その後に元の世界に戻ったところで俺の居場所はねぇって意味だ」
飛び越えた時の状況を考えると、おそらく自分は戦地にて行方不明。戦死扱いになっているのは間違いない。
だが、イズラエルはぴるぴるとその短い腕を左右に振った。
「それはないで。この世界ときみの世界では時間軸が違うんや。この世界での十年は、あっちの世界では一年にもならん。きみが望むんやったら、新しい肩書を用意してもええ」
「肩書?」
「ユーイチローの世界では、コセキ言うんやったか?」
そう言って、イズラエルがくりんと首を傾ける。戸籍を用意するなんて、随分とこちらのニーズを把握している。むしろ把握しすぎているくらいだ。
「お前は、俺の世界のことをよく知っているのか」
「ようは知らん。けど、時々神様が教えてくれるんや」
神様、という言葉に、雄一郎の片眉は跳ね上がった。女神といい、宝珠といい、神様もいるなんてこの世界の宗教観はどうなっているんだ。
「この世界には神様がいるのか」
「おるで。僕の役割は神様の言葉を伝えることなんや。ユーイチローを女神に選んだのも神様やで」
目の前に神様がいたら、全力でぶん殴ってやりたい。だが、悪態をつくのも、いい加減に疲れてきた。現状を打破できないのであれば、逃げるか受け入れるかどちらかしかない。そして、逃走路はすでに塞がれている。
「お前らの望み通り女神様をやったところで、俺にメリットがない」
「めりっと?」
「元の世界に戻れたところで一文無しになってるんじゃ、つまらんと言ってるんだ」
言いながら雄一郎は、ゴートの首に掛かっていた首飾りを指先で引っ張った。うわ、とゴートが驚きの声をあげる。その声に重なって、カランと石同士が擦れる音が小さく響いた。
「俺は傭兵だ。戦わせるのなら報酬を払え」
この石でいい、と指先で首飾りの先端についていた石を撫でる。
するとイズラエルは、心底不可思議そうに雄一郎を見つめた。
「そんなんでええの? ただの石やで」
「俺の世界では金になる。戦いに勝ったら、こいつで報酬を払ってくれればいい」
「おっ、お金のために女神をやるっていうのか……!」
憤ったようにノアが叫ぶ。その怒りに満ちた顔を見て、雄一郎は冷たく言い放った。
「王様やりたくねぇって逃げ回ってるガキよりかは、よっぽどマシだろ」
寒々とした言葉に、ノアが口ごもる。泣き出しそうなその顔を睥睨して、雄一郎は左右を見渡した。
「どうする?」
テメレアは小さく頷き、ゴートは相変わらず笑いを堪えているようだった。規格外れな女神に笑い転げたいのを必死に抑えているのだろう。
イズラエルはふぅと息を漏らすと、うっとりとした声で呟いた。
「きみって、めっちゃ最悪で格好ええなぁ」
それは合意の意味なのだろうか。イズラエルは雄一郎の足下に這い寄ると、そのふくらはぎへ柔らかく絡み付いてきた。その感触が、奇妙な運命に絡め取られていく予兆に思えて、かすかに皮膚が震える。
「最高の女神や」
恍惚としたイズラエルの声に、思わず雄一郎は笑っていた。もう笑う以外に、自分がどんな表情をすればいいのか解らなかった。
***
夜は暗い。それは、この世界でも同じらしい。ただ異なるのは、藍色の空に七色の銀河が棚引いているところだ。
窓際に腰掛けたまま、小さな宝石をばら撒いたような空を、雄一郎は見上げた。その傍らには、分厚い本が一冊置かれている。古びた表紙には、見覚えのある言語でタイトルが書かれていた。
『OUR DIARY』
『私達の日記』と名付けられた本は、先ほどテメレアから渡されたものだ。歴代の女神達が次世代の女神のために書き残したらしい。
ぱらぱらと数ページめくってみたが、その時の女神によって、書かれている言語は異なっていた。基本は英語だが、ロシア語やスペイン語も見て取れる。読めない言語も存在していた。読める部分だけを抜粋して、ぱらぱらとページをめくっていく。
最初の数十ページはこの世界の基礎知識や元の世界との差異が書かれていた。国の名前はジュエルド。元々は五つの部族が力を合わせて作った連合国だったらしい。その中で最も力を持っていた白の部族が今の王族となったということだ。その他、大体の人口や隣国の名前、貨幣単位等が書き連ねられている。だが、いつの時代の記録か判らないので、記憶の端に留める程度にしておく。
途中で書く女神が変わったのか内容が日々の記録になっている部分もある。そこには、なぜ自分がこんなところにいるのか、なぜ知らない男の子供を身ごもらなければならないのか、元の世界に帰りたい、という泣き言が書かれていた。
その日記は、まるで幼児が書き殴ったような雑然とした文字を最後に、途切れる。
『sacrifice』
サクリファイス――生け贄。それは女神自身が残した言葉なのか。それとも、女神によってこの世界に産み落とされ、そして置いていかれた子供の言葉なのか判別がつかない。
だが、その言葉を見た瞬間、言いようのない胸糞悪さが込み上げてきた。そのまま読み続ける気にもならず、雄一郎は本を閉じた。
指先を本の表紙から離して、窓枠にはめられた鉄格子を意味もなく撫でる。
女神様の寝室です、と案内されたその部屋は、綺麗な監獄のようだ。ベッドには豪奢な天蓋が設けられており、部屋に置かれた調度品も高価なものだと一目で判る出来映えだ。ただ、この窓が全体のイメージを一気に暗くさせている。窓に十字にはめられた太い鉄格子が、中にいるものを決して逃がさないと言わんばかりの重圧を放っている。
短く息を吐いて、鉄格子から指先を離す。直後に、部屋の扉を叩く音が聞こえた。控えめなノックに続き、扉が開かれる。顔を覗かせたのはテメレアだ。
「ご報告を」
雄一郎が小さく首肯を返すと、テメレアは薄暗い室内へ入ってきた。
「ご指示通り、斥候を出しました。短距離と長距離、それぞれ七名単位で各五部隊、別々の方角へ、異なる道筋で。人選はゴートが行ったので間違いないかと。短距離の斥候部隊は、明け方には城の陣営へ戻って参ります」
「宜しい。迅速に敵陣営の位置を掴むように尽力してくれ」
視線を向けぬまま、そう短く返す。だが、会話が終わっても、テメレアが部屋を出ていく気配はない。視線を向けると、テメレアは何とも言えない表情で雄一郎を見ていた。
「眠らないのですか」
「寝る気分じゃない」
「夜食でも持って参りましょうか」
「腹が減って寝れないわけじゃない」
子供を宥めるようなテメレアの言葉に、小さく笑いが滲む。つい数時間前に大量の飯を食わされたばかりだというのに、どれだけ腹ぺこだと思っているんだ。その料理の食材も見たことのないものが多かったが、食べるのには問題ない味だった。
「では、これを」
テメレアが寝台のサイドテーブルに置かれていた瓶を手に取る。瓶の中で、半透明な桃色の液体が揺れているのが見えた。
「それは?」
「シャグリラという果実から作られた飲み物です」
言いながら、テメレアがグラスに液体を注いでいく。
雄一郎は差し出されたグラスを受け取って一口含んだ。途端、ねっとりと甘い味が舌の上に広がる。味は桃に近いが、かすかに日本酒のような清涼感があった。胃へ落ちると、ふわりと身体が奥底から温まる。甘いが、口に合わないものではない。
ちびちびと飲んでいると、テメレアが口を開いた。
「腕はもう痛みませんか」
「あぁ」
ノアに噛まれた方の腕を軽く掲げる。剥き出しの腕には、テメレアによって巻かれた包帯が見えた。真っ白な包帯を見つめた後、テメレアが静かに頷く。
「まだ何かあるか」
「いいえ、ありませんが……」
「突っ立ってるぐらいなら、そこに座ったらどうだ」
部屋に備え付けられた丸テーブルの椅子を指さすと、テメレアは一瞬躊躇うように顔を強張らせた後、椅子に腰を落とした。雄一郎も窓際から移動して、向かいの椅子に腰掛ける。
テーブルの上には分解されたAK47が置かれていた。その細かな部品を眺めて、テメレアが呟く。
「こんな精巧な銃は初めて見ました」
「そうか。あっちの世界では、この銃は構造がシンプルにできている方だがな」
だから、その分頑丈だ。そう返すと、テメレアは目を大きく開いた。
「雄一郎様の世界は、私達の世界よりもずっと技術が発達しているのですね」
「武器に関してはそうかもな。だが、やってることは大してここと変わらん」
「というのは?」
「どちらの世界でも、人は殺し合ってる。それだけだ」
素っ気なく吐き出す。テメレアは、今度は表情を変えなかった。ただ、静かな眼差しで問い掛けてくる。
「貴方は人殺しを仕事にしていたのですか」
「そうだ」
「なぜですか?」
「金のためだ」
この問答はつい最近もした気がする。奇妙なデジャヴに口角を吊り上げながら、雄一郎は首をぐにゃりと傾げてテメレアを見上げた。
「金を稼ぎたいから人を殺すというのは邪悪か?」
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