傭兵の男が女神と呼ばれる世界

野原 耳子

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1巻

1-2

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 雄一郎の視線を受けて、テメレアはまたしても恥じらうように視線をらした。目を細めて、下唇を薄く噛んでいる。その表情は、どこか悔し気にも見えた。
 だが、テメレアの顔をしげしげと眺めているだけの余裕はなかった。
 不意に、鈍い破裂音が聞こえた。雄一郎は、咄嗟とっさにテメレアの身体を右腕に抱え込んで、地面にうつぶせに倒れた。同時に、つんいになっていたノアの頭部を地面へたたせる。
 一秒も経たず、かたわらの地面に銃弾が撃ち込まれる。
 テメレアとノアの身体をって、岩陰へ身を隠す。その間も、数発銃撃の音が響いた。
 ノアが絹を引き裂くような悲鳴をあげる。

「イヤだッ、死にたくない!」

 ノアを抱えた腕に震えが伝わってくる。視線を向けると、ノアは大きな瞳からぼろぼろと涙をこぼしていた。その涙を無感動に眺めながら、ひとり言のようにつぶやく。

「いくら死にたくないとわめいても、死ぬ時はみんな死ぬ」

 うつろな台詞せりふに、ノアが目を大きく開いてこちらを見つめる。その瞳を二度見ぬうちに、雄一郎は銃弾が飛んでくる方向へ素早く視線を投げた。
 数十メートルほど先に、数名の人影が見える。十名はいない。おそらく周囲の偵察に当たっていた斥候せっこうだろう。再度、周囲を見回し、雄一郎は唇を開いた。

「銃は単発式か」

 銃声の頻度から察するに、敵が持っているのはサブマシンガンのような連射式ではなく、言うなれば火縄銃のような単発式だろう。確かめるような雄一郎のひとり言に、テメレアが「はい」と答える。
 雄一郎は肩に掛けていたAK47を外して、テメレアへ差し出した。

「敵が現在地から動こうとしたら撃て」
「わ、私は、銃を撃ったことがありません」
「引き金を引くだけだ」
「私には、人は殺せません」

 その決然とした言葉を聞いて、思わず口角に笑みがにじんだ。嘲笑ちょうしょうとほんのかすかな憐憫れんびんが湧き上がってくる。

「殺せと言っているんじゃない。銃で威嚇いかくして、あいつらをあの場所から動かすなと言っているんだ」
「しかし……」
「お前のノア様がはちになってもいいなら撃たなくてもいいさ」

 おどしのようにささやくと、ようやくテメレアはAK47を受け取った。水に濡れてはいるが撃てる。構造が単純に出来ている銃は、劣悪な環境でこそ真価を発揮する。
 雄一郎は、腰に差していたサバイバルナイフを静かに抜き出した。先端から水滴をしたたらせる黒塗りの刀身を見て、ノアがぎょっと身を強張こわばらせる。

「お、お前、何するんだよ……」

 ノアの強張こわばった声に、雄一郎は素っ気ない口調で返した。

「仕事だ」


 岩と岩の間を滑るように走っていく。敵の目に触れないよう岩の後ろに隠れて、雄一郎は敵兵に向かって、少しずつ進んでいった。
 時々、単発式の銃の音が響く。それに呼応するように、いかにも不慣れなAK47の銃声が聞こえてきた。テメレアがどんな顔をして撃っているのかと想像する。
 銃を撃ちながら、人を殺さぬよう祈っているのだろうか。何て不毛な、何ていびつな。
 取り留めのない思考が頭をよぎっては消えていく。
 戦場ではいつもこうだ。ぼんやりとしている内に、気が付いたら人を殺している。いつの間にか、手は血にまみれている。それを怖いとか悲しいと思う感情は、とうに消えた。
 そのまま岩陰を移動していくと、単発式の長い銃を抱えた男の背が見えてきた。相手は五名ほどだ。その髪はノア達と同じく純白に輝いていた。
 足音を殺して男達の一人に近寄り、右手に握り締めていたナイフを静かに、だが勢い良く一気に突き出す。瞬間、切っ先が肉に埋まる感触がグリップ越しに伝わってきた。
 ヒュッと息が消える音が聞こえてくるのと同時に、男の身体から急速にすべての力が抜けていく。背後から腎臓をつらぬかれたのだから即死だったろう。自分が死ぬことにも気付かず、死んでいく。
 肉に埋まったナイフをそのままに、雄一郎は倒れゆく男の手から銃を奪い取った。銃を構え、一番遠い位置にいる男の頭部へ狙いを定めて引き金を引いた。
 男の頭部がトマトのように弾けるのも見ず即座に銃を投げ捨てる。死体に突き刺していたナイフを引き抜いて、雄一郎はそのまま、数メートル先に立っていた男へ一気に駆け寄った。
 雄一郎の姿に気付いた男が声をあげようと唇を大きく開く。だが、叫ぶよりも雄一郎の方が早い。さらされた咽喉のどへ真横に一閃いっせん、ナイフを滑らせた。破裂するように噴き出した飛沫しぶきが周囲の岩に飛び散る。
 この世界でも血は赤いんだな、と頭の端で暢気のんきな考えが浮かんだ。
 残った二人が雄一郎を見て、何事かわめく。だが、恐慌状態でその声はほとんど言葉になっていない。こちらへ向けられた銃口を見て、雄一郎は素早く上半身をかがめた。発砲音と同時に、頭上を銃弾がかすめるのを感じた。地面を一気に蹴って近付き、硝煙しょうえんを立ち上らせる長い銃身を真下から鷲掴わしづかんで吐き捨てる。

「近距離戦に銃は向かない」

 そんなアドバイスは目の前の男には必要なかったかもしれない。特に心臓にナイフが突き刺さった状態では。
 かふかふと唇を戦慄わななかせる男を地面に蹴り倒して、雄一郎は残った最後の一人に視線を向けた。
 男はすでに銃を捨て、降伏の意を示すために両手をあげて地面にひざをついている。壮年の男だ。
 一目で、いくさ慣れしていると解った。りょうてのひらに、何度も豆が潰れて固まった跡が見られる。おそらくは、この斥候せっこう部隊の隊長だろう。
 ナイフからひたひたと血をしたたらせたまま、雄一郎は男へ近付いていった。男が震える声で言う。

「どうか……どうか殺さないでください」
「だが、逃がせば援軍を呼んでくるだろう?」
「呼びません……。この命にかけて誓います。誓いますから、どうか命だけは……」
「悪いな、信用ならない」

 なぐさめるように言いながら、雄一郎はナイフを静かに構えた。その瞬間、かすれた声が聞こえてきた。

「こっ、殺す必要は、ないだろ……っ!」

 いつの間にか、ノアとテメレアの姿があった。岩陰に隠れながら、雄一郎の姿をじっと見つめている。ノアのおびえた眼差まなざしを見返して、雄一郎は緩やかに唇を開いた。

「殺す必要はないかもしれない。だが、生かす必要もない。それだけだ」
「生かす必要って、何だよ、それ……。生かすとか殺すとか、そんなこと決める権利、誰にもないだろ……」

 ひどく弱々しい声でノアがつぶやく。

「そうだな、権利なんかない」
「なら……」
「ただ、選択があるだけだ」

 短く言い放つ。ノアの顔を真っ直ぐ見つめたまま、雄一郎は哀れむような口調で答えた。

「お前はこいつを生かすことを選択するわけじゃないんだろ」

 ただ、殺すことが怖くて選択できないだけなんだ、と。そう告げた瞬間、ノアの顔が泣き出しそうにゆがんだ。まるで迷子になった子供みたいだと思う。
 不意に、視界の端で何かが動くのが見えた。視線を、地面にひざまずいている男に向ける。瞬間、男が背に隠し持っていた短刀を引き抜くのが見えた。その短刀の切っ先が雄一郎へ向けられる。

「うご、っ……!」

 男は、動くなと言うつもりだったのだろう。だが、それよりも早く、男ののど中央を一本の矢がつらぬいていた。釘を巨大化したような、鉄の矢だ。ボウガンの矢に似ている。
 矢が放たれた方向へ視線を向けると、片手にボウガンらしき武器を持った男が立っていた。背中まで伸びた白髪が無造作にはねている。目尻が垂れているせいか、その表情は眠そうにも怠惰たいだにも見えた。男の口元には、にたにたと緩んだ笑みが浮かんでいる。
 武器を下げているところを見ると、男にこちらを攻撃する意志はないらしい。
 にやつくその男を見て、テメレアが驚いた声をあげた。

「ゴート。どうして、ここに」
勿論もちろん、王と女神様を助けにきたに決まってるじゃないですか」

 ゴートと呼ばれた男が笑顔のまま答える。ゴートが緩く手をあげて背後に合図をすると、岩肌の陰から何名かの男達が顔を覗かせた。どうやら少人数でノアの救助に来たらしい。
 絶命した敵兵を見つめて呆然とするノアへ、ゴートが近付いてくる。そしてすくげるように、ノアの身体を肩に抱き上げた。

「う、ぅわ……ゴートおろせッ……!」
「さっさと撤退しましょうぜ。ところでこの方はどなたですか?」

 ゴートが雄一郎を見て、緩く首をかしげる。心底不思議そうなその眼差まなざしに雄一郎が黙り込んでいると、テメレアが唇を開いた。

「女神様です」

 ゴートの眠たそうな目が見開かれた直後、笑い声が大きく弾けた。


 ひそやかな笑い声が聞こえる。あれから一時間近く経つというのに、ゴートは笑い続けたままだ。

「ふひ、ひひっ、お、男の女神様って……っ」

 時々思い出したようにチラリと雄一郎を見ては、飽きもせず噴き出す。その肩にかつがれているノアは、ゴートが笑う度に上下に揺さぶられるものだから、いい加減辟易へきえきしたように顔をしかめている。

「だから、俺は女神じゃないと言ってるだろう」
「いいえ、貴方は女神様です」

 あきれた雄一郎が言葉を返すと、それにかぶせるようにテメレアが言い放つ。このやり取りも、もう何回目のことだろう。
 アム・ウォレスと呼ばれる王都へ向かう道すがら、雄一郎は言いようのない倦怠感けんたいかんつのらせていた。

「そもそも、今まで男の女神様が現れたことなんかあるんですか?」

 含み笑いのままゴートがたずねる。すると、テメレアは思い悩むようにうつむいた後、小さく首を左右に振った。

「これまでで初めてです。今まで現れた女神様六名、全員が女性でした」
「だから、俺は間違いだ」
「いいえ、間違いでは、ありません」
「何なんだ、お前のその自信は」

 露骨にあざけりを浮かべる雄一郎を見据みすえたまま、テメレアが手を伸ばす。
 その細く白い指先が柔く雄一郎の首筋をくすぐった。壊れやすい陶器にでも触れるかのような繊細せんさいな手付きに、首筋がかすかに粟立あわだつ。

「まず、この肌の色。このような小麦色の肌を持った者は、私達の世界にはおりません」

 テメレアの指先が首筋を沿って、髪に触れる。

「この髪も。今まで飛んできた女神様達は皆、白髪ではない髪色をしておりました。金に赤、茶に灰……その中でも黒髪は始祖の女神以来何千年ぶりです」

 テメレアの青い瞳が雄一郎を見つめる。そのかすかに熱をはらんだ眼差まなざしに、雄一郎は一瞬たじろいだ。動揺を隠すために奥歯をゆっくりと噛み締める。
 だが、雄一郎の強張こわばりに気付いたのか、テメレアの指先は呆気あっけなく離れていった。雄一郎から視線をらして、ぽつりとひとり言のようにつぶやく。

「白の者は、黒にがれずにはいられない」
がれる?」

 いぶかしげな雄一郎の声にテメレアは返事をせず、黙って下唇を噛んだ。代わりのようにゴートが口を開く。

「俺達の世界で、黒は最も高貴で貴重な色なんですよ」
「貴重だって?」
「地底深くを掘らなきゃ手に入らないオビリスっていう宝石を削って、黒色は作られる。そのオビリスは、年に数個掘り出せれば万々歳ってぐらいに希少なんです」

 アルマは大量に掘り出せるのになぁ、などとゴートがイジケた口調でつぶやく。その指先が胸元に引っかけていたひもを引っ張った。服の内側から吊るされた何かが出てくる。
 ひもの先に引っかけられたきらめく石を見た瞬間、雄一郎は目を大きく開いた。

「それ、ダイヤだろ」
「ダイヤ? これはアルマって言うんですよ」

 無造作にダイヤを左右に揺らして、ゴートが笑う。だが、雄一郎は笑えなかった。
 ゴートの胸元にぶら下がったダイヤは、ビー玉くらいのサイズはある。しかも、ひもに付いている石はダイヤだけではない。エメラルドやサファイアやルビーが無造作に重なり合って、ぶら下がっていた。地球であれば、目の前のネックレスだけで何千万の価値になるだろうか。

「……この世界では、そういった石がよく取れるのか」
「こんなのその辺を掘ればいくらでも出てきますよ」

 ははと暢気のんきに笑うゴートの声に、不意に咽喉のどの奥が小さく震えた。ぞわりと皮膚が隆起する。おぞましい何かが血管の内側を静かにまわり始めるのを感じた。
 その時、それまで黙り込んでいたノアが、ゴートの肩越しに前方を見てつぶやいた。

「――アム・ウォレスだ」

 それはほっとしたというよりも、まるで慣れ親しんだ牢獄に戻るかのような憂鬱ゆううつな声に聞こえた。


 アム・ウォレスは純白の街だった。まるで古いヨーロッパの街並みが根こそぎ色彩を抜かれたような外観だ。あまりの白さに、自分が夢かきりの中を彷徨さまよっている気分になってくる。
 現実感がないのは、街に活気がないことも要因の一つかもしれない。左右に見える家の門戸は閉ざされ、道を歩く人影も少なかった。その少数の人も、皆一様に力なくうつむいている。
 街の入り口前で乗せられた馬車から通りを眺めて、雄一郎はぽつりとつぶやいた。

「ゾンビみたいだな」
「ぞんび?」

 テメレアがつたない口調で繰り返す。

「死人みたいだって言ってるんだ」
「死人なんかじゃない」

 ノアが怒った口調で言い返してくる。そのこぶしは、ひざの上できつく握り締められていた。

三月みつき前まではこの街は素晴らしい街だったんだ。平和で、みんな幸せそうに笑っていて……」
「お前の父親が死んで、こうなったのか」

 王が死んで内乱が始まり、一気に街から生気が失せたということか。
 そう問う雄一郎の声に、ノアが押し殺した声で叫ぶ。

「父親なんかじゃない……!」

 反抗期のガキみたいな言葉に、思わず口元にあざけりがにじんだ。緩んだ唇から、ふ、ふ、と押し殺しきれなかった笑い声がこぼれる。
 途端、ノアが雄一郎の胸倉を掴んだ。その目は、怒りで血走っている。

「笑うなッ……!」
「笑うさ。守ってもらってばっかで何もできないガキが、ぐずぐずぐずぐず泣き言ばっか言いやがって。何を言っても、ああじゃないこうじゃないと否定しか返さねぇ。鬱陶うっとうしいガキだ。お前みたいなガキは『僕は王様じゃない』ってわめきながら、兄貴達に首を切られて城門にでも飾られりゃいい」

 言いつつ、唇に笑みがにじんだ。ほがらかに笑う雄一郎を見て、ノアの顔色がすっとせていく。
 雄一郎の胸倉を掴んでいた小さな手から力が抜け落ちる。その手のひらには乾きかけた血がこびりついていた。自身の手に付いた血を見て、ノアが咽喉のどの奥で小さく悲鳴をあげる。
 その身体が退く前に、雄一郎は無造作にノアの腕を掴んだ。小さな身体を勢い良く引き寄せて、幼い顔を覗き込む。

「お前みたいな意気地のないガキが王だなんて反吐へどが出そうだ」

 微笑ほほえんで毒を吐き出す。その瞬間、ノアの目からぼろりと大粒の涙があふした。ぼろぼろとこぼした涙が、雄一郎のひざに落ちてくる。
 ズボンに染み込む涙の感触に、古い記憶がよみがえる。くだらない、感傷的な思い出だ。
 雄一郎の娘もよく泣いていた。道ばたで野良のら猫が死んでいるのを見て、雄一郎に『おねがい、生きかえらせて!』と泣いてせがんだことを思い出す。感受性が強くて、色んなことに傷ついては泣きじゃくり、その分たくさん笑う子だった。雄一郎が戦地から帰る度に、泣きながら笑って出迎えてくれた。生きていれば、目の前の少年くらいのとしになっていたはずだ。
 そう思うと、子供相手に大人げないことをしている、と虚脱感にも似たやるせなさが湧き上がってきた。だが、雄一郎が口を開く前に、泣きじゃくるノアを引き寄せる腕があった。テメレアがノアの背をそっとでながら、たしなめるような目付きで雄一郎を見ている。

「……あまりノア様を追いつめないでください。何もかもが突然変わってしまって……まだ現状が受け入れられていないんです」

 テメレアの声が悲しげな色をびる。

「ノア様が王に選ばれてから一月ひとつきも経たずに、この街は隣国ゴルダールの軍勢に襲撃されました。街はそれほど破壊されませんでしたが、貴族や有力者達の多くは教会へ集められ火をつけられて殺されたんです。……おそらく兄上様がたについているだろう貴族達のみ、全員『運良く』屋敷を離れており、誰も殺されませんでした」

 はぁ、と短いためいきがテメレアの咽喉のどからこぼれる。美しい男に似合わぬ、飽き飽きとした嘆息だ。

「そのような暴挙をなさっておきながら、兄上様がたはゴルダールと和平を結ぼうとおっしゃってきたのです。これからは調和こそがジュエルドの発展の道だと。兄上様がたがジュエルドをゴルダールに売ったのは解り切ったことでした。そして、ゴルダールとの和平のあかしとして、ノア様を処刑するように言ってきたのです。宝珠に選ばれた王をささげることによって、ジュエルドの古きまわしいしきたりが消え、新たな国に生まれ変われるのだと」

 物憂ものうげに語るその顔を、雄一郎はじっと見つめていた。だが、次の瞬間、心臓が大きくねた。テメレアの唇に、残忍な笑みがにじんでいた。

「母国を敵国に売る裏切り者を、どうやって王とあがめることができるのでしょう。処刑され、城門に首を並べられるべきなのは、裏切り者どものほうです」

 テメレアがそっと微笑ほほえむ。その完璧な笑みに、雄一郎は背筋に悪寒おかんが走るのを感じた。自身の唇へ人差し指の側面を押し当てて、伏し目がちにテメレアを見つめる。

「あんた、人を殺せないなんて嘘だろう?」

 雄一郎の問い掛けに、テメレアは緩く目をまたたかせた。淡い青色が目蓋まぶたの上下によって点滅する。

「私に人は殺せません。ですが……」

 言葉が途切れる。テメレアはゆっくりと首をかしげた。

「裏切り者は人ですか?」

 残酷さを微塵みじんも含まない穏やかな声に、雄一郎は笑いが隠せなかった。口元を手のひらで押さえ、肩を震わせる。笑いが収まるのを待って、雄一郎は柔らかな声でささやいた。

「あんたのことが少し好きになった」

 テメレアが、一瞬、目を大きく見開く。その顔が淡い朱色に染まった。そして、また顔がらされる。いつも通りの悔し気な顔だ。
 雄一郎は不思議になった。なぜ、こいつはこんな顔をするんだろう。男相手に、まるで恋いがれる女を見るようなつらだ。
 奇妙さに顔をゆがめかけた時、馬車の前方からゴートの声が聞こえてきた。

「城につきますよ」

 馬車の窓から外を見ると、視線の先に巨大な城が見えた。白い石で作られた白亜はくあの城だ。高い岩壁に囲まれ、唯一の出入り口である巨大な門は固く閉ざされている。岩壁の隙間からは純白の大樹が数え切れぬほど生えており、鬱蒼うっそうしげる白葉で城の全貌を隠していた。まるで自然の要塞ようさいだ。
 門の前で馬車を降り、雄一郎達は見張り兵の横を通り過ぎて城内へ進んでいった。誰もがノアやテメレアやゴートを見ては立ち止まり、深々と頭を下げる。
 そして血塗れの雄一郎を見ると、皆一様にぎょっと目を見開いた。彼らの唇は何か恐ろしいものを見たかのように小さく震えている。
 先ほどまではあまり気にとめていなかったが血臭がすさまじい。腕を鼻先に近付けて、雄一郎はくんと臭いをいだ。血と泥の臭いだ。一週間もジャングルを歩き続けたおかげで汗とあぶらの臭いも強い。全身が発酵した死体になったかのようだ。

「くさい……」

 自身の臭いをぐ雄一郎を見て、ノアがぽつりとつぶやく。

「今更言うか」

 そう返すと、ノアはやさぐれた目で雄一郎を見上げた。目元がまだ赤い。泣きはらした子供の目だ。先ほどあれだけ言葉で痛め付けられたというのに、それでも雄一郎に悪態をつけるのだからなかなか根性はあるのかもしれない。

「くさい女神なんてあり得ない……」

 ねた子供みたいな言い分に、思わず笑いが込み上げた。

「俺は女神じゃないんだろ?」

 問い掛けると、ノアは不貞腐ふてくされたように緩く唇をへし曲げた。

「……あんたが女神であってほしくないと思ってる」
「俺が人を殺したからか?」

 素っ気ない声で返す。するとノアは、一瞬気まずそうに視線をらした後、かすかに苦しげな表情で雄一郎を流し見た。

「それもあるけど、それだけじゃない」
「それだけじゃないっていうのは何だ」

 その問いに、ノアは今度こそ押し黙った。その耳はかすかに赤い。
 朱色に染まったノアの耳を見つめていると、斜め後ろからテメレアの声が聞こえた。

「宝珠に会う前に、湯浴みをしましょう」

 当たり前のように『会う』と表現されたことに、雄一郎は首をかしげた。

「さっきから言ってる宝珠ってのは何だ。人の名前なのか?」
「人ではありません。宝珠とはジュエルドの国宝のことです」

 余計に訳が解らなくなる。曖昧あいまいに眉をひそめると、テメレアはほんの少しだけ嫌そうな顔をした。あまり宝珠というものにいい感情を抱いていないらしい。見た目は冷静に見えるが、案外感情が表に出やすいタイプか。

「宝珠は、国が混沌こんとんおちいった際に『正しき王』と『つかささげる者』を選定する存在です。ノア様も私も、宝珠によって選ばれた者です。雄一郎様がこちらに飛び越えてくることも、宝珠によって知らされました」

 テメレアの説明に、雄一郎はふぅんと相槌あいづちらした。

「つまり、宝珠っていうのは『預言者』みたいなものか?」
「そう思っていただいても結構です」

 預言者、という単語が伝わったことに、わずかに驚く。

「なぁ、気になっていたんだが。俺の言葉は、あんた達にはどんな風に伝わっているんだ。俺は『何語』をしゃべっている」

 この世界に来てから不思議だったことを口に出す。するとテメレアは、一度目をまたたいてから、ゆっくりとした口調で答えた。

「雄一郎様がしゃべる言葉は、私達と同じ言語に聞こえます。この世界にきた時に『チューニング』がされるそうです」
「チューニング?」
「はい、今までこちらに飛び越えてきた女神様のお一人が、言葉が頭の中で『自動変換』されることを『チューニング』と表現されたそうです」

 チューニングという単語に、笑みがこぼれる。何ともチープで可愛らしい表現だ。

「ですが、一部チューニングの合わない部分もあります。例えば、雄一郎様は、ロートやエイトという距離や時間の単位が変換されて聞こえませんでしたね」
「ああ、そうだな」
「一度チューニングが合わなかった部分は、永久に変換されることはありません。その原因は解りませんが、これも女神様のお一人が『違和感を与え続けるため』だと言葉を残しています」
「違和感?」
「この世界は自分の世界ではない、という違和感です」

 妙に悲しい言葉だなと感じる。一瞬の沈黙の後、雄一郎は唇を開いた。

「今まで、元の世界に戻った女神はいるのか」

 今度はテメレアが黙り込む。だが、数十秒後、かすれた声が返ってきた。

「戻られた方はいます」

 どうやって、とたずねようと口を開き掛けた瞬間、テメレアが立ち止まった。手のひらで右手側の扉を示して、テメレアが言う。

「湯浴みが終わりましたらお声掛けください」

 それ以上の質問を躊躇ためらわせるほど、その声は事務的だった。


 湯を浴びて、雄一郎は全身にこびり付いた汚れを落としていった。
 皮膚から流れ落ちていく血と褐色かっしょくの水を眺めていると、先ほどの戦闘の記憶がよみがえってくる。オズは、おそらく死んだだろう。しゅりゅうだんの直撃を食らって、生きている確率は低い。
 だが、『なぜ』と疑問が湧き上がる。なぜ、オズは自分だけ地面に伏せなかった。一人で逃げていれば、おそらく怪我を負っても死ぬことはなかったはずだ。逃げずにしゅりゅうだんおおかぶさった理由は――後ろに雄一郎がいたからだ。
 雄一郎をかばうために自分の身体を盾にした。もしその考えが正しいのであれば、あいつはとんでもない大馬鹿野郎だ。
 感謝や同情心よりも、唾棄だきしたくなるような胸糞悪い感情がせり上がってくる。その感情の名前を知りたくはない。知ったところで反吐へどが出そうな気持ちが消えるわけではない。
 全身から汚れを落とした後、雄一郎はそなけられている巨大な浴槽にかった。
 湯にかるのなんて何ヶ月ぶりだろうか。
 浴槽の左側は壁がなく、外に繋がっている。そこから見えるのは、白銀の空と地平まで続く広大な砂漠だ。両腕をふちに預け、雄一郎はしばらくその光景を見つめた。悠大だが、ぬぐれない孤独感を覚える光景だ。白銀の空には、幾多いくたの星が散らばっている。その中に地球がないか探そうとする。
 だが見付けたところで、郷愁の念が湧いてくるとは思えなかった。元の世界に未練はない。雄一郎は、何も残せなかった。
 ならば、この世界では何かを残せるのか。


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