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第32話 オーディション

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 それから十日間経つけど、慶二からの電話はなかった。携帯でロシアのサハ共和国との時差を調べたら、零時間だったから、時間を気にする必要はない筈だ。
 それなのに連絡がないということは、まともに寝る時間もないのかもと、心配になる。
 
「慶二……」

 事故のニュースは、日に日に扱いが小さくなっていった。現地で働いていた日本人派遣員の安否が繰り返し流れるくらいで、真新しいニュースはない。
 ハンカチで涙を押さえながら、飛行機で現地へ向かうご遺族の姿が、何度も流れた。

 ご遺族の悲しみを思えば、僕の寂しさや不安なんて、ちっぽけなものだけど。
 凄く、僕は揺れていた。
 三沙くんからオーディションの詳細が載ってるホームページを教えて貰って見たら、並べば当日飛び込みもOKとあった。
 オーディションは、一週間後。僕はギリギリまで慶二からの電話を待って、応募するかどうか決める事にした。

    *    *    *

「百七十番から百七十九番までの方は、荷物を持って着いてきてください」

 思い思いの服装の若い男性たちが、控え室でぶつぶつと台詞を暗唱したり、全面鏡張りの壁に向かって、表情を作ったりしてる。
 結局、慶二から電話はこなくて、僕は当日受付の列に並んだ。
 僕は、二百九十九番。まだまだ出番は先だった。

 服の上にカーキのダッフルコートを羽織って、出番を待つ。
 落ち着かなく握ってた携帯から、ピコン、とメール着信音が鳴った。
 もしかして、慶二?

 僕は期待に少し口角を上げて、メールを開く。そこには、何かのURLと、『佐々木歩くんへ。プレゼント。』の文字。
 知らないアドレスだったけど、名前が入ってたから、昔の知り合いかと思ってURLに繋いだ。

「……え?」

 思わず声が出る。何が起こったのか、起こっているのか、しばらく理解出来なかった。
 だけど、やがて心臓をわし掴まれたように、ゾッとする。
 URLの先は、匿名掲示板だった。タイトルに、『佐々木歩→小鳥遊歩の件』とあった。

『佐々木歩って男が、小鳥遊の次男と契約結婚したらしい』

『マジかよ。契約結婚とか、幾ら金持っててもあり得ねぇ』

『でも小鳥遊ってイケメン揃いだって聞くから、趣味(身体)と実益(金)を兼ねてんのかもなw』

『佐々木歩って、あしなが基金に借金してるらしいよ』

『金でしょ。金! それ以外、考えられない!!』

『親が居ないなんて、どうせろくな育ち方してないだろ。借金まみれで、首が回らなくなったんじゃない?』

『姉は、弟の作った借金返す為に、歌舞伎町に沈んだらしい』

『ねえちゃん終了のお知らせ』

『弟も終わってるだろ。借金の形(かた)に身体売ったんだから』

『姉弟揃ってとか、草』

 見てるそばから、どんどんとコメントが書き込まれていく。
 全員、匿名だ。
 
 心臓がバクバクする。
 頭が痛い。
 耳鳴りがする。
 誰か……誰か、何とかして……!

 しゃがんで頭を抱えてると、不意に携帯が鳴った。
 混乱したままディスプレイを確認すると、慶二からだった。

「……慶二!!」

『歩。どうした? 大丈夫か?』

 僕の叫びに、慶二が気遣わしげな声を出す。

『連絡出来なくて、悪かった。もう、何も心配しなくていい。そばには居られないが、お前は俺が守る、歩』

 慶二のいつもの、落ち着いたバリトンが、こんなにも頼もしく聞こえたことはない。
 僕はしばらく黙って、慶二の声を聞いていたい気分になった。

『……歩?』

 相づちを打たない僕に、慶二が問いかける。

「ああ。うん。愛してる。慶二」

 僕の方から言ったのは、初めてだった。慶二がちょっと沈黙する。驚いたのかな。

『ああ。俺も愛してる。歩。その……身体、大丈夫か?』

 声の動揺具合から、あの夜のことを言ってるんだろう。

「……うん。身体は大丈夫だけど……」

 わざと語尾を濁すと、慶二が慌てふためいたような早口で言った。

『す、すまない、歩! あれはけして、ただ身体が欲しかったとかじゃなくて……俺の居ない間に、誰かに盗られるのが恐かったんだ。許してくれ、歩』

 結構なボリュームで話してる。後ろには、ざわざわ話し声が聞こえてるのに。
 嘘みたいに、心が安らかになっていく。

「ふふ。嘘だよ、慶二。もう大丈夫。ちょっと泣いたけど……記者会見見たら、慶二が心配になっちゃった。慶二は、大丈夫?」

『ああ、俺は心配ない。あまり頻繁に連絡出来ないけど、いつもお前の事を想ってる』

 電話口の背後から、慶二様、と呼ぶ声がする。

『今、行く! ……すまないな、歩。もう行かなけりゃならない』

「うん。今、慶二の声が聞けて良かった。愛してる、慶二」

『ああ、愛してる、歩。また』

 そう言って、電話は切れた。前に電話した時はけして先に切らなかったから、よほど時間がないんだろう。
 でもこの電話が、僕に思わぬ力を与えたのだった。

    *    *    *

「番号と名前、年齢を言ってから始めてください。エチュードの設定は、『"アタシ"の陰に隠れながら、生きてきた"ボク"。"アタシ"に決別する、"ボク"』。何処かに、"買って"というキーワードを入れてください」

 新宿バードランドで流れてたイメージ映像は、テレビやネットでも流れ、みんなそれぞれのイメージした服を着てきてる。エチュードの内容は今朝零時に発表され、小道具類の持ち込みは自由。

 僕は、十人ごとのオーディションの最後だった。
 前に、いろんな"アタシ"や"ボク"が演じられていく。
 おどおどと"アタシ"の後ろに隠れる"ボク"や、「馬鹿野郎!」と"アタシ"を追い払う"ボク"、ブランド品を"買って"と強請(ねだ)る"ボク"……。

「二百九十九番、佐々木歩、二十二歳。よろしくお願いします」

 僕は真っ直ぐ前を見て、一礼した。関係者だなんて思われたくなくて、旧姓で言おうと決めていた。
 衣装は、何も飾りのない真っ白なノースリーブのロングワンピースで、裸足。前髪は、目を覆って下ろしていた。

 握っていた携帯を操作して置き、しどけなくしなを作って斜め座りする。
 トクン、トクン、と、携帯から鼓動の音が流れ出した。イメージ映像のドラムが、心臓の音に聞こえたから。

 震える手で、ポケットから口紅を出し、目の前にある『鏡』に片手を着いて、ゆっくりと、ゆっくりと、怯えるように塗っていく。色は、鮮やかな赤(カーマイン)。
 次第に、心音が大きくなっていく。
 僕は片足ずつ体重を乗せて、緩慢に立ち上がり……ぽとりと、口紅を落とした。
 罪悪感に苛まれる表情をして。

『ボクが悪いんじゃない。悪いのは、"アタシ"……』

 心音が最高潮に高まり、途切れた。
 僕は糸の切れた操り人形のように、カクリ、と首を前に折る。
 少しして携帯からは、クラクションや話し声、街の雑踏が流れてきた。

 初めて前髪をかき上げ、僕は上目遣いで笑ってみせた。
 隠れていた瞳には、目尻をはね上げるように、これも真っ赤なアイシャドウ。
 蠱惑的に、自分より背の高い相手に媚態を尽くす。

『ねえ……アタシを……"買って"? 幾らでも良いの。アタシに、値段をつけて欲しいの。……ふふ、随分高く買ってくれるのね。嬉しいわ』

 街の雑踏に被って、再び鼓動の音が微かに聞こえ出す。

『買ってくれたお礼よ。踊りましょ。……朝まで』

 ピンク色の舌でチロリと下唇を湿らせて、僕は拙(つたな)く踊り始める。
 ダンスなんかした事がなかったけど、指先、爪先まで神経をピンと張り巡らせて、乱暴にも、セクシーにも見えるように、身体を大きく使う。首をグルリと回して髪を振り乱し、身体の中心を手の甲で撫で下ろす。

 携帯から聞こえていた両者の音は、鼓動もだんだんと大きくなってくる。
 途端、僕は苦しみ始めた。

『グッ……! アンタなんか、アタシの陰から出られない癖に! 引っ込んでなさい!』

『……ボクは! もう逃げない。アンタを殺す……!!』

 ポケットに入れていた刃(は)の引っ込む玩具のナイフを取り出し、鼓動と雑踏の音が両者とも大きく響く中、僕は胸の中央に突き刺した。
 絶叫した後、無音になる。
 僕は仰け反って、膝から崩れ、ナイフを投げ出し俯せに倒れた。
 シン……と、五秒ほど静寂が下りた。誰かがゴクリと喉を鳴らす音が、やけに大きく聞こえる。

 三度(みたび)、鼓動が微かに聞こえ出す。
 僕はピクリと指先から意識を取り戻し、鼓動が高鳴り始める中、膝立ちに身を起こした。
 無骨に腕を上げ、手の甲でグイと、口紅を伸ばすように拭う。前髪は、下りていた。

『さよなら。"アタシ"……』

 小さく呟いた後、顎をワナワナと震わせて、僕はたった一粒、涙を零した。
 一瞬、ストップモーション。

 涙を拭いもせず、僕は立ち上がって一礼した。

「ありがとうございました」

 終わった事に安心して、膝がガクガクいっていた。下がろうとしたら、一番端に座っていた外国人の審査員が、声をかけてきた。

『君は最後、何故泣いたんだい?』

 通訳さんが口を開きかけたけど、慌ててて僕は咄嗟に英語で答えた。

『"ボク"は"アタシ"を憎んでたけど……自分の一部である"アタシ"を愛してもいたし、憎しみと愛は同じ感情だから』

 パーフェクト、と彼が呟くのが聞こえた。

「えー、それでは皆さん、オーディション終了者用の部屋にご案内します。控え室には、戻らないでください。忘れ物は、スタッフが取りに行きます。着いてきてください」 

 今更になって、審査員席の目の前に、孝太郎さんと三沙くんが座っているのを見付ける。思わず頬が緩んだ。
 孝太郎さんは流石、顔色一つ変えなかったけど、三沙くんは上がる口角を俯いて手の甲で覆って隠してた。

 あ、そうか。贔屓目で観られたなんて、思われたくない。
 僕も頬を引き締めて、誘導のスタッフに着いていった。
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