表紙へ
上 下
3 / 48
1巻

1-3

しおりを挟む
 馬鹿馬鹿しい。感傷を振り払って、雄一郎は浴槽から立ち上がった。雑に水気をぬぐってから、用意されていた服に袖を通す。上下共に白いシャツとズボンだ。触り心地は麻に近い。
 服のかたわらには、当たり前のようにAK47とサバイバルナイフが置かれていた。サバイバルナイフはすでに血が落とされ、研がれている。腰裏にナイフを隠し、AK47を肩にかつぐ。
 浴室から出ると、扉の直ぐそばにテメレアが立っていた。テメレアも湯を浴びてきたのか、先ほどと服装が変わっている。すねまである長いローブを羽織はおり、まだ湿しめりけをびた髪の毛は首の後ろで一つに結ばれていた。

「お待ちしていました」
「待ってくれなんて言ってないがな」

 茶化すように憎まれ口をたたくと、テメレアは軽く口角に笑みを浮かべた。

「雄一郎様の気質が少しだけ解ってきました」
「へぇ、どんな気質だ」
「とても愛らしい方だと思います」

 雄一郎は、ずっこけそうになった。半眼で見やると、テメレアは更に笑みを深めた。
 改めて思ったが、テメレアの美しさは際立ったものがあった。その美貌は、どこか神々しさすら感じる。

「あんたみたいに綺麗な顔をした奴に、美しいだの愛らしいだの言われても、小馬鹿にされてるとしか思えんな」
「私の本心です」
「本心だとしたら狂気の沙汰だ」
「狂気というよりも呪いに近いです」

 意味の解らないことを言う。横目でにらけると、テメレアは咽喉のどの奥から小さな笑い声をらした。かすかな陰鬱いんうつさをにじませた、羽虫のような笑い声だ。
 テメレアにうながされるまま、雄一郎は歩き出した。迷路のように入り組んだ廊下を進み、大きな扉の前で立ち止まる。
 扉が開かれると、がらんとした広間が見えた。天井に大きな硝子ガラスがはめられた、陽当たりのいい部屋だ。
 部屋の中央には、白い台座があった。その上には、真珠色に輝く丸石が置かれている。バスケットボールを一回り小さくしたくらいの大きさで、天井から射し込む光に反射してつややかに輝いていた。
 台座のかたわらには、すでにノアが立っていた。その隣には、ゴートがだるげに床に胡座あぐらをかいている。こちらに気付いたノアが不機嫌そうに顔をゆがめて、そっぽを向いた。

「女神様いらっしゃいませー」

 そう言ってゴートがひらりと手を振ってくる。近付くと、ゴートはだらだらとした仕草で立ち上がった。

「その女神様っていうのはやめてくれ。鳥肌が立つ」

 両腕を擦りながら言うと、ゴートは、ひひひ、と不気味な笑い声をあげた。

「では、隊長で」
「隊長?」
「今後、軍の指揮権はすべて女神様のものですから、隊長と呼ぶのが相応ふさわしいかと」

 当たり前のように告げられた言葉に、雄一郎は顔をゆがめた。

「軍の指揮権が俺のものだと?」
「そうです。名乗るのが大層遅れましたが、俺はラスティ=フォルグ・ゴートと申します。ノア様とは従兄弟いとこに当たる、しがない弱小貴族です。今後、隊長の副官を務めさせていただきますので、お見知りおきを」

 ゴートが仰々ぎょうぎょうしい挨拶あいさつを述べて、緩やかに頭を下げる。だが、その顔はにたにたと笑ったままだ。そのあいさつあきれたように、テメレアがつぶやいた。

「弱小なんていうのは大嘘です。ゴート家は、ジュエルドで最も古く強大な貴族です」
「それも親父が生きていた間だけの話ですよ。ついこの間、親父は教会で骨まで燃やされてしまいましてね」

 ははは、とゴートは声をあげて笑っているが、内容はまったく笑えるものではない。口角をらせて、雄一郎は問い掛けた。

「俺が隊長なんていう話が初耳なんだが?」
「もしかして、まだテメレアから女神様の役割を聞いてないんですか?」

 質問に質問で返される。ゴートは目を丸くして雄一郎を見つめていた。雄一郎がにらけると、テメレアは軽く肩をすくめた。

「今からご説明します」

 悪びれもせずに言う。大人しげな見た目にそぐわず案外いい性格をしてやがる。
 テメレアは台座の上に置かれた丸石に手をかざすと、イズラエルとつぶやいた。まるで何かを呼び起こすような密やかな声だ。
 特に何が起こるわけでもなく、沈黙が流れる。

「おい、説明してくれるんじゃないのか」
「それはイズラエルが来てからです」
「イズラエルっていうのは――」

 誰だ、と問い掛けようとした途端、首筋をぞろりとうものを感じた。何か、生温かいものが雄一郎の首筋をでている。
 ぞわりと背筋が隆起するのと同時に、耳元に声が吹き込まれた。

「来たか、『愛し子』」

 振り返ろうとした瞬間、鼻先が触れ合いそうなほどの至近距離で何かと目が合った。爬虫類はちゅうるいの目が雄一郎の顔をじっと覗き込んでいる。びっしりと身体をおおった緑色のうろこが陽光に照らされて、ぬるりとつやめいていた。
 咄嗟とっさに手が動いた。肩の上に乗っていた何かをたたとす。途端、鈍い声があがった。

「いだぁ!」

 その声は、たたとした何かが上げたようだった。
 雄一郎は、足元に転がるそれを見下ろした。それは一瞬、蛇のように見えた。全長は一メートルもなく、細長くうねる身体は緑色のうろこおおわれている。口からは四本の鋭い牙と二股にわかれた真っ赤な舌が見えた。
 だが、普通の蛇とは違う。頭には赤いたてがみが生え、短い手足もある。鼻先からは二本のひげがふよふよと泳いでいた。

「龍」

 唇から無意識に言葉がこぼれる。東洋の絵画でよく見る龍の姿だ。おとぎ話の生き物が、この世界には存在しているということなのか。

「お、お前、イズに――宝珠に、何てことするんだ……!」

 それまで、むっつりとした様子で黙り込んでいたノアがった声をあげた。

「ええんよ、僕がいきなり触ったんが悪かった」

 予想外に砕けた口調が龍の口から出てくる。まるで関西人のおっさんのようなしゃべり方に、雄一郎はぽかんと口を開いた。唖然あぜんとする雄一郎を、龍が三日月の浮かんだ瞳でじっと見上げてくる。

「きみ、名前は何て言うん」
「……尾上雄一郎」
「ユーイチローか。僕はイズラエル。この国の宝珠であり、きみの守護獣でもある」
「守護獣?」
「そう、僕がきみを守る」
「守るってどうやって」

 小さな蛇のような龍を見下ろして、雄一郎は鼻で笑った。すると、イズラエルと名乗った龍はぷかりと宙に浮かび上がり、雄一郎の顔へその鼻先を近付けた。

「愛で」
「は?」
「まぁ、それは冗談やで」

 呆気あっけに取られる雄一郎を見て、イズラエルがそのいかつい顔を緩める。龍も笑うんだな、と初めて知る。
 イズラエルは無遠慮なまでの仕草で、雄一郎の首元へ身体を擦り寄せてきた。生ぬるいうろこが首筋をめる感触に、ぞぞっと身体が震える。

「あぁ、僕の愛し子や。ずっときみのことを待っとった」
「やはり、雄一郎様が女神様で間違いありませんか?」

 それまで黙っていたテメレアがイズラエルにたずねる。その声音はどこか刺々とげとげしい。

「もちろん、彼や! 彼以外にありえん!」

 イズラエルが短い手足でぎゅううぅっと雄一郎の上着を鷲掴わしづかんで叫ぶ。雄一郎はイズラエルを見下ろしつつ、薄く唇を開いた。

「俺が女神だって言うのか?」
「間違いない!」
「俺は三十七歳の男というか、おっさんなんだが」
「それでも、きみや」

 イズラエルが腕に絡み付いてささやく。

「きみがこの国を救い、この国の国母こくもになる」
国母こくも!?」

 国を救う、という部分はまだ理解の範疇はんちゅうだったが、国母こくもという単語だけは聞き逃せなかった。
 頓狂とんきょうな声をあげた雄一郎に驚いたのか、イズラエルが腕からほどけて床にコロンと転がる。イズラエルはそのつぶらな瞳をぱちぱちとまたたかせながら言った。

「そや、国母こくもや」
「待て。繰り返すが、俺は三十七歳のおっさんだ」
「それは解っとる」
「じゃあ、国母こくもって言葉はおかしいだろうが」

 おかしい、というか、完全に正気の沙汰とは思えない言葉だ。頬をらせた雄一郎を見て、イズラエルは不思議そうに首をかしげた。また、ふよりと浮かんで雄一郎の肩へ身体を沿わせてくる。

国母こくもゆうのは、この国の次期王を生む存在のことや。それがユーイチローやと言うとるんだが」
「何度も説明させるな。俺は男だ」

 いい加減、話が通じないことに苛々いらいらしてきた。あからさまに苛立いらだち始めた雄一郎を見て、テメレアが嘆息をらす。

「雄一郎様、貴方が男性であることは関係ないんです」
「何?」
「貴方の世界では違っていたのでしょうが、この世界では男も子をはらめるのです」

 テメレアの言葉に、雄一郎は絶句した。テメレアが淡々とした声で続ける。

「女神の役割は二つです。兵をひきい、正しき王に勝利をもたらすこと。もう一つは、正しき王と女神の御子をこの世界に残すこと」

 反射的に、雄一郎はノアを見つめた。ノアは下唇を噛み締めたまま、かすかに青ざめた表情で床を見つめている。その瞬間、ノアが雄一郎を女神であってほしくないと願った理由が解った。
 自分の倍以上の年齢の男をはらませなくてはならないというのは、幼い子供にはあまりにもこくだ。

「馬鹿じゃねぇのか」

 無意識に悪態が口をついて出ていた。

「できるわけねぇだろ、そんなこと」
「できない? 何でや?」

 意味が解らないと言いたげなイズラエルの声に、こらえようもない憤怒ふんぬが湧き上がってきた。
 雄一郎は、肩にとまっていたイズラエルの首を片手で鷲掴わしづかんだ。途端、ぐぇ、とイズラエルがうめごえをあげる。その三日月の目を間近でにらけて、雄一郎は吐き捨てた。

「いきなり訳のわかんねぇ世界に来させられた上に、劣勢の軍を勝たせろ、男だがガキを産めと言われて受け入れられる奴がいるのか? 人をめるのもいい加減にしろ」

 ギリギリと歯噛みしながら言い放つ。
 その間も、イズラエルは苦し気に尾をびたんびたんと宙でうごめかせていた。その様子を、テメレアは冷たい眼差まなざしで眺めている。先ほどから感じていたが、テメレアはイズラエルに好意を抱いていないらしい。憎悪しているようですらある。
 不意に、腕を掴まれた。ノアがかすかに震えつつ、雄一郎の腕を掴んでいる。

「イズラエルを放せ」
「なぜだ? お前だって王になりたくねぇんだろうが」
「王様にはなりたくない。なりたくないけど……」
「なら、どうして止める。こいつを助けるってことは、お前が王になるのを受け入れて、その上、俺との間にガキを作るってことだぞ。そんなことお前にできるのか」

 挑発するようにノアの顔を覗き込む。途端、ノアは唇をぎこちなく戦慄わななかせた。躊躇ちゅうちょ狼狽ろうばいにじむ顔。その顔を見据みすえたまま、雄一郎は笑い混じりに吐き捨てた。

「できねぇなら、黙ってこいつがくびころされるのを見てろ」

 そう言い放った瞬間、ノアが叫んだ。

「イズは、僕の友達だ!」

 同時に、ノアは大きく口を開いて雄一郎の腕に勢い良く噛み付いた。布越しに歯が肉に食い込む痛みに、咄嗟とっさにイズラエルを掴んでいた手から力が抜ける。
 イズラエルがぼとりと床に落ちても、ノアは雄一郎の腕に噛み付いたままだ。

「離せ」

 犬歯が食い込んだ部分の皮膚が破けて、じわりと布に血がにじみ出す。白い布に赤い血が広がる様を冷めた目で眺めながら、雄一郎は繰り返した。

「離せ」

 もう一度言うと、ようやく目が覚めたようにノアの唇から力が抜けた。軽く腕を振ると、ノアは床に尻餅しりもちをついた。その口元は雄一郎の血でかすかに汚れている。
 ゴートがヒュゥと小さく口笛を鳴らす。

「初対面で宝珠を殺そうとする女神様なんて初めてっすよ」

 王様に噛み付かれる女神様もたぶん初、と笑って続ける。その重々しさを感じさせない笑い声に、雄一郎は妙に脱力した。袖をまくってノアに噛み付かれた部分を確認する。血の量に比べて、傷口は深くない。刻まれた小さな歯型を眺めていると、テメレアがそっと白い布を傷口へあてがってきた。

「後で治療します」
「別にいい」
「いいえ、させてください」

 拒否を許さない頑固な口調に、雄一郎は小さくためいきらした。
 一方、意識を戻したイズラエルは床でげふげふと咳込せきこんでいる。

「おぉお……吃驚びっくりした。女神に首を絞められるなんて初体験や」

 ゴートと同じことを言う。イズラエルは先ほどまで殺されかけたことなど忘れたように雄一郎を見つめると、その目を柔らかく細めた。

「七人目の女神は、中々おてんばやな」
「おてんば……」

 先ほどの行為が『おてんば』で済むのか。雄一郎がガックリと肩を落とすと、イズラエルは後ろ足だけで立ち上がった。まるで足の短いダックスフントが二足歩行しているみたいな姿だ。

「ユーイチロー、僕を殺したいなら殺してもええ。でも、そしたら元の世界には一生戻れんで」

 それはおどしというよりも淡々と事実を告げている声音だった。雄一郎は、まっすぐイズラエルを見つめて唇を開いた。

「戻る方法はあるのか」
「きみが女神の役割を果たした後に、それでも戻りたいと望むのなら」

 女神の役割というのは、先ほど告げられた『勝利』と『受胎』の二つだろう。あまりにも気色が悪すぎて、吐き気すら覚える。嫌な唾を呑み込みつつ、雄一郎はうなるようにつぶやいた。

「……浦島太郎になるんじゃねぇだろうな」
「ウラシマタロー?」
「この世界に何十年もいて、その後に元の世界に戻ったところで俺の居場所はねぇって意味だ」

 飛び越えた時の状況を考えると、おそらく自分は戦地にて行方不明。戦死扱いになっているのは間違いない。
 だが、イズラエルはぴるぴるとその短い腕を左右に振った。

「それはないで。この世界ときみの世界では時間軸が違うんや。この世界での十年は、あっちの世界では一年にもならん。きみが望むんやったら、新しい肩書を用意してもええ」
「肩書?」
「ユーイチローの世界では、コセキ言うんやったか?」

 そう言って、イズラエルがくりんと首を傾ける。戸籍を用意するなんて、随分とこちらのニーズを把握している。むしろ把握しすぎているくらいだ。

「お前は、俺の世界のことをよく知っているのか」
「ようは知らん。けど、時々神様が教えてくれるんや」

 神様、という言葉に、雄一郎の片眉はね上がった。女神といい、宝珠といい、神様もいるなんてこの世界の宗教観はどうなっているんだ。

「この世界には神様がいるのか」
「おるで。僕の役割は神様の言葉を伝えることなんや。ユーイチローを女神に選んだのも神様やで」

 目の前に神様がいたら、全力でぶん殴ってやりたい。だが、悪態をつくのも、いい加減に疲れてきた。現状を打破できないのであれば、逃げるか受け入れるかどちらかしかない。そして、逃走路はすでにふさがれている。

「お前らの望み通り女神様をやったところで、俺にメリットがない」
「めりっと?」
「元の世界に戻れたところで一文無しになってるんじゃ、つまらんと言ってるんだ」

 言いながら雄一郎は、ゴートの首に掛かっていた首飾りを指先で引っ張った。うわ、とゴートが驚きの声をあげる。その声に重なって、カランと石同士がこすれる音が小さく響いた。

「俺は傭兵だ。戦わせるのなら報酬を払え」

 この石でいい、と指先で首飾りの先端についていた石をでる。
 するとイズラエルは、心底不可思議そうに雄一郎を見つめた。

「そんなんでええの? ただの石やで」
「俺の世界では金になる。戦いに勝ったら、こいつで報酬を払ってくれればいい」
「おっ、お金のために女神をやるっていうのか……!」

 いきどおったようにノアが叫ぶ。その怒りに満ちた顔を見て、雄一郎は冷たく言い放った。

「王様やりたくねぇって逃げ回ってるガキよりかは、よっぽどマシだろ」

 寒々とした言葉に、ノアが口ごもる。泣き出しそうなその顔を睥睨へいげいして、雄一郎は左右を見渡した。

「どうする?」

 テメレアは小さくうなずき、ゴートは相変わらず笑いをこらえているようだった。規格外れな女神に笑い転げたいのを必死に抑えているのだろう。
 イズラエルはふぅと息をらすと、うっとりとした声でつぶやいた。

「きみって、めっちゃ最悪で格好ええなぁ」

 それは合意の意味なのだろうか。イズラエルは雄一郎の足下にると、そのふくらはぎへ柔らかく絡み付いてきた。その感触が、奇妙な運命に絡め取られていく予兆に思えて、かすかに皮膚が震える。

「最高の女神や」

 恍惚こうこつとしたイズラエルの声に、思わず雄一郎は笑っていた。もう笑う以外に、自分がどんな表情をすればいいのか解らなかった。


   ***


 夜は暗い。それは、この世界でも同じらしい。ただ異なるのは、藍色あいいろの空に七色の銀河が棚引たなびいているところだ。
 窓際に腰掛けたまま、小さな宝石をばらいたような空を、雄一郎は見上げた。そのかたわらには、分厚い本が一冊置かれている。古びた表紙には、見覚えのある言語でタイトルが書かれていた。

『OUR DIARY』

『私達の日記』と名付けられた本は、先ほどテメレアから渡されたものだ。歴代の女神達が次世代の女神のために書き残したらしい。
 ぱらぱらと数ページめくってみたが、その時の女神によって、書かれている言語は異なっていた。基本は英語だが、ロシア語やスペイン語も見て取れる。読めない言語も存在していた。読める部分だけを抜粋して、ぱらぱらとページをめくっていく。
 最初の数十ページはこの世界の基礎知識や元の世界との差異が書かれていた。国の名前はジュエルド。元々は五つの部族が力を合わせて作った連合国だったらしい。その中で最も力を持っていた白の部族が今の王族となったということだ。その他、大体の人口や隣国の名前、貨幣単位等が書き連ねられている。だが、いつの時代の記録かわからないので、記憶の端に留める程度にしておく。
 途中で書く女神が変わったのか内容が日々の記録になっている部分もある。そこには、なぜ自分がこんなところにいるのか、なぜ知らない男の子供を身ごもらなければならないのか、元の世界に帰りたい、という泣き言が書かれていた。
 その日記は、まるで幼児が書き殴ったような雑然とした文字を最後に、途切れる。

『sacrifice』

 サクリファイス――にえ。それは女神自身が残した言葉なのか。それとも、女神によってこの世界に産み落とされ、そして置いていかれた子供の言葉なのか判別がつかない。
 だが、その言葉を見た瞬間、言いようのない胸糞悪さが込み上げてきた。そのまま読み続ける気にもならず、雄一郎は本を閉じた。
 指先を本の表紙から離して、窓枠にはめられた鉄格子を意味もなくでる。
 女神様の寝室です、と案内されたその部屋は、綺麗な監獄のようだ。ベッドには豪奢ごうしゃ天蓋てんがいもうけられており、部屋に置かれた調度品も高価なものだと一目でわかる出来映えだ。ただ、この窓が全体のイメージを一気に暗くさせている。窓に十字にはめられた太い鉄格子が、中にいるものを決して逃がさないと言わんばかりの重圧を放っている。
 短く息を吐いて、鉄格子から指先を離す。直後に、部屋の扉をたたく音が聞こえた。控えめなノックに続き、扉が開かれる。顔を覗かせたのはテメレアだ。

「ご報告を」

 雄一郎が小さく首肯しゅこうを返すと、テメレアは薄暗い室内へ入ってきた。

「ご指示通り、斥候せっこうを出しました。短距離と長距離、それぞれ七名単位で各五部隊、別々の方角へ、異なる道筋で。人選はゴートが行ったので間違いないかと。短距離の斥候せっこう部隊は、明け方には城の陣営へ戻って参ります」
よろしい。迅速に敵陣営の位置を掴むように尽力してくれ」

 視線を向けぬまま、そう短く返す。だが、会話が終わっても、テメレアが部屋を出ていく気配はない。視線を向けると、テメレアは何とも言えない表情で雄一郎を見ていた。

「眠らないのですか」
「寝る気分じゃない」
「夜食でも持って参りましょうか」
「腹が減って寝れないわけじゃない」

 子供をなだめるようなテメレアの言葉に、小さく笑いがにじむ。つい数時間前に大量の飯を食わされたばかりだというのに、どれだけ腹ぺこだと思っているんだ。その料理の食材も見たことのないものが多かったが、食べるのには問題ない味だった。

「では、これを」

 テメレアが寝台のサイドテーブルに置かれていた瓶を手に取る。瓶の中で、半透明な桃色の液体が揺れているのが見えた。

「それは?」
「シャグリラという果実から作られた飲み物です」

 言いながら、テメレアがグラスに液体を注いでいく。
 雄一郎は差し出されたグラスを受け取って一口含んだ。途端、ねっとりと甘い味が舌の上に広がる。味は桃に近いが、かすかに日本酒のような清涼感があった。胃へ落ちると、ふわりと身体が奥底から温まる。甘いが、口に合わないものではない。
 ちびちびと飲んでいると、テメレアが口を開いた。

「腕はもう痛みませんか」
「あぁ」

 ノアに噛まれた方の腕を軽くかかげる。しの腕には、テメレアによって巻かれた包帯が見えた。真っ白な包帯を見つめた後、テメレアが静かにうなずく。

「まだ何かあるか」
「いいえ、ありませんが……」
「突っ立ってるぐらいなら、そこに座ったらどうだ」

 部屋にそなけられた丸テーブルの椅子を指さすと、テメレアは一瞬躊躇ためらうように顔を強張こわばらせた後、椅子に腰を落とした。雄一郎も窓際から移動して、向かいの椅子に腰掛ける。
 テーブルの上には分解されたAK47が置かれていた。その細かな部品を眺めて、テメレアがつぶやく。

「こんな精巧な銃は初めて見ました」
「そうか。あっちの世界では、この銃は構造がシンプルにできている方だがな」

 だから、その分頑丈だ。そう返すと、テメレアは目を大きく開いた。

「雄一郎様の世界は、私達の世界よりもずっと技術が発達しているのですね」
「武器に関してはそうかもな。だが、やってることは大してここと変わらん」
「というのは?」
「どちらの世界でも、人は殺し合ってる。それだけだ」

 素っ気なく吐き出す。テメレアは、今度は表情を変えなかった。ただ、静かな眼差まなざしで問い掛けてくる。

「貴方は人殺しを仕事にしていたのですか」
「そうだ」
「なぜですか?」
「金のためだ」

 この問答はつい最近もした気がする。奇妙なデジャヴに口角を吊り上げながら、雄一郎は首をぐにゃりとかしげてテメレアを見上げた。

「金を稼ぎたいから人を殺すというのは邪悪か?」


しおりを挟む
表紙へ
感想 47

あなたにおすすめの小説

身体検査

RIKUTO
BL
次世代優生保護法。この世界の日本は、最適な遺伝子を残し、日本民族の優秀さを維持するとの目的で、 選ばれた青少年たちの体を徹底的に検査する。厳正な検査だというが、異常なほどに性器と排泄器の検査をするのである。それに選ばれたとある少年の全記録。

弟が生まれて両親に売られたけど、売られた先で溺愛されました

にがり
BL
貴族の家に生まれたが、弟が生まれたことによって両親に売られた少年が、自分を溺愛している人と出会う話です

幽閉王子は最強皇子に包まれる

皇洵璃音
BL
魔法使いであるせいで幼少期に幽閉された第三王子のアレクセイ。それから年数が経過し、ある日祖国は滅ぼされてしまう。毛布に包まっていたら、敵の帝国第二皇子のレイナードにより連行されてしまう。処刑場にて皇帝から二つの選択肢を提示されたのだが、二つ目の内容は「レイナードの花嫁になること」だった。初めて人から求められたこともあり、花嫁になることを承諾する。素直で元気いっぱいなド直球第二皇子×愛されることに慣れていない治癒魔法使いの第三王子の恋愛物語。 表紙担当者:白す(しらす)様に描いて頂きました。

性悪なお嬢様に命令されて泣く泣く恋敵を殺りにいったらヤられました

まりも13
BL
フワフワとした酩酊状態が薄れ、僕は気がつくとパンパンパン、ズチュッと卑猥な音をたてて激しく誰かと交わっていた。 性悪なお嬢様の命令で恋敵を泣く泣く殺りに行ったら逆にヤラれちゃった、ちょっとアホな子の話です。 (ムーンライトノベルにも掲載しています)

主人公のライバルポジにいるようなので、主人公のカッコ可愛さを特等席で愛でたいと思います。

小鷹けい
BL
以前、なろうサイトさまに途中まであげて、結局書きかけのまま放置していたものになります(アカウントごと削除済み)タイトルさえもうろ覚え。 そのうち続きを書くぞ、の意気込みついでに数話分投稿させていただきます。 先輩×後輩 攻略キャラ×当て馬キャラ 総受けではありません。 嫌われ→からの溺愛。こちらも面倒くさい拗らせ攻めです。 ある日、目が覚めたら大好きだったBLゲームの当て馬キャラになっていた。死んだ覚えはないが、そのキャラクターとして生きてきた期間の記憶もある。 だけど、ここでひとつ問題が……。『おれ』の推し、『僕』が今まで嫌がらせし続けてきた、このゲームの主人公キャラなんだよね……。 え、イジめなきゃダメなの??死ぬほど嫌なんだけど。絶対嫌でしょ……。 でも、主人公が攻略キャラとBLしてるところはなんとしても見たい!!ひっそりと。なんなら近くで見たい!! ……って、なったライバルポジとして生きることになった『おれ(僕)』が、主人公と仲良くしつつ、攻略キャラを巻き込んでひっそり推し活する……みたいな話です。 本来なら当て馬キャラとして冷たくあしらわれ、手酷くフラれるはずの『ハルカ先輩』から、バグなのかなんなのか徐々に距離を詰めてこられて戸惑いまくる当て馬の話。 こちらは、ゆるゆる不定期更新になります。

転生悪役令息、雌落ち回避で溺愛地獄!?義兄がラスボスです!

めがねあざらし
BL
人気BLゲーム『ノエル』の悪役令息リアムに転生した俺。 ゲームの中では「雌落ちエンド」しか用意されていない絶望的な未来が待っている。 兄の過剰な溺愛をかわしながらフラグを回避しようと奮闘する俺だが、いつしか兄の目に奇妙な影が──。 義兄の溺愛が執着へと変わり、ついには「ラスボス化」!? このままじゃゲームオーバー確定!?俺は義兄を救い、ハッピーエンドを迎えられるのか……。 ※タイトル変更(2024/11/27)

【完結】伴侶がいるので、溺愛ご遠慮いたします

  *  
BL
3歳のノィユが、カビの生えてないご飯を求めて結ばれることになったのは、北の最果ての領主のおじいちゃん……え、おじいちゃん……!? しあわせの絶頂にいるのを知らない王子たちが吃驚して憐れんで溺愛してくれそうなのですが、結構です! めちゃくちゃかっこよくて可愛い伴侶がいますので! 本編完結しました! 時々おまけを更新しています。

異世界で騎士団寮長になりまして

円山ゆに
BL
⭐︎ 書籍発売‼︎2023年1月16日頃から順次出荷予定⭐︎溺愛系異世界ファンタジーB L⭐︎ 天涯孤独の20歳、蒼太(そうた)は大の貧乏で節約の鬼。ある日、転がる500円玉を追いかけて迷い込んだ先は異世界・ライン王国だった。 王立第二騎士団団長レオナードと副団長のリアに助けられた蒼太は、彼らの提案で騎士団寮の寮長として雇われることに。 異世界で一から節約生活をしようと意気込む蒼太だったが、なんと寮長は騎士団団長と婚姻関係を結ぶ決まりがあるという。さらにレオナードとリアは同じ一人を生涯の伴侶とする契りを結んでいた。 「つ、つまり僕は二人と結婚するってこと?」 「「そういうこと」」 グイグイ迫ってくる二人のイケメン騎士に振り回されながらも寮長の仕事をこなす蒼太だったが、次第に二人に惹かれていく。 一方、王国の首都では不穏な空気が流れていた。 やがて明かされる寮長のもう一つの役割と、蒼太が異世界にきた理由とは。 二人の騎士に溺愛される節約男子の異世界ファンタジーB Lです!

処理中です...
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。

このユーザをミュートしますか?

※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。